『往生論註』巻上
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- 聖典意訳
- 衆生の
願楽 する所 一切[ 能 く満足す[ この二句を、
荘厳一切所求満足功徳成就 と名づける。仏は[ 因位 の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土を見れば、あるいは名前が高く位が重くてかくれていることができない。あるいは一般の人が生まれの低いために、出世を願っても[ 路 がない。あるいは寿命の長短がすべて前生の業にかかわって、自分では自由にすることができない。たとえば[ 阿私陀 仙人のたぐいのようである。こういうように、業のためにさばかれて、自由自在を得ない。こういうわけで願をおこされて「わが国土は、おのおの求める所をかなわしめ、心の望みを満足せしめよう」と誓われた。それゆえ「衆生の[ 願楽 する所 一切[ 能 く満足す」といわれたのである。[
器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうちの最後、「「荘厳
ちなみに十七種を列挙しますと――「荘厳清浄功徳成就」、「荘厳量功徳成就」、「荘厳性功徳成就」、「荘厳形相功徳成就」、「荘厳種々事功徳成就」、「荘厳妙色功徳成就」、「荘厳触功徳成就」、「荘厳水功徳成就」、「荘厳地功徳成就」、「荘厳虚空功徳成就」、「荘厳雨功徳成就」、「荘厳光明功徳成就」、「荘厳妙声功徳成就」、「荘厳主功徳成就」、「荘厳眷属功徳成就」、「荘厳需用功徳成就」、「荘厳無諸難功徳成就」、「荘厳大義門功徳成就」、そして「荘厳一切諸求満足功徳成就」となっていて(「水」「地」「虚空」は「荘厳三種功徳成就」で数える)、最初の「荘厳清浄功徳成就」は確かに<清浄はこれ総相>ですが、最後の「荘厳一切諸求満足功徳成就」もやはり十七種を総合した内容となっています。
衆生所願楽 [ 一切能満足 [
この二句は荘厳一切所求満足功徳成就と名づく。仏本 なんがゆゑぞこの願を[ 興 したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは名高く[ 位 重くして[ 潜処 するに[ 由 なし。あるいは人[ 凡 に[ 性鄙 しくして出でんとネガふに[ 路 なし。あるいは[ 修短 、[ 業 に[ 繋 がれて、制することおのれにあらず。[ 阿私陀 仙人のごとき[ 類 なり。かくのごとき[ 等 の、[ 業風 のために吹かれて自在を得ざることあり。[
▼意訳(意訳聖典より)
衆生の願楽 する所 一切[ 能 く満足す[
この二句を、荘厳一切所求満足功徳成就 と名づける。仏は[ 因位 の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土を見れば、あるいは名前が高く位が重くてかくれていることができない。あるいは一般の人が生まれの低いために、出世を願っても[ 路 がない。あるいは寿命の長短がすべて前生の業にかかわって、自分では自由にすることができない。たとえば[ 阿私陀 仙人のたぐいのようである。こういうように、業のためにさばかれて、自由自在を得ない。[
<衆生の
自分の願い求めることが全て満足する(適う)ということは、何にもまして幸福なことでしょう。究極的に言えば、私たちは願いを成就させるために生きている≠ニも言えるのです。そして「浄土はそれが適う環境である」というのがこの二句です。
しかし私たちは世間から、願いが全て成就するなどということは有り得ない=A願いが成就しなくても忍んで生きるべきだ≠ニ教えられてきました。実際、今までの人生の中で願いが全て成就するなどということはなかったし、これからもそうなる可能性は少ないと推測せざるを得ません。仏教でも四苦八苦の中に「
<ある国土を見そなはすに、あるいは名高く
(ある国土を見れば、あるいは名前が高く位が重くてかくれていることができない。あるいは一般の人が生まれの低いために、出世を願っても
「ある国土」とは、一衆生の置かれている客観的事実全体を言います(参照:{荘厳受用功徳成就「#命を説きて食とす」})。穢土においては、ある人は引っ込み思案で表舞台に出ることを好まないのに、家柄や地位が重いために人々の目に
これは過去の話ではないでしょう。現在の日本においても、図らずも衆目を浴びて苦悩する人たちは大勢いますし、逆も多くあります。曇鸞大師は仏法のみならず政治にも精通してみえましたので、{荘厳主功徳成就}や{荘厳眷属功徳成就}、{荘厳無諸難功徳成就}などに表された穢土のありさまのように、政治的要素や立場・境遇の中に悲劇の要素があることを強く感じ取られてみえたのでしょう。
