『往生論註』巻上
この二句は荘厳光明功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興したまへる。ある国土を見そなはすに、また項背に日光ありといへども愚痴のために闇まさる。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土のあらゆる光明、よく痴闇を除きて仏の智慧に入り、無記の事をなさざらしめん」と。またいはく、安楽国土の光明は如来の智慧の報より起るがゆゑに、よく世の闇冥を除く。『経』(維摩経)にのたまはく、「あるいは仏土あり。光明をもつて仏事をなす」と。すなはちこれはこれなり。このゆゑに「仏慧明浄日 除世痴闇冥」といへり。
- 聖典意訳
仏慧 の明浄 なること日の如くにて 世の[ 痴闇冥 を[ 除 く[ この二句を
荘厳光明功徳城 と名づける。仏は[ 因位 の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、[ 項背 に日光を受けても、[ 愚痴 を除くことができぬ。[
このゆえに願をおこして仰せられるには「わが国土は、あらゆる光明をもって愚痴の闇 を除いて、さとりの智慧に入らしめ、何ら利益のないことをなさしめないようにしよう」と。また安楽国土の光明は、如来の智慧から現れているのだから、よく世間の煩悩の闇を除くのである。[
経(《維摩経》)に説かれている「あるいは仏土あって、光明をもって衆生化益 の事をなす」とはこのことである。こういうわけで「仏慧の明浄なること日の如くにて痴闇冥を除く」といわれたのである。[
器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうち「荘厳光明功徳成就」の詳細を観察します。具体的には、浄土の光明は一切衆生を必ず覚りへと導くはたらきであることを観察します。
仏慧明浄日 除世痴闇冥この二句は荘厳光明功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興したまへる。ある国土を見そなはすに、また項背に日光ありといへども愚痴のために闇まさる。
▼意訳(意訳聖典より)
仏慧 の[ 明浄 なること日の如くにて 世の[ 痴闇冥 を[ 除 く[ この二句を
荘厳光明功徳城 と名づける。仏は[ 因位 の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、[ 項背 に日光を受けても、[ 愚痴 を除くことができぬ。[
『浄土論』の「仏慧明浄日 除世痴闇冥」を味わい、浄土の「荘厳光明功徳成就」の徳を明らかにしましょう。
<この二句は荘厳光明功徳成就と名づく>
「荘厳」は人生を創造的に彩り飾ることであり、「光明」は智慧と徳の
<仏本なんがゆゑぞこの荘厳を興したまへる>
これは{光明無量の願}「たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」を興された理由を問う文です。またこの願いの果徳は{弥陀果徳 光明無量}に詳説されていますが、これは阿弥陀如来の光明(はたらき)が一切衆生を照らす(全ての衆生にはたらきが及ぶ)という願いの成就を言います。
<ある国土を見そなはすに>
「国土」とは、
<また
「項」とはうなじ≠ナあり、「背」は背中=A「日光」は仏・菩薩の頭頂から放たれる光明(はたらき)≠いいます。ですから、項背は光背(後光・御光)のことでしょう。光明には二種あり、一つは「智慧の光明」、一つは「身放の光明」です。智慧のはたらきによって自他や社会の尊さの一々を知るのであり(参照:{得三法忍の願})、徳のはたらき(身放の光明)によって皆の信頼・尊敬を得ることができる(応供)のです。「人を拝む人は人から拝まれる」(平沢 興)というように、智慧によって自他の尊さの詳細を見出し、智慧を基に行動することで徳となる。どんな人にもこの智慧と徳は可能性としてはあるのですが、末通って至り尽くすというわけにはいかないようです。
<愚痴のために闇まさる>
ここにある
ちなみに貪・瞋・癡の三つは「三惑」とも「三毒」・「
このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土のあらゆる光明、よく痴闇を除きて仏の智慧に入り、無記の事をなさざらしめん」と。またいはく、安楽国土の光明は如来の智慧の報より起るがゆゑに、よく世の闇冥を除く。『経』(維摩経)にのたまはく、「あるいは仏土あり。光明をもつて仏事をなす」と。すなはちこれはこれなり。このゆゑに「仏慧明浄日 除世痴闇冥」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
このゆえに願をおこして仰せられるには「わが国土は、あらゆる光明をもって愚痴の闇 を除いて、さとりの智慧に入らしめ、何ら利益のないことをなさしめないようにしよう」と。また安楽国土の光明は、如来の智慧から現れているのだから、よく世間の煩悩の闇を除くのである。[
経(《維摩経》)に説かれている「あるいは仏土あって、光明をもって衆生化益 の事をなす」とはこのことである。こういうわけで「仏慧の明浄なること日の如くにて痴闇冥を除く」といわれたのである。[
<このゆゑに願じてのたまはく>
「このゆゑに」とは、先の<愚痴のために闇まさる>という状態であるから≠ニいうこと。人々は愚かで物事を判断できず、大切なものが見えない状態だから、ということです。
「願じてのたまはく」の「願」は、もちろん{光明無量の願}の願ですが、大経の願文そのままを引かず、意訳した形で以下に提示されます。
<「わが国土のあらゆる光明、よく痴闇を除きて仏の智慧に入り、無記の事をなさざらしめん」と>
「わが国土」とは、阿弥陀仏の浄土を言います。当章を含め「観察門 器世間」はこの阿弥陀仏の浄土をつぶさに観察(器世間観察十七種)するのです。
阿弥陀仏とは、仏性に貫かれた血の通った智慧と徳の総体であり歴史創造の根本主体です。この根本主体を中心として打ち立てられた環境が「わが国土」です。ここは、理想を願じ続ける「願土」という創造面と、刻々と願いを報い続ける「報土」という成就面が同時に現れています。
「あらゆる光明」とは、浄土のあらゆる
「よく痴闇を除きて」とは、根源的な煩悩である
「仏の智慧に入り」の「仏」は、仏と言っても、仏性が宿っているだけの段階から、自覚され身に満ちた段階、さらには身に満ちた仏性が生活全般に発揮される段階まで様々あります。しかし「無記の事をなさざらしめん」(何ら利益のないことをなさしめないようにしよう)ということですから、特に仏性が宿っているだけの段階の人々≠ワで注視してのはたらきです。浄土のあらゆる
<またいはく、安楽国土の光明は如来の智慧の報より起るがゆゑに、よく世の闇冥を除く>
「安楽国土の光明」は、先の<わが国土のあらゆる光明>と同じ意味で、阿弥陀仏の浄土の
この浄土の用きが、「如来の智慧の報より起る」ことは本願の生起本末を知れば解ります。
ですから、「よく世の闇冥を除く」。衆生の煩悩の根源である無明を破き、仏性を活かし展開しようと建てた願いですから、願成就の
<『経』(維摩経)にのたまはく、「あるいは仏土あり。光明をもつて仏事をなす」と>
「仏土」とは「仏国土」であり「浄土」のことです。浄土のはたらきによって、浄土の
理論上、これで因果は解りましたが、この因果が実際の生活でどのように展開するのかまでは明らかではありません。そこで「荘厳光明功徳成就」に相当する解義分を引き、さらに詳細を学びましょう。
『往生論註』72(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)
荘厳光明功徳成就とは、偈に「仏慧 の[ 明浄 なること日の如くにて 世の[ 痴闇冥 を除く」と言える[ 故 なり。[
これがどうして不思議であるかというと、浄土の光明は如来の智慧の果報から起こったものである。これに触れると無明煩悩 の[ 黒闇 はついに必ず除かれる。光明は智慧でないのに智慧のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。[
「無明の黒闇つひにかならず消除す」まではほぼ総説文の内容と同じですが、「これに触るれば」という表現は解義分らしく、生活の場にまでおよんだ表現となっています(参照:{荘厳触功徳成就})。
<光明は慧にあらずしてよく慧の用をなす>(光明は智慧でないのに智慧のはたらきをする)
「光明は智慧でない」と聞いて驚かれた方もみえるでしょう。一般的には「光明=智慧」と教えられているからです。しかし厳密に言えば「光明=
先に申しましたように、阿弥陀仏は、仏性に貫かれた血の通った智慧と徳の総体であり歴史創造の根本主体≠ナすが、この根本主体がいかに智慧を得ていても、実際に智慧が発揮されるためには道筋が必要です。この道筋の土台となっているのが浄土です。
たとえば、ある人がとても尊い智慧を得ることができたとします。これを世において発揮するためには、自ら智慧を発揮し、人々に教えを直接説くことが必要ですが、一対一では人数が限られてしまいます。またその人が亡くなれば道を説くことはできなくなり、説いた教えの影響も先細りになってしまうでしょう。こうした問題を解決するためには、道場や学校を建てて智慧を継承し、建学の精神を貫いてゆくことが一番良い方法となります。そうすれば、智慧は学校の環境に宿され、様々に展開し、果報を無限に施すことができます。道場に宿る環境の徳が、学びに来た人々に影響を与えてゆくのです。直接智慧を授からなくとも、智慧によって育まれた環境が、人々に智慧を与え育てるはたらきを担ってゆきます。これは実際、学校を建てた偉人の精神が学校の気風となり、学生の生き方に影響を与える例を見ることでも知れるでしょう。さらに逆もまたしかりで、校長の精神が腐っていれば学校全体が暗くなり迷走し、問題が起こっても隠蔽ばかりし、解決の兆しがみえない有様となります。会社でも、社長や会長の生き様が会社全体の環境を決め、社員の人間性にまで影響してゆきます。
こうした環境の最上級が、本願の果報によって成就した浄土であります。阿弥陀仏は、仏性に貫かれた血の通った智慧と徳の総体であり歴史創造の根本主体ですから、あらゆる生命一切の智慧が環境に宿っている、その環境を浄土と呼ぶのです。私たちは常にこの浄土のはたらきを現実に生きる足元から受けていますので、阿弥陀仏の智慧は常に私たちを照らし輝かせているのです。このはたらきを実際に身に満たすためには、どうしても阿弥陀仏の建学の精神を尋ね貫いてゆくことが必要となります。これが真の称名念仏であり、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」(顕浄土真実教行証文類 信文類三 63)という聞法によって適ってゆくのです。
光明は智慧でないのに智慧のはたらきをする。私たちが生きているこの環境そのものに阿弥陀仏の智慧は宿り、環境の土徳となってはたらき続け、私にまで至っているのです。
今の社会は五濁悪世の穢土としての悪影響が余りにも大きく、仏願の発露や展開を望むことは絶望的とも思えるのですが、どんなに見通しが悪くとも、浄土の光明は一切衆生を必ず覚りの境地へと導いてゆきます。まさに<いづくんぞ思議すべきや>と、思議しても思議し尽くすことができぬ浄土のはたらきに讃嘆の声は途切れることがありません。
観察門 器世間「荘厳光明功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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