『往生論註』巻上
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- 聖典意訳
大乗善根 の[ 界 は 等しくして[ 譏嫌 の名なし[
女人及び根欠 と[ 二乗 の種生ぜず[ この四句を、
荘厳大義門功徳成就 と名づける。「門」とは、[ 大義 に達するところの入口である。「大義」とは、大乗の[ 所以 である。人が誰でも[ 城 に行こうとする場合には、門さえあれば入ることができるようなものである。もし人が安楽浄土に生まれることができれば、大乗のさとりに至る門を得たことになるのである。仏は[ 因位 の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土を見れば、仏や[ 賢聖 などがおられても、[ 五濁 の世界であるから、一乗の法を分けて三乗として説かねばならぬ。あるいは[ 眉 をひらいて[ 媚態 を[ 呈 すると[ 誚 を受ける。あるいは[ 唖 と生まれても指をもって語るために[ 譏 を受ける。そこで「わが国土は、大乗のさとり、平等のさとりであって、大乗の[ 菩提心 を失った二乗の心はおこらず、女人・[ 不具者 などその名前もまた断つであろう」と願われた。こういうわけだから「[ 大乗善根 の[ 界 は 等しくして[ 譏嫌 の名なし 女人及び[ 根欠 と[ 二乗 の種生ぜず」といわれたのである。[ 問うていう。
王舎城 で説かれた《[ 無量寿経 》をうかがうと、[ 法蔵菩薩 が四十八願の中に「もしわたしが仏となったとき、国の中に[ 声聞 に限りがあって、その数を知ることができるようなら、[ 正覚 をとらない」と[ 仰 せられてある。これは声聞がある第一の[ 證拠 である。[
また《十住毘婆沙論 》(《易行品》)の中に、[ 竜樹菩薩 が阿弥陀仏を[ 讃嘆 する[ 偈文 を造って、[
三界の牢獄 を[ 超出 して 目は[ 蓮華 の花びらのようである[
声聞たちは無量である それゆえぬかずき礼 したてまつる[
といわれる。これは声聞がある第二の證拠 である。[
また《摩訶衍論 》(《[ 大智度論 》)の中に「仏土に[ 種種不同 がある。ある仏土は、もっぱら声聞を僧とする。ある仏土は、もっぱら菩薩を僧とする。ある仏土は、声聞と菩薩を僧とする。阿弥陀仏の[ 安楽国 などがこれである」とある。これは声聞がある第三の[ 證拠 である。[ 諸経 の中で安楽国を説くところには、多く声聞があるといわれ、声聞がないとはいわない。声聞は二乗の一つである。ところがこの論には「[ 乃至 二乗の名さえもない」といわれている。この相違をどのように理解したらよいのか。[ 答えていう。道理の上からおしはかると、安楽浄土には二乗があるはずがない。なぜこういうのかといえば、病があれば薬があるのは当然のことである。《法華経》に「
釈迦牟尼如来 は、[ 五濁 の世に出られたゆえに、一乗を分けて三乗とせられた」と説かれてある。浄土はすでに五濁でないのだから三乗のないことは明らかである。[
また《法華経》に「もろもろの声聞はどういう解脱 を得るのか。ただ三界を離れるのを名づけて解脱とする。この人はまだほんとうに一切の解脱を得ていない。まだ[ 無上道 を得ていないからである」と説かれてある。[
まことに、この理 から[ 推 し量ると、[ 阿羅漢 はまだ一切の解脱を得ていないから、きっとなお[ 生 ずるところがなければならない。こういう人たちは、もはや[ 三界 に生まれない。三界の[ 外 では浄土を除いて再び生ずるところがない。こういうわけであるからただ浄土に生ずるのである。[
「声聞 」というのは、よその世界の声聞が生まれたのを、そのもとの名によって呼んで声聞というのである。[ 帝釈天 が人間界に生まれた時は、[ キョウ尸迦 という姓であったから、後に[ 天主 となっても、釈迦如来は人にそのもとを知らせようと[ 思召 されて、帝釈と語られる時には、やはり キョウ尸迦と呼ばれたのはこの例である。[
