『往生論註』巻上
この二句は荘厳眷属功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは胞血をもつて身器となす。あるいは糞尿をもつて生の元となす。あるいは槐棘の高き圻より猜狂の子を出す。あるいは竪子が婢腹より卓犖の才を出す。譏誚これによりて火を懐き、恥辱これによりて氷を抱く。ゆゑに願じてのたまはく、「わが国土にはことごとく如来浄華のなかより生じて、眷属平等にして与奪路なからしめん」と。このゆゑに「如来浄華衆 正覚華化生」といへり。
- 聖典意訳
如来浄華 の衆は 正覚の華より化生 す[ この二句を、
荘厳眷属功徳成就 と名づける。仏は[ 因位 の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、あるいは父母の[ 胞血 をもって[ 体 を生じ、あるいは[ 糞尿 をもって生まれる元とする。あるいは朝廷に仕える身分の家から愚かな子が出てくる。あるいは身分の卑しい男女の家柄からすぐれた才能のものがでてくる。そのためにそしりを受けて火を抱く思いをし、恥ずかしめられて氷を抱く思いをする。こういうわけで「わが国土においては、すべてが如来の[ 清浄華 より生まれ、[ 眷属 はみな[ 一味平等 であって、そしられることのないようにしよう」と願われた。それゆえ「如来浄華の衆は 正覚の華より化生す」といわれたのである。[
器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうち「荘厳眷属功徳成就」の詳細を観察します。
「眷属」の「眷」は目をぐるりとまわしてみること=A「属」はひっついて離れない/つきしたがう≠ニいう意味ですから、「眷属」は一族・親族・身うち≠竍従者・家子・腹心のもの≠ネどを言い、「目をかけている身内や仲間・腹心」を表します。では、阿弥陀仏浄土の眷属はどこまでの範囲を指し、何によってつながっているのでしょう。また浄土の眷属は私にとってどういう意味を持つ存在なのでしょう。詳しく検証してみたいと思います。
如来浄華衆 正覚華化生
この二句は荘厳眷属功徳成就と名づく。
▼意訳(意訳聖典より)
如来浄華 の衆は 正覚の華より[ 化生 す[
この二句を、荘厳眷属功徳成就 と名づける。[
ここでは浄土の眷属(浄土に生まれんと願い即得往生した浄華衆)つまり真実信心獲得の念仏者本来の姿≠観察します。
<如来
「正覚の華」とは覚りによって見出された座(立場)に徳の華が咲いている≠ニいうことです。諸仏は修行の成果を「浄土の華」という形で衆生に回向されるのですが、阿弥陀仏は{荘厳主功徳成就}においても説明しましたが、「三界は我が有なり」で一切衆生を胸に抱いた親や国王としての立場に立ち、永劫の願いと修行を成就された歴史存在です(覚った仏がそういう歴史存在を見出した途端に阿弥陀と名のりが出た)。これは六道に迷う一切衆生(十万億)を抱いた存在≠ニいう意味を象徴して、たとえば『仏説観無量寿経』17には「仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり」と表しています。
このような修行の成果が「正覚の華」で、阿弥陀仏の浄土(安楽国土)は阿弥陀仏の願いと修行の成果によって成就された環境ですから、浄土の側では一切衆生が「正覚の華」に座ることはとうの昔に準備できているのです。したがって一切衆生は安楽浄土の成立経緯を聞き開けばおのずと浄土に生まれたいと願う(至心・信楽・欲生)ようになり、浄土に生まれたいと願えば「仏願力に乗じて浄土往生を得る」で、願う途端に即得往生できることは疑いありません。さらには、即得往生が適えばおのずと「仏力住持して、正定聚に入る」ことができる、つまり、必ず仏に成ることが約束された位の正定聚・不退転の菩薩となることが適うのですが、これを「報土化生」と言います。
(参照:{正定聚・不退転の菩薩について})
しかし浄土の本質に背く理由で往生しようと思っても(たとえば食欲や性欲や安逸など世俗的欲望・
親鸞聖人も――
本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる『正像末和讃』69誡疑讃
と詠まれ、
(参照:{「蓮莟を模す」の間違い})
ちなみに衆生が「往生を願う」ということも、衆生個人の決断に依るのではありません。仏徳が成就し衆生に回向された果報として、衆生は仏徳讃嘆を果たし「往生を願う」ことが適うのです。いずれも阿弥陀仏の本願力と仏力の果報ですから、最終的には一切衆生はみな安楽国土に願生し(皆得往生)、みな正定聚不退転の菩薩と成り、みな自らの国主となって国土荘厳にいそしむことが適うのです。
仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは胞血をもつて身器となす。あるいは糞尿をもつて生の元となす。あるいは槐棘の高き圻より猜狂の子を出す。あるいは竪子が婢腹より卓犖の才を出す。譏誚これによりて火を懐き、恥辱これによりて氷を抱く。
▼意訳(意訳聖典より)
仏は因位 の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、あるいは父母の[ 胞血 をもって[ 体 を生じ、あるいは[ 糞尿 をもって生まれる元とする。あるいは朝廷に仕える身分の家から愚かな子が出てくる。あるいは身分の卑しい男女の家柄からすぐれた才能のものがでてくる。そのためにそしりを受けて火を抱く思いをし、恥ずかしめられて氷を抱く思いをする。[
<仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる>
(仏は
前節に述べましたように、最終的には一切衆生はみな安楽国土に願生し成仏が適うのですが、阿弥陀仏は{声聞無量の願}, {眷属長寿の願}, {離諸不善の願}をおこされた。それは、願いを
