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七高僧の教えを味わう

往生論註を味わう 26

【浄土真宗の教え】

観察門 器世間「荘厳一切所求満足[いっさいしょぐまんぞく]功徳成就」

『往生論註』巻上

浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)
【二六】
 衆生所願楽 一切能満足

 この二句は荘厳一切所求満足功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは名高く位重くして潜処するに由なし。あるいは人凡に性鄙しくして出でんとネガふに路なし。あるいは修短、業に繋がれて、制することおのれにあらず。阿私陀仙人のごとき類なり。かくのごとき等の、業風のために吹かれて自在を得ざることあり。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土をしておのおの所求に称ひて情願を満足せしめん」と。このゆゑに「衆生所願楽 一切能満足」といへり。


聖典意訳
衆生の願楽[がんぎょう]する所 一切[]く満足す

 この二句を、荘厳一切所求満足功徳成就[しょうごんいっさいしょぐまんぞくくどくじょうじゅ]と名づける。仏は因位[いんに]の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土を見れば、あるいは名前が高く位が重くてかくれていることができない。あるいは一般の人が生まれの低いために、出世を願っても[みち]がない。あるいは寿命の長短がすべて前生の業にかかわって、自分では自由にすることができない。たとえば阿私陀[あしだ]仙人のたぐいのようである。こういうように、業のためにさばかれて、自由自在を得ない。こういうわけで願をおこされて「わが国土は、おのおの求める所をかなわしめ、心の望みを満足せしめよう」と誓われた。それゆえ「衆生の願楽[がんぎょう]する所 一切[]く満足す」といわれたのである。


 器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうちの最後、「「荘厳一切所求満足[いっさいしょぐまんぞく]功徳成就」」の詳細を観察します。
 ちなみに十七種を列挙しますと――「荘厳清浄功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳形相功徳成就」、「荘厳種々事功徳成就」、「荘厳妙色功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳虚空功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳光明功徳成就」、「荘厳妙声功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳眷属功徳成就」、「荘厳需用功徳成就」、「荘厳無諸難功徳成就」、「荘厳大義門功徳成就」、そして「荘厳一切諸求満足功徳成就」となっていて(「水」「地」「虚空」は「荘厳三種功徳成就」で数える)、最初の「荘厳清浄功徳成就」は確かに<清浄はこれ総相>ですが、最後の「荘厳一切諸求満足功徳成就」もやはり十七種を総合した内容となっています。

 業により願いが成就しない穢土

 衆生所願楽[しゅじょふしょがんぎょう] 一切能満足[いっさいのうまんぞく]
 この二句は荘厳一切所求満足功徳成就と名づく。仏本[ぶつもと]なんがゆゑぞこの願を[おこ]したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは名高く[くらい]重くして潜処[せんしょ]するに[よし]なし。あるいは人[ぼん]性鄙[しょういや]しくして出でんとネガふに[みち]なし。あるいは修短[しゅたん][ごう][つな]がれて、制することおのれにあらず。阿私陀[あしだ]仙人のごとき[たぐい]なり。かくのごとき[]の、業風[ごうふう]のために吹かれて自在を得ざることあり。

▼意訳(意訳聖典より)
衆生の願楽[がんぎょう]する所 一切[]く満足す
 この二句を、荘厳一切所求満足功徳成就[しょうごんいっさいしょぐまんぞくくどくじょうじゅ]と名づける。仏は因位[いんに]の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土を見れば、あるいは名前が高く位が重くてかくれていることができない。あるいは一般の人が生まれの低いために、出世を願っても[みち]がない。あるいは寿命の長短がすべて前生の業にかかわって、自分では自由にすることができない。たとえば阿私陀[あしだ]仙人のたぐいのようである。こういうように、業のためにさばかれて、自由自在を得ない。

<衆生の願楽[がんぎょう]する所 一切[]く満足す>
 自分の願い求めることが全て満足する(適う)ということは、何にもまして幸福なことでしょう。究極的に言えば、私たちは願いを成就させるために生きている≠ニも言えるのです。そして「浄土はそれが適う環境である」というのがこの二句です。
 しかし私たちは世間から、願いが全て成就するなどということは有り得ない=A願いが成就しなくても忍んで生きるべきだ≠ニ教えられてきました。実際、今までの人生の中で願いが全て成就するなどということはなかったし、これからもそうなる可能性は少ないと推測せざるを得ません。仏教でも四苦八苦の中に「求不得苦[ぐふとくく]」があるほどで、誰も避けることができないこの苦の現実を認めることで欲望を抑制する[すべ]を学びました。ではこの二句は一体何を私たちに示しているのでしょう。それは浄土と穢土の違いを、願い求める内容の違いによって明らかにするのです。

<ある国土を見そなはすに、あるいは名高く[くらい]重くして潜処[せんしょ]するに[よし]なし。あるいは人[ぼん]性鄙[しょういや]しくして出でんとネガふに[みち]なし>
(ある国土を見れば、あるいは名前が高く位が重くてかくれていることができない。あるいは一般の人が生まれの低いために、出世を願っても[みち]がない)

「ある国土」とは、一衆生の置かれている客観的事実全体を言います(参照:{荘厳受用功徳成就「#命を説きて食とす」})。穢土においては、ある人は引っ込み思案で表舞台に出ることを好まないのに、家柄や地位が重いために人々の目に[さら]されるはめに遭い、またある人は出世欲が盛んで表舞台に登場したいのにそうした機会に恵まれない、という現実を示します。願いと現実がかみ合わず逆の結果になってしまっては、何のための人生か≠ニ悩んでしまいます。やがて、どうせ適わないのならと、何かを願い求めることさえ臆病になってしまいがちです。
 これは過去の話ではないでしょう。現在の日本においても、図らずも衆目を浴びて苦悩する人たちは大勢いますし、逆も多くあります。曇鸞大師は仏法のみならず政治にも精通してみえましたので、{荘厳主功徳成就}{荘厳眷属功徳成就}{荘厳無諸難功徳成就}などに表された穢土のありさまのように、政治的要素や立場・境遇の中に悲劇の要素があることを強く感じ取られてみえたのでしょう。

<あるいは修短[しゅたん][ごう][つな]がれて、制することおのれにあらず。阿私陀[あしだ]仙人のごとき[たぐい]なり。かくのごとき[]の、業風[ごうふう]のために吹かれて自在を得ざることあり>
(あるいは寿命の長短がすべて前生の業にかかわって、自分では自由にすることができない。たとえば阿私陀[あしだ]仙人のたぐいのようである。こういうように、業のためにさばかれて、自由自在を得ない)

「阿私陀」は、仏生誕の際にその瑞相[ずいそう]を最初に認めた仙人です。仏伝はこのことを以下のように伝えています。

 カンシハリ(=アシタ)という結髪の仙人は、頭上に白傘をかざされて赤色がかった毛布の中にいる黄金の飾具のような児をば、こころ喜び楽しんで抱き取った。
 相好と神呪(ヴェーダ)に通暁せるかれは、シャカ族の牡牛のような〔立派な児〕を抱きとって、〔特相を〕検べたが、心に歓喜して声を挙げた。――
「これは無上の人です。人間の最上者です。」
 ときに、仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。仙人が泣くのを見て、シャカ族は言った。――
「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」
 シャカ族が憂うているのを見て、仙人は言った。――
「わたくしは王子に不吉の相があるのを憶うているのではありません。またかれに障りはないでしょう。この人は凡庸ではありません。注意してあげて下さい。
 この王子は正覚の頂に達するでしょう。
 この人は最上の清浄を見、多くの人々の利益をはかり、あわれむが故に、法輪を転ずるでしょう。かれの清浄行はひろく弘まるでしょう。
 ところがこの世におけるわたくしの余命はながくありません。
 中途でわたくしに死が訪れることでしょう。
 わたくしは無比の力ある人の教法を聞かないでしょう。
 それ故に、わたくしは、怨み悲嘆し、苦しんでいるのです」と。
 かの清浄行者(=アシタ仙人)はシャカ族に大きな喜びを起こさせて、宮廷から去って行った。
 かれは自分の甥(=ナーラカ)をあわれんで、無比の力ある人(=仏)の教法に従うようにすすめた。――
「もしも汝が後に『仏あり、正覚を成じて、法の道を歩む』という声を聞くならば、そのときそこに行ってかれの教えを尋ね、その世尊のもとで清浄行を行ぜよ」と。

 ちなみにこのナーラカ(アシタ仙人の[おい])は後のマハー・カッチャーナ(摩訶迦旃延[まかかせんえん])で、「論議第一・広説第一」と称される仏十大弟子となりました。「あわれんで」というのは、ナーラカの境遇(兄との問題)を哀れんでいるか、もしくは「感動して」という意味かも知れません。

 このように、たとえ目指すべき将来の仏≠ノ出あうことが適っても、余命つたなく、仏法を聞くことができない悲しみはいかばかりでしょう。「人身[にんじん]受けがたし」、「仏法聞きがたし」は、特にアシタ仙人の無念に触れた時、私たちはその有り難さを痛感するのであり、「さらにいずれの生にむかってかこの身を度せん」との想いを新たにします。

 仏願が衆生の願いとなって成就する

このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土をしておのおの所求[しょぐ][かな]ひて情願[じょうがん]を満足せしめん」と。このゆゑに「衆生所願楽[しゅじょふしょがんぎょう] 一切能満足[いっさいのうまんぞく]」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
こういうわけで願をおこされて「わが国土は、おのおの求める所をかなわしめ、心の望みを満足せしめよう」と誓われた。それゆえ「衆生の願楽[がんぎょう]する所 一切[]く満足す」といわれたのである。

「欲」は適わなければ苦しいし、適えば適ったでまた憂い悩みが起こります
 大金を得たいとか、名誉がほしいというのは、「得ていないものを求める」ということですから、今現在に対して憂いがおき不満は止みません。そして得たら得たでまた失うことを恐れたり、別のさらなる欲望がわいてきますから、欲はいつまでも不満を生み出してしまいます。
 穢土[えど]においてはこのような有様ですから、浄土においては衆生の願いを全て適えて満足させよう≠ニいうのが仏の願いであります。

 ちなみにこうした解釈は『往生論註』における特徴で、天親菩薩とは全く逆です。『浄土論』では浄土の荘厳がまず先にあり、その存在理由を尋ねていった先に、この浄土から見ると穢土は何と苦悩に満ちた世界だろう≠ニ慈悲心が出ます。これは『仏説無量寿経』も同じで、上巻には阿弥陀仏や浄土のいわれ・経緯≠ェ明かされ、下巻には浄土の功徳が穢土に届いて私の信心となる経緯≠ェ示されます。しかし『往生論註』ではまず穢土の苦悩に満ちた世界が描かれ、苦悩の解決を願った先に、この穢土を浄化し荘厳せしめる浄土は何と幸福に満ちた世界だろう≠ニ願往生心が出るのです。
 天親菩薩は菩薩として浄土に立場を置いて論を展開されてみえますが、曇鸞大師は大師として穢土に立場を置いて解釈を進めてみえます。そのため、浄土と穢土の関係は同じなのですが、立場の違いから論釈の方向性が逆になっているのです。

