『往生論註』巻上
この四句は荘厳水功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を起したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいはウン溺 江の水の大きなる波、これをウン溺といふ 洪濤 海の波の上がる して滓沫人を驚かす。あるいは凝シ 氷を流す キョウトウ 凍りてあひ着く して、蹙 迫る 架し、トク 常を失す を懐く。向に安悦の情なし。背ろに恐値の慮りあり。菩薩これを見そなはして大悲心を興したまへり。「願はくはわれ成仏せんに、あらゆる流・泉・池・沼 池なり 宮殿とあひ称ひ 事、『経』(大経・上)中に出づ。種々の宝華布きて水の飾りとなり、微風やうやく扇ぎて映発するに序あり、神を開き体を悦ばしめて、一として可ならずといふことなからん」と。このゆゑに「宝華千万種 弥覆池流泉 微風動華葉 交錯光乱転」といへり。
- 聖典意訳
宝華千万種 にして池流泉 に[ 弥覆 せり[
微風華葉 を動かすに 交錯して光乱転す[ この四句を、荘厳水功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、あるいは河や海の大波の恐ろしいしぶきが人を驚かす。あるいは氷が流れ、また凍てついて、人を苦しめ心の常を失わせる。前にも安らかな
情 がなく、後にも恐れおののく思いがある。[
法蔵菩薩はこれを見られて、大悲の心をおこされ「わたしが成仏したならば、あらゆる流れ、泉・池・沼が建物とよく調和して、いろいろの宝の花を布いて水の飾りとし、静かな風がおもむろに吹いて美しく照り映え、心を開き身をよろこばしめ、一つとして不可なものはないように」と願われた。こういうわけで「宝華千万種にして 池流泉に弥覆せり 微風華葉を動かすに 交錯して光乱転す」といわれたのである。
ここは{観察門 器世間「荘厳清浄功徳成就」}でも申しましたが、阿弥陀仏の浄土の特徴である「荘厳清浄功徳成就」、「荘厳量功徳成就」、「荘厳性功徳成就」、「荘厳形相功徳成就」、「荘厳種々事功徳成就」、「荘厳妙色功徳成就」、「荘厳触功徳成就」、「荘厳三種功徳成就」「荘厳雨功徳成就」、「荘厳光明功徳成就」、「荘厳妙声功徳成就」、「荘厳主功徳成就」、「荘厳眷属功徳成就」、「荘厳需用功徳成就」、「荘厳無諸難功徳成就」、「荘厳大義門功徳成就」、「荘厳一切諸求満足功徳成就」の十七種の中で八番目、「荘厳三種(水、地、虚空)功徳成就」の最初の荘厳水功徳成就の詳細を観察します。
いよいよ浄土の一々が具体的に明らかとなっていく段階に入ったと言えるでしょう。ここでは、浄土は気持ちと創り出されたモノが調和した世界であることを観察します。
宝華千万種 弥覆池流泉 微風動華葉 交錯光乱転
この四句は荘厳水功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を起したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいはウン溺 江の水の大きなる波、これをウン溺といふ 洪濤 海の波の上がる して滓沫人を驚かす。あるいは凝シ 氷を流す キョウトウ 凍りてあひ着く して、蹙 迫る 架し、トク 常を失す を懐く。向に安悦の情なし。背ろに恐値の慮りあり。
▼意訳(意訳聖典より)
宝華千万種 にして[ 池流泉 に[ 弥覆 せり[
微風華葉 を動かすに 交錯して光乱転す[
この四句を、荘厳水功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、あるいは河や海の大波の恐ろしいしぶきが人を驚かす。あるいは氷が流れ、また凍てついて、人を苦しめ心の常を失わせる。前にも安らかな情 がなく、後にも恐れおののく思いがある。[
仏教では一般的に、水は覚りや柔軟心を象徴し、氷は
ここでは、「荘厳三種功徳成就」の中で何故「水」が最初に述べられているのか、という問題があります。
経典であればまず「地」が最初に表され次が「水」のはずです。どうして逆転しているのかつぶさには解りかねますが、おそらく、覚った側から浄土を見れば、まず大まかな行為的世界が見えて次にその行為の心根が見えるのですが、浄土がまだ見えていない衆生に対しては、まず問いやすい心根の問題から説いて浄土への引導とされたのでしょう。
島田幸昭著『阿弥陀経探訪』池に象徴される極楽の徳 より
つまり「
『論註』は常套として、最初は三界や他の国土の問題点を挙げます。問題意識の無いところに仏法はないからです。
