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七高僧の教えを味わう

往生論註を味わう 16

【浄土真宗の教え】

観察門 器世間「荘厳地功徳成就」

『往生論註』巻上

浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)
【一六】
宮殿諸楼閣 観十方無礙 雑樹異光色 宝欄遍囲繞

   この四句は荘厳地功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、ショウ嶢 高き貌なり 峻 高なり 嶺にして枯木岑に横たはり、サクガク サクガクは山斉しからず ケイ 深き山谷または山消の貌なり リン 深くして崖りなし にしてショウ 悪き草の貌なり 茅 道に草多くして行くべからず 壑に盈てり。茫々たる滄海、絶目の川たり。ラン々たる広沢、無蹤の所たり。菩薩これを見そなはして大悲の願を興したまへり。「願はくはわが国土は地平らかにして掌のごとく、宮殿・楼閣は鏡のごとくして、十方を納めんにあきらかにして属するところなく、また属せざるにあらざらん。宝樹・宝欄たがひに映飾とならん」と。このゆゑに「宮殿諸楼閣 観十方無礙 雑樹異光色 宝欄遍囲繞」といへり。

聖典意訳
宮殿諸楼閣[くでんしょろうかく]にして 十方を[]ること無碍[むげ]なり
 雑樹[ぞうじゅ]に異の光色あり 宝欄[ほうらん][あまね]囲繞[いにょう]せり

 この四句を、荘厳地功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、高くけわしい山に枯木が峯に横たわり、高低さまざまの山、深くけわしい谷には、悪草が生い茂って谷をふさいでいる。広広とした大きな海が目のとどかぬ川のようである。雑草の生い茂る広い沢は人跡の及ばぬ所である。法座菩薩は、これを見て大悲の願をおこされ、「わが成就した国土は、地面が掌のように平らかで、その上にある宮殿楼閣が鏡のように十方世界を映しとり、明らかであって雑わるところなく現われ、しかもそれが離れていない。宝の樹、宝の欄干が互いに飾りとなるように」と願われた。こういうわけで「宮殿楼閣にして 十方を観ること無碍なり 雑樹に異の光色あり 宝欄遍く囲繞せり」といわれたのである。


「荘厳三種(水、地、虚空)功徳成就」の第二、「荘厳功徳成就」。浄土の大地の詳細を観察します。具体的には、人生の道場と導き、災厄から立ち上がる手がかりを学びます。

 山あり谷あり

宮殿諸楼閣 観十方無礙 雑樹異光色 宝欄遍囲繞
 この四句は荘厳地功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、ショウ嶢 高き貌なり 峻 高なり 嶺にして枯木岑に横たはり、サクガク サクガクは山斉しからず ケイ 深き山谷または山消の貌なり リン 深くして崖りなし にしてショウ 悪き草の貌なり 茅 道に草多くして行くべからず 壑に盈てり。茫々たる滄海、絶目の川たり。ラン々たる広沢、無蹤の所たり。
 
▼意訳(意訳聖典より)
宮殿諸楼閣[くでんしょろうかく]にして 十方を[]ること無碍[むげ]なり
雑樹[ぞうじゅ]に異の光色あり 宝欄[ほうらん][あまね]囲繞[いにょう]せり

 この四句を、荘厳地功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、高くけわしい山に枯木が峯に横たわり、高低さまざまの山、深くけわしい谷には、悪草が生い茂って谷をふさいでいる。広広とした大きな海が目のとどかぬ川のようである。雑草の生い茂る広い沢は人跡の及ばぬ所である。

  <宮殿諸楼閣 観十方無礙>とは、前回「荘厳水功徳成就」に、<願はくはわれ成仏せんに、あらゆる流・泉・池・沼 池なり 宮殿とあひ称ひ…>(わたしが成仏したならば、あらゆる流れ、泉・池・沼が建物とよく調和して…)とありましたように、清浄なる真心が反映して果報を生むことをいいます。阿弥陀仏の浄土は行動を起こす時の感情や柔軟な心の流れが、結果として生み出されたモノや成果とよく調和している≠フです。その中で、<宮殿諸楼閣>は仏宝の様々な楽しみを象徴し、<観十方無礙>はそうした仏宝の徳や楽しみと、世界中の学問や芸術や世俗のあらゆる分野の本質とが無碍の関係にあることを象徴しています。法に生きる者は、あらゆる分野の本質と問題点を見抜く智慧が与えられるのです。

