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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』27a
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈1
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
前章は往覲偈の序であり、その中身について――往覲偈は下巻全体の肝要[が説かれていて、さらにこの序文は往覲偈のあらましを明かしますので、序文の内容が真実信心の原理原則となるわけです≠ニ書かせていただきましたが、今章と次章ではその肝要である往覲偈そのものを学びます。
なお『仏説無量寿経』上巻は阿弥陀仏のいわれ(始終・経緯)を明らかにし、下巻は南無のいわれを明かします(参照:{十一・十七・十八願成就})。南無のいわれ≠ニは真実信心のことで、いくら弥陀成仏の歴史が尊くても、この因縁果報[が我が身・わが人生の糧[とならなければ宝の持ち腐れとなってしまうでしょう。そうしたことにならないよう、まずはこの往覲偈をよくよく味わい、下巻全体の章でその詳細を確かめることにしましょう。
仏説無量寿経 27
その時に、世尊、しかも頌を説きてのたまはく、
「東方の諸仏の国、その数恒沙のごとし。
かの土の菩薩衆、往いて無量覚を覲たてまつる。
南西北・四維・上下〔の仏国〕、またまたしかなり。
かの土の菩薩衆、往いて無量覚を覲たてまつる。
一切のもろもろの菩薩、おのおの天の妙華・
宝香・無価の衣を齎つて、無量覚を供養したてまつる。
咸然として天の楽を奏し、和雅の音を暢発して、
最勝の尊を歌歎して、無量覚を供養したてまつる、
〈神通と慧とを究達して、深法門に遊入し、
功徳蔵を具足して、妙智、等倫なし。
慧日、世間を照らして、生死の雲を消除したまふ〉と。
恭敬して繞ること三匝して、無上尊を稽首したてまつる。
かの厳浄の土の、微妙にして思議しがたきを見て、
よりて無上心を発して、わが国もまたしからんと願ず。
時に応じて無量尊、容を動かし欣笑を発したまひ、
口より無数の光を出して、あまねく十方国を照らしたまふ。
光を回らして身を囲繞すること、三匝して頂より入る。
一切の天・人衆、踊躍してみな歓喜す。
大士観世音、服を整へ稽首して問うて、
仏にまうさく、〈なんの縁ありてか笑みたまふや。やや、しかなり。願は
くは意を説きたまへ〉と。
〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく、八音は妙なる響きを暢ぶ、
〈まさに菩薩に記を授くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け。
十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。
厳浄の土を志求し、受決してまさに仏となるべし。
一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども、
もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん。
法は電・影のごとしと知れども、菩薩の道を究竟し、
もろもろの功徳の本を具して、受決してまさに仏となるべし。
諸法の性は、一切、空無我なりと通達すれども、
もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹を成ぜん〉と。
諸仏は菩薩に告げて、安養仏を覲せしむ、
〈法を聞きて楽ひて受行して、疾く清浄の処を得よ。
かの厳浄の国に至らば、すなはちすみやかに神通を得、
かならず無量尊において、記を受けて等覚を成らん。
その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、
みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。
菩薩、至願を興して、おのれが国も異なることなからんと願ふ。
あまねく一切を度せんと念じ、名、顕れて十方に達せん。
億の如来に奉事するに、飛化してもろもろの刹に遍し、
恭敬し歓喜して去り、還りて安養国に到る。
もし人善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。
曾更世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。
声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。
たとへば生れてより盲ひたるものの、行いて人を開導せんと欲はんがごとし。
如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。
たとひ一切の人、具足してみな道を得、
浄慧、本空を知り、億劫に仏智を思ひ、
力を窮め、講説を極めて、寿を尽すとも、なほ知らじ。
仏慧は辺際なくして、かくのごとく清浄に致る。
寿命はなはだ得がたく、仏世また値ひがたし。
人信慧あること難し。もし〔法を〕聞かば精進して求めよ。
法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、
すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし。
たとひ世界に満てらん火をも、かならず過ぎて要めて法を聞かば、
かならずまさに仏道を成じて、広く生死の流を済ふべし〉」と。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 27
そこで釈尊は、そのことを次ぎのように重ねてお説きになった。
東の仏がたの国はガンジス河の砂の数ほどに多いが、
その国々の菩薩[たちは、無量寿仏[の国に往[き仏を仰[ぎ見る。
南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々もまた同様であり、
それらの国の菩薩たちも、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見るのである。
菩薩はみなそれぞれに、うるわしい花と
かぐわしい香[と最上の衣をささげて、無量寿仏を供養[したてまつる。
みなともに美しい音楽を奏[で、みやびやかな音色[を響かせ、
すぐれた徳をうたいたたえて、次のように無量寿仏を供養したてまつる。
「実にみ仏は神通力[と智慧[をきわめ尽し、深い教えの門に入り、
すべての功徳をそなえ、そのすばらしい智慧は並ぶものがありません。
その智慧の光明は世を照らし、迷いの雲を除いてくださいます」 と。
うやうやしく三度右まわりにめぐって、伏[してこの上なく尊いこの仏を礼拝[したてまつる。
その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、
菩薩はこの上ないさとりを求める心を起[し、自分の国もこのようにありたいと願う。
そのとき無量寿仏はにっこりとほほえまれ、
口から無数の光を放って、ひろくすべての国々をお照らしになる。
もどってきた光は仏のお体を三度めぐって、その頭におさまり、
すべての天人や人々はこれを見て、みなおどりあがって喜ぶのである。
そこで観世音菩薩[は服装を正し、伏して礼拝して問う。
「み仏がほほえまれたのは、どのような理由からでしょうか。どうぞ、そのお心をお説きください」 と。
仏は雷鳴[がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。
「今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。これからそのことを説くから、よく聞くがよい。
わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志[して、その願[の通りに必ず仏になることができる。
すべてのものは夢や幻[やこだまのようであるとさとりながらも、
さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
すべては、稲妻[や幻影[のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、
さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、
ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである」と。
仏がたは自分の国の菩薩たちに、無量寿仏を仰ぎ見るよう、次のようにお勧[めになる。
「この仏の教えを聞き、求めて修行し、速[やかに清らかな世界を得るがよい。
無量寿仏の清らかな国に往[ったなら、すぐさま神通力を得て、