「国土」とは行為的世界であり、天然自然のままの環境ではありません。人々が長年に渡って生活を築き上げ、社会を建設した果てに報いた世界です。社会環境であり人間環境を問う言葉が「国土」です。
阿弥陀仏の浄土以外の国土では、<あるいは河や海の大波の恐ろしいしぶきが人を驚かす>、つまり皆を恐怖のどん底に陥れてやろう≠ニいう悪意に満ちた感情が人々を襲っている。また<あるいは氷が流れ、また凍てついて、人を苦しめ心の常を失わせる>、つまり、氷のように頑固で冷酷な心の持ち主と接すると、こちらの心も凍てつき平常心を失う結果となります。
このような安寧を失った世界、恐怖によって支配されている国が多く見受けられるので、法蔵菩薩は大悲の心をおこされ、これを解決する国を創造しようと願われたのです。
菩薩これを見そなはして大悲心を興したまへり。「願はくはわれ成仏せんに、あらゆる流・泉・池・沼 池なり 宮殿とあひ称ひ 事、『経』(大経・上)中に出づ。種々の宝華布きて水の飾りとなり、微風やうやく扇ぎて映発するに序あり、神を開き体を悦ばしめて、一として可ならずといふことなからん」と。このゆゑに「宝華千万種 弥覆池流泉 微風動華葉 交錯光乱転」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
法蔵菩薩はこれを見られて、大悲の心をおこされ「わたしが成仏したならば、あらゆる流れ、泉・池・沼が建物とよく調和して、いろいろの宝の花を布いて水の飾りとし、静かな風がおもむろに吹いて美しく照り映え、心を開き身をよろこばしめ、一つとして不可なものはないように」と願われた。こういうわけで「宝華千万種にして 池流泉に弥覆せり 微風華葉を動かすに 交錯して光乱転す」といわれたのである。
具体的にどう願われたのかと言うと、<あらゆる流・泉・池・沼 池なり 宮殿とあひ称ひ
>(あらゆる流れ、泉・池・沼が建物とよく調和して)いる、つまり、行動を起こす時の感情や心根の流れが、結果として生み出されたモノとよく調和していることを願うのです。「宮殿・建物」とは、文字通り住居としての建物だけではなく、歴史的に創造され生み出された全てのモノや場の象徴でしょう。与謝野晶子が「劫初よりつくりいとなむ殿堂に われも黄金の釘一つ打つ」と歌った「殿堂」が「宮殿」です。具体的には人々の生活環境や文化文明や人生観を問題としているのですが、浄土の宮殿ですから、物体や空間以上に「信心」や「境地」の内容が主となります。
私たちはともすると、自分たちの生み出したモノや思想に縛られ、苦しんで生活することになりがちです。生活を成り立たせるための会社や組織が、逆に自分の生活を縛り苦しめる。皆が暮らしやすいようにと作成された制度や学問が逆に人々の生活を縛り苦しめる。近所付き合いは大切なたしなみではあるが、時としてそれがストレスとなって生活を脅かす。
それどころか、尊いはずの信心や人生観も、一度得た領解に凝り固まってしまえば、やがて法執に陥って心身を頑なにしてしまいます。宗教論争が見苦しいのはこの法執のせいでしょう。このように、人間の心情と結果がかみ合わない状況は皆が経験することではないでしょうか。こうしたことを解決して、気持ちと創り出されたモノが調和した環境こそ心身が歓喜する浄土の世界です。
ではどのようにして調和した環境を生み出せるかというと、まず<種々の宝華布きて水の飾りとなり>(いろいろの宝の花を布いて水の飾りとし)で、<種々の宝華>とは仏法・仏宝の様々な功徳の華をいい、それが<布きて水の飾りとなり>ですから、仏法を下敷きとした生活信条を保つことをいうのでしょう。性根の腐った悪感情で行動を起こしてそれが結果に結びついてしまっては、人々を歓喜させる場が生まれるはずもありません。また仏法といっても、それは文字や言葉に執われるものではなく、真実誠、本当の真心と智慧が下敷きとなっていることが必須なのです。先に挙げた例で言えば「
ただし誤解してならないのは、餅が立派でなければ搗いた人の心持が悪いと言うわけではありません。どんな粗末に見える餅でも、どんなボロボロに見える建物でも、どんな
次に、<微風やうやく扇ぎて映発するに序あり>(静かな風がおもむろに吹いて美しく照り映え)とは、文字通り微風が吹いている訳ではありません。人生とは嵐の真っ只中で重荷を負って歩むが如しで、決して静かな環境のまま生きていけるものではありません。もし静かになれるとすれば、単に鈍感で問題点に気づかないせいか、全てを他人事と預けて人生を放棄しているかのどちらかでしょう。一つが解決しても、一息つく間もなくまた新たな嵐が襲ってくる、艱難辛苦の連続が人生なのです。人々はみなこの嵐に巻き込まれ、心が冷酷になり、人生を棒に振る苦境に立たされることも度々です。
ところが、この艱難辛苦の嵐を「微風」と受け流せる境地が与えられるのが浄土。「かならず転じて軽微なり」という念仏の功徳です。しかも単に物事を軽く受け流せるだけではありません、<映発するに序あり>(美しく照り映え)ている。苦難の嵐を供養の華として活かすことができる。苦労のお陰によって人生の華を咲かせることができた。そうした智慧と実力を人々に与える(回向)ことができる環境が浄土で、この働きが尊いのであり、この働きを観察することが尊いのです。
<神を開き体を悦ばしめて>(心を開き身をよろこばしめ>とは、心身の本性が爽やかに開放されて歓喜を得ることです。正定聚の地位の第一地を「歓喜地」と呼んでいることからも、歓喜が浄土の下地であることが解るでしょう。(参照:{正定聚・不退転の菩薩について})。ちなみに「神」とは、ここでは「精神」や「心」のことを指します。
<一として可ならずといふことなからん>(一つとして不可なものはないように)とは、以上のように、感情や心根の流れが、生み出されたモノや信心とよく調和し、仏法を下敷きとした生活信条が保たれ、人生の嵐を微風と受け流し、供養の華として活かすことができ、心身の本性が爽やかに開放され、歓喜を得ることにより、「全ての願いが達成できる」という確信を得ることができることをいいます。浄土は結果のみを問うドライな世界ではなく、文字通りウエットな世界。水に象徴される心根との調和を問う世界なのです。
ただし「願い」と「欲望」は違います。欲望は煩悩性の高い渇望であり、適っても適わなくてもその時々の流れであきらめもつきますが、願いは本性・仏性のはたらきですから、達成することが人生成就には必須となるのです。そして「達成できる」という確信を得ることはできますが、誰しも「達成できた」と安住することはできません。ここに安住すれば邪見驕慢の悪衆生で、傲慢な人間になってしまいます。あくまで達成は「当来」であり、どこまでいっても今は「道の途中」なのですが、その「常に道の途中である」ことが即「達成できる」という確信に他ならないのです。願いの世界は、こうした矛盾的なものが同時に存在することが見える場でもあります。
このように、真心と結果の調和した環境を見れば、心身が歓喜し、自分の願いが適わないわけがない≠ニいう大きな安心を得ることは必定でしょう。
「荘厳三種功徳成就」に相当する『解義分』を引きます。
『往生論註』67(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)
荘厳三種功徳成就とは三種の事有り。知るべし。何等か三種なる。一つには水、二つには地、三つには虚空なり。
この三種を一緒にしていうのは同じ類だからである。なぜかというと、一つには地・水・火・風・虚空・識の六大の類である。二つには思慮分別のないもの、いわゆる地・水・火・風・虚空の類である。この中でただ三つだけをいうのは、識の一つは衆生世間に属するものであるからであり、火の一つは浄土にはないからであり、風はあるけれども風は見ることができないから、また一定の場所にとどまるものではないからである。こういうわけで六大・五類の中で、浄土にあって荘厳とすべきものを取って三つを一緒にしていうのである。
最初に述べました「荘厳三種功徳成就」に三種(水・地・虚空)が選ばれた理由を明らかにします。
まずこの三種がひとくくりにされているのは、<同類なるをもつてのゆゑなり>(同じ類だからである)とします。理由は「六大の類」であり「無分別の類」であること。
「六大」とは、「大」は遍満であり、<万物を成立させる万有の本体である六つの根本要素。地大・水大・火大・風大・空大・識大>、「無分別の類」とは、「無分別智」のことではなく、単に分別が無いもの(地・水・火・風・虚空)を挙げています。
<ただ三類といふは、識の一大は衆生世間に属するがゆゑに>(この中でただ三つだけをいうのは、識の一つは衆生世間に属するものであるからであり)とは、「識大」が三種に選ばれなかった理由が「衆生世間に属する」ことにあると明かします。
世間(世界)は多くの意味で語られていますが、私たちが問題とすべき世間は「器世間」「衆生世間」「如来世間」の三世間です。「衆生世間」とはいわゆる「娑婆」であり、迷いの世界の三界(参照:{荘厳清浄功徳成就「#三界の道に勝過せり」})をいいます。「如来世間」は「出世間」もしくは「出出世間」で、特にここでは後者の「浄土」を問題としており、この世の本当の姿(生命や人生や歴史虚実の法則)を覚ったその立場から言った世界をいいます。そしてこの二つの世間が矛盾的に存在する環境のことを「器世間」といいます(「器世間」を山河・大地・草木の自然環境のみと解する説には問題がある)。ですから、娑婆と浄土は別の場所にあるのではなく、迷えば娑婆、覚れば浄土。どちらも同じ場所に同時に存在しているのです。
「識」とは迷った衆生の理性的・分析的認識(妄分別)であり、これを転じて仏果を得る(転識得智)のです。衆生の分析的認識が妄分別であるのは、先入観念が邪魔をし、我執・無明が邪魔をし、宿業や狭量性が邪魔をするからです。これらの課題を克服しようと願うことが、浄土に生まれようと願う念仏行者の願いであり、私たちの血や存在そのものに込められた社会的願いの展開(回向)でもあるのです。
次に「火大」が省かれた理由は<火の一大はかしこのなかになきがゆゑに>(火の一つは浄土にはないからであり)と解しています。確かに火は<たとへば大火の人身を焚焼するがごとし>(仏説無量寿経)と悪の報いをたとえ、<瞋憎は火のごとしと喩ふ>(観経疏 散善義)、<三界雑生の火>(往生論註)、<地獄の猛火・地獄の衆火>(仏説観無量寿経)、<つねに瞋恚毒害の火をもつて、智慧・慈・善根を焚焼す>(往生礼讃)や<火宅>と、火は煩悩・瞋恚のたとえとしてよく登場します。
しかし例外もあり、当の『論註』でも<菩薩願ずらく、おのれが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんと>とあり、また<なほ浄水のごとし、塵労もろもろの垢染を洗除するがゆゑに。なほ火王のごとし、一切の煩悩の薪を焼滅するがゆゑに>(仏説無量寿経)と、「水」の次に「火」のたとえが併記されています。次の「解義分68」の内容が<浄水のごとし>を開いた内容であることを考えると、<火の一大はかしこのなかになき>とまで断言できるかどうかは疑問が生じるところでしょう。
最後に「風」が省かれた理由は、<風ありといへども風は見るべからざるがゆゑに、住処なきがゆゑなり>(風はあるけれども風は見ることができないから、また一定の場所にとどまるものではないからである)とあります。しかし先にも<微風やうやく扇ぎて>とありましたし、<清風、時に発りて五つの音声を出す。微妙にして宮商、自然にあひ和す><微風やうやく動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す><風、その身に触るるに、みな快楽を得><風吹きて華を散らし、仏土に遍満す>等、重要な要素として風が登場しますが、三種には選ばれていません。『浄土論』は浄土の要めを論じていますので、地・水・虚空に絞り他は省略して説かれたのだろうと私は解しています。
(参照:{「極楽の余り風」の本当の意味})
次に「荘厳水功徳成就」に相当する『解義分』を引きます。
『往生論註』68(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)
荘厳水功徳成就とは、偈に「宝華千万種にして 池流泉に弥覆せり 微風華葉を動かすに交錯して光乱転す」と言える故なり。
これがどうして不思議であるかというと、かの浄土の人天は、水を飲み穀物を食べて生きる身でないのにどうして水を用いようか。すべては清浄に成就せられていて洗濯の必要がないのに、またどうして水を用いようか。かの国には春夏秋冬の四時がなく、いつも適当な気候で苦しい暑さがないのに、どうして水が必要であろうか。必要でないのに有るのは、有るべきわけがなくてはならぬ。
経(《大経》)に「かの国の菩薩や声聞たちが、もし宝の池に入って、足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし、膝までつかりたいと思えば膝まで達し、さらに腰までと思えば腰まで、頸 までと思えば頸まで増してくる。また身に[ 灌 ぎたいと思えばおのずと身に灌ぎ、反対に水を元にかえそうと思えばたちまち元どおりになる。その冷たさ暖かさはよく調和して望みにかない、一たびこれに浴するものは、心身ともにさわやかになって心の染れも除き去られる。その水は澄みきって、有るか無いかわからないくらいで、そこにある宝の沙のかがやきがどれほど深くても透きとおって見える。そのような水が小波を立てめぐり流れて注ぎあい、遅からず速からず、ゆるやかに流れて行く。ときにそれら無数の小波が自然の微妙な音声を出し、それによって思いのままにいかなる響きでも聞こえぬことはない。あるいは仏法僧の三宝のいわれを説く声を聞く。あるいは寂静の声、空無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・四無畏・十八不共法の声、いろいろの神通智慧の声、無所作の声、不起滅の声、さらに無生忍の声から甘露灌頂の声というふうに、さまざまの妙法の声が聞かれる。