また、《浄土論 》には、ただ「二乗の種が生じない」といわれてある。そういう意味は、ただ安楽国には二乗の[ 種子 すなわち声聞の心が発生しないということであって、またどうして、二乗がよそからくるのを[ 妨 げようか、妨げない。たとえば[ 橘 の[ 栽 は[ 揚子江 の北にはできないけれども、[ 洛陽 の[ 果物店 には橘があるのを見るようなものである。また[ 鸚鵡 は[ 壟西 を超えて来ないけれども、東の[ 趙 や[ 魏 の国の[ 鳥篭 の中には鸚鵡がいるのを見る。この二つのものは、ただその[ 種子 が渡らないというのである。浄土に声聞がいるというのも、またこのとおりである。このように解釈するならば、経と《浄土論》とがよくあうことになる。[ 問うていう。名前は、ものがらを示す。ものがらがあれば名前がある。安楽浄土には、すでに二乗とか女人とか
不具者 とかいうものがらがない。またどうして、これらの三つの名前までないといわねばならぬのか。[ 答えていう。心の弱い菩薩で
勇猛心 がそう[ 甚 だしくないのを、そしって[ 声聞 というようなものである。また、人がへつらい、また[ 臆病 で弱いものを、そしって女人というようである。また、眼は明らかに見えても、物事を知らないのを、そしって[ 盲目 というようである。また耳は聞こえても、[ 義理 を理解しないのを、そしって[ 聾 というようである。また、舌は語るけれども、口ごもって言葉のなめらかでないのを、そしって[ 唖 というようである。このように眼・耳・舌などの[ 根 がそなわっても、そしりの名前があることがある。こういうわけで「名さえもない」といわねばならぬ。明らかに、浄土にはこのようなそしりの名はないのである。[ 問うていう。法蔵菩薩の本願(第十四願)および
竜樹菩薩 の[ 弥陀 を[ 讃嘆 される[ 御文 には、みな浄土に[ 声聞 が多くいるのを、すぐれているとするようである。これはどういうわけがあるのか。[ 答えていう。声聞はただ
三界 の[ 生死 を出るだけをもって[ 證 とする。考えてみると、また[ 仏果 を求める心は起こらない。それを阿弥陀如来の不可思議な力をもって、[ 摂 めてかの浄土に往生させ、きっとまた、不思議なはたらきをもって、その[ 無上菩提心 を起こさせるであろう。たとえば、[ 鴆鳥 が水の中に入ると、魚や貝がすべて死ぬが、[ 犀牛 がこれにふれたならば、死んだものがよみがえるごとくである。このように起こらないものに菩提心を起こさせるものだから、これを不思議とするのである。ところで五つの不思議の中で、仏法が最も不可思議である。如来は、この声聞に再び無上菩提心を起こさせる。まことに不可思議の中の最もすぐれたものである。[
器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうちの第十六、「荘厳
まずはこの章のもととなった『浄土論』を引きます。他の章では曇鸞大師の広範な解釈が領解の助けになってくれているのですが、この章ではむしろ複雑化の原因となってしまっていますので、要点を整理する意味で論に戻るのです。
荘厳大義門功徳成就とは、偈に「大乗善根界 等無譏嫌名 女人及根欠二乗種不生」といへるがゆゑなり。浄土の果報は二種の譏嫌の過を離れたり、知るべし。一には体、二には名なり。体に三種あり。一には二乗人、二には女人、三には諸根不具人なり。この三の過なし。ゆゑに体の譏嫌を離ると名づく。名にまた三種あり。ただ三の体なきのみにあらず、乃至二乗と女人と諸根不具の三種の名を聞かず。ゆゑに名の譏嫌を離ると名づく。「等」とは平等一相のゆゑなり。『浄土論』10 解義分 観察体相
▼意訳(意訳聖典より)大義門功徳 の成就とは、[ 偈文 に[
大乗の善根 によって成就せられた 如来の世界は[ 平等一味 であって[
女人や根欠 ・[ 二乗 のともがらがなく また[ 嫌 な[ 譏 りの名もない[
というてある。浄土の果報 は二種の嫌な譏りを離れている。一つには[ 体 、二つには名である。体に三種がある。一つには[ 声聞 ・[ 縁覚 の人、二つには[ 女人 、三つには[ 諸根 の[ 不具 な人である。この三つの[ 過失 がないから[ 体 の譏しを離れるという。名にもまた三種がある。ただ、これら三つの体がないばかりではなく、[ 声聞 ・[ 縁覚 と女人と[ 諸根不具 という三種の名もまた聞かないから、名の[ 譏 りを離れるというのである。「[ 等 」とは、浄土へ往生した者は平等で一つのさとりとなるからである。[
この箇所では、阿弥陀仏の浄土は
この
ここは何気なく通り過ぎてしまいがちな箇所ですが重要なところです。体と名について論じてありますが、「体」はものごとの本質や実体の意≠ナあり相(外的相状)や性(内的本体)を属性とする主体的体質≠ナす。「名」は文字通り「名前」ですが、「名は体を表す」という
では、三種は具体的に何を指すのか、ここが一番の問題です。
『浄土論』『往生論註』とも三種を「女人」、「
●「女人」について
浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)において「女」とあるのは、「男となし、女となして」「善男子・善女人」「少長・男女ともに銭財を憂ふ」というように、ほとんどが男も女も≠ニいう意味で記されています。中には「五百の侍女」とありますが、これは状況的に
この現代語版は以下のように訳されています。
さて、ここではまず、現代語版の訳し方を問題としなければならないでしょう。<女身を
では女人往生の願の「女身を厭悪せん」の真意は何かというと、女性として身を
●「根欠」について
「
この第四十一願の現代語訳は以下の通りです。
「
このように六根が快楽に満ちあふれ、六根の本分を満たした状態であることを願い、そうでない
●「二乗」について
(聖典意訳)
(参照:{『十住毘婆沙論』と『往生論註』})
たとえば、声聞の道は自己一人が救われる道です。師の教えを聞き、欲を離れ執着を断ち、一切のものから自己を解放して独立者となり、真の自由を得るのが声聞の道です。この道の成就のため、まずは常に起こる煩悩を油断なく抑え伏してゆき、次に煩悩の根を断ち切り、最後は煩悩の余習・習気を捨て去ってゆくのです(参照:{百八煩悩})。しかしこの道理によって涅槃に至る道には、煩悩を滅した自分は果たして何者なのか、どう生きるのか≠ニいう足元の問いがなく、さらには人間関係における自分を問題とし、深く人生的に解決する≠ニいう社会性が希薄です。特に現代においては、人間関係や社会環境を無視しては真に問題が解決するはずがありません。
また縁覚は独覚とも言い、自分の人生だから、自分だけの考えで成就させてやる≠ニ、仏や師の教えに依らず、同朋を遠ざけ、自然の中で因縁を観察して独りさとる者を指します。こうした反骨精神旺盛な行者は、映画やドラマでは絵になる存在≠ニして重宝されるかも知れませんが、実際には大きな欠点があるのです。それは、師から教わらず、同朋との語らいがない者は、歴史の功徳を得ることができないため、極めて初期の段階から歩まねばならず、人生成就に遅れをとってしまうのです。科学にしろスポーツにしろ各種学問でも、どんな分野においても、先人たちの成果を学び指導を受ける利益は莫大なものがあります。自分だけで体得するには百年かかることも、良い師と同朋を得れば一年もかからず達成できることは数多くあります。縁覚・独覚が「大慈悲を
このように二乗を並べると、「声聞」は師の教えに真っ直ぐ素直に従ってゆく行者で、「縁覚」は師に逆らい反骨精神旺盛な孤独な行者ということが言えるでしょう。この二乗を批判し本願一乗海を勧める願は、実は{声聞無量の願}(14)に記されています。
ここで注視すべきは、「国中の声聞」と「下、三千大千世界の声聞」は同じなのか違うのか、という問題です。結論を言えば、わざわざ「国中声聞」としてあるのは、「阿弥陀仏の浄土の声聞」と「下、三千大千世界の声聞」は似て非なる
ですから浄土経典中に「声聞」と書かれてあっても、それが浄土の中の「声聞」であれば、それは二乗の声聞ではなく、聞法精神を象徴した表現と領解すべきでしょう。浄土の土徳が二乗の者をも本願一乗海に導き育てるのです。この点、島田幸昭師も――
ところで、この二乗の者を本願一乗海に導き育てる′エ点はどこにあるのでしょう。『仏説無量寿経』をつぶさに読み返してみると、それは{法蔵発願 思惟摂取}にあることが解ります。
さて、以上のように
また声聞について『論註』では、「声聞」という言葉自体を嫌悪していることが明らかですが、これは「浄土の声聞」と「二乗の声聞」の別をはっきり分けていないせいなのではないでしょうか。
真実は、浄土の土徳が二乗の者をも本願一乗海に導き育てるのですが、縁覚は独覚ですから、浄土に往生すればすぐにその過失を知ることができますので、往生した途端、縁覚は声聞や菩薩に転じられてゆくのです。二乗の声聞については、浄土に往生すればすぐにその過失を知ることができますが、往生した途端、二乗の聞法精神は、浄土の功徳が回向された大乗聞法精神≠ノ転じられますので、同じ「声聞」という名であっても内容が違ってくるのです。
さらに言えば、浄土の声聞は、浄土の側から見出された声聞であって、衆生はその底深き精神に気付かないことも多いので、奮闘努力による聞法に依るのではなく、浄土から回向された聞法精神ということを念頭に置いて、これを自らの背後において認識していくことが肝心でしょう。
『往生論註』巻上
大義門は大乗の
具体的に言えば、人間を型にはめて平等を押し付け、はみ出そうとする者を排除することが「平等」に固執して「差異」が排除≠ウれる状態であり、人間の差異を固定化・実体化し、人格的に差別することが「差異」に固執して「平等」が崩れた¥態です。
このような穢土の五濁が浄まれば、差異が個性として認められ、「
<浄土の果報は二種の譏嫌の過を離れたり、知るべし。一には体、二には名なり>
(浄土の
名と実体については、たとえば「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり」(大経義疏)とある通りで、名は単なる記号や番号ではありません。本質や歴史的成果全てが込められているのです。それゆえ、衆生にはとっては「名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし」(同)と利益をもたらし、それが「よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし」(同)と真実信心に成りきることができることを証明しています(参照:{光明無量 十二光})。それゆえ、浄土における菩薩は浄土の土徳によってお育て頂くのですが、
このように、諸仏の名は衆生を善に導き悪を滅するのですが、名が逆にはたらく場合もあります。それが「
四十八願で言えば、{離諸不善の願}において不善の名を廃し、様々な◆ 経典にある「女人」「根欠」「二乗」の内容
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の女性が、わたしの名を聞いて喜び信じ、さとりを求める心を起し、女性であることをきらったとして、命を終えて後にふたたび女性の身となるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
浄土においては、男は男として、女は女として、それぞれ足元の本質において人生を全うすることが願われているのです。そうでなければ一切衆生の
この解釈が正しい証拠は、まず四十八願の構造から解釈すれば、この女人往生の願(35)から常受快楽の願(39)までの五つの願は念仏生活の私的な面の成就を願うもので、特に聞名梵行の願(36)では
また古今東西、宗教の歴史を訪ねてみても、女性の身の慎み方について触れていない教えはほとんどありません。なぜなら、女性が身を慎まず全開放してしまっては家庭や社会が成立しませんし、それより何より女性自身の人生が性の業に飲み込まれた無自覚なものとなってしまうからです。もし四十八願の中でこの点に触れていなければ『仏説無量寿経』には欠陥がある≠ニいうことになってしまうでしょう。
ではどのように身を慎むべきかと言うと、たとえばイスラム教では全身を布で覆い、他人に顔を
これは服装という一つの例ですが一事が万事で、生活の中で、身に象徴される性的特質は慎みつつ、女が女として、自分が自分として、足元の本質において人生を全うする、こうした創造的な生活を浄土の土徳によって育むことができるのです。
四十八願の中では{聞名具根の願}(41)に願われていますので確かめてみましょう。
たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまでの間、その身に不自由なところがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「
今日世尊、
と、世尊の諸根が
(現代語版:世尊、今日は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映る姿が透きとおっているかのようでございます)
また『仏説無量寿経』28(衆生往生果)では――
かの国に生るるものは、みなことごとく三十二相を
と、浄土に生まれた衆生もまた諸根が
(現代語版:だれでもその国に生れたものは、みな仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえて、智慧に満ちあふれ、すべてのものの本性をさとって教えのかなめをきわめ尽し、自由自在な神通力を得て、すべてを明らかに知ることができる)
(六神通=参照:{令識宿命の願}等)
例えば『
もし声聞地、および辟支仏地に堕するは、
これを菩薩の死と名づく。すなはち一切の利を失す。
もし地獄に堕するも、かくのごとき畏れを生ぜず。
もし二乗地に堕すれば、すなはち大怖畏となす。
地獄のなかに堕するも、畢竟じて仏に至ることを得。
もし二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す。
仏みづから『経』(清浄毘尼方広経)のなかにおいて、かくのごとき事を解説したまふ。
人の寿を貪るもの、首を斬らんとすればすなはち大きに畏るるがごとく、
菩薩もまたかくのごとし。もし声聞地、
および辟支仏地においては、大怖畏を生ずべし。
もし声聞の地位や 縁覚の地位に堕ちるならば
これを菩薩の死と名づける そうなれば一切の利益を失う
たとい地獄に堕ちても かような
もし二乗の地位に堕ちるならば すなはち大きな畏れとなる
なんとなれば地獄の中に堕ちても ついには仏果に至ることはできるが
もし二乗の地位に堕ちるならば ついに仏になる道をさまたげるからである
仏みづから経の中に こういうことを説かれてある
寿命を惜しむような人は 首を斬られることを大いに畏れる
菩薩もまたこの通り もしもし声聞の地位や
縁覚の地位に堕ちるならば 大きな畏れを生ずるであろう
これを受け曇鸞大師は<声聞は自利にして大慈悲を
たとひわれ仏を得たらんに、国中の声聞、よく
(現代語版 : わたしが仏になるとき、わたしの国の声聞の数に限りがあって、世界中のすべての声聞や縁覚が、長い間、力をあわせて計算して、その数を知ることができるようなら、わたしは決してさとりを開きません)
これからさきも、その願によって、呼びかけられる相手の名が、あるいは諸仏とか、衆生とか、菩薩とか、いろいろに変りますが、これは相手の人が変るのでなく、相手の在り方が変るのです。それと同時に呼びかけている法蔵菩薩の立場も変って、その見方が変ってくるのです。たとえば今もありました「声聞」は、聞法者として。「人天」は、その人の果報を現わす場合。「諸仏」は、独立した一人格者として。「衆生」は、道に迷うている場合。「菩薩」は求道者としての場合ですが、それは人間関係において、また社会人としての場合です。また「国中菩薩」は、自己自身の道を内に深め明らかにしようとする場合。「他方菩薩」は、自らの徳を形をとって外に成就しようとする場合と、使い分けています。
