『往生論註』巻上
この二句は荘厳種々事功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、泥土をもつて宮の飾りとなし、木石をもつて華観となす。あるいは金を彫り玉を鏤むも意願充たず。あるいは営みて百千を備ふれば、つぶさに辛苦を受く。これをもつてのゆゑに大悲心を興したまへり。「願はくはわれ成仏せんに、かならず珍宝具足し、厳麗自然にして有余にあひ忘れ、おのづから仏道を得しめん」と。この荘厳の事、たとひ毘首羯磨が工妙絶と称すとも、思を積み想を竭すとも、あによく取りて図さんや。「性」とは本の義なり。能生すでに浄し、所生いづくんぞ不浄を得ん。ゆゑに『経』(維摩経)にのたまはく、「その心浄きに随ひてすなはち仏土浄し」と。このゆゑに「備諸珍宝性 具足妙荘厳」といへり。
- 聖典意訳
諸の珍宝性 を備えて妙荘厳 を[ 具足 せり」[ この二句を、
荘厳種種事功徳成就 と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土を見れば、泥土をもって住居の飾りとし、木や石をもって、はなやかな楼閣とする。金を彫り玉をちりばめようとしても、なかなか心に満足できない。あるいはそれらを造るのに多くの苦しみを受けねばならない。[
こういうわけであるから、大悲心をおこされて、「わたしが仏となったならば、必ず珍しい宝をそろえて、うるわしい荘厳が自然にととのい、すべて十分に満足せしめて、そういうことを心にかけないで、おのずから仏果をえさせよう」と願われた。この荘厳のことがらは、たとい、その工がたぐいないといわれる毘首羯磨 が一所懸命おもいをつくしても、どうしてよくこれを写し取ることができようか、できはしない。[
「性」とは諸法の根本たる真如である。法蔵菩薩の成就しようという願心が真如にかなった清浄であるから、成就された荘厳が不浄であるはずがない。そこで、経(《維摩経》)の中に「その(法蔵の)願心が清浄であるから、随って仏土も清浄である」と説かれている。こういうわけで「諸の珍宝性を備えて妙荘厳を具足せり」といわれたのである。
世に宝と言われるものは多くありますが、私たちは何が宝か?≠ニ問うたことがあるでしょうか。金や名誉や健康を宝とする人たちが多いようですが、それらが本当の宝となるのでしょうか。また、それらを欲することが悩みの原因となっていないでしょうか。さらに、それらを失うことに憂いを感じていないでしょうか。
ここでは世俗世界や精神世界など三界の宝と、浄土の宝(珍宝)を比較し、浄土の「荘厳種々事功徳成就」の内容を明らかにします。
備諸珍宝性 具足妙荘厳
この二句は荘厳種々事功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、泥土をもつて宮の飾りとなし、木石をもつて華観となす。あるいは金を彫り玉を鏤むも意願充たず。あるいは営みて百千を備ふれば、つぶさに辛苦を受く。
▼意訳(意訳聖典より)
諸の珍宝性 を備えて[ 妙荘厳 を[ 具足 せり」[
この二句を、荘厳種種事功徳成就 と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土を見れば、泥土をもって住居の飾りとし、木や石をもって、はなやかな楼閣とする。金を彫り玉をちりばめようとしても、なかなか心に満足できない。あるいはそれらを造るのに多くの苦しみを受けねばならない。[
まずは三界の宝の問題点について述べます。
<泥土をもつて宮の飾り>とする、つまり汚れたものや、雨風に当たればすぐに流れてしまうような脆弱なものやを宝とすることが第一の問題としてあげられています。このようなものを宝と思って執着していれば、汚れが身につき、宝を失う悩みに心身とも疲れ果ててしまいます。
<木石をもつて華観となす>、つまり宝とする価値のないようなもので自分や自分の世界を飾り立てる愚を第二の問題としてあげています。以前は宝として執着していたほどのものが、ある日突然自分の中で価値を失うことがあります。それは元々宝でないものを宝と見間違って執着していたに過ぎません。
<あるいは金を彫り玉を鏤むも意願充たず>、つまり宝として価値の定まっているものでも、その価値に心から満足できないことを第三の問題点としてあげています。宝を宝と見抜く心眼が曇っていては宝の持ち腐れとなります。またたとえ世評の高い宝であっても、本心からその宝に満足することはできずもっと得たい≠ニ不満の心が湧くものです。
<あるいは営みて百千を備ふれば、つぶさに辛苦を受く>、つまり満足するほどの宝を得るためには多くの辛苦を経験し、得たら得たで辛苦を経験しなければならない、そんな宝が本当の宝と言えるか、ということを第四の問題点としてあげています。宝を得るための過程も得た後も幸せでなければ本当の宝とは言えないでしょう。
これらは具体的には、金銭欲や性欲や名誉欲といった欲界における宝や、芸術や精神世界といった天界の宝を指します。特に、精神世界の宝も副作用がついて回ることには注意しなければなりません。ある精神状態を是として執着すれば、その裏に潜む非の状態が必ず訪れ苦悩を深くします。
以前、{「日日是好日」という書をよく見ますが、どういう意味ですか? }の中で、自然と一体となり自由無碍な創造生活を営むことの問題点を指摘したことがありますが、中途半端な
また、本来は尊いはずの「信心歓喜」も、歓喜を自分の感情と理解し、「如来大悲を心から喜べない」ことに悩む人もいますが、これでは本末転倒。「大悲を喜べる」という状態のみを宝として執着してしまえば、そうでない状態の自分を受け入れることができなくなります。
人間のみならず全ての存在は矛盾的であることに気づかねば、自らの尾を追う犬のように無駄に疲れてしまいます。
これをもつてのゆゑに大悲心を興したまへり。「願はくはわれ成仏せんに、かならず珍宝具足し、厳麗自然にして有余にあひ忘れ、おのづから仏道を得しめん」と。この荘厳の事、たとひ毘首羯磨が工妙絶と称すとも、思を積み想を竭すとも、あによく取りて図さんや。
▼意訳(意訳聖典より)
こういうわけであるから、大悲心をおこされて、「わたしが仏となったならば、必ず珍しい宝をそろえて、うるわしい荘厳が自然にととのい、すべて十分に満足せしめて、そういうことを心にかけないで、おのずから仏果をえさせよう」と願われた。この荘厳のことがらは、たとい、その工がたぐいないといわれる毘首羯磨 が一所懸命おもいをつくしても、どうしてよくこれを写し取ることができようか、できはしない。[
三界の宝が上記のような不充分なありさまですから、浄土の宝はそのようなことのない、全ての人々が本当に満足できる宝が自然にととのうように用意(珍宝具足)しようと、如来は大悲心をおこされます。
さて、これは具体的にはどういう事実を言うのでしょうか。この箇所に相当する『論註』下巻を参考にしてみましょう。
『往生論註』64(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)
荘厳種種事功徳成就 とは、偈に「[ 諸 の[ 珍宝性 を備えて[ 妙荘厳 を[ 具足 せり」[
と言える故 なり。[
これがどうして不思議であるかというと、かのいろいろの事相 は、あるいは一宝・十宝・百千の宝をもって造ろうと思えば、その人の思いのままになって具わぬことはない。もし無いようにしようと思えば、たちまち下に没する。心の自在を得ることが神通よりこえすぐれている。どうして思いはかることができようか。[
真実の宝とは、必要な時に必要なだけ
小さな宝が必要な時は小さな宝が、大きな宝が必要な時は大きな宝が、沢山の宝が必要な時は沢山の宝が具わらねば私たちは満足できません。必要に応じて現れる、こんな打ち出の小槌のような宝が真実の宝(珍宝)です。
さらに、いくら素晴らしい宝でも必要なくなる時があります。そんな時には、小さな宝ならまだしも、大きな宝や沢山の宝は置き場所に困ります。必要がなくなれば消えてしまう、こんな便利な宝が真実の宝(珍宝)です。
私たちは金や宝石や骨董品などの金品や、思想や一つの精神状態を宝として求めますが、本当の宝はあらゆる物を尊び、あらゆる体験を無駄にしない≠ニ、受け取るこちら側の眼力と求道心が調うことではないでしょうか。こうなれば、目の前の現実全てが如来の用意された尊い宝≠ニ成ります。これこそ打ち出の小槌です。さらに目の前の現実以上の宝を欲しなくなるがゆえに、必要がなくなれば過去の宝≠ニ見抜かれ、それと同時に宝も消えてしまうのです。
『安心決定鈔』2には――
と、現実世界がそのまま如来の功徳が薫じられた世界であることを説いています。
(参照:{妙香合成の願})
なお最後の――
「性」とは本の義なり。能生すでに浄し、所生いづくんぞ不浄を得ん。ゆゑに『経』(維摩経)にのたまはく、「その心浄きに随ひてすなはち仏土浄し」と。このゆゑに「備諸珍宝性 具足妙荘厳」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
「性」とは諸法の根本たる真如である。法蔵菩薩の成就しようという願心が真如にかなった清浄であるから、成就された荘厳が不浄であるはずがない。そこで、経(《維摩経》)の中に「その(法蔵の)願心が清浄であるから、随って仏土も清浄である」と説かれている。こういうわけで「諸の珍宝性を備えて妙荘厳を具足せり」といわれたのである。
という箇所については、{荘厳清浄功徳成就}に書かれた通りです。
『仏説無量寿経』巻上14 正宗分 弥陀果徳 宝樹荘厳
▼意訳(現代語版より)
またその国土には、七つの宝でできたさまざまな樹々が一面に立ち並んでいる。金の樹・銀の樹・瑠璃の樹・水晶の樹・珊瑚の樹・瑪瑙の樹・シャコの樹というように一つの宝だけでできた樹もあり、二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある。 金の樹で銀の葉・花・実をつけたものもあり、銀の樹で金の葉・花・実をつけたものもある。また、瑠璃の樹で水晶の葉・花・実をつけたもの、水晶の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたもの、珊瑚の樹で瑪瑙の葉・花・実をつけたもの、瑪瑙の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたものもある。 あるいは、シャコの樹でいろいろな宝の葉・花・実をつけたものなどもある。 さらにまた、ある宝樹は金の根・銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、瑪瑙の花、シャコの実でできている。 ある宝樹は銀の根、瑠璃の幹、水晶の枝、珊瑚の小枝、瑪瑙の葉、シャコの花、金の実でできている。 ある宝樹は瑠璃の根、水晶の幹、珊瑚の枝、瑪瑙の小枝、シャコの葉、金の花、銀の実でできている。 ある宝樹は水晶の根、珊瑚の幹、瑪瑙の枝、シャコの小枝、金の葉、銀の花、瑠璃の実でできている。 ある宝樹は珊瑚の根、瑪瑙の幹、シャコの枝、金の小枝、銀の葉、瑠璃の花、水晶の実でできている。 ある宝樹は瑪瑙の根、シャコの幹、金の枝、銀の小枝、瑠璃の葉、水晶の花、珊瑚の実でできている。 ある宝樹はシャコの根、金の幹、銀の枝、瑠璃の小枝、水晶の葉、珊瑚の花、瑪瑙の実でできている。
これらの宝樹が整然と並び、幹も枝も葉も花も実も、すべてつりあいよくそろっており、はなやかに輝いているようすは、まことにまばゆいばかりである。ときおり清らかな風がゆるやかに吹いてくると、それらの宝樹はいろいろな音を出して、その音色はみごとに調和している。
『仏説無量寿経』巻上17・正宗分・弥陀果徳・眷属荘厳
▼意訳(現代語版より)
阿難よ、無量寿仏の国に往生したものたちは、これから述べるような清らかな体とすぐれた声と神通力の徳をそなえているのであり、その身をおく宮殿をはじめ、衣服、食べものや飲みもの、多くの美しく香り高い花、飾りの品々などは、ちょうど他化自在天のようにおのずから得ることができるのである。
もし食事をしたいと思えば、七つの宝でできた器がおのずから目の前に現れる。その金・銀・瑠璃 ・シャコ・[ 瑪瑙 ・[ 珊瑚 ・[ 琥珀 ・[ 明月真珠 などのいろいろな器が思いのままに現れて、それにはおのずからさまざまなすばらしい食べものや飲みものがあふれるほどに盛られている。しかしこのような食べものがあっても、実際に食べるものはいない。ただそれを見、香りをかぐだけで、食べおえたと感じ、おのすから満ち足りて身も心も和らぎ、決してその味に執着することはない。思いが満たされればそれらのものは消え去り、望むときにはまた現れる。[
まことに無量寿仏の国は清く安らかであり、美しく快く、そこでは涅槃のさとりに至るのである。その国の声聞・菩薩・天人・人々は、すぐれた智慧と自由自在な神通力をそなえ、姿かたちもみな同じで、何の違いもない。ただ他の世界の習慣にしたがって天人とか人間とかいうだけで、顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない。すべてのものが、かたちを超えたすぐれたさとりの身を得ているのである」
『仏説無量寿経』巻上21・正宗分・弥陀果徳・眷属荘厳
▼意訳(現代語版より)
また風が吹いて花を散らし、この仏の国を余すところなくおおい尽す、それらの花は、それぞれの色ごとにまとまって入りまじることがない。そして、やわらかく光沢があって、かぐわしい香りを放っている。その上を足で踏むと四寸ほどくぼみ、足をあげるとすぐまたもとにもどる。花が必要でなくなれば、たちまち地面が開いて花は次々とその中へ消え、すっかりきれいになって一つの花も残らない。このようにして、昼夜六時のそれぞれに、風が吹いて花を散らすのである。
『仏説無量寿経』28・巻下・正宗分・衆生往生果 より
▼意訳(現代語版より)
続けて釈尊が仰せになる。
「その国の菩薩たちは無量寿仏のすぐれた神通力を受けて、一度食事をするほどの短い時間のうちにすべての数限りない世界に行き、さまざまな仏がたを敬い供養する。香り高い花・音楽・天蓋・幡など、思いのままに数限りない供養の品々がすぐさまおのずから現れてくるのであるが、みなとりわけすぐれて珍しく、この世では見られないものばかりである。菩薩がそれらの品々を仏がたや菩薩や声聞たちにささげると、まかれた花は空中で花の天蓋となってきらきら輝き、香りがあたり一面に広がる。この花の天蓋は、周囲が四百里のものから、だんだん大きくなって世界中をおおうほどのものまである。そしてそれらの花の天蓋は、新しいものが現れるにしたがい、前のものから次々と消えてなくなる。菩薩たちはともに喜びにひたり、空中にあって美しい音楽を奏で、すばらしい歌声で仏の徳をほめたたえ、教えを聞いて限りない喜びを得る。このようにして仏がたを供養しおわり、食事の時までに、たちまち身もかるがると無量寿仏の国に帰るのである」
観察門 器世間「荘厳種々事功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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