『往生論註』巻上
この二句は荘厳受用功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは巣を探りて卵を破り、モウ 食を盛り満ちたる貌なり 饒 飽なり。多し のそなえとなす。あるいは沙を懸けてこしぶくろを指すをあひ慰むる方となす。ああ、諸子実に痛心すべし。このゆゑに大悲の願を興したまへり。「願はくはわが国土、仏法をもつて、禅定をもつて、三昧をもつて食となして、永く他食の労ひを絶たん」と。「愛楽仏法味」とは、日月灯明仏、『法華経』を説きしに六十小劫なり。時会の聴者また一処に坐して六十小劫なるも食のあひだのごとしと謂ふ。一人としてもしは身、もしは心をして懈惓を生ずることあることなきがごとし。「禅定をもつて食となす」とは、いはく、もろもろの大菩薩はつねに三昧にありて他の食なし。「三昧」とは、かのもろもろの人天、もし食を須ゐる時、百味の嘉コウ羅列して前にあり。眼に色を見、鼻に香りを聞ぎ、身に適悦を受けて自然に飽足す。訖已りぬれば化して去り、もし須ゐるにはまた現ず。その事、『経』(大経・上)にあり。このゆゑに「愛楽仏法味禅三昧為食」といへり。
- 聖典意訳
仏法味 を愛楽 し[ 禅三昧 を[ 食 と為す[ この二句を、
荘厳受用功徳成就 と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、あるいは鳥の巣から卵をとって食膳を豊かにし、あるいは[ 沙 をいれた袋をかけて、それを指して一時の飢をしのぐ慰めとする。ああ、なんと痛ましいことではないか。[
こういうわけで大悲の願をおこされ「わが国土は、仏法をもって、禅定 をもって、[ 三昧 をもって食とし、ながくその外の食物をとるわずらわしさを絶たしめよう」と願われた。「仏法味を愛楽し」というのは、[ 日月燈明仏 が《法華経》を説かれたようなもので、六十[ 小劫 の間であった。そこに集まって聞いたものも一緒にいたが、六十小劫の間を一食の間のように思った。一人として心に飽きを生じ、身に[ 懈怠 を生ずることがなかった。[
「禅定を食と為す」というのは、位の高い菩薩達は、いつも三昧の中にあって他の食事をとらないのである。「三昧」というのは、浄土の聖衆たちは、食をもとめようとすると百味の飲食が前にあり、眼に色を見、鼻にその香をかいで、体によろこびを受ける。自然に満足しおわれば、そこからなくなる。食を用いようとするれば、また現われる。そういうことは《大経》に示されてある。こういうわけだから「仏法味を愛楽し 禅三昧を食と為す」といわれたのである。
器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうち「荘厳受用功徳成就」の詳細を観察します。
- 【受用身】じゅゆうしん
- さとりの結果、法を享受し、また他の人びとをして享受せしめる者の意。仏の身体の一つ。報身に同じ。これに、自ら法楽をひとり楽しむ自受用身と、他人にもこの楽しみを受けさせようとする他受用身とがある。
- 【受用土】じゅゆうど
- 三仏土の一つ。自他が法楽を受用する仏土で、報土に当たる。これに二種ある。(1)自受用土。自利の行が成就して、成仏の初めから未来永劫にわたって、大円鏡智によってつくりだ出された完全な純浄の仏土。(2)他受用土。大慈悲心によって修する化他の行が完成して、十地の菩薩の受用のためにつくり出された仏土。
『佛教語大辞典』東京書籍/中村元著
三仏土とは法性土(法身仏の浄土)と受用土(報身仏の浄土)と変化土(応身仏の浄土)のことで、当HPにおいて「浄土」と表記されているのは、特別の注釈がなければ「報身仏の浄土」を言います。
愛楽仏法味 禅三昧為食
この二句は荘厳受用功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは巣を探りて卵を破り、モウ 食を盛り満ちたる貌なり 饒 飽なり。多し のそなえとなす。あるいは沙を懸けてこしぶくろを指すをあひ慰むる方となす。ああ、諸子実に痛心すべし。
▼意訳(意訳聖典より)
仏法味 を[ 愛楽 し[ 禅三昧 を[ 食 と為す[
この二句を、荘厳受用功徳成就 と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、あるいは鳥の巣から卵をとって食膳を豊かにし、あるいは[ 沙 をいれた袋をかけて、それを指して一時の飢をしのぐ慰めとする。ああ、なんと痛ましいことではないか。[
「愛楽仏法味 禅三昧為食」という句がなぜ「荘厳受用功徳成就」であるのかという問いですが、まず、「食」がなぜ「受用」をあらわすのかという基本的な問題から解きたいと思います。
「食」とは「食物」「養うもの。生存を続けるための条件」「質料としての条件」「資養の義。身を資益長育するを食と名く(往生論註筆記)」ということですから、「身を養い育てるもの」という周知の意味なのですが、これが
しかしたとえば『涅槃経』迦葉品には、「あるいは衆生のために、あるときは因を説きて果とす、あるときは果を説きて因とす。このゆゑに『経』のなかに命を説きて食とす」(仏は衆生のために、あるときは因のことを果で説き、あるときは果のことを因で説く。だから、経には、命は食をとった結果であるが、命という結果を食において説く)と記されています。つまり「享受した結果」を「身を養い育てる原因」を使って説くという習慣がありますので、それに随って解釈を進めようというわけです。
まずは<ある国土を見そなはす>。
ここまで読み進めた方は『往生論註』のパターンはお解りでしょうが、あらためて様式をまとめてみますと――
最初に「ある(衆生の)国土」の問題点を指摘し、問題解決のために本願が建てられ成就して「阿弥陀仏の浄土」となった経緯を観察し、解義分で生活に現れた功徳を披露するのです。
「国土」とは、ある存在(人や主体)の身心態度の内容と、その存在を中心として創られた周囲の人々との関係性全体をいいます。衆生の内面や境遇を含め、衆生の置かれている客観的事実全体を「ある国土」と言うのです。(参照:{無三悪趣の願})
衆生の国土はそのままでは我執・無明・社会悪の三途に穢れた荒野ですが、荒野は同時に耕地ともなります。衆生の国土は仏の教化対象であり仏性の働き場なのです。これは『維摩経義疏』に詳説されているのですが、仏はもともと自分の国を持っていません。ではどこに仏の国を造るのかといいますと、衆生の荒れ果てた国土を耕し、清浄なる各種の荘厳によって麗しい仏の国を造るのです。仏の教化対象として「衆生の国土」を「仏国土」と呼びますから、仏国土と言っても、浄と穢に通じて存在している。仏性によって開拓した浄土面と未開拓の穢土面が矛盾的に混在しているのです。
たとえば『仏説阿弥陀経』には<これより西方に、十万億の仏土を過ぎて>とありますが、「十万億の仏土」とは、「十万億」が一切衆生を表し、この十万億ひとり一人の客観的事実全体を仏の働き場(仏土)として見ているのです。つまり仏にとって衆生の国土は「仏の教化対象」という面もあるのですが、むしろ「仏の修行場」として手が合わされた面が重要となるのです。これは前章の{荘厳眷属功徳成就}にもありましたが、衆生こそ法蔵精神の正統な継承者であり、衆生国土こそ阿弥陀浄土の最前衛出張所であることを裏づけています。
『往生論註』では最初に国土の穢土面を観察し、後に仏性・願心によって開拓された浄土面を観察します。これは「たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥を取ることなかれ」(鳩摩羅什)とあるように、混在している浄土面と穢土面の詳細を見極めることによって、問題点と解決策や歴史的功徳を見出してゆくのです。
今回は、衆生の身を養い育てる「食」を問うことで、衆生が享受している内容の問題点と功徳を探っていきます。
<あるいは巣を探りて卵を破り、モウ 食を盛り満ちたる貌なり 饒 飽なり。多し のそなえとなす。あるいは沙を懸けてこしぶくろを指すをあひ慰むる方となす>
(あるいは鳥の巣から卵をとって食膳を豊かにし。あるいは