そして、これらの音声は聞く者の望みに応じて量りない喜びを与える。すなわちそれらの声を聞いた者は清浄・離欲・寂滅・真実の義にかない、仏法僧の三宝や十力・四無畏・十八不共法の徳にかない、神通・智慧など菩薩・声聞の行ずる道にかなうのである。このように、かの浄土には三悪道の苦難はもとより、そういう名さえなく、ただ自然の楽しい音声だけがあるから、その国の名を安楽というのである」と説かれている。浄土の水が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。[
<かの浄土の人天は水穀の身にあらず。なんぞ水を須ゐるや>(かの浄土の人天は、水を飲み穀物を食べて生きる身でないのにどうして水を用いようか)というのは、『仏説無量寿経』に依れば、浄土には素晴らしい飲食物が用意されていても、<実際に食べるものはいない。ただそれを見、香りをかぐだけで、食べおえたと感じ、おのすから満ち足りて身も心も和らぎ、決してその味に執着することはない>、<思いが満たされればそれらのものは消え去り、望むときにはまた現れる>と言われることを指しています。なお食は命の象徴ですから、具体的には我執的・法執的な生き方を脱したことを言うのでしょう。
(参照:{地獄・極楽の食事風景})
また<清浄成就して洗濯を須ゐず。またなんぞ水を用ゐるや>(すべては清浄に成就せられていて洗濯の必要がないのに、またどうして水を用いようか)というのは、浄土の天人は尊い衣服をおのずから身につけていて裁縫や染め直しや洗濯などをしなくてもよい、という意を受けて述べられています。具体的には、生活の不平不満が翻り、慚愧・懺悔が全うされることを言うのでしょう。
(参照:{取り繕いの無い懺悔を})
<かしこのなかには四時なし。つねに調適して熱に煩はず。またなんぞ水を須ゐるや>(かの国には春夏秋冬の四時がなく、いつも適当な気候で苦しい暑さがないのに、どうして水が必要であろうか)というのは、浄土には実際に暑さ寒さの別が無いわけではなく、覚った人間は迷っている人間とは違い「心頭を滅却すれば火もまた涼し」で、暑さ寒さ等生活に関する不平不満が無く、その時々の気候や状況を楽しく受け入れていることを言うのでしょう。
このことを踏まえて「飲食も洗濯も水浴び等も必要ない(執着がない)のになぜ水が存在するのか?」と曇鸞大師は自問し、すぐに自答しています。ただし答えの大半は『仏説無量寿経』の引用で済ませ、大師自身は<この水、仏事をなす>(浄土の水が衆生利益のはたらきをする)と書き添えてあるだけです。
ここをたった一言で要点を言い当ててみえる≠ニ賞賛できる人と、もっと親切に教えてほしい≠ニ不満が残る人もみえるでしょう。しかし「水が行為の心根を象徴している」ということを踏まえていれば、経典の引用だけでほぼ察しはつくと思います。
つまり、浄土というこの世の真実の姿(真実生命や歴史の大法則に基づいた実相)が見えれば、その尊い結果に調和し寄り添う真心の流れが見え、自分もその真心の働きに浴することが適うのです。これが浄土の水の輝きであり、「荘厳水功徳成就」の生活態度となります。
経典引用部分を要約すれば―― 「浄土建設の心根に触れたいと願う者は全て、願いに応じて(足から全身まで)その真心の精神に触れることができ、触れた者は心身がさわやかで清らかになる。この真心は澄みきって押し付けがましくなく、その底には深い仏宝の輝きを宿している。この真心は自然に念仏の声となって響き渡り、あらゆる苦難の叫び声が念仏の声に呼応し、生命讃歌の響きとなって聞こえてくる。これらはあらゆる仏法の教えと相応した響きであり、この響きを聞くと皆歓喜にわき、皆大乗の教えに喜び随うこととなる。そこには地獄・餓鬼・畜生の三悪道は名前さえなく、ただ道を求める法の快楽を聞くのみである。それゆえ阿弥陀仏の浄土を「安楽国」というのである……」と、このようになるでしょうか。これを受けての<この水、仏事をなす>(浄土の水が衆生利益のはたらきをする)とのお勧めですから、やはりたった一言で要点を言い当ててみえる≠ニ賞賛できる言葉と言えるでしょう。
最後に蛇足ですが、私は「上善如水」という酒の名を聞いた時、こうした「荘厳水功徳成就」の内容を思い浮かべました。
観察門 器世間「荘厳水功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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