と、厳密に分析されてみえます。
これがどういう
法蔵菩薩が(一切衆生の)仏国を摂取して、無量の妙土を清浄に荘厳しようとする際、師の世自在王仏に「わがために広く経法を宣べたまへ」と願い出るのですが、師は一旦、「どのような修行をして国土を清らかにととのえるかは、そなた自身で知るべきであろう」と断ります。しかし法蔵菩薩はなお、「いいえ、それは広く深く、とてもわたしなどの知ることができるものではありません。世尊、どうぞわたしのために、ひろくさまざまな仏がたの浄土の成り立ちをお説きください。わたしはそれを承った上で、お説きになった通りに修行して、自分の願を満たしたいと思います」と申あげたので、師もその
これは、当たり前のことかも知れませんが法蔵菩薩が声聞や縁覚ではないことを証明しているのであり、なおかつ、仏の本分は、自らの国土を得て清らかにととのえることにあるのであり、そのためには良き師を得て、諸仏の世界を学ぶ必要があることを示しているのです。そしてこの菩薩の精神が回向されて念仏者の精神となり、仏の功徳が回向されて念仏者の身に満ちる、ということが◆ 浄土論や論註の問題点
あるいは眉を拓くをもつて誚りを致し、あるいは指語によりて譏りを招く。
という箇所など、「眉を拓くをもつて誚りを致し」は経意に相応していますが、「指語によりて譏りを招く」は個人的な嫌悪感に過ぎないでしょう(参照:{手話通訳を通じて})。
(意訳:あるいは
さらには、「またなんぞ二乗の来生を妨げんや」(またどうして、二乗がよそからくるのを◆ 資料
観察門 器世間「荘厳受用功徳成就」(漢文)
(総説分)
大乗善根界 等無譏嫌名
女人及根欠 二乗種不生
此四句名荘厳大義門功徳成就門者通大義之門也大義者大乗所以也如人造城得門則入若人得生安楽者是則成就大乗之門也仏本何故興此願見有国土雖有仏如来賢聖等衆由国濁故分一説三或以拓{聴各反}眉致誚或縁指語招譏是故願言使我国土皆是大乗一味平等一味根敗種子畢竟不生女人残欠名字亦断是故言大乗善根界等無譏嫌名女人及根欠二乗種不生問曰案王舎城所説無量寿経法蔵菩薩四十八願中言設我得仏国中声聞有能計量知其数者不取正覚是有声聞一証也又十住毘婆沙中龍樹菩薩造阿弥陀讃云超出三界獄目如蓮花葉声聞衆無量是故稽首礼是有声聞二証也又摩訶衍論中言仏土種種不同或有仏土純是声聞僧或有仏土純是菩薩僧或有仏土菩薩声聞会為僧如阿弥陀安楽国等是也是有声聞三証也諸経中有説安楽国処多言有声聞不言無声聞声聞即是二乗之一論言乃至無二乗名此云何会答曰以理推之安楽浄土不応有二乗何以言之夫有病則有薬理数之常也法花経言釈迦牟尼如来以出五濁世故分一為三浄土既非五濁無三乗明矣法花経道諸声聞是人於何而得解脱但離虚妄名為解脱是人実未得一切解脱以未得無上道故覈推此理阿羅漢既未得一切解脱必応有生此人更不生三界三界外除浄土更無生処是以唯応於浄土生如言声聞者是他方声聞来生仍本名故称為声聞如天帝釈生人中時姓驕尸迦後雖為天主仏欲使人知其由来与帝釈語時猶称驕尸迦其此類也又此論但言二乗種不生謂安楽国不生二乗種子亦何妨二乗来生耶譬如橘栽不生江北河洛菓肆亦見有橘又言鸚鵡不渡壟西趙魏架桁亦有鸚鵡此二物但言其種不渡彼有声聞亦如是作如是解経論則会問曰名以召事有事乃有名安楽国既無二乗女人根欠之事亦何須復言無此三名耶答曰如軟心菩薩不甚勇猛譏言声聞如人諂曲或復&M022472;弱譏言女人又如眼雖明而不識事譏言盲人又如耳雖聴而聴義不解譏言聾人又如舌雖語而訥口&M004271;吃譏言&M022524;人有如是等根雖具足而有譏嫌之名是故須言乃至無名明浄土無如是等与奪之名問曰尋法蔵菩薩本願及龍樹菩薩所讃皆似以彼国声聞衆多為奇此有何義答曰声聞以実際為証計不応更能生仏道根牙而仏以本願不可思議神力摂令生彼必当復以神力生其無上道心譬如鴆鳥入水魚蚌咸死犀牛触之死者皆活如此不応生而生所以可奇然五不思議中仏法最不可思議仏能使声聞復生無上道心真不可思議之至也
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