 ところで、本願はもちろん法蔵菩薩の建てられた願いですが、法蔵の願いは究極として言えば衆生の願いに他なりません。衆生の願いは一見すると無明・我執にまみれた欲望に過ぎませんが、その深遠を尋ねていけば本当はこうしたいのだ≠ニいう絶叫が聞こえてまいります。
 平生はあれもこれも欲しい≠ニ迷っている衆生も、いざとなって命がけの選択を迫られれば、「そうだ、これだ!」と純粋な本心一途の願いが出てまいります。これが仏と衆生が一体となった願いです。こうした内容の願いでなければ「情願[じょうがん]を満足せしめん」とはならないでしょう。

 これは無い物ねだりの「欲」と違い、本来的にそうで「ある」ことが本当にそう「成る」≠ニいう「願」です。「人間だから本当の人間に成りたい」、「親だから本当の親に成りたい」、「和合するのが本来の世間なのだから平和を実現させたい」、こう願い続けることそのものが成就であり満足なのです。願いは事実として成就することは永遠に適いませんが、存在そのものに根ざした内容ですから常に満足が伴います。願い続けることがそのまま成就なのです。逆に私は既に立派な人間である≠ニか私は立派な親になった=Aこの国は平和で何の問題もない≠ネどと事実として成就した≠ニ思い上がる驕慢な態度が願いを破壊するのです。つまり「願いの中にこそ成就あり」で、これが無い物ねだりの「欲」との大きな違いです。

 この本来的に宿されていた衆生の深い胸の内を経家[きょうけ]が智慧によって聞き開き、言葉によって明らかにしたものが四十八願です。智慧がないばかりに煩悩的欲望や頑迷な思想に捻じ曲がっていたものを、本来から洗いなおして社会的・創造的に生きる人間像を明らかにしたのです。そしてこの四十八願が我が身に至り、私の願いとなって働くことを回向というのです。願いは衆生の本心でありながら、あくまで如来が先手で働きますから他力というのです。
 このように、四十八願全体が「衆生所願楽[しゅじょふしょがんぎょう] 一切能満足[いっさいのうまんぞく]」の内容なのですが、『論註』解義分では具体的に三つの例を挙げて解釈しています。

 荘厳一切所求満足功徳成就とは、偈に「衆生所願楽 一切能満足」といへるがゆゑなり。
 これいかんが不思議なる。かの国の人天、もし他方世界の無量の仏刹に往きて諸仏・菩薩を供養せんと欲願せんに、所須の供養の具に及ぶまで、願に称はざるはなからん。またかしこの寿命を捨てて余国に向かひて、生じて修短自在ならんと欲せんに、願に随ひてみな得。いまだ自在の位に階はずして、自在の用に同じからん。いづくんぞ思議すべきや。

『往生論註』79(巻下 解義分 観察体相章 器世間)より

 荘厳一切所求満足功徳成就[しょうごんいっさいしょぐまんぞくくどくじょうじゅ]とは、[]に「衆生の願楽[がんぎょう]する所 一切[]く満足す」と言える故なり。
 これがどうして不思議であるかというと、かの国の人人は、もし他方[たほう]世界の無量の仏の国に[]って諸仏や菩薩たちを供養しようと思うならば、また供養に必要な品も、望みどおりにかなわぬことはないであろう。また浄土の寿命を離れて他方世界に生まれようと願うならば、その長い短いは願いの通りにみな得られる。かの土の聖衆[しょうじゅ]はまだ八地[はちじ]以上の自在の位に至らないのに、そのはたらきをは自在の[ゆう]と同じである。どうして思いはかることができようか。

 まずは、供養のための望みの品を思いのままに得られる≠ニいう{供養如意の願}成就を挙げます。
<かの国の人天、もし他方世界の無量の仏刹[ぶつせつ]に往きて諸仏・菩薩を供養せんと欲願[よくがん]せんに、所須[しょしゅ]の供養の具に及ぶまで、願に[かな]はざるはなからん>
(かの国の人人は、もし他方[たほう]世界の無量の仏の国に[]って諸仏や菩薩たちを供養しようと思うならば、また供養に必要な品も、望みどおりにかなわぬことはないであろう)