無量寿仏によって仏となることが約束され、必ずさとりを得ることができるのである。
この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、
残らずみなその国に往き、おのずから不退転[の位に至る。
そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なることがないようにと願い、
ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界にあらわしたいと望む。
そして数限りない如来に仕[えるため、神通力によりさまざまな国に往き、
如来を敬[い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである。
もし人が功徳[を積んでいなければ、この教えを聞くことはできない。
清らかに戒[を守ったものこそ正しい教えを聞くことができる。
以前に仏を仰[ぎ見たものは、無量寿仏の本願を信じ、
うやうやしく教えを尊[び、仰[せのままに修行をして喜びが満ちあふれるに至る。
おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、この教えを信じることができない。
過去世[に仏がたを仰ぎ見たものは、喜んでこの教えを聞くことができる。
声聞[や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。
まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。
如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、
声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけがお知りになることができる。
たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、
清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、
力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、
仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。
そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世に生まれることもまた難しい。
その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。もし教えを聞くことができたなら、努[め励[んでさとりを求めるがよい。
教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそ
わたしのまことの善き友である。だからさとりを求める心を起すがよい。
たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教えを聞くがよい。
そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろう」 と。
往覲偈[の要[は「観仏[」と「聞法[」、これが信心の中身であり、人生を貫く生活規範となるものなのです。偈の初めは、序で述べられていた「東方恒沙仏国[の無量無数[の諸菩薩衆[、みなことごとく無量寿仏の所[に往詣[して」・「南西北方[・四維[・上下〔の菩薩衆〕、またまたかくのごとし」と同じ内容になっています。
- 註釈版
- その時に、世尊[、しかも頌[を説きてのたまはく、
「東方[の諸仏の国、その数恒沙[のごとし。
かの土の菩薩衆[、往[いて無量覚[を覲[たてまつる。
南西北・四維[・上下〔の仏国[〕、またまたしかなり。
かの土の菩薩衆[、往[いて無量覚[を覲[たてまつる。
- 現代語版
- そこで釈尊は、そのことを次ぎのように重ねてお説きになった。
東の仏がたの国はガンジス河の砂の数ほどに多いが、
その国々の菩薩[たちは、無量寿仏[の国に往[き仏を仰[ぎ見る。
南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々もまた同様であり、
それらの国の菩薩たちも、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見るのである。
これも序で述べたのですが、三輩(上輩・中輩・下輩)において信心の功徳は必ず具体的な相として発揮される≠アとを紹介し本願力はいかなる機にも報いる≠アとを証明しましたが、往覲偈ではまず東方を例に出し、その数において本願力は必ず無量無数の人々に報いる≠アとを証明し、「南・西・北……」の十方仏国によってどんな場所や境遇に住んでいる人々も同様に往生[・往詣[・往覲[を果たす≠アとを明らかにしています。
なお「諸仏の国」とありますのは、「教化されることになる衆生の類をとりあげて、かれらのことを仏国土と呼んでいるのである」(意訳『維摩経義疏』仏の国土/参照:{無三悪趣の願})とありますように、教化対象としてのひとり一人の世界、つまり社会において改めねばならん私たち自身の生きる内容全体≠指しています。このことは、諸経では単に「仏性」といっていた内容を、『大経』上巻では人類の血や肉を通した精神史・宗教史としてとらえ、躍動感あふれる弥陀成仏の物語として明らかにしています。そして下巻では、この果徳が諸仏如来として一切衆生に宿って働くことを示しています。この教化対象である諸仏の国(私たち自身)においてこそ、浄土往生・往覲の甲斐があるのであり、それはひとり一人の人生成就として発揮され、歴史創造の根源となるのです。
ここでは「かの土の菩薩衆[、往[いて無量覚[を覲[たてまつる」とありますが、往生[ではなく往覲[(往覲無量覚[)とありますのは、無量寿仏(阿弥陀仏)に直接お目にかかる≠ニいうことを表します。今までは噂でしか聞いていなかった無量寿仏ですが、詣[でることが適い、直接面会することができるのです。
「覲」という字は古代中国では諸侯が天子にあう°V式を指し、身をこちこちにして、つつしむ∞謹んでまみえる∴モに用いられてきましたので、ここでも無量寿仏[に謹[んでまみえる≠ニいうことを表しています。
- 註釈版
- 一切のもろもろの菩薩、おのおの天の妙華[・
宝香[・無価[の衣を齎[つて、無量覚[を供養[したてまつる。
- 現代語版
- 菩薩はみなそれぞれに、うるわしい花と
かぐわしい香[と最上の衣をささげて、無量寿仏を供養[したてまつる。
一般社会においても、師のもとへ手ぶらで出かけることは失礼にあたります。訪問先の事情に合わせ、相手に喜んでもらえるものを持参することは社会常識でしょう。ましてや無量寿仏にお目にかかるのですから、最高最上のものを持っていかねばなりません。ただし浄土は欲界ではありませんので、値段が高ければ良いというものではありません。すると実際には浄土に何を持参すれば良いのでしょう。
それは、「真実の法を聞きたい、語り合いたい、修したい」という聞法精神や求道精神、これを持参し捧げることに尽きます。せっかく安楽浄土を訪れても、誰かから人生を教えてもらう必要はない。先人たちの教えは自分とは無関係だ。自分は自分の決めた道を行くだけだから、愚かな大衆どもとは交わりたくない≠ネどという態度では無量寿仏にお遇いする意味がありません。自分の価値観や生き方を変える準備を整えておくことが必要で、これが最上の供養なのです。
たとえばここには、<天の妙華[・宝香[・無価[の衣>とあります。
「妙華[」は、まごころの智慧に咲いた華で、総じて言えば「人間としての華」であり「仏性の華」でしょう。『仏説阿弥陀経』には「昼夜六時[に天の曼陀羅華[を雨[らす」と説かれていますが、具体的には、自分の人生や縁ある環境をまごころの智慧で彩ることを言います。まごころは、自らの価値観や生き方を真実ならしめるはたらきがありますので、これによって無量寿仏の教えを素直に聞き入れる態勢が整うのです。
「宝香[」は、まごころの智慧と徳が芳ばしい香り≠フように報いたもので、具体的には優れた人格や環境、良い雰囲気、全体的な佇[まい、長年にわたる良い評判、おのずと生まれる信頼感≠ネどの「人徳」や「土徳」が周囲に漂うことを言います。優れた人格者や素晴らしい環境の徳に触れることで塞[ぎ込んでいた気持ちが晴れ、喜びに満ちた清らかな心となリ、身も快く安らかになる、ということを実際に経験された方も多いと思います(参照:{妙香合成の願})。
染香人[のその身には 香気[あるがごとくなり
これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳[とまうすなる
『浄土和讃』116
