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【十界モニター】

「人民〔の寿命〕も、無量無辺」の疑問

阿弥陀仏の本質に関わる誤謬

 阿弥陀仏と信心の関係性

 阿弥陀仏とは何か? どういう内容に阿弥陀仏と名が付けられたのか?

 こうした本質的な問題は、了義の経典である浄土三部経に依るしかない。その中でも真実の依りどころは『仏説無量寿経』(大経)で、この経は真実の人生観である「法の真実」を顕すと聞かせていただいている。そしてこの大経の内容が現実にどのように働くかを観るには『仏説観無量寿経』(観経)が重要で、この経は認識面である「機の真実」を顕すとされている。
 また『観経』と並んで重要とされる経典は『仏説阿弥陀経』で、この経は念仏の功徳に詳しく、「悪を転じて徳となす世界」、「如来と浄土の功徳が名乗りを上げる世界」が要約されているので、読経の機会も多い。おそらく浄土系の僧侶にとっては生涯最も多く読ませて頂く経典だろう。

 ところが『仏説阿弥陀経』の書き下し文を読んでみると、どうにも腑に落ちない箇所がある。話の筋が通っていないのだ。
 以下の箇所である――

舎利弗、なんぢが意においていかん、かの仏をなんのゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も、無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。

『仏説阿弥陀経』4 正宗分 因果段 光寿二無量

▼意訳(現代語版より)
 舎利弗よ、そなたはどう思うか。なぜその仏を阿弥陀と申しあげるのだろうか。
 舎利弗よ、その仏の光明には限りがなく、すべての国々を照らして何ものにもさまたげられることがない。それで阿弥陀と申しあげるのである。
 また舎利弗よ、その仏の寿命とその国の人々の寿命もともに限りがなく、実にはかり知れないほど長い。それで阿弥陀と申しあげるのである

 先の「浄土真宗聖典 注釈版」の書き下し文と「現代語版」には内容の差はない。ちなみに『浄土三部経(下)』(中村元訳註/岩波書店)はじめ、ほぼ全ての書も同様の理解である。しかしこれでは話の筋が通っていないのではないか。

<阿弥陀と名づく>とする<ゆゑ>(理由)は、<かの仏の寿命>が<無量無辺阿僧祇劫>だけなら解るが、<その人民〔の寿命〕も、無量無辺阿僧祇劫>と語るのは名の理由としては唐突であり蛇足ではないか。また、阿弥陀仏の寿命無量と国中人天の眷属長寿は同列に語るものではないだろう。『大経』では別の願で顕されているし(参照:{寿命無量の願}{眷属長寿の願})、因果の順のある内容を同列に語るのは乱暴と言わざるを得ないからだ。また「光明無量」では、阿弥陀仏が十方の国を照らす、という因果の順が明確なのに、「寿命無量」にそれが無いのは不自然だろう。

 阿弥陀仏とは、一切諸仏の智慧と徳の総合体であり、仏性の歴史的主体であり、人類の道心・菩提心の中心である。それゆえ阿弥陀仏は「寿命無量」で良いが、人民個人の命は当然ながら有限である。「人生五十年」とも「百年」とも言うではないか。「諸行無常」という明日をも知れぬ命、吐く息吸う息が人民の命であるはずだ。ここを否定したら仏教ではない。
 また個々の人間は時代の癖と生活環境に影響され、無量の菩提心を発揮することは適わず、有限の閉じた世界に生きている。どんな聖者の名を挙げても完璧な人間など存在しない。誰かを完璧と思い、思い込ませることを洗脳というのである。皆、有限の環境で有限の命をかかえて生きているのだ。

 しかしこの有限の命が、驚くべきことに「計り知れない寿命」という歴史の重みを持つ。このことが真実信心の内容なのである。つまり、人民は有限の命であるけれども、この有限の中身が「内容として無量の寿命を抱えることを自覚」する。これが「往生を願う」ことに他ならない。また、こう解釈しなければ、「永遠の天国」を約束したような迷信的宗教と変わらなくなってしまう。仏教は迷信を廃した真実の宗教であるはずだ。

 このように私にとって<その人民〔の寿命〕も、無量無辺阿僧祇劫>は、長年どうしても腑に落ちなかった箇所だった。しかし昨年、島田幸昭師の講和テープを聞かせていただき、目から鱗が落ちるほど明確な解答を得ることができた。
 それは漢文の経典を読み直すことで理解できる。

舎利弗於汝意云何彼仏何故号阿弥陀舎利弗彼仏光明無量照十方国無所障礙是故号為阿弥陀 又舎利弗彼仏寿命及其人民無量無辺阿僧祇劫故名阿弥陀

『仏説阿弥陀経』4 正宗分 因果段 光寿二無量

<及其人民>を「およびその人民」と読み下すから矛盾が生じる。「その人民におよんで」と読み下せば良いのだ。
 つまり――
かの仏の寿命は、その人民におよんで無量無辺、阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく」と読み下す。こうすれば、阿弥陀仏の内容も、念仏の行者の内容も、そして何より阿弥陀仏と念仏者の関係までも明らかになるではないか。詳しく意訳すれば以下のようになる。
彼の仏の寿命である無上菩提心は、彼の仏国に往生しようと願う人民に回向(往相回向・還相回向)され、限りなく展開し、実にはかり知れないほど長く保たれる。それで阿弥陀と申しあげるのである。
 確かにこう意訳すれば、「阿弥陀仏とは何か? どういう内容に阿弥陀仏と名が付けられたのか?」との問いに明確な解答が得られる。私たちに回向され、世に長く展開する道心・菩提心の根本的主体に「阿弥陀仏」と名がついた訳だ。
 これは「一即一切」の大乗の教えにも適っていて、「一切」である阿弥陀仏の無上菩提心が回向され「一」である私の信心に成り切る、また「一」である私を通してのみ「一切」の阿弥陀仏は[はたら]きを現すことができる。これは機法一体の南無阿弥陀仏そのものであろう。

 先に述べたように、「その人民におよんで」と読み下すことは一般的でないかも知れない。しかし阿弥陀仏と信心の本質を鑑みれば、このように読み下す方が内容に順じているのではないだろうか。

[Shinsui]

 資料

 法蔵菩薩とは菩堤心のことですが、たとえば親が親として光り輝いているのは、「わしのような親を親にもってすまん」、それも口ではなく心で、「あんたもよい子になってくれ、わしもまことの親らしい親になりたい」と、親としての道を求めている間であって、もし親らしいまことの親になりたいという菩堤心がなくなって、「わしのような親は外にはあるまいが」となったら、それは親の資格を失った、頑固親爺になってしまいます。
 仏の命とは仏が限りなく仏の道を求めてゆく、無上菩堤心のことです。「彼仏寿命及其人民」は、ほとんどの人が「彼の仏の寿命及びその人民」と読んでいますが、「彼の仏の寿命はその人民に及んで」と読む方が経文の意に契うように思われます。
 したがって次の「無量無辺阿僧祗劫」も、今までは続けて読んで、単に寿命の長いことに解釈していますが、「彼の仏の寿命がその人民に及ぶ」とは、仏の命が人民をして人民をたらしめることであり、人民の一人ひとりに仏の命が働いていることですから、ここの経文を「彼の仏の寿命はその人民に及んで無量無辺であって」とここで切り、「阿僧祗劫である」と、数の多いことと、時間的に永いことの二つに分けて読むべきではないでしょうか。人民をして人民にたらしめるとは、次の経文にある「極楽の人民はことごとく声聞と菩薩の徳を具えている」ということです。

『阿弥陀経探訪』寿命無量ということ/島田幸昭師講和(未校正)より


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