私たち人間社会では卵を食べることに疑問を感じませんが、鳥の側からしてみれば、自分たちの家から子どもが誘拐され、殺され、食べられるわけですから人間は憎き敵でしょう。事実、仕事で仕方なくカラスの巣を壊した人間に対し、カラスが長期にわたって執拗に攻撃を加え続けたという報告があります。ところが飽食に慣れてしまった現代人は、卵どころか、金に
こうした富める者がいる一方、飢餓で苦しみ、栄養不足で死んでゆく人たちも大勢います。砂袋を慰めにする≠ニは想像するに余りある飢えですが、<実に痛心すべし>状態は、今も昔も変わりません。
これはどこに問題があったのでしょう。また解決策はあるのでしょうか。
このゆゑに大悲の願を興したまへり。「願はくはわが国土、仏法をもつて、禅定をもつて、三昧をもつて食となして、永く他食の労ひを絶たん」と。「愛楽仏法味」とは、日月灯明仏、『法華経』を説きしに六十小劫なり。時会の聴者また一処に坐して六十小劫なるも食のあひだのごとしと謂ふ。一人としてもしは身、もしは心をして懈惓を生ずることあることなきがごとし。
▼意訳(意訳聖典より)
こういうわけで大悲の願をおこされ「わが国土は、仏法をもって、禅定 をもって、[ 三昧 をもって食とし、ながくその外の食物をとるわずらわしさを絶たしめよう」と願われた。「仏法味を愛楽し」というのは、[ 日月燈明仏 が《法華経》を説かれたようなもので、六十[ 小劫 の間であった。そこに集まって聞いたものも一緒にいたが、六十小劫の間を一食の間のように思った。一人として心に飽きを生じ、身に[ 懈怠 を生ずることがなかった。[
前節のような悲惨なありさまが「衆生の国土」ですから、<このゆゑに大悲の願を興したまへり>と根本的な解決を願わねばなりません。
では「衆生の国土」のどこに問題があったのでしょう。問題点が明らかになれば解決策も明らかとなります。前節では贅沢な食卓や飢餓を問題としましたが、食事を摂ること自体が悪いのではありません。食事を摂らなければ人は生きていけないでしょう。しかし食事の内容が
たとえばことわざに、「
もろもろの財や富は無知な人を滅ぼすが、彼岸を求める人は滅ぼされない。無知な人は財や富を欲するために、他の者たちを滅ぼすように、自分自身をも滅ぼす。『ダンマパダ』
この問題解決として、「願はくはわが国土、仏法をもつて、禅定をもつて、三昧をもつて食となして、永く他食の労ひを絶たん」とありますから、仏法・禅定・三昧のみを食として与え、他のものを与えないようにする≠ニいう願いを建てます。これは<命を説きて食とす>ですから、あらゆるものを仏法として受け取り、禅定・三昧で受け取ってくれよ≠ニいう願いでもあります。これはたとえば禅宗の食事作法「
即ち食にとある通りです。餓 えたるが如く、法にも餓えて居るのであるから、ここに食を施与すると云ふて、その内面には法門を施与すると云ふ意味がある。即ち我れ今、汝等に此の供養を施すと云ふて、形の上では[ 僅 かに七粒の生飯を供養するのであるけれども、その心は法門の上の食である。故に此の食は十方に偏じて、一切の鬼神に供養すと云はれたのである。即ち、形の食よりも法の上の食と云ふ意味がある。[
では具体的に四十八願のどの願いが関わっているかと申しますと――
まずは{供養諸仏の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の神力を承けて、諸仏を供養し、一食のあひだにあまねく無数無量那由他の諸仏の国に至ることあたはずは、正覚を取らじ>が基本となり、敬虔な気持ちで功徳を受用します。
また{万物厳浄の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、一切万物、厳浄光麗にして、形色、殊特にして窮微極妙なること、よく称量することなけん。そのもろもろの衆生、乃至天眼を逮得せん。よく明了にその名数を弁ふることあらば、正覚を取らじ>により、受用において不平不満がなく、回施された内容をよくよく味わい尽くすことが適い、
{聞名得定の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を逮得せん。この三昧に住して、ひとたび意を発さんあひだに、無量不可思議の諸仏世尊を供養したてまつりて定意を失せじ。もししからずは、正覚を取らじ>によって、清浄解脱三昧に入って諸仏供養をかなえつつ、自己犠牲などに走ることを防ぎます。