 この供養如意の願は{供養諸仏の願}の展開であり、諸仏諸菩薩はもちろん、目の前の衆生ひとり一人を尊敬し、敬虔[けいけん]な態度で相手の善念[ぜんねん][した]って養えるように願っているのです。この願が具体的に成就するためには、まず相手の本心が解らなければ適いません。相手は金品を求めているのでしょうか、言葉を求めているのでしょうか、態度を求めているのでしょうか、心を求めているのでしょうか。金品を求めているのならば具体的に何が必要なのでしょう、どのような言葉をかけましょう、どんな態度が良いのでしょう、どんな心持ちが必要なのでしょう。
 それは、自分と相手との関係にもよりますが、総じて言えるのは、相手を理解し尊敬した上で行動を起こすことです。これが抜けますと、同じ物でも、同じ言葉でも、相手の胸には届きません。[]いた餅より心持ちが大事ですから、この願が適うということは、品物が整う以上に、自分の供養心が整うことが第一でしょう。たとえば金銭を与えるにも、[うやうや]しく捧げるのと床に放り投げたのでは内容が全く異なります。このお金は自分が使うよりあなたに使って頂いた方がより良く活きると思いますので、どうぞお使い下さい≠ニいう心根で捧げることによって供養が適うのです。
 さらには、{聞名得定の願}には、またたく間に数限りない仏がたを供養し、しかも三昧のこころを乱さない≠ニありますから、諸仏供養にかかりきりになって自らの本分を忘れることのないように、とも願われています。これは「往覲偈[おうごんげ]」にもありますように、供養はそれ自体が目的なのではなく、自らの国土の清浄・荘厳を適えるためにこそ行うのです。他人を尊敬したり助けたりすることは大切な徳目ですが、みずからの人生を放り投げてしまえばやがて根腐れしてしまい、供養も一時的になってしまいます。「讃仏偈」にも「不如求道[ふにょぐどう] 堅正不却[けんしょうふきゃく]」とある通り、永続する菩提心の根あってこその供養でしょう。

<またかしこの寿命を捨てて余国[よこく]に向かひて、生じて修短自在[しゅたんじざい]ならんと[ほっ]せんに、願に[したが]ひてみな[]
(また浄土の寿命を離れて他方世界に生まれようと願うならば、その長い短いは願いの通りにみな得られる)

 これは、{眷属長寿の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿命よく限量なからん。その本願の修短自在ならんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ>の願が反映されています。阿弥陀仏の量りなき寿命(参照:{寿命無量の願})は、浄土の人民ひとり一人におよんで無量無辺[むりょうむへん]に展開し、阿僧祇劫[あそうぎこう]に永続してゆくのです(参照:{「人民〔の寿命〕も、無量無辺」の疑問})。また「修短自在[しゅたんじざい]」とありますように、願いによってその長さを自由にしたいものは自在に適う。これは、浄土の還相回向[げんそうえこう]の働きによって穢土に還って菩薩行を修したい≠ニ願いを持つ者は自在であることを言います。浄土においては浄土の土徳が人々を浄華衆として育て、宿業の世界に還れば阿弥陀仏の名号が人々を菩薩として育てるのです。

<いまだ自在の位に[かな]はずして、自在の[ゆう]に同じからん。いづくんぞ思議すべきや>
(かの土の聖衆[しょうじゅ]はまだ八地[はちじ]以上の自在の位に至らないのに、そのはたらきをは自在の[ゆう]と同じである。どうして思いはかることができようか)

『仏説無量寿経』22(巻下 正宗分)に「それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す」とある通り、浄土に生まれる人々(真に往生を願う人々)はみな正定聚に住すのですが、それはあくまで初地(41位)であり、自在の位(八地・48位)ではありません。
<自在の位に[かな]はずして>というのはこのことを言い、次の<自在の[ゆう]に同じからん>というのは、初地の菩薩でありながら内容は八地以上の菩薩と同じ働きであることを言います。(参照:{正定聚・不退転の菩薩について}
 この功徳は、還相[げんそう]回向の願}<たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土[たほうぶつど]諸菩薩衆[しょぼさつしゅ]、わが国に来生[らいしょう]して、究竟[くきょう]してかならず一生補処[いっしょうふしょ]に至らん。その本願の自在の所化[しょけ]、衆生のためのゆゑに、弘誓[ぐぜい][よろい][]て、徳本[とくほん]積累[しゃくるい]し、一切を度脱[どだつ]し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量[ごうじゃむりょう]の衆生を開化[かいけ]して無上正真[むじょうしょうしん][どう][りゅう]せしめんをば除く。常倫[じょうりん]超出[ちょうしゅつ]し、諸地[しょじ]の行現前[げんぜん]し、普賢[ふげん]の徳を修習[しゅじゅう]せん。もししからずは、正覚を取らじ>を原因として報いもたらされたものです。
一生補処[いっしょうふしょ]」というのは菩薩の最高位で、この一生が終われば釈尊の地位を補うことができる位に達する≠ニいう意味があります。これは補処の弥勒[みろく]と同じ51位の「等正覚[とうしょうがく]」の位ですから、究竟[くきょう]位(52位)の仏とほぼ同じであり、第二の釈迦となることが適う≠ニ自他ともに認める位です。浄土は究極としてこの等正覚に至ることが適う環境なのです。

 ただしこれは俺は第二の釈迦である≠ニ傲慢な態度になるのではなく、このような有り難い仏法に出遇えたのだから、一生をかけてでも釈尊の地位を補うことが適う私に成らせて頂かねばその甲斐が無い≠ニ、敬虔[けいけん]な願いが出てくることを言います。
 ここでも、願いは事実としては未完成でありながら「願いの中にこそ成就あり」で、行者は――念仏者は等正覚の位であると諸仏より褒められますが、私はその甲斐がなくまことにお恥ずかしい限りです。せめてこの一生を終えるまでには、何とか念仏者本来の人生を成就したいと願っています≠ニいう心境なのです。この具体相が「その本願の自在の所化[しょけ]、衆生のためのゆゑに」以下に書かれている内容でありますが、本来は初地より一歩一歩進むべき道を、浄土では「常倫[じょうりん]超出[ちょうしゅつ]」、つまり還相の菩薩として各段階の行を超え出ることが適うのです。
 これによって「諸地[しょじ]の行現前[げんぜん]」する、つまり初地から満位までの菩薩の行が現実に適ってゆき、「普賢[ふげん]の徳を修習[しゅじゅう]せん」、普賢は仏の大慈悲を言いますから、還相の菩薩として大慈悲が発揮されることを言います。
 もちろんこれは、私のはからいによって行われる内容ではなく、南無阿弥陀仏の名号に込められた万徳が念仏となって生活の中に自ずから出て下さる、その功徳の内容を言うのです。

 ちなみに、初地の菩薩は他力回向を信じることが適う(信心獲得)段階でありますが、自在の位(八地・48位)の菩薩は他力回向の内容が現実に展開される段階を言います。信の内容と生活の内容が一致することが八地以上の菩薩であり、浄土では初地の菩薩が「常倫[じょうりん]超出[ちょうしゅつ]」するということですから、浄土の功徳を信ずれば信の内容がそのまま生活の内容となることが念仏の功徳として適うということでもあります。

 資料

観察門 器世間「荘厳一切所求満足功徳成就」(漢文)

『往生論註』巻上

漢文
 (総説分)
【二六】
 衆生所願楽 一切能満足
  此二句名荘厳一切所求満足功徳成就仏本何故興此願見有国土或名高位重潜処無由或人凡性鄙&M010661;出靡路或修短繋業制不在己如阿私陀仙人類也有如是等為業風所吹不得自在是故願言使我国土各称所求満足情願是故言衆生所願楽一切能満足

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