<ある国土を見そなはすに、あるいは胞血をもつて身器となす。あるいは糞尿をもつて生の元となす。あるいは槐棘の高き圻より猜狂の子を出す。あるいは竪子が婢腹より卓犖の才を出す。譏誚これによりて火を懐き、恥辱これによりて氷を抱く>
(ある国土をみれば、あるいは父母の
これらは総じて言えば、現実社会に「氏素性の別がある」ことと「氏素性による悪差別が存在する」ことに分けられます。
「氏素性の別がある」ことは、それ自体に問題があるわけではありません。社会には様々な立場があり、背負っている責任の重さや種類には違いがあります。また人間社会の基本単位は家族の文化ですから、家柄に違いが出ることはごく自然の道理です。
(参照:{家柄に込められた先祖の真心})
しかし、こうした千差万別の家柄に上下の差別をつけ、封建的な身分制度存続のため家柄を固定化・実体化してしまうところに悲劇が起こります。「朝廷に仕える身分の家から愚かな子が出てくる」ことは当然のようにあり、「身分の卑しい男女の家柄からすぐれた才能のものがでてくる」ことも当然あります。しかしこのことによって「そしりを受けて火を抱く思いをし、恥ずかしめられて氷を抱く思いをする」ということが耐えられないのです。
また「愚かな子」と言っても、その子が本当に愚かなのではなく、「朝廷に仕える身分の家」としての体面にふさわしくないだけで、その子にはその子なりの個性と才能が隠れているものです。それに、特別な才能というものは見出せなくとも、「一切衆生悉有仏性」と経にあるように、「仏に成れる」という最高の才能は全ての人が共通に持っているものです。『仏説観無量寿経』16には<諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ>とも言われていますが、ここに周囲の人たちの目が向く環境かどうか、ということを問わねばなりません。人間は本来仏である≠ニいうだけでは不足で、本来的なものが認識・自覚される環境を得てこそ人間の本性が生きるのです。
周囲がその子の仏性に目を向けず、氏素性の悪差別にとらわれている、そういう国土(人間環境)に育ち、悪差別を意識して暮らすことはどれほど悲しいことでしょう。たとえ高貴とされる家に生まれても、その反対とされる家に生まれても、どちらにしても悲劇です。
現代は封建時代と異なり、法律による身分差別はほぼ(全てではない)ありません。それでも職種や地位、人種・民族による差別、格差の固定化、思想・信条・宗教による差別が無くなったわけではありません。そしてそれら悪差別の中で苦悩の人生を歩まざるを得ない現実がある以上、浄土の荘厳眷属功徳成就を観察する意味もまたあると言えましょう。
ゆゑに願じてのたまはく、「わが国土にはことごとく如来浄華のなかより生じて、眷属平等にして与奪路なからしめん」と。このゆゑに「如来浄華衆 正覚華化生」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
こういうわけで「わが国土においては、すべてが如来の清浄華 より生まれ、[ 眷属 はみな[ 一味平等 であって、そしられることのないようにしよう」と願われた。それゆえ「如来浄華の衆は 正覚の華より化生す」といわれたのである。[
<ことごとく如来浄華のなかより生じて>
(すべてが如来の
阿弥陀仏は一切衆生の往生と入正定聚を願い導く創造的根本主体≠ナすから、この願いに報いて建設された国土には、一切衆生が本音として必ず
<眷属平等にして与奪路なからしめん>
(
さらに阿弥陀仏は一切衆生の親であり国王ですから、全ての衆生を眷属(目をかけている同朋・親族)として平等に尊びます。この阿弥陀仏の尊びに気づいた念仏者には仏の眼が回向され、社会の悪差別に閉じていた視点を
なお「荘厳眷属功徳成就」に相当する解義分を引きますと――
『往生論註』75(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)とある通りですが、上記までの解釈でほぼ意を尽くしていると思います。
荘厳眷属功徳成就とは、偈に「如来浄華の衆は 正覚の花より化生す」と言える故なり。
これがどうして不思議であるかというと、およそ、生まれた方のさまざまなこの世界には、もしは胎生 、もしは[ 卵生 、もしは[ 湿生 、もしは[ 化生 と、その種類がいろいろ分かれている。また苦楽もさまざまである。それはいろいろな迷いの業によって生まれたからである。かの安楽浄土には、すべて阿弥陀如来の浄らかな正覚の花から化生しないものはない。同じく念仏によって往生するのであって別の道がないからである。そこで、遠くあらゆる世界に通じて、念仏する者はみな兄弟となるのである。浄土の眷属は数かぎりがない。どうして思いはかることができようか。[
なお、
ところで、この『往生論註』においては語られていませんが、正覚の華は経典においては「場所的自覚」を象徴しています。正定聚の菩薩(信心獲得の念仏者)は社会的・家庭的立場から仏性の歴史徳を得、立場はそのまま成仏の座となり、蓮華座の光明にお育ていただくことが適うのです。救済の内容で言えば、何ものでもない私≠ェ「霊性的自覚」で救われるのではなく、何かである私≠ェ「場所的自覚」によって救われるのです。つまり、心や魂の救いだけでは充分ではなく、社会的人間として立場や名を伴って救われることが本当の救済で、これによって真に満足する人生を得たと言えるでしょう。
(参照:{仏教は「自分らしく生きる」ことを説く宗教ですか?})
一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし
一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり
相好ごとに百千の ひかりを十方にはなちてぞ つねに妙法ときひろめ 衆生を仏道にいらしむる『浄土和讃』42〜44
観察門 器世間「荘厳眷属功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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