「無価[の衣」についてですが、「無価」は無価値という意味ではなく、あたいがつけられないほど尊い≠ニいう意味です。衣服は慚愧[の象徴であり、この具体的な内容は、{衣服随念の願}にありますように、裁縫や染め直しや洗濯が不要な、仏のお心にかなった尊い衣服をおのずから身につけている≠アとが願われています。「裁縫[が不要」とは、生活に不足不満が出た時、これから事新しく、着物を新調する必要のないこと≠ナあり、また取り繕った中途半端な反省に留まらない≠アとでしょう。不正が発覚してもなお部分的に隠蔽を続ける、というような体質を破く必要があるのです(参照:{取り繕いの無い懺悔を})。「擣染[(染め直し)が不要」とは、人生が色あせて生活に倦怠[を感ずることなく、日々彩りのある人生を歩む≠ニいうこと。「浣濯[(洗濯)が不要」とは、生活に疲れ、倦怠を覚え、不満が出る等の心の垢[が生じない≠ニいうことです。この衣をまとい地に敷いて「五体投地」や「稽首」の礼法と大懺悔を行ないます(参照:{作礼致敬の願})。
- 註釈版
- 咸然[として天の楽[を奏[し、和雅[の音[を暢発[して、
最勝[の尊[を歌歎[して、無量覚[を供養[したてまつる。
- 現代語版
- みなともに美しい音楽を奏[で、みやびやかな音色[を響かせ、
すぐれた徳をうたいたたえて、次のように無量寿仏を供養したてまつる。
供養には<天の妙華[・宝香[・無価[の衣>というまごころが調うことはもちろん大切で、自分の価値観や生き方を変える準備を整えておくことは必要不可欠ですが、これだけでは真の供養とは言えません。もう一つ大事なのは、無量寿仏の内容を誤解なく領解[し、これを何らかの表現を用いて讃[め称えること、これで供養が完成します。つまり、自分勝手な思い込みで無量寿仏を尊敬するのではなく、虚心坦懐[に仏徳を聞き開き、本当に解った上で讃[め称えることが真の供養なのです。誤解したまま褒めるほど失礼なことはありません。なぜなら、個人の誤解が世間に広まって人々に悪影響を及ぼしてしまうからです。世間一般では尊敬にあたる内容で、とにかく仏は尊いのだからこういう存在であろう≠ニ述べたことでも、真実と異なる内容で褒めてしまえば、むしろ教えを貶[したことになってしまい、仏を縁遠くしてしまいます。実際、こうした誤解が世間に広まっている事実は枚挙[に暇[がありません。
ここに<最勝[の尊[を歌歎[>するとあります。インドの学問の方法は、まず仏や経の内容を偈頌[をもって讃め称え、続いて詠[んだ偈頌を下敷きに解釈を進めます。経文にそのまま解釈を加えるのではなく、まず仏徳讃嘆[をし、その上でこの讃嘆が如来の真実義に添ったものであることを証明するのです。天親菩薩の『浄土論』も、24行96句の偈頌(詩句)と約3000字の長行[(散文)とからなっていて、前者を「総説分」後者を「解義分」と分けています(参照:{論註・優婆提舎と言う訳})。ではこの「往覲偈」は何かと申しますと、世尊みずから阿弥陀仏領解の偈頌を述べたものであります。大経上巻は、世尊が安楽浄土におもむいて覚った浄土の歴史そのものを因果の順に述べたもので、「本願の生起本末[」・「弥陀成仏のいわれ」を説かれたわけですが、下巻は世尊ご自身の覚りを達意的に偈頌[(往覲偈)に詠み、以下はこれに基づいて信心の講釈を進めていくわけです。
後先[になりますが、<咸然[として天の楽[を奏[し、和雅[の音[を暢発[して>とあります。寺院内や仏壇前でお経を読誦[する際は様々な節をつけて称えますが、この経典にもその依拠[が見られるわけです。これは願文としては{得弁才智の願}の成就であり、『仏説無量寿経』47(流通分・弥勒付属)には<この経法を聞きて歓喜信楽[し、受持読誦[して説のごとく修行すべし>と勧めています。ただし、「みなともに美しい音楽を奏[で、みやびやかな音色[を響かせ」ることは、単に声明[・勤行[に励むことを言うのではなく、普段から、仏法を語る際には下劣な表現をとらず、周りの人々と調和した言葉や表現を選び、なおかつ相手の心に響くことを念じているのでしょう。そうであるならば、念仏者の人格そのものが尊くなければ仏意に順じることはできません。
このように読み解いてみますと、とても自分は往覲[できない≠ニ悲観することになってしまいますが、大丈夫。なぜなら今からこれらの智徳を身につけなさい≠ニ言うのではないからです。私たちの存在や事実そのものに浄土の華より出でた「三十六百千億の仏」とも「諸仏如来」とも言われる仏が宿ってみえる、これが聞法を通じて私の歴史認識となった、このことを往生とも往覲とも言うのです。自分自身としては、本願成就の歴史を聞き開くことにより、今まで宿されてはいても認識できなかった供養の具が自ずと表出されて整います。さらに具体的に言えば、私が仏の願力によって頭が下がり、そうだ、その通りだ≠ニ心新たに立ち上がる、その時、私が立ち上がるだけではなく、諸仏もともに立ち上がって供養の具を整えるのです。私と諸仏のはたらきが同時、これを本願力回向の催しとして一切衆生に勧め、逆にこの両者が離別したまま行じることを「自力諸善[」と言ってこれを貶[するのです。
- 註釈版
- 〈神通[と慧[とを究達[して、深法門[に遊入[し、
功徳蔵[を具足[して、妙智[、等倫[なし。
慧日[、世間[を照らして、生死[の雲を消除[したまふ〉と。
恭敬[して繞[ること三匝[して、無上尊[を稽首[したてまつる。
- 現代語版
- 「実にみ仏は神通力[と智慧[をきわめ尽し、深い教えの門に入り、
すべての功徳をそなえ、そのすばらしい智慧は並ぶものがありません。
その智慧の光明は世を照らし、迷いの雲を除いてくださいます」 と。
うやうやしく三度右まわりにめぐって、伏[してこの上なく尊いこの仏を礼拝[したてまつる。
ここは仏徳讃嘆[の中身が紹介されています。総じて言えることは、人間そのものが成就する際、必ず具[えておかねばならない大切な要素を示しています。仏徳であるとともに人徳でもあらねばならない必須の素養です。先師は「人生の甘いも辛いも知り尽くし、裏も表もお見抜きで、一切のそういう人間として備えなければならないものを備えておる」と称えてみえました。
ところが愚民政策の片棒を担いでいた時代の教学では、私はどうせ凡夫なのだからこんな難しいことは成就できない≠ニ逃げ回っていて、こんな出来の悪い愚かな私を救済して下さるありがたい仏≠ニして仏徳讃嘆していたのです。しかしこれでは人間と仏の間に断絶が生じてしまいます。仏教は啓示宗教[ではありません、自覚の宗教です。仏と私が相対[するのは信仰であり、そうではなく、共に同じ方向を向き肩を並べて歩むことが信心なのです。無量寿仏は根本主体であり、念仏者は前衛主体≠ニ言われるように、仏と私は不一不二の関係ですから、私が仏徳讃嘆させていただく中に、自覚的な人生成就も願われているのです。実際に成就できるかできないかは問題ではありません。自分にできようができまいが、せねばならんことは成就しようと願い続ける、これが大切なのです。ですから、私にはできない≠ニ放り出すこととともに、私は既に成就しました≠ニ誇ることも邪見[であり驕慢[な態度となるのです。
仏徳讃嘆[の第一は、仏の「神通[」を讃[めます。
願文で言えば、{令識宿命の願}によって自分や世界全体の宿命が識られ、{令得天眼の願}によって相手や世界全体の尊さを観る天眼を得、{天耳遙聞の願}によって人間本来の訴えを聞く天耳を得、{他心悉知の願}によって相手の悩みや本心を理解する他心通を得、{神足如意の願}によって相手の身になり立場に立って自他を超えてゆく神足を得、{不貪計心の願}によって自利利他の菩薩行を行じる際に妄念・我執をおこさず、お為[ごかしの偽善や身の執着がなくなる、これらが神通に当たります。願文はもちろん「国中の人・天」にかけられたものですが、能所不二[の理[から弥陀本体の果徳[としても当然成就しているのです。
次の「慧[」とは智慧[のことで、阿弥陀仏の智慧を讃めます。「仏教は総じて智慧と功徳の宗教なり」と言われるほどですから智慧は重要で、それだけに様々な解釈が存在しますが、『真宗聖教全書』五拾遺部下2頁には――「智は、あれはあれこれはこれと分別しておもひはからふによりて思惟[になづく、慧は、このおもひの定まりて兎[も角[もはたらかぬによりて不動になづく。不動三昧[なり」とあります。
また「智」は、「一切の事象道理に対して、きっぱりと是非正邪を決定し断定し、よく弁別了知して、ひいては煩悩を断つ主因となる精神作用」であり「疑いなく明瞭に断定すること」ですから、分別し決断することを言います。
「慧」は「空、無我に名づく、不動に名づく」ともありますから、「禅定や三昧によって静められた心によって真実の道理をありのままに見ぬくはたらき」をいいます。私の主観が先入観を離れ、自己本位の我執を離れ、全てをありのままに見ること。同時に、泰然自若[とした態度を身につけ、何ものをも怖れず、執われず、あらゆる障害を越えてゆくまごころ智慧のことをいいます。
さらに{得三法忍の願}に照らして鑑[みれば、仏・菩薩が「音響忍[・柔順忍[・無生法忍[」を得ることを願っていますが、これは夢の世に夢でない、永遠の世界が働く、それを知る智慧≠ナある音響忍と、降りかかって来るどんな運命にも順い、どんな苦難にも耐えてゆく金剛心を内に有っている心で、どこまでも人生の深みを知り、真実の人生を知るための智慧≠ナある柔順忍、そして一の中に無量の意味を有つ、それぞれの原理とか法則とか、また人の性格とか国柄とか、歴史とか社会という、行為的世界を知る智慧≠ナある無生法忍が阿弥陀仏に具わっていて、仏徳讃嘆によって菩薩に回向され、身に満ちてくるのです。
以上のような「神通[と慧[とを究達[して」、きわめ尽していかれた阿弥陀仏ですから、<深法門[に遊入[し、功徳蔵[を具足[して、妙智[、等倫[なし>(深い教えの門に入り、すべての功徳をそなえ、そのすばらしい智慧は並ぶものがありません)と菩薩は無量寿仏を讃めるのです。「遊入[」とありますがこれは趣き深い言葉で、努力してそうなったのではない≠ニいうことを「遊」が表しています。
勤めと遊びはどちらが大事か≠ニ問われたら、皆さんはどう答えるでしょう。真面目な方は「勤め」と応えるかも知れませんが、仏教では遊びの方が大事であり高度であると教えます。勤めは奮闘努力で無理があるのですが、遊びは、同じ内容を学ぶにしても無理がなく、もっと学びたい、もっと深く追求したい≠ニの願いが身体の心底から湧いてきていますので、疲れることがありません。傍目[には難行苦行に見えても、遊行は歓喜のうちに学び修することができますので、苦が苦でなくなり、修した内容が本当に身についてくるのです。そして実際、こうしたまごころの法門は奮闘努力では入ることができず、遊行によってのみ入ることができるのです。こうしたことは身近なあらゆる文化・文明においても見受けられるできごとでしょう。
無量寿仏はこのように深い法門を覚られた、この「法門」はいわば道理や原理を知るということです。起きたことの一々を憶えるのではなく、人事や物事が動くその原理を知ることが重要で、ここを覚れば、何が重要か、どこを注意すれば良いのか、新しい事態にどう対処すれば良いかさえ解ります。
さて、「深い教えの門に入り」云々と聞くと以前にも同じような偈に出あった覚えがある≠ニ思い出されませんでしょうか。それは「讃仏偈」の中にあります。
- 漢文
- 深諦善念[ 諸仏法海[
窮深尽奥[ 究其涯底[
無明欲怒[ 世尊永無[
人雄師子[ 神徳無量[
- 注釈版
- 深くあきらかに、よく諸仏の法海を念じて、
深きを窮め奥を尽して、その涯底を究む
無明と欲と怒りとは、世尊に永くましまさず。
人雄獅子にして神徳無量なり。
- 現代語版
- さまざまな仏がたの教えの海に深く明らかに思いをこらし、
その奥底を限りなく深くきわめ尽しておいでになる。
愚かさや貪りや怒りなど世尊にはまったくなく、
人の世にあって獅子のように雄々しい方であり、はかり知れないすぐれた功徳をそなえておいでになる。
讃仏偈[は、無量寿仏の前身(もしくは展開)である法蔵[が、理想仏である世自在王仏[を讃め、自分も世自在王仏のようになりたい≠ニ願う内容ですが、往覲偈[では、私たち衆生が浄土に趣[いて阿弥陀仏を讃める、すると同様の流れで、仏を讃めた後は私も阿弥陀仏のような仏に成りたい∞私も安楽浄土のような世界を造りたい≠ニ願いを起こすのです。さらには、これは単に仏と私の関係だけではありません。先人たちと私の関係も同様で、連続無窮[の仏徳讃嘆[とも言えるまごころのつながりがここに示されているのです。
『安楽集[』(上一八四)にいはく、「真言[を採り集めて、往益[を助修[せしむ。いかんとなれば、前[に生れんものは後[を導き、後に生れんひとは前を訪[へ、連続無窮[にして、願はくは休止[せざらしめんと欲[す。無辺[の生死海[を尽[さんがためのゆゑなり」と。
仏徳讃嘆の最後は、<慧日[、世間[を照らして、生死[の雲を消除[したまふ>(その智慧の光明は世を照らし、迷いの雲を除いてくださいます)と無量寿仏を讃めます。これも{讃仏偈}とつながっていまして、同様の讃嘆になっています。
功勲広大[ 智慧深妙[
光明威相[ 震動大千[
功勲広大にして、智慧深妙なり。
光明の威相は、大千を震動す
その功徳はとても広大であり、智慧もまた深くすぐれ、
輝く光のお力は、世界中を震わせる。
往覲偈では<智慧の光明は世を照らし>とあります。では無量寿仏は世の中の何を照らすのかというと、讃仏偈にある「功勲広大にして、智慧深妙なり」と同じで、我と我が世界に宿されていた如来回向の功徳を照らし明かすのです。ところが私の世界にはそうした功徳ばかりあるのではありません。仏の功徳をいただいておりながら日々仏に逆らっている私ですから、私の罪業深重[の日暮しが宿業としてあばかれてしまいます。このあい矛盾した内容が同時に照らされることによって、そうだ、今こそ私はまことの人間に成らねばならん≠ニ、迷いの雲を打ち破って仏性がその本性を顕わしてくるのです。仏性は至心・信楽・欲生の願力回向によって本来の展開を果たし、私の生活の中にまで入り満ちてはたらきます。私たちは往覲の際、このことを讃めて供養とさせていただくのです。
このように、無量寿仏の内容を誤解なく領解[し、言葉を用いて讃め称えて歌歎[した、その後に、<
恭敬[して繞[ること三匝[して、無上尊[を稽首[したてまつる>(うやうやしく三度右まわりにめぐって、伏[してこの上なく尊いこの仏を礼拝[したてまつる)とあります。
「恭敬[」は敬虔[な態度で相手を尊敬し、その人生観を聞かせていただくことです。「繞[ること三匝[して」はインドの礼法のひとつです。仏や塔などに対してまず一礼し、次にそのまわりを自身の右側を内にして右まわりに巡るのですが、これを「旋右[」「旋匝[」「右繞[」といい、これを三周するのを右繞三匝[といいます。中国には逆に左に巡るべきだ≠ニする異説もあるようですが、この『仏説無量寿経』では{法蔵発願}に、「世自在王如来の所に詣でて仏足を稽首し、右に繞ること三匝して、長跪合掌して、頌をもつて讃めてまうさく」とあります通り、右繞三匝の説に順じています。ちなみにこの法蔵発願の箇所も往覲偈の<無上尊[を稽首[したてまつる>(伏[してこの上なく尊いこの仏を礼拝[したてまつる)等に相応していることが解るでしょう。「稽首」は頭を屈して地につける礼法で、願文としては{作礼致敬の願}が相当します。
- 註釈版
- かの厳浄[の土[の、微妙[にして思議[しがたきを見て、
よりて無上心[を発[して、わが国もまたしからんと願ず。
- 現代語版
- その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、
菩薩はこの上ないさとりを求める心を起[し、自分の国もこのようにありたいと願う。
何のために人々は安楽浄土に生まれたいと願っているのでしょう。それがこの句に出ています。
<かの厳浄[の土[の、微妙[にして思議[しがたきを見て>というのは、{十劫成道}から{華光出仏}までの弥陀果徳を拝見し、浄土の清浄荘厳が素晴らしいことが解った。解ったといっても解りつくしたわけではなく、思いはかる(思議)ことができないほど素晴らしいことが解ったのです。『往生論註』でも「いづくんぞ思議すべきや」と何度も繰り返し浄土を讃めてみえます。浄土を讃めることが仏を讃めることであり、仏を讃めることが浄土を讃めることになります。これはたとえば、絵を褒めれば描いた画家を褒めることになるのと同じです。
さて、ここからが問題です。安楽浄土に生まれた正定聚の菩薩は、謹んで無量寿仏に覲[えることが適い、浄土の内容を讃めたたえるのですが、何のために浄土に生まれて浄土を讃め称えたのかというと、永遠に安逸[を貪[って暮らすためではなりません。<よりて無上心[を発[して、わが国もまたしからんと願ず>(菩薩はこの上ないさとりを求める心を起[し、自分の国もこのようにありたいと願う)ためであります。
「自分の国」というのは、{往覲偈(序)#2}で説明しましたように、「教化されることになる衆生の類をとりあげて、かれらのことを仏国土と呼んでいる」という「仏国土」が「自分の国」です。ですから「わが国もまたしからんと願ず」というのは、衆生の荒れ果てた国土である穢土[を耕し、清浄なる各種の荘厳[によって麗[しい仏の国である浄土を造る≠ニいう意味なのです。安楽浄土を視察させていただいて、自分の国もこの浄土のように「微妙[にして思議[しがたき」ものにする、「思いはかることもできないほどすばらしい」内容にしたい、と願いを起こすのです。そしてこう願うことが「無上心[を発[」したということの内容なのです。
「無上心」は「無上菩提心[」のことで、往生を願う{上輩 }・{中輩}{下輩}の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな、無上菩提心をおこす≠フです。無上心をおこすことなく、ただ安逸を貪るために往生を願ってもそれは適わぬ夢で、そういう人は真実の浄土に生まれることはできません。曇鸞大師はこうした人たちを、「ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし」(『往生論注』巻下・解義分・善巧摂化章・菩提心釈)と批判されてみえます。これが仏意に相応した論釈なのです。 島田幸昭師は「浄土には視察旅行に往くのだ」と仰ってみえました。菩提心を発こさず、自分の国に無頓着なままでは、単なる物見遊山、「観光旅行」で終わってしまうでしょう。これを「不定聚[」とも「邪定聚[」とも言い、 下巻においてこれを丁寧に廃してゆくのです。
また、もう少し仏意を推し量ってみますと、<わが国もまたしからん>と願うのは、私が願っているようでありながら、実は浄土それ自体のはたらきであり、私としては「願わせしめたまえり」で、おのずと願うように仕向けられていたのではないでしょうか。ですから、「無上心を発して」ということも、私が「無上菩提心を発こさなければならない」と一念発起するものではなく、浄土の大菩提心が私にふり向けられて、それが我が身に満ちて自覚になったことを一念発起と言うのでしょう。常に浄土が先手です。親鸞聖人は菩提心を4種にわけて解釈され、浄土真宗の菩提心は横超であり「願力回向の信楽」であると論じてみえます。
(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?})
- 註釈版
- 時に応じて無量尊[、容[を動かし欣笑[を発[したまひ、
口より無数[の光を出して、あまねく十方国[を照らしたまふ。
光を回[らして身を囲繞[すること、三匝[して頂[より入[る。
一切の天・人衆[、踊躍[してみな歓喜[す。
大士観世音[、服を整へ稽首[して問うて、
仏にまうさく、〈なんの縁ありてか笑[みたまふや。やや、しかなり。願はくは意を説きたまへ〉と。
- 現代語版
- そのとき無量寿仏はにっこりとほほえまれ、
口から無数の光を放って、ひろくすべての国々をお照らしになる。
もどってきた光は仏のお体を三度めぐって、その頭におさまり、
すべての天人や人々はこれを見て、みなおどりあがって喜ぶのである。
そこで観世音菩薩[は服装を正し、伏して礼拝して問う。
「み仏がほほえまれたのは、どのような理由からでしょうか。どうぞ、そのお心をお説きください」 と。
十方より訪れた菩薩たちがみな無上心をおこし、「自分の国もこのようにありたい」と願う、これに応じて無量寿仏は、<容[を動かし欣笑[を発[したまひ>(にっこりとほほえまれ)た、とあります。
「容」は顔ではなく前身をいいますから、「動容[」は全身を動かして喜びを表すのです。次の<欣笑[を発[したまひ>の「欣」も、ひいひいと息をはずませてよろこぶ∴モですから、こちらも全身で喜びを表しています。
無量寿仏にとって、菩薩が「自分の国もこのようにありたい」と願うことがどれほどの喜びだったでしょう。五劫思惟[して荘厳仏国[の清浄の行を摂取[したことも、四十八願を建立したことも、不可思議兆載永劫[において、菩薩の無量の徳行を積植[したことも、何のためかと言えば、ひとえに菩薩より「わが国もまたしからんと願ず」と本気で申し出てくれること一つ、このためにこそ無量寿仏は限りない修行を重ねてきたのです。しかも準備はもう十劫の昔から整えられ続けていた、それゆえ無量寿仏は、菩薩の願いに応えて全身で喜びを表しているわけです。
<口より無数[の光を出して、あまねく十方国[を照らしたまふ>
(口から無数の光を放って、ひろくすべての国々をお照らしになる)
{華光出仏}には<一々の華のなかより三十六百千億の光を出す>とありますが、これと同じ内容を言っています。光は「はたらき」ですから、これは「よくぞ私の願いを間違いなく受け取ってくれた」という無量寿仏の喜びの音声が一切衆生に響き渡ってゆくことを言います。たった一菩薩の申し出でありながら、「ついにこの時が来た。皆もどうか同じ願いを持って安楽浄土に生まれてくれよ」と、全世界に向かって訴えてみえるのです。皆さんは無量寿仏のこの時の感動がどれ程のものか本当に解りますでしょうか。この無量寿仏の喜びが一切衆生の喜びとなるのです。
なおこれは、世自在王仏と法蔵菩薩の出遇いから言えば、「二百一十億の諸仏の刹土」云々の箇所に相当します(参照:{思惟摂取})。
親鸞聖人は正信偈において――
法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。
と実に簡略にまとめてみえますが、覩見や五劫にも及ぶ思惟の内容が、無量寿仏と正定聚の菩薩の関係になると、ごく短い期間で成就してしまうのです。これは裏を返せば、私に回向される功徳はごく短期間で我が身において成就するのですが、功徳の中身そのものは、この五劫思惟や兆載永劫の修行という実に長期間にわたって成就した内容なのです。
<光を回[らして身を囲繞[すること、三匝[して頂[より入[る>
(もどってきた光は仏のお体を三度めぐって、その頭におさまり)
無量寿仏の喜びが一切衆生の喜びとなって巡れば、当然この喜びはまた無量寿仏のもとへ還ります。「身を囲繞[すること、三匝[して」というのは、先の「恭敬[して繞[ること三匝[して、無上尊[を稽首[したてまつる」と同じで、礼法にもとづいて仏徳讃嘆していることをいいます。これによって無量寿仏の本願は完全に成就するのです。上巻の成就は浄土の成就でしたが、これが信心の成就にまで及んで本当に完成するわけです。
つまり、私は阿弥陀仏に生かされていると同時に、私が阿弥陀仏の誓願を生かしている。 蓮如上人はこのことを「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり。南無阿弥陀仏の主に成るといふは、信心をうることなり」(蓮如上人御一代記聞書237)と仰られました。これは、今自分自身が立っている歴史的立場において人間の華を開くことを言います。
この華は自分一人の華でありながら、内容的には劫初[よりつくり営んできた人類真心の成果が全て詰まっています。華開くのは私個人においてですが、私の立っている足元の座は個人ではない。人類の真心の徳によって支えられている座なのです。
このように信心によって全てが生きてくるのですが、逆に信心なき場合は、阿弥陀仏の誓願といえども宝の持ち腐れになってしまいますので、いかに信心が大切かこれで解るでしょう。
ただし、先の礼法は正定聚の菩薩の礼法ですが、「光を回[らして」云々は、菩薩だけではなく一切衆生の礼法を示しています。つまり、身口意をもってする礼法ではなく、心の奥底における礼拝、本音としての礼拝で、実際に行なう礼法となるためには聞法を通さねばなりません。全ての人々は、本音としては無量寿仏の尊さを讃め称えているのですが、肝心の本人がそれに気付かないのです。本音が願いとして身に満ち自分の人生においてその信が発揮されるには、どうしても『仏説無量寿経』の精神を顕した三宝にであい、仏の願いを我が願いとして定める必要があります。
<一切の天・人衆[、踊躍[してみな歓喜[す>
(すべての天人や人々はこれを見て、みなおどりあがって喜ぶのである)
先の「わが国もまたしからんと願ず」との願いが無量寿仏を喜ばせ、この喜びが一切衆生を巡ってまた無量寿仏に戻ってきた、この根源と前衛の出遇いをまた一切衆生が躍り上がって喜びます。
私の国と同じような国をつくりたいと、こういう願いを発こされた。皆、あなた方、この人の願いをどう思われますかというと、今度は阿弥陀が喜んだだけではない。十方の人たちが皆、喜ぶのです。
まず第一に、私が両手合わされたら、第一に私の先祖が喜ぶのです。そうでしょう。そうすると、「お前、よう法を聞いてくれたのう」と喜ぶのです。そうすると、先祖が喜ぶだけではない、一人の人が眼が開けたら周囲の人が皆、幸せになるのです。だから、表面は解らなくても阿弥陀さまの眼でみれば、ちゃんとこの人が菩提心を発こしただけによって、どの人もどの人も皆、喜んでおることが判って、ちゃんとそれを本人にそれを知らせるのです。そうすると、阿弥陀を通して一切の人が、私の道が間違いないことを証明してくれると、こういう自分に自信がつくのです。そういうことが説いてある。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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<大士観世音[、服を整へ稽首[して問うて、
仏にまうさく、〈なんの縁ありてか笑[みたまふや。やや、しかなり。願はくは意を説きたまへ〉と>
(そこで観世音菩薩[は服装を正し、伏して礼拝して問う。
「み仏がほほえまれたのは、どのような理由からでしょうか。どうぞ、そのお心をお説きください」 と)
この大士観世音は大悲の親≠象徴しておりますので、衆生のことが心配で仕方ありません。ですから、浄土において無量寿仏と正定聚[の菩薩が肝胆相照[らして喜びをあらわにしているだけでは、本当に仏意が衆生に伝わったのかどうかが解らず、言葉として確かめなければ済まないのです。またこの問いを発することによって、まだ正定聚に住していない菩薩や声聞・縁覚も、歓喜に満ちて心躍ることが適うのです。そこで観世音菩薩は立ち上がって服を整へ、稽首(頭を屈して地につける礼法)して無量寿仏に全身で喜びを表された訳、歓喜の所以[≠問います。
- 註釈版
- 〔仏の〕梵声[はなほ雷[の震[ふがごとく、八音[は妙[なる響きを暢[ぶ、
〈まさに菩薩に記[を授[くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け。
十方[より来[れる正士[、われことごとくかの願を知れり。
厳浄[の土[を志求[し、受決[してまさに仏となるべし。
一切の法は、なほ夢・幻[・響[きのごとしと覚了[すれども、
もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹[を成[ぜん。
法は電・影[のごとしと知れども、菩薩の道を究竟[し、
もろもろの功徳の本[を具[して、受決[してまさに仏となるべし。
諸法[の性[は、一切、空無我[なりと通達[すれども、
もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹[を成[ぜん〉と。
- 現代語版
- 仏は雷鳴[がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。
「今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。これからそのことを説くから、よく聞くがよい。
わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志[して、その願[の通りに必ず仏になることができる。
すべてのものは夢や幻[やこだまのようであるとさとりながらも、
さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである。
すべては、稲妻[や幻影[のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、
さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、
ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである」と。
観世音菩薩が無量寿仏に向かって、喜び笑まれた訳、その心を説いてほしいというと、その問いに仏は応えられます。
<〔仏の〕梵声[はなほ雷[の震[ふがごとく、八音[は妙[なる響きを暢[ぶ>
(仏は雷鳴[がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる)
「雷[の震[ふがごとく」というのは大声を譬[えていますが、単に声が大きいという訳ではなく、確信を持っているために、堂々とした、はっきりとした声を出すことができるのです。これから言うことに不安がある場合や、ごく個人的なやりとりならば小声で済みます。しかし雷鳴がとどろく程の声を出すわけですから、これは余程の確信を持っていて、しかも個人的な内容ではなく、全ての人々に聞いてもらいたい内容を述べるために「雷[の震[ふがごとく」声が大きいのです。
ただし、大声というのは得てして乱暴な響きになりがちです。しかし無量寿仏の声は、「八音[は妙[なる響きを暢[ぶ」で、美しい声で述べられます。「八音」は八種清浄音、八種梵音声ともいい、仏の声に八種の勝れた特質(功徳)があること≠いいます。具体的には――
- 極好音:
- 最好声、悦耳声[ともいい、聞くものをあかせずに道を入らせる声。
- 柔ナン音:
- 濡軟声[、発喜声[ともいい、やさしく愛らしい声。
- 和適音[:
- 和調声、和雅声[ともいい、適度に調和して聞く者の心を快適にやわらげる声。
- 尊慧声:
- 入心声ともいい、聞く者の智慧を開く声。
- 不女音[:
- 無厭声ともいい、男性的に明朗活発で人を畏敬させる声。
- 不誤音:
- 分明声[ともいい、聞く者に正見[を得させる過誤のない声。
- 深遠音[:
- 深妙声ともいい、深奥の理を悟らせる甚深なる声。
- 不竭音[:
- 易了声ともいいい、明了で尽きることのない果を得させる声。
という内容ですから、聞いて飽きず、優しく調和し、智慧を生み、尊敬でき、誤りなく、深い道理を覚らしめ、明確でどこまでも覚りの功徳を生む、という声です。
<まさに菩薩に記[を授[くべし。いま説かん。なんぢあきらかに聴け>
(今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束しよう。これからそのことを説くから、よく聞くがよい)
修行中の弟子に対して、未来における証果の内容を一々区別して予告することを「記別[」といい、記別を与えることを授記[、受けることを受記といいます。
ここは「当授菩薩記[」ですから、無量寿仏が正定聚[の菩薩に、未来における証果の内容≠詳しく予告するのです。かつては世自在王仏が法蔵菩薩に授けた記別ですが、立場が変わって、無量寿仏が正定聚の菩薩に未来にさとりを得ること≠約束しています。
<十方[より来[れる正士[、われことごとくかの願を知れり>
(わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている)
十方・世界中からここ安楽浄土に来た人々、つまり菩薩衆の願いを、無量寿仏はことごとく知っておられる、とあります。どういう内容かと言うと、先に――
かの厳浄[の土[の、微妙[にして思議[しがたきを見て、
よりて無上心[を発[して、わが国もまたしからんと願ず。
とありましたから、その通りを言い当てられます。
<厳浄[の土[を志求[し、受決[してまさに仏となるべし>
(菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志[して、その願[の通りに必ず仏になることができる)
自分の国も安楽浄土と同じような素晴らしい内容にしたい、自分も仏になりたい、これこそが浄土往生・往覲[する者の切なる願いです。これこそが真実信心の内容なのです。
浄土に生まれても、その素晴らしさに圧倒され歎じるだけでは浄土に入る意味がありません。身近な例で言えば、探究心なく大学に入り安逸を貪るのでは入学する意味がないのと同じです。せっかく集中して学ぶ良い環境があるのにそれを生かせなくては浄土の値打ちがなくなってしまうのです。
讃仏偈には「道場超絶[」とあるように、この安楽浄土は最高の道場なのでありますが、何のために道場に入ったのか解らないようでは、せっかく無量寿仏が兆載永劫[のご修行をされてもその甲斐がなくなってしまいます。
しかし安楽浄土の内容を知れば知るほど、そんな夢みたいな事ができる訳がない∞そんな途方もない夢を語っても実行できなければ何の値打ちもないではないか≠ニ反発されるかも知れません。言行一致[を原則とすればそうなるでしょう。
しかし仏教は、まず智慧を得ること、本当の願いを見出すことを第一とします。実際に成就できるかどうかは問題ではありません。本気で成就させねばならない願いを見出すことが成就なのです。これは無量寿仏の兆載永劫の修行の功徳が回施された願いでありますから、私にとっても逃げ場のない願いであります。そしてこれはどこまでいっても完全には成就しない願いでありながら、永遠に願い続けていかざるを得ない願い、そして願うこと自体が歓喜である願いです。ですから願いそのものが成就していれば、つまり、成就を願い続ける人生であれば、願いによって我が人生は成就するのです。
逆に途中で成就してしまうような願いでは本当の願いとは言えません。たとえば芥川龍之介の作品に「芋粥[」という短編小説がありますが、これは芋粥を腹一杯食べたいと願っていた侍が、いざ願いが叶う段になったらそれを食べられなくなった≠ニいうことで、願いの内容を問う作品となっています。
また「願」は、ないものねだりをする「欲」とは違います。自分は人間だから本当の人間になりたいと願う、親だからこそ本当の親になりたいと願う、こうした場所的自覚によって生まれた願いですから、場にこめられた土徳を敬い、ここが浄土の蓮華の座≠ニ定め、煩悩の泥に根を張りながら、諸仏とともに人間としての美しい華を咲かせようと願い続けるわけです。
<一切の法は、なほ夢・幻[・響[きのごとしと覚了[すれども、
もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹[を成[ぜん>
(すべてのものは夢や幻[やこだまのようであるとさとりながらも、
さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつくることができるのである)
先の<厳浄[の土[を志求[し、受決[してまさに仏となるべし>という内容を、ここからもう少し詳しく三つに分けて検証していきます。
まずこの「厳浄の土」である安楽国のような刹[をどこに建設するのか、という問題があります。すると、<一切の法は、なほ夢・幻[・響[きのごとし>である「この場」につくる、とありますから、どこか遠方に永遠に存在する環境があってそこに安楽国と同じような国をつくる≠ニいう訳ではないのです。
なぜなら、諸行は無常ですから「夢まぼろしのごときこの世」であります。私の命は明日があるとも知れない有限の時間に生きているのであり、あらゆる存在も常に変化し続け、永遠に存在するものなど一つもないのです。このことは覚了[せねばなりません。
しかし、だからといって、この世・この人生はどうでも良いのではありません。自分にとってはこの世・この人生こそが生きる現場であります。他に生きる場所は無いのです。すると、この夢幻[ごとき人生を、夢幻で終わらせない人生にしよう∞有限の人生の中に永遠・無限の価値が見出せる人生にしようということが自分の生きる目標となるではありませんか。これが<もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹[を成[ぜん>という意味でしょう。諸行無常を覚りながら、無常を嘆いてこの世を厭[うのではなく、自分の人生をこの無常の世の真っ只中において成就させてゆこう≠ニ願い続けることが尊いのです。永遠は有限の外にあるのではありません。有限の中にこそ永遠はあるのです。有限の人生だからこそ人生は無限に尊いのです。
お浄土に行って、そこで阿弥陀の浄土が立派なことを見て、「そうだ、私の国も阿弥陀の浄土と同じような立派な国をつくりたい」ということ。どこにつくるのかというと、「人生は夢のごとく幻のごとく影のごとく響きのごとく」というのであります。はかないこと。このはかない人生に永遠の世界、滅びない世界をつくるのです。
そんな世界ができますか。そこで題があるのです。一体、私らは永遠のものは何が永遠なのか。ただ、言葉ばっかり知っておるのです。いつまでも死なない仏という。死なない仏と、そんなものがどこにおりますか。何が死なないのです。生まれた者は死んでいきますよ。そういうことを皆、曇鸞大師が言っておられるのです。
<中略>
『阿弥陀経』に広長の舌相というのがあります。諸仏が広長の舌相をい出して、そして、成実のまことの言葉を説くとおっしゃいましょう。成実の本を説きたもうとありまして、成実がある。そうすると、これでもそうであって、これをどう解釈するかと言いますと、今、字引を読んで見ても、仏教辞典や、仏教の字引を見てもこれは何かというと、広い。広いということは、これは顔全体。べろを出せば、べろと言って舌です。べろという字ですから、べろを出せば顔全体を覆うようなべろだ。今度は、長いというのは、ちょっとなめるというと、額をなめることができる。
<中略>
ところが、こういうことも龍樹菩薩はお例えだと言う。何も体のことを言うておるのではないのです。これはお徳をいう、お徳を例えたのです。ということは、これは何か。広いということは普遍ということ。つまり普遍。普遍は普くどんなところにも行き渡っておる。今度、長生き、永遠という。だから、仏教では普遍常住というんであります。いつまでもそういう変わらないまこと。<中略>これはどこのどんな人にも皆通じるもの、いや応言えないもの、どんな人でも聞かねばならんもの、今度、長い時、いつであろうが、昔であろうが、今であろうが、未来であろうが、どんな人でも通用するもの。しかも、そうしたいということは、言うなら、仏そのものがそういうまことをさとっておるのです。だから、まことをさとっておるそのまことの心から出る言葉が、皆まことの言葉。だから、常住のこと、まこと。まことをさとって、そのまことの内容を広長という。普遍常住という。普遍にしていつまでも。これは常住という。これは永遠とも我々は言っておりますが、永遠にして普遍なるものという意味であります
<中略>
これもそうであって、何もお浄土が広いとか、お浄土が長いのではないのです。これはお浄土のまことそのもの。どんな人もお浄土という世界に生まれなければならないもの。だから、それを普遍という。だから、十方の諸仏が讃め称えるといいましょう。どんな人でも阿弥陀の浄土というものは真実の世界。真実の中身を普遍と常住と、いつまでもという、これを例えたのです。お浄土のまことであることを見て忽然とさとったということを書いておられるのです。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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<法は電・影[のごとしと知れども、菩薩の道を究竟[し、
もろもろの功徳の本[を具[して、受決[してまさに仏となるべし>
(すべては、稲妻[や幻影[のようであると知りながらも、菩薩の道をきわめ尽し、
さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる)
ここも先と同様に<法は電・影[のごとしと知れども>、つまり、一切の法、自分を含めたあらゆるもの、形あるものは、稲妻や幻影のように一瞬のうちに生滅してしまう≠ニ知るのです。しかしこのことを、どうせ一瞬の儚[い一生だ≠ニ嘆くのではなく、この一瞬の時間にこそ<菩薩の道を究竟[し>てゆく、人間としての大道を極め尽くしてゆくため、浄土より回向された功徳を身に満たし、発揮して、<受決[してまさに仏となるべし>、必ず仏になる。このように無量寿仏は念仏者にお墨付きを与えるのです。
<諸法[の性[は、一切、空無我[なりと通達[すれども、
もつぱら浄き仏土を求めて、かならずかくのごときの刹[を成[ぜん〉と>
(すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、
ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくることができるのである」と)
これが<厳浄[の土[を志求[し、受決[してまさに仏となるべし>の三つ目の内容であるとともに、無量寿仏の直接のお言葉としては最後になります。
<諸法[の性[は、一切、空無我[なり>とは、三法印[(諸行無常[・諸法無我[・涅槃寂静[)の中の「諸法は無我である」という内容に即しています。これは、清浄なる自分の国をつくるといっても、これは俺の国だ≠ニいって掴[むことができるものではない、国を所有することができるわけではないのです。全ては諸行無常の世の中に因縁によって生じているわけですから、独自に国が存在するわけでもなく、自分一人で抱え込める世界でもありません。常に他者との関係によって条件づけられ制約がある世界です。
このようにつかんで自由になる国ではないと「通達[」している、よくよく解ってはいるが、だからといって自分は願いを取り下げるのではなく、条件づけられた、この世の制約が沢山ある中で精一杯、<もつぱら浄き仏土を求めて>ゆく。浄土回向の菩提心を身に満たして、自分が関わる全ての世界をひたすら清浄・荘厳ならしめてゆくのです。すると<かならずかくのごときの刹[を成[ぜん>、必ずこの安楽国のような環境の国をつくることができる、と無量寿仏に励まされるのです。
以上が往覲偈の前半で、無量寿仏にお目にかかって自分の国が成就し仏の身を得る予告をいただきましたが、後半では、諸仏の導きと浄土の功徳が世界に展開してゆく原理を学びます。
- 往覲偈 梵文和訳
- そのとき師はこの意味をいっそう詳しく説き明かすためにこれらの詩句を説かれた。
- 東方にガンジス河の砂の数のように、
それだけ多くの仏国土があって、
そこからかれら求道者たちは、
(人々を)導く人・無量寿仏を礼拝するためにやってきた。
- さまざまな色あって、香り芳しく、うるわしい
あまたの花束を手にとって、
人間と神々とに供養せられる無量寿〔如来〕、
人類の最上の師に[華を]ふりかける。
- このように南と西と北の(方)にも、
十方に、それだけ多くの仏の国土があって、
そこここから求道者たちは、
(人々を)導く人・無量寿仏を敬礼するためにやって来た。
- さまざまの好[き色あって、香り芳しく、うるわしい、
あまたの香の束を手にとって、
人間と神々とに供養せられる無量寿〔仏〕、
人々の最上の導者[に(薫香を)ふりかける。
- これらの求道者たちは、供養しおわって、
無量光の両足を礼拝し、
右まわりにまわり、このように語る――
『ああ、(この)仏国土は稀有[に輝く。』と。
- かれらは無比の歓びに満ち、心が喜びに躍り上がって、
花束を撒き散らし、
(人々の)師に対して、ことばを述べて言う――
『願わくは、われらの国土もこのようであれかし。』と。
- その花束は、かれらによってそこに投げられるやいなや、
たちまち百ヨージャナの傘の形となった。
〔その傘蓋は〕麗わしい柄があり、
よく飾られて美しく映[え、
仏の身体をあまねく覆う。
- これらの求道者たちはこのように恭敬しおわり、
それに満足して、説いて言う――
『最上の人の名を聞いた、
かれら生ける者どもはよい利益[を得た。
- われらはかつて、この仏国土に来たときに、
よく利益を得たものだ。
見よ――千劫の間に師の作りたまうた、
この夢のような国のありさまを。
- 見よ、仏は群[なす秀れた福徳を持[ち
求道者たちにとりかこまれて輝きたまう。
無量光〔仏〕の光明は無量、威力もまた無量、
寿命も無量、〔修行者の〕集いもまた無量である。』と。
- そのとき、無量寿たる主は微笑して、
三十六憶の千万倍の光を顔から放たれて、
千億の国土を照らしたまうた。
- そのすべての光炎はふたたびそこに帰り、
また(人々の)師の頭の頂きに入った。
そのときかの光炎の消えたのを知って、
〔無量寿仏の本願の成就したのを知り〕
人間も神々も歓喜を生ずる。
- そのとき、偉大な名声ある者・仏の子
観世音と名づける人は立ち上がり、(問うて言う)――
『師よ。いかなる原因、いかなる縁によって
世間の主であるおんみは微笑したまうのですか。
- 最高の真理を知れる人、ためを思いあわれみふかき人、
多くの生ける者どもを(苦しみから)解き放つ者(たる師)がこれを解き明かしたまえ。
生ける者どもは、(おんみの)最上の、魅力あふれる言葉を聞いて、
歓喜に満ちて心躍るでありましょう。
- (この無量寿)仏に見[るために多くの世界から、
<幸あるところ>(極楽)に向かった求道者たちは、
(それを)聞きおわって広大な喜びを生じ、
すみやかにこの国土を眺めるでありましょう。
- また、この高大な国土に来た者は、
すみやかに、超自然的な能力(神通力)と、
超人的な透視力(天眼[)と、超人的な聴覚(天耳[)とを得て、
前生を想い起し、他人の心を読み取る力(他心通)を持つ者となるでありましょう。』と。
- そのとき、無量寿仏は解き明かしたまう――
『これは実にわたしの以前からの誓願であった。――
<わたしの名を聞いた生ける者どもは、
いかようにしてでも常にわたしの国土に往き得るように>――』と。
- わたしのこのみごとな誓願は成就した。
生ける者どもは多くの世界からわたしのともにやって来る。
かれらは速やかにわたしのもとに来て、ここで、
<一生のあいだだけここにつながれている者>として、退くかない者となる。
- この故に、ここにいる或る求道者が、
『(かれらが)わたしの国土もまたこのようでありたい。
わたしもまた、名や音声(を聞くこと)により、また、(わたくしに)見えることによって、
多くの生ける者どもを(迷いから)解き放ちたい。』と願うなら、
- かれは疾[く疾くすみやかに、
<幸あるところ>という世界に急ぎ往け。
まず無量光〔仏〕のみもとに行きて、
千億のみ仏たちを供養せよ。
- かれらは、幾億の多くの仏たちを供養して、
神通力をもって多くの国土に往き、
幸ある人たち(諸仏)のみもとにて供養をなしおわりて、
朝食の前に<幸あるところ>に帰るであろう。と。
<中略>
そのとき、師はまたこれらの詩句を説かれた。
- 功徳を積まぬ者どもは、このような(教えを)聞くことはないであろう。
ただ勇猛にして、一切の目的を成就した者たちのみ、この説を聞くであろう。
- また、かつて、正しく目ざめた人・世の主・光を放つ者に見[え、
恭しくその法を聞いた者は、最上の喜びを得るであろう。
- 下劣で、怠け者で、悪しき見解のある者どもは、
諸仏の法に対する浄らかな信を得ることができない。
かつて(前世で)過去の仏たちに供養をした者は、
世の主(=仏)たちの行いを学んだ。
- たとえば、実に眼のない人が闇の中で、
道を知らないようなもの。ましてや(他の人々に)道を教えられようか。
<教えを聞いて修行する人々>は、仏の智慧について、みな、この通り、知ることが無い。
いかにいわんや、他の人々のいてをや。
- ただ仏のみが、仏の功徳を明らかに知る。
神々・竜・アスラ(阿修羅)・ヤクシャ(夜叉)や、教えを聞くのみの修行者たちは、(知ら)ない。
仏の智が説き明かされても、独居する修行者たちは、
これを知るいかなる道があるであろうか。
- たとえ一切の生ける者どもが幸せとなり、
清浄な智識を得て、最高の真理を熟知する者となったとしても、
かれらが億劫の間、あるいはそれ以上にわたっても、
一人の仏のすぐれた徳性を語るとしても。
- 多くの幾億劫の間、説明しつつ、その間にかれらはその身失[せるであろうとしても、
しかも、〔その〕仏の智の量は、(知り)得ない。
勝者(=仏)のおびただしい智識をすべてまのあたり証得して、
「仏は明かに知っておられる」という言葉を発するであろう。
- あるときには人間の身をうけることとなり、
あるときには仏たちとなって出現する。
信も智慧もきわめて長い時を経て得られるであろう。
その意義を知る智慧ある人々は精進をおこすべきである
- このように特にすぐれた法を聞いて、
幸ある人(=仏)を念じつつ、喜びを得、
また、諸々の目ざめた人々の覚りを得るために意欲を生ずるかれらは、
過去の世において、われらの友であった。
-
往覲偈 漢文
- 爾時世尊而説頌曰
東方諸仏国 其数如恒沙
彼土菩薩衆 往覲無量覚
南西北四維 上下亦復然
彼土菩薩衆 往覲無量覚
一切諸菩薩 各齎天妙華
宝香無価衣 供養無量覚
咸然奏天楽 暢発和雅音
歌歎最勝尊 供養無量覚
究達神通慧 遊入深法門
具足功徳蔵 妙智無等倫
慧日照世間 消除生死雲
恭敬繞三匝 稽首無上尊
見彼厳浄土 微妙難思議
因発無上心 願我国亦然
応時無量尊 動容発欣笑
口出無数光 &M010174;照十方国
廻光囲繞身 三匝従頂入
一切天人衆 踊躍皆歓喜
大士観世音 整服稽首問
白仏何縁笑 唯然願説意
梵声猶雷震 八音暢妙響
当授菩薩記 今説仁諦聴
十方来正士 吾悉知彼願
志求厳浄土 受決当作仏
覚了一切法 猶如夢幻響
満足諸妙願 必成如是刹
知法如電影 究竟菩薩道
具諸功徳本 受決当作仏
通達諸法性 一切空無我
専求浄仏土 必成如是刹
諸仏告菩薩 令覲安養仏
聞法楽受行 疾得清浄処
至彼厳浄国 便速得神通
必於無量尊 受記成等覚
其仏本願力 聞名欲往生
皆悉到彼国 自致不退転
菩薩興至願 願己国無異
普念度一切 名顕達十方
奉事億如来 飛化&M010174;諸刹
恭敬歓喜去 還到安養国
若人無善本 不得聞此経
清浄有戒者 乃獲聞正法
曾更見世尊 則能信此事
謙敬聞奉行 踊躍大歓喜
驕慢弊懈怠 難以信此法
宿世見諸仏 楽聴如是教
声聞或菩薩 莫能究聖心
譬如従生盲 欲行開導人
如来智慧海 深広無涯底
二乗非所測 唯仏独明了
仮使一切人 具足皆得道
浄慧知本空 億劫思仏智
窮力極講説 尽寿猶不知
仏慧無辺際 如是致清浄
寿命甚難得 仏世亦難値
人有信慧難 若聞精進求
聞法能不忘 見敬得大慶
則我善親友 是故当発意
設満世界火 必過要聞法
会当成仏道 広済生死流
王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。このゆゑに、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なし。おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。
『往生論注』105巻下・解義分・善巧摂化章・菩提心釈 より
▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
王舎城において説かれた『無量寿経』によれば、往生を願う上輩・中輩・下輩の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな、無上菩提心をおこすのである。この無上菩提心は、願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心はそのまま度衆生心である。度衆生心とは、衆生を摂[め取って、阿弥陀仏の浄土に生まれさせる心である。このようなわけであるから、浄土に生まれようと願う人は、必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。もし、人がこの心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪[むさぼ]るために往生を願うのであれば、往生できないのである。だから『浄土論』には<自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う>と述べられている。<変ることのない安楽>とは、浄土は阿弥陀如来の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、絶え間なく楽しみを受けることができるということである。 総じて、回向という言葉の意味を解釈すると、阿弥陀仏が因位の菩薩のときに自から積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである。
[Shinsui]
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