<あるいは
(あるいは寿命の長短がすべて前生の業にかかわって、自分では自由にすることができない。たとえば
「阿私陀」は、仏生誕の際にその
カンシハリ(=アシタ)という結髪の仙人は、頭上に白傘をかざされて赤色がかった毛布の中にいる黄金の飾具のような児をば、こころ喜び楽しんで抱き取った。
相好と神呪(ヴェーダ)に通暁せるかれは、シャカ族の牡牛のような〔立派な児〕を抱きとって、〔特相を〕検べたが、心に歓喜して声を挙げた。――
「これは無上の人です。人間の最上者です。」
ときに、仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。仙人が泣くのを見て、シャカ族は言った。――
「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」
シャカ族が憂うているのを見て、仙人は言った。――
「わたくしは王子に不吉の相があるのを憶うているのではありません。またかれに障りはないでしょう。この人は凡庸ではありません。注意してあげて下さい。
この王子は正覚の頂に達するでしょう。
この人は最上の清浄を見、多くの人々の利益をはかり、あわれむが故に、法輪を転ずるでしょう。かれの清浄行はひろく弘まるでしょう。
ところがこの世におけるわたくしの余命はながくありません。
中途でわたくしに死が訪れることでしょう。
わたくしは無比の力ある人の教法を聞かないでしょう。
それ故に、わたくしは、怨み悲嘆し、苦しんでいるのです」と。
かの清浄行者(=アシタ仙人)はシャカ族に大きな喜びを起こさせて、宮廷から去って行った。
かれは自分の甥(=ナーラカ)をあわれんで、無比の力ある人(=仏)の教法に従うようにすすめた。――
「もしも汝が後に『仏あり、正覚を成じて、法の道を歩む』という声を聞くならば、そのときそこに行ってかれの教えを尋ね、その世尊のもとで清浄行を行ぜよ」と。
ちなみにこのナーラカ(アシタ仙人の
このように、たとえ目指すべき将来の仏≠ノ出あうことが適っても、余命つたなく、仏法を聞くことができない悲しみはいかばかりでしょう。「
このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土をしておのおの所求 に[ 称 ひて[ 情願 を満足せしめん」と。このゆゑに「[ 衆生所願楽 [ 一切能満足 」といへり。[
▼意訳(意訳聖典より)
こういうわけで願をおこされて「わが国土は、おのおの求める所をかなわしめ、心の望みを満足せしめよう」と誓われた。それゆえ「衆生の願楽 する所 一切[ 能 く満足す」といわれたのである。[
「欲」は適わなければ苦しいし、適えば適ったでまた憂い悩みが起こります。
大金を得たいとか、名誉がほしいというのは、「得ていないものを求める」ということですから、今現在に対して憂いがおき不満は止みません。そして得たら得たでまた失うことを恐れたり、別のさらなる欲望がわいてきますから、欲はいつまでも不満を生み出してしまいます。
ちなみにこうした解釈は『往生論註』における特徴で、天親菩薩とは全く逆です。『浄土論』では浄土の荘厳がまず先にあり、その存在理由を尋ねていった先に、この浄土から見ると穢土は何と苦悩に満ちた世界だろう≠ニ慈悲心が出ます。これは『仏説無量寿経』も同じで、上巻には阿弥陀仏や浄土のいわれ・経緯≠ェ明かされ、下巻には浄土の功徳が穢土に届いて私の信心となる経緯≠ェ示されます。しかし『往生論註』ではまず穢土の苦悩に満ちた世界が描かれ、苦悩の解決を願った先に、この穢土を浄化し荘厳せしめる浄土は何と幸福に満ちた世界だろう≠ニ願往生心が出るのです。
天親菩薩は菩薩として浄土に立場を置いて論を展開されてみえますが、曇鸞大師は大師として穢土に立場を置いて解釈を進めてみえます。そのため、浄土と穢土の関係は同じなのですが、立場の違いから論釈の方向性が逆になっているのです。
ところで、本願はもちろん法蔵菩薩の建てられた願いですが、法蔵の願いは究極として言えば衆生の願いに他なりません。衆生の願いは一見すると無明・我執にまみれた欲望に過ぎませんが、その深遠を尋ねていけば本当はこうしたいのだ≠ニいう絶叫が聞こえてまいります。
平生はあれもこれも欲しい≠ニ迷っている衆生も、いざとなって命がけの選択を迫られれば、「そうだ、これだ!」と純粋な本心一途の願いが出てまいります。これが仏と衆生が一体となった願いです。こうした内容の願いでなければ「