 ですからこの句は――阿弥陀仏の浄土には、あらゆる分野の本質が映し出されていて、浄土を観察すればあらゆる世界が達意的に解り、あらゆる分野・世界を学べばそのことが即ち浄土を称える楽しみになる≠ニ意訳できるでしょう。宗教と科学、宗教と政治、宗教と経済なども本来はこうした関係を結ぶべきなのです。しかし現状は、宗教者は僧院にこもり社会的な問題に関心が薄く、他の分野を馬鹿にしたり、自分たちの手下のように見下げていますし、科学者や政治家や経済界の人々は宗教に無関心、というありさまです。科学的発見があれば宗教者も驚き喜ぶ、宗教者の語る話に多くの分野の方々も驚き喜ぶ、こうした関係がどうして確立できないのでしょうか。
<雑樹異光色 宝欄遍囲繞>は後半で詳説いたします。

<仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる>(仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、)の願は、ここでは{国土清浄の願}{妙香合成の願}等を言います。

 そしてこれらの「仏願の生起本末」を聞いてみると、<ある国土をみれば、高くけわしい山に枯木が峯に横たわり、高低さまざまの山、深くけわしい谷には、悪草が生い茂って谷をふさいでいる>というありさまだから、仏は本願を起こして善処を図った訳です。
<ある国土をみれば>の「国土」とは単なる土地ではありません。人間が居住し、土地や心を耕し、社会を形成し和合していく人間関係や社会環境、さらには個々の人生観や世界観について論じているのです。
<高くけわしい山に枯木が峯に横たわり、高低さまざまの山、深くけわしい谷には、悪草が生い茂って谷をふさいでいる>とは、住人に山あり谷ありの悪路、つまり悪人生を歩ませる環境的要素があることを言います。
 もちろん、人生には山あり谷ありが普通で、むしろ平坦な人生では面白くないでしょう。しかし問題は、山あり谷ありの人生に振り回されて、落ち着いた冷静な判断ができなくなってしまうことにあり、これによって物事の本質が見えず歪んだ人生観を持ってしまう人が多数生み出されてしまうのです。書家の相田みつおさんは「自己顕示 自己嫌悪 私の心の裏表」と言われましたが、こうした歪みのことを言うのでしょう。
 自己顕示の高慢な心や態度の山脈に遮られれば、物事が見えども見えず、聞けども聞こえず。人生の本当の輝きや彩りを失い、抜け殻となった自分自身が枯れ木のように横たわっている姿が見えるでしょう。また自己嫌悪の深刻な谷に落ち込めば、心身を病む状態が続いて、やはり人生の本当の輝きや彩りを覆ってしまいます。
<広広とした大きな海が目のとどかぬ川のようである>とは、そうした心身を病む状態が、どこまでも果てしなく続いている現状を表しています。

<雑草の生い茂る広い沢は人跡の及ばぬ所である>とは、弱肉強食の掟が支配する荒野のように、人間としての本来の教育を受ける環境を得ず、道を求める人や機会に遇わず、雑念のおもむくままに振る舞い、粗暴な業が積み重なってできた悪環境に置かれることをいいます。
(参照:{自然と社会と仏教の関係}
 以上が山あり谷ありの人生に振り回されて冷静な判断ができなくなってしまう¥態が放置された娑婆の現状であり、この娑婆の課題を「問題である」と映すのが浄土のはたらきの一つなのです。

 明鏡止水の道場

菩薩これを見そなはして大悲の願を興したまへり。「願はくはわが国土は地平らかにして掌のごとく、宮殿・楼閣は鏡のごとくして、十方を納めんにあきらかにして属するところなく、また属せざるにあらざらん。宝樹・宝欄たがひに映飾とならん」と。このゆゑに「宮殿諸楼閣 観十方無礙 雑樹異光色 宝欄遍囲繞」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
法座菩薩は、これを見て大悲の願をおこされ、「わが成就した国土は、地面が掌のように平らかで、その上にある宮殿楼閣が鏡のように十方世界を映しとり、明らかであって雑わるところなく現われ、しかもそれが離れていない。宝の樹、宝の欄干が互いに飾りとなるように」と願われた。こういうわけで「宮殿楼閣にして 十方を観ること無碍なり 雑樹に異の光色あり 宝欄遍く囲繞せり」といわれたのである。

<わが国土は地平らかにして掌のごとく、宮殿・楼閣は鏡のごとくして、十方を納めんにあきらかにして属するところなく、また属せざるにあらざらん>という願いは、先にも言いましたが{国土清浄の願}の、<国土は清らかであり、ちょうどくもりのない鏡に顔を映すように、すべての数限りない仏がたの世界を照らし出して見ることができる>という内容に相応します。
 たとえ山あり谷ありの人生であっても、驕慢心や嫌悪心を持つことなく、正しい人生観のもと、落ち着いて冷静に物事を判断していれば、生きれば生きるだけ、学べば学んだだけ、智慧ははより確かに、徳はより輝かしいものになり、どんな世界のどんな分野の物事や発見でも、その確立した人生観に見事に映し出されてくるのです。これは{荘厳触功徳成就「#本当の快楽を得る」}にもありましたが、<求道の楽しみ、人間成就という自己の花を咲かす楽しみ>を無限に生み出す無上菩提心があるからこそなのです。

<属するところなく、また属せざるにあらざらん>とは、娑婆と浄土の関係を言うものです。十方世界は浄穢正邪が種々雑多であり、どっぷりとその世界に浸ってしまえば「朱に交われば赤くなる」で、身を汚すことも多いものです。経済界に属し切ってしまえば金銭のために身を汚し、政界に属せば政党や国際政治の毒を食らうことになります。科学界も芸術界もそれぞれの世界に毒が宿されていますので、属し切ってしまえば世俗の毒が心身を苦しめることになってしまいます。しかしまた、属さなければそれぞれの世界が見えないことは言うまでもありません。

例えば、蓮華が清らかな高原や陸地に生えず、かえって汚い泥の中に咲くように、迷いを離れてさとりがあるのではなく、誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。
『華厳経』第三四 入法界品
とある通りです。それではどうしたらよいのか。
 鳩摩羅什は――
たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥を取ることなかれ。
と仰いました。宝は臭泥の娑婆にある。しかし宝を取るために臭泥に塗れ切ってしまっては元も子もないのです。
 浄土と十方世界の関係もこのようなもので、十方世界を映し出してはいますが、属しているわけではない。浄土は十方世界の宝と毒を映し出し、見分け、宝を取り、[まみ]れた毒を清浄にする働きも持っているのです。この力の根源が如来回向の無上菩提心であることは言うまでもありません。
 このことは「荘厳地功徳成就」に相当する『解義分』を読めばさらに明らかでしょう。
 荘厳地功徳成就とは、偈に「宮殿諸楼閣 観十方無礙 雑樹異光色 宝欄遍囲繞」といへるがゆゑなり。
 これいかんが不思議なる。かの種々の事、あるいは一宝・十宝・百宝・無量宝、心に随ひ意に称ひて荘厳具足せり。この荘厳の事は、浄明鏡のごとく、十方国土の浄穢の諸相、善悪の業縁、一切ことごとく現ず。かしこのなかの人天、この事を見るがゆゑに探湯不及の情自然に成就す。またもろもろの大菩薩、法性等を照らす宝をもつて冠となせば、この宝冠のなかにみな諸仏を見たてまつり、また一切諸法の性を了達するがごとし。また仏、『法華経』を説きたまひし時、眉間の光を放ちて東方万八千土を照らすにみな金色のごとく、阿鼻獄より上は有頂に至るまで、もろもろの世界のなかの六道の衆生の生死の趣くところ、善悪の業縁、受報の好醜、ここにことごとく見るがごとし。けだしこの類なり。この影、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。

『往生論註』69(巻下 解義分 観察体相章 器世間)

▼意訳(意訳聖典より)
荘厳地功徳成就[しょうごんじくどくじょうじゅ]とは、偈に「宮殿楼閣[くうでんしょろうかく]にして 十方を観ること無碍なり 雑樹[ぞうじゅ][]光色[こうしき]あり 宝欄遍[ほうらんあまね]囲繞[いにょう]せり」と言える[ことがら]なり。
 これがどうして不思議であるかというと、かの宮殿などのいろいろなものは、あるいは一宝・十宝・百宝・無量の宝で、いずれも思いのままに意にかなって荘厳が具足する。この荘厳のものがらは、浄く明らかな鏡のように、十方世界の浄穢のいろいろなすがたや善悪業の因縁のすべてが[ことごと]く現れてくる。かの国の人天はこのことを見るから、悪は廃し善は修するという[こころ]が自然に成就する。また大菩薩たちが真如法性[しんにょほっしょう]などを照らす宝をもって[かんむり]とし、この冠の中に一切諸仏を見たてまつり、また一切諸法の本性[ほんしょう]通達[つうだつ]するようなものである。
 また仏が《法華経》を説かれる時、眉間の光を放って東方の一万八千の国土を照らされると、みな金色のように輝いた。安鼻[あび](無間)地獄から上は有頂天(非想非非想処)に至るまで、すべての世界の六道の衆生が生まれたり死んだりしてゆくところや、その善悪業の因縁や、受ける果報のよしあしが、この光の中に悉く見えたようである。いまもこのたぐいである。浄土の宮殿などの荘厳の中に映る影が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか

 特に<かの国の人天はこのことを見るから、悪は廃し善は修するという[こころ]が自然に成就する>という点には注目が必要です。
 浄土真宗ではよく、人間の業はどこまでも深く、浄土の功徳が回向されても悪が消滅することは難しい≠ニ言われます。これは確かにそうです。自分の胸に手を当てて考えれば肯くしかありません。しかし、それならばなぜ念仏を勧めるのか、悪が無くならないのなら仏法の功徳はどこにあるのか、とも問わねばならないでしょう。

 それはここに書かれてあるように、浄土には<十方世界の浄穢のいろいろなすがたや善悪業の因縁のすべてが[ことごと]く現れてくる>ので悪を悪と見抜くことができる、これが重要なのです。悪業を犯す原因や結果が明らかに見えるので、悪業は消滅はしないが力を失ってしまうのです。悪は隠れた場所で原因が作られ、隠れた場所で行われ、やがて悪業を為した者の身心に長く苦痛を与えます。見えないから、こそこそと悪業を犯すのです。しかし悪業の経緯をつぶさに見ることができれば、悪を為そうすると、自らの姿と悪の経緯が念じられてくるので、悪を為さんとする心が多少とも挫かれるのは当然です。同時に浄土は善行の経緯を見ることもできますので、善を行おうとする力が増すのも当然なのです。

 七重の行樹と欄楯

雑樹異光色 宝欄遍囲繞>は、<たとひわれ仏を得たらんに、地より以上、虚空に至るまで、宮殿・楼観・池流・華樹・国中のあらゆる一切万物、みな無量の雑宝、百千種の香をもつてともに合成し、厳飾奇妙にしてもろもろの人・天に超えん。その香あまねく十方世界に熏じて、菩薩聞かんもの、みな仏行を修せん。もしかくのごとくならずは、正覚を取らじ>という{妙香合成の願}の成就を言います。

「宝」とは、たとえば仏・法・僧の「三宝」であり、また浄土経典では<その国土には、七つの宝でできたさまざまな樹々が一面に立ち並んでいる>とか、<一つの宝だけでできた樹もあり、二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある>、<それぞれの樹の高さは八千由旬であり、これらの宝の樹は等しくみな七つの宝ででき花や葉をつけていて、その花や葉の一つ一つがまた異なった宝の色を持っている>、<極楽世界には七重にかこむ玉垣と七重におおう宝の網飾りと七重につらなる並木がある>等、よく「七宝」が登場します。
「七宝」とは、たとえば『仏説無量寿経』には<その仏の国土は金・銀・瑠璃[ルリ]珊瑚[サンゴ]琥珀[コハク]・シャコ・瑪瑙[メノウ]などの七つの宝でできており>とあります(「瑠璃」は青色の宝玉、「シャコ」は大ハマグリまたは白珊瑚、「瑪瑙」は深緑色の玉だが現在のメノウとは異なる)。
 また『仏説阿弥陀経』には<岸の上には楼閣があって、それもまた金・銀・瑠璃[ルリ]玻リ[ハリ](水晶)・シャコ・赤珠[シャクシュ](赤真珠)・瑪瑙[メノウ]で美しく飾られている>とあります。

 ただし、極楽浄土の荘厳が世俗と同様の金銀財宝などで出来ているわけではありません。{荘厳妙色功徳成就}で明らかにしたように、浄土の光明は、世俗煩悩に穢れた業ではなく、法蔵菩薩の清浄の行・功徳が成就した光明なのです。したがって無明煩悩を消滅させる力を持っている光明でもあります。

 では浄土の七宝は具体的に何かといいますと、七財七聖財[シチショウザイ]・七法)や七菩提分[シチボダイブン]七覚分[シチカクブン]七覚支[シチカクシ])などの果報だと言われています。
 七財は「信・戒・慚・愧・聞・捨・慧」を言います。

「信」とは、尊信で、自分を信じ、相手を信じ、この世を信ずること。私のようなものでも、まことの法に遇えば、心の眼が開け、相手の尊さが解り、この世に浄土の華が開くに違いないことを信ずること。
「戒」とは、信の花がわが身に咲くように、身を大切にし、行いを慎しむこと。
[ザン]」とは、常に「わが魂の底深く名告り続ける久遠の願い」である四十八願に呼びさまされて、人間としてまた社会人として、絶えずわが身の生き方を反省させられること。
[]」は、絶えず自分の本心の声に耳を傾け、自分の本心を偽らぬように生きること。
「聞」は、先覚者から正しい道を聞き、またどんな人からも、どんな出来事からも、常に自分の生きる道を聞き、正しい人生観を身につけようとすること。
「捨」は「施」ともいわれて、自分の全てを挙げて、全人類の幸せ、全世界の平和を念じて、人間の成就と社会の荘厳と歴史創造に生き、自分のすることには私心を挟まず、したことには誇らず、また恩着せがましい心を離れること。
[]」は空っぽの智慧といわれていますが、ただ我執がなく、色眼鏡がとれて、あるがままの相が見えるという鏡のような慧ではなく、自分が置かれている歴史的現実において、歴史的に形成されて来た社会的宿業と浄土が見え、魂の底深くに名告り続けて止まぬ久遠の願いに動かされて、主体的に自分の全身に宿された三十五億年の歴史の華を咲かせ、新しい歴史を創造する智を産み出すまごころの慧です。

島田幸昭著『阿弥陀経探訪』 より

 七財はまた「信・戒・施・聞・慧・慙愧・不放逸」、「信・戒・施・聞・慧・慚・愧、かくのごとき七法を聖財と名づく」との説明もあります。
 さらに「七宝」を「七菩提分」と解すれば、これは以下の覚りを得るために役立つ七つの事柄≠ナあり、覚りに導く七項目・行法≠宝とします。
(1)択法覚支[チャクホウカクシ]
教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる。
(2)精進覚支[ショウジンカクシ]
真の正法を択び取ったらそれに専念し精進する。一心に努力する。
(3)喜覚支[キカクシ]
真実の教えを実行する喜びに住する。
(4)軽安覚支[キョウアンカクシ]
身心を常にかろやかで快適な状態に保つ。
(5)捨覚支[シャカクシ]
対象へのとらわれを捨てる。なにごとにも執着しない。
(6)定覚支[ジョウカクシ]
心を集中して乱さない。
(7)念覚支[ネンカクシ]
常に禅定と智慧を念じ、おもいを平らかに偏見をもたない。
 しかし総合的に見ると、やはり七宝は七財とするのが勝義だと思われます。

<宝樹・宝欄たがひに映飾とならん>とありますが、「宝樹」とは何でしょう。「宝欄」とは何でしょう。
「宝樹」とは、先に紹介したように、経典には<その国土には、七つの宝でできたさまざまな樹々が一面に立ち並んでいる>とか、<一つの宝だけでできた樹もあり、二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある>と表現されています。
「宝樹」とは「行樹」であり、「行」は迷いの業とは違い、真心から願いをもって行うこと。解りやすく言えば修行の「行」です。「樹」は<慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す>と聖人が仰る通り「たてる」や「うえる」意ですから、浄土の宝樹・行樹は「正定聚の菩薩・念仏生活を行う行者」という意味であり、また如来回向の信心行・確立された念仏生活という意味でもあるでしょう。行と行者は分けて考えないのです。これは、釈尊がピッパラー樹のもとで覚りを開かれ、以来この木が菩提樹と呼ばれるようになった故事も影響しているのでしょう。

 念仏生活が確立されていない世界では、人々は七宝の行が定まらず、荒れるまま、倒れた枯木のような鬱々とした人生を営んでいて、絶望の淵から抜け出せず、他人を恨み社会を恨み、狭い人生観のまま自分を[さいな]んでいます。
 ところが、浄土を願う念仏生活が確立されれば、浄土の功徳により人類共通の広い世界に眼が見開かれるのです。すると、一人ひとり悩みは種々あり、それぞれが深い宿業と苦悩を抱えていることが同感できます。しかも浄土の道場に立って見れば、悩みはそのまま宝となります。同朋として手を取り合って歩む道が厳かに輝きを放つのです。
 苦悩の中に宝あり。苦悩なければ仏法なし。出あう人ごとに御同朋の慚愧の涙が流されれば、<臭泥の中に蓮華を生ずる>ように、一つの悩みが念仏によって一つの宝を生み、二つの動転が二つの宝を、三つの迷いが三つの宝、七つの課題が七つの宝となります。先の「七財」も苦悩の人生あればこそ生まれた念仏の宝です。
 さらに様々な悩みを複合的に抱えている人もいますが、それらも浄土回向の菩提心を通してみれば、種々の宝がいろいろにまじりあってできた人生でありましょう。そうした七重の苦悩と同時にそれを浄化し荘厳する七重の行樹が見える場こそ浄土なのです。
 経典ではさらに、この七重の行樹に浄土の徳風が吹けば、<そよ風に揺れ、美しい音楽が流れ>、<尽きることなくすぐれた教えの声が流れ、実にさまざまな、優雅で徳をそなえた香りが広がる>と顕されています。
(参照:{「極楽の余り風」の本当の意味}

「宝欄」は『仏説阿弥陀経』に<極楽国土には七重の欄楯・七重の羅網・七重の行樹あり>とある最初の「七重の欄楯」、「七重の手すり」でしょう。ちなみに「欄」は縦の[さく]で「楯」は横の柵を言います。
 手すりとは何でしょう。
 これも自分の人生で考えれば解るとおり、人生の導きとなり、厄難に陥るのを防ぎつつ、厄難にみまわれ倒れてもその場で立ち上がる手がかりとなるものです。念仏の功徳は、行者の道行きの一歩一歩に、幾重にもわたって手すりが用意されているのであり、たとえ倒れても、その場その場において立ち上がる手がかりを与えてくれるものなのです。
 ところで、なぜそれほどまでに懇切丁寧な功徳が用意されているのでしょうか。子どもじゃないのに、そこまでの親切は要らない気もするでしょう。しかし、浄土にそれほどの功徳が用意されているということは、とりもなおさず人生の道行がそれほどまで辛く厳しいものである、という事実の裏返しなのです。不必要なものは浄土にはありません。五濁悪世の社会で生き甲斐を見つけ出し、この人生を全うしたい、という願いが起こる。しかし道行きは決して楽なものではない。これが本当に解れば「七重の欄楯」が用意された心根も解るでしょう。
(参照:{宗教を考える100の質問:33}

 ただし、浄土と娑婆は互いを映し出してもいますので、以上の浄土の土徳が自分の環境や社会そのものなのではありません。浄土かと思えば娑婆の懺悔であり、娑婆かと思えば思ったところが浄土のはたらき。娑婆と浄土が交互に姿を現すのです。

 資料

観察門 器世間「荘厳地功徳成就」(漢文)

『往生論註』巻上

漢文
 (総説分)
【一六】
 宮殿諸楼閣 観十方無礙
 雑樹異光色 宝蘭遍囲繞

此四句名荘厳地功徳成就仏本何故 起此荘厳見有国土&M008467;{高貌才消反}嶢{牛消反}峻{高俊音}嶺枯木横岑&M007957;{才白反}&M008022;{&M007957;&M008022;山不斉五百反}&M008124;{深山谷亦山消貌形音}&M008477;{深無崖力人反}&M031073;{悪草貌消音}茅{道多草不可行方交反}盈壑茫茫滄海為絶目之川&M031466;&M031466;広沢為無蹤之所菩薩見此興大悲願願我国土地平如掌宮殿楼閣鏡納十方的無所属亦非不属宝樹宝蘭互為映飾是故言宮殿諸楼閣観十方無礙雑樹異光色宝蘭遍囲繞

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