そして{聞名見仏の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく普等三昧を逮得せん。この三昧に住して成仏に至るまで、つねに無量不可思議の一切の諸仏を見たてまつらん。もししからずは、正覚を取らじ>で、浄土入出無碍の門を見出し、普等三昧を得、傲慢な悪衆生になることなく、出会う人ごとの手を握り、同朋として共感することができ、相手から無限に尊い教えを聞き開いてゆく態度が仕上がります。
こうした受用の態度が成就すれば、おのずと
まして阿弥陀仏の浄土は「極楽」とも名がついていますので、この浄土では懈惓は一切生じません。仏より回向される功徳には懈惓は一切存在しないのです。施される内容(食)に懈惓が含まれていませんから、享受した私の内容(受用)にも懈惓は生じないのです。
驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
(おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、この教えを信じることができない)『仏説無量寿経』27 巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈
ところで皆さんは、日常生活に倦怠を感じることはないでしょうか。倦怠感を引きずって生活すると、得ているものに満足せず、食も節度がなくなり、不平不満がたまり、だらだらとしまりの無い生活になってしまいます。
浄土教は日常生活がそのまま聞法の現場となりますから、仏教を学んでいる間だけではなく、日々の暮らしに張りが無くなったり、人や物事に嫌悪感を覚えたり、生活に疲れたりするということは、すなわち本願に順じた生き方をしていないという証拠でもあります。
しかし「ではお前はどうなのか?」と問われれば誠にお恥ずかしい有様で、倦怠感が付きまとった生活から抜け切れません。もちろん、張りのある生活を心がけてはいますが、「六十小劫の間を一食の間のように思った」などという境地とはかけ離れています。
すると、経典は嘘を言っているのでしょうか。嘘とまでは言えなくとも表現が過剰なのではないか、との問いが生まれてきます。
このことは徳面と宿業の問題を踏まえないと解決はつきません。
「浄土の徳面だけ見れば懈惓など生じるはずはない」これはもう疑いようの無い、証明された事実です。生命の本質を尊ぶ仏法は常に智的快活にあふれていて、この快活な願いと報いが人々に回施されますので、受用する信徒にも倦怠は無いはずなのです。
しかし衆生はその宿業の闇の深さから、意識は変われども、性根や身体までの変革は即座にはできません。せっかく浄土の功徳を受用しても、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(正像末和讃94)で、頑迷な性根まで変わるには永劫の時間がかかるのです。
しかしそうであっても、願いが真実であれば必ず真実の果報が生まれます。そして願いの中に成就あり≠ナ、常に未完成で課題を背負いながら、不断に今、今、今と願いが成就しているのです。
「禅定をもつて食となす」とは、いはく、もろもろの大菩薩はつねに三昧にありて他の食なし。「三昧」とは、かのもろもろの人天、もし食を須ゐる時、百味の嘉コウ羅列して前にあり。眼に色を見、鼻に香りを聞ぎ、身に適悦を受けて自然に飽足す。訖已りぬれば化して去り、もし須ゐるにはまた現ず。その事、『経』(大経・上)にあり。このゆゑに「愛楽仏法味禅三昧為食」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
「禅定を食と為す」というのは、位の高い菩薩達は、いつも三昧の中にあって他の食事をとらないのである。「三昧」というのは、浄土の聖衆たちは、食をもとめようとすると百味の飲食が前にあり、眼に色を見、鼻にその香をかいで、体によろこびを受ける。自然に満足しおわれば、そこからなくなる。食を用いようとするれば、また現われる。そういうことは《大経》に示されてある。こういうわけだから「仏法味を愛楽し 禅三昧を食と為す」といわれたのである。
このことを生活に現れた功徳として披露している「解義分」に聞きますと――
『往生論註』76(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)とあります。
荘厳受用功徳成就とは、偈に「仏法味を愛楽し 禅三昧を食と為す」と言える故なり。 これがどうして不思議であるかというと、この世界のような食事をとらずにしかも命をたもつ。これにはたもつわけがある。如来が有漏の食を用いずに命をたもたせるという本願をたてられ、これを満足せられた。その仏願によってわが命をたもつのである。どうして思いはかることができようか。
『仏説無量寿経』等との照合は、{極楽の食事風景 }において詳説しましたのでそちらを参照してほしいのですが、重複して紹介しますと――
浄土の功徳面としては、浄土の住民は食事をしたいと思えば、最高級の器も、最高級の食事や飲み物も思いのままに得ることができるのですが、実際にはご馳走を食するものはいません。ただ食事を見て香りをかぐだけで満足し、身も心も和らぎ、味に執着することもありません。人々が満足すると食事は消え去り、望めばまた現れるのです。
これは「極楽」が「真実願土」であり同時に「真実報土」でありますので、浄土の住民は本願功徳に執着や懈惓を生じることがないのです。正定聚の菩薩は、報いた食を見て香りをかぐだけで満足します。逆に極楽のご馳走を口にしてしまう者は真実信心のない不定聚・邪定聚の菩薩で、極楽の辺地にある閉じた蓮の
このことは曇鸞大師も、<浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを
(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?})
この「無上菩提心」を起こした菩薩こそ正定聚の菩薩であり、極楽の池に咲いた蓮の華の上に化生し、ただちに仏・菩薩と遇い、阿弥陀如来より直接教えを聞き、諸仏を供養し、功徳を積むことができるのです。
正定聚の菩薩が食事を口に運ばないということは、仏法を個人や組織で独占したり執着しないことを意味します。仏法を学んでも自分だけの利益を貪ることなく、浄土の様々な功徳を得ても執着することなく、一切衆生に対して如来同様「みなまさに往生すべし」と願い続けているから食事を口に運ばないのです。ところが現実の宗教界は、驕慢な宗教者が経典や聖典を独占し、身勝手な教学を振りかざして民衆を支配し愚民政策の片棒を担ぐようなありさまでしたので、これではとても大菩薩の功徳を得ていたとは思えません。
本当の極楽の住民は如来の願力により、十方無量の世界を(身を動かずして)巡り、極楽浄土の土徳によって相手を理解し取りそろえた供養の品(参照:{供養如意の願})を古今東西の仏・菩薩・声聞たちにささげることができます。すると、相手の真心と供養の善根が感応して辺り一面に咲き広がり、やがて世界中を覆うほど功徳が広がるものさえあります。さらにその功徳の広がりは次々と新しく覆い直され、以前の栄光にすがることもないのです。こうした喜びに共に浴して諸仏を供養し終われば、ただちに阿弥陀仏の極楽浄土に還るのです。
このように極楽の真の姿は、現代社会の諸問題や外交問題解決にも智慧を与え得るし、極楽が本当に真心の報いた姿であることも解るでしょう。究極の浄土である極楽浄土・安楽国は、常に全人類を念じて、しかも具体的に供養を適え続ける願いと報いの場となるのです。
こうした全体を曇鸞大師は「仏願に乗ずるをわが命となす」と述べられていますが、けだし名言≠ニ言うべきでしょう。
観察門 器世間「荘厳受用功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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