これは無い物ねだりの「欲」と違い、本来的にそうで「ある」ことが本当にそう「成る」≠ニいう「願」です。「人間だから本当の人間に成りたい」、「親だから本当の親に成りたい」、「和合するのが本来の世間なのだから平和を実現させたい」、こう願い続けることそのものが成就であり満足なのです。願いは事実として成就することは永遠に適いませんが、存在そのものに根ざした内容ですから常に満足が伴います。願い続けることがそのまま成就なのです。逆に私は既に立派な人間である≠ニか私は立派な親になった=Aこの国は平和で何の問題もない≠ネどと事実として成就した≠ニ思い上がる驕慢な態度が願いを破壊するのです。つまり「願いの中にこそ成就あり」で、これが無い物ねだりの「欲」との大きな違いです。
この本来的に宿されていた衆生の深い胸の内を
このように、四十八願全体が「
『往生論註』79(巻下 解義分 観察体相章 器世間)より
荘厳一切所求満足功徳成就 とは、[ 偈 に「衆生の[ 願楽 する所 一切[ 能 く満足す」と言える故なり。[
これがどうして不思議であるかというと、かの国の人人は、もし他方 世界の無量の仏の国に[ 往 って諸仏や菩薩たちを供養しようと思うならば、また供養に必要な品も、望みどおりにかなわぬことはないであろう。また浄土の寿命を離れて他方世界に生まれようと願うならば、その長い短いは願いの通りにみな得られる。かの土の[ 聖衆 はまだ[ 八地 以上の自在の位に至らないのに、そのはたらきをは自在の[ 用 と同じである。どうして思いはかることができようか。[
まずは、供養のための望みの品を思いのままに得られる≠ニいう{供養如意の願}成就を挙げます。
<かの国の人天、もし他方世界の無量の
(かの国の人人は、もし
この供養如意の願は{供養諸仏の願}の展開であり、諸仏諸菩薩はもちろん、目の前の衆生ひとり一人を尊敬し、
それは、自分と相手との関係にもよりますが、総じて言えるのは、相手を理解し尊敬した上で行動を起こすことです。これが抜けますと、同じ物でも、同じ言葉でも、相手の胸には届きません。
さらには、{聞名得定の願}には、またたく間に数限りない仏がたを供養し、しかも三昧のこころを乱さない≠ニありますから、諸仏供養にかかりきりになって自らの本分を忘れることのないように、とも願われています。これは「
<またかしこの寿命を捨てて
(また浄土の寿命を離れて他方世界に生まれようと願うならば、その長い短いは願いの通りにみな得られる)
これは、{眷属長寿の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿命よく限量なからん。その本願の修短自在ならんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ>の願が反映されています。阿弥陀仏の量りなき寿命(参照:{寿命無量の願})は、浄土の人民ひとり一人におよんで
<いまだ自在の位に
(かの土の
『仏説無量寿経』22(巻下 正宗分)に「それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す」とある通り、浄土に生まれる人々(真に往生を願う人々)はみな正定聚に住すのですが、それはあくまで初地(41位)であり、自在の位(八地・48位)ではありません。
<自在の位に
この功徳は、{
「
ただしこれは俺は第二の釈迦である≠ニ傲慢な態度になるのではなく、このような有り難い仏法に出遇えたのだから、一生をかけてでも釈尊の地位を補うことが適う私に成らせて頂かねばその甲斐が無い≠ニ、
ここでも、願いは事実としては未完成でありながら「願いの中にこそ成就あり」で、行者は――念仏者は等正覚の位であると諸仏より褒められますが、私はその甲斐がなくまことにお恥ずかしい限りです。せめてこの一生を終えるまでには、何とか念仏者本来の人生を成就したいと願っています≠ニいう心境なのです。この具体相が「その本願の自在の
これによって「
もちろんこれは、私のはからいによって行われる内容ではなく、南無阿弥陀仏の名号に込められた万徳が念仏となって生活の中に自ずから出て下さる、その功徳の内容を言うのです。
ちなみに、初地の菩薩は他力回向を信じることが適う(信心獲得)段階でありますが、自在の位(八地・48位)の菩薩は他力回向の内容が現実に展開される段階を言います。信の内容と生活の内容が一致することが八地以上の菩薩であり、浄土では初地の菩薩が「
『往生論註』巻上
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