『往生論註』巻上
この二句は荘厳妙声功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、善法ありといへども名声遠からず。名声ありて遠しといへどもまた微妙ならず。名声ありて妙遠なれども、また物を悟らしむることあたはず。このゆゑにこの荘厳を起したまへり。天竺国(印度)には浄行を称して「梵行」となす。妙辞を称して「梵言」となす。かの国には梵天を貴重すれば、多く「梵」をもつて讃をなす。またいはく、中国の法、梵天と通ずるがゆゑなり。「声」とは名なり。名はいはく、安楽土の名なり。経にのたまはく、「もし人ただ安楽浄土の名を聞きて往生を欲願するに、また願のごとくなることを得」と。これは名の物を悟らしむる証なり。『釈論』(大智度論・意)にいはく、「かくのごとき浄土は三界の所摂にあらず。なにをもつてこれをいふとならば、欲なきがゆゑに欲界にあらず。地居なるがゆゑに色界にあらず。色あるがゆゑに無色界にあらざればなり。けだし菩薩の別業の致すところのみ」と。有を出でてしかうして有なるを 「有を出でて」とは、いはく、三有を出づるなり。「しかうして有なる」とはいはく、浄土の有なり 微といふ。名よく開悟せしむるを妙 妙は好なり。名をもつて、よく物を悟らしむるゆゑに妙と称す といふ。このゆゑに「梵声悟深遠 微妙聞十方」といへり。
- 聖典意訳
- 梵声の悟らすこと深遠なり 微妙にして十方に聞こゆ
この二句を荘厳妙声功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、善い功徳があっても、その名声が遠く聞こえず、名声があって遠い所に及んでも微妙でない。名声が微妙で遠くに聞こえたといっても人に悟りを与えることができない。こういうわけでこの荘厳をおこされたのである。
天竺(印度)においては、清浄なる行を梵行とし、よいことばを梵言とする。印度では梵天を尊重するから、だいたい梵ということばをもってほめことばとする。また印度のことがらは梵天と通じているからである。「声」とは名のことである。名とは安楽浄土の名である。経(《平等覚経》・《大阿弥陀経》の意)に「もし人が、ただ安楽浄土の名を聞いて往生を願うものは、また願いのごとく往生をうる」とある。これは浄土の名が衆生を悟らせるところの證拠である。
釈論(《智度論》)にいうてある。「このような浄土は、三界に摂まるところではない。なぜそういうのかといえば、欲がないから欲界ではない。大地の上にいるから色界ではない。色形があるから無色界ではない。考えて見ると法蔵菩薩の特別な因位の業によって成就されたところである。」有を出てしかも有であるのを微という。「有を出る」とは三界を出ることである。「しかも有である」とは浄土の有ることである。名号がよく衆生を悟らしめるのを妙という。「妙」とは好の意味である。名をもって人を悟らせるから妙という。こういうわけで「梵声の悟らすこと深遠なり 微妙にして十方に聞こゆ」といわれたのである。
器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうち「荘厳妙声功徳成就」の詳細を観察します。具体的には、浄土の名が衆生を覚らしめることを証明します。
梵声悟深遠 微妙聞十方
この二句は荘厳妙声功徳成就と名づく。
▼意訳(意訳聖典より)
梵声の悟らすこと深遠なり 微妙にして十方に聞こゆ
この二句を荘厳妙声功徳成就と名づける。
観察門も今回で十三節目を数えますので、ここで基本的な用語について再確認しながら話を進めてみたいと思います。
<梵声悟深遠 微妙聞十方>についての領解。まず<荘厳妙声功徳成就>とあります。
「荘厳」とは、仏性本来の性質が発揮され浄土と娑婆が相照らしあって新たな世界を創造することを言います。虚と実のごとく、娑婆を娑婆と知らしめて浄土があり、浄土を浄土と願わしめて娑婆がある。浄土があるゆえに私たちは苦悩の現実に生きる意味があるのであり、苦悩の現実があるゆえに浄土の存在意義があるのです。なお、「清浄はこれ総相なり」(清浄功徳は荘厳のすべてにわたる徳である/参照:{荘厳清浄功徳成就})とありますから、浄土の各相を観察する際は迷いの三界や煩悩を離れた清浄な環境≠観ることが前提であり、詳細を言えば、絶えず如来回向の無上菩提心を背景に持つことが肝要となるのです。五濁の汚れを浄化するはたらきが平等にあり、そこに創造性や個性が発揮されることが荘厳です。
「妙声」は今回じっくり観察すべき浄土の徳目です。名が仏にとっても衆生にとっても国土にとっても非常に重要な要素であることが領解できれば、称名念仏が<もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海>(顕浄土真実教行証文類 行文類二・1)の大行であるいわれがより明確に読み取れます。
「功徳」は「徳のはたらき」です。仏とは、「自覚覚他・覚行円満」と言われるように、みずから智慧を得、他に智慧を得さしめ、自利利他の行が円熟して徳を身に
そしてこの仏や浄土の徳が現実に私の元に届けられるには、「徳」が「名声」となっていなければ適いません。名声とならねば広く衆生に浄土の土徳を知らしめることは適わず、土徳を生んだ智慧も働きを失います。どんなに素晴らしい製品を造っても、どんなに素晴らしい教育を
ですから、大経・重誓偈には「名声十方に超えん」とあります。阿弥陀仏にとっては浄土の名声こそが最後の仕上げであり、衆生にとっては浄土の名声こそが仏縁のはじまりなのです。この経緯につきましては{『十住毘婆沙論』と『往生論註』})にも詳説しましたが、浄土と衆生とつなぐ
『十住毘婆沙論』巻第五で龍樹菩薩は、十方の諸仏を紹介し、<もし菩薩この身において阿惟越致地に至ることを得て、阿耨多羅三藐三菩提を成就せんと欲せば、まさにこの十方諸仏を念じ、その名号を称すべし>と勧めます。なぜ十方諸仏を念じ、その名号を称することが、正定聚に至る道となるのかということについて、親鸞聖人は法位著『大経義疏』を引いて次のように説明されてみえます。
『顕浄土真実教行証文類』行文類二60 大行釈 引文 より
意訳▼(現代語版 より)
法相宗の祖師、法位が『大経義疏』にいっている。
「仏がたはみなその功徳を名号におさめる。だから、名号を称えることは、仏の功徳をたたえることである。仏の功徳はわたしたちの罪を滅して利益を生じる。名号もまたその通りである。もし仏の名号を信じたなら、善根を生じて悪を滅するのは、間違いのないことであり、疑いのないことである。名号を称えて往生を得ることに、何を迷う必要があろうか」
このように、名号を称えることは仏の功徳をたたえることでありますから、この功徳をたたえるためには、名号に仕上がった経緯を聞く必要が出てきます。これこそが経典の「御はからい」でありましょう。そして阿弥陀仏の浄土で言えば、このカラクリは「しからしむ」とも「誓い」とも言われる「本願力回向」本流の総仕上げなのです。
親鸞聖人は、『仏説無量寿経』から――
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末)65 信一念釈 より
意訳▼(現代語版 より)
ところで、『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末 を聞いて疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。[
というように、聞法は仏願の生起本末を聞くこと。つまり法を聞くということは、本願が起こった経緯とそれが展開する経緯を詳しく聞いていくことにある、と聖人は達意的に受け取られました。本願力回向として聞き開いて、如来の願心が解れば、衆生の身に宿されていた本来の仏性が眼をさまし、信心(人生観)として身に満たされますから、本願への疑いは自ずと無くなり、念仏者の生活を通して如来の真心は十方世界に展開することになります。聖徳太子は「人はよく法をひろむ、法は人によってひろまる」と仰られましたが、これは道理としても現実としても全く間違いのない事実でありましょう。
仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、善法ありといへども名声遠からず。名声ありて遠しといへどもまた微妙ならず。名声ありて妙遠なれども、また物を悟らしむることあたはず。このゆゑにこの荘厳を起したまへり。
▼意訳(意訳聖典より)
仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、善い功徳があっても、その名声が遠く聞こえず、名声があって遠い所に及んでも微妙でない。名声が微妙で遠くに聞こえたといっても人に悟りを与えることができない。こういうわけでこの荘厳をおこされたのである。
<仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる>
(仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと)
妙声・名声に関する願は、{離諸不善の願}、{諸仏称名の願}、{聞名梵行の願}など14の願数にのぼります。ただし願文には、「聞我名号」や「聞我名字」(わが名字を聞きて)とあり、「我」は一般的に「阿弥陀仏」を指すと解釈できますが、身土不二(仏身と浄土は同じではないが別でもない)でありますから、阿弥陀仏の名声は浄土の名声と同類と見て良いでしょう。たとえて言えば、芸術家の名声と作品の名声はほぼ同じ内容であり、宗教界で言えば最澄の名声と天台宗の名声、親鸞の名声と浄土真宗の名声は本来的には不二であるのと同様です。
ここでは、これらの願がおこされた理由を問うています。
<ある国土を見そなはすに>
(ある国土をみれば)
「ある国土」とは、「国」はある主体を中心に、そのはたらきの及ぶ世界≠ニいう意味です。「土」は現在で言う「環境」です。ただし仏教で問うのは「自然環境」ではなく、「家庭環境」や「社会環境」「歴史環境」を重要視しています。ですから「国土」とは、たとえば「ある人物を中心として構築された人間関係や社会環境」であり、「ある民族や団体の統治権を中心として構築された人間関係や国際環境」であり、「ある民族や団体の世界観や精神史を中心として構築された人間関係や国際環境」であります。この中で、統治権が中心となった国土は国家であり、世界観や精神史が中心となった国土は宗教団体であることが一般的なのですが、そうした線引きが難しい国家や教団もあります。
しかしこの観察門では、「ある人物を中心として構築された人間関係や社会環境」を認識することが何にも増して重要です。特に自らの国土を認識し、それが古今東西で唯一無二の関係性を持った世界であること。そしてあらゆる衆生ひとり一人にそうした唯一無二の関係性を持った国土があり、その国土の一つひとつに全世界の衆生が宿っていることが認識されれば、<この世は重々無尽の世界であること>を領解することができます(参照:{無三悪趣の願} 、 {「自分の国」とは自分自身のことですか?})。
ちなみに、阿弥陀仏の国土(無量寿国・安楽国・安養国・極楽国)は「阿弥陀仏を主体として構築され、そのはたらきの及ぶ世界」であり、その主体は「人類を根源から動かしている歴史的精神」(法蔵菩薩)を永遠の初心とし、その内容は、本願の因縁果報によって真実報身として成就した「創造的世界の創造的根源主体」である阿弥陀仏であります。仏の内容は次回と「阿弥陀仏の荘厳功徳を観察す」る箇所で詳しく学びます。
<善法ありといへども名声遠からず。名声ありて遠しといへどもまた微妙ならず。名声ありて妙遠なれども、また物を悟らしむることあたはず。このゆゑにこの荘厳を起したまへり>
(善い功徳があっても、その名声が遠く聞こえず、名声があって遠い所に及んでも微妙でない。名声が微妙で遠くに聞こえたといっても人に悟りを与えることができない。こういうわけでこの荘厳をおこされたのである)
「善法ありといへども〜微妙ならず」は説明不要でしょう。名声が遠く及ばないということは、御山の大将≠竍井の中の
しかしそれにも増して重要なのは、「名声ありて妙遠なれども、また物を悟らしむることあたはず」という指摘です。いくら勝れた国土が存在しその名声が高いといっても、衆生の生活に智慧や力を与える内容でなければ、自分にとっては異世界や空想世界の物語りとさして変りはありません。私たちは
以上のような、「善法」があり、「名声ありて妙遠」であり、なお一切衆生に「物を悟らしむること」が可能な国土は他には無い。しかも無ければ無いで構わぬ≠ニあきらめられる問題ではない。そこで阿弥陀仏は必然として<この荘厳を起したまへり>となるわけです。
天竺国(印度)には浄行を称して「梵行」となす。妙辞を称して「梵言」となす。かの国には梵天を貴重すれば、多く「梵」をもつて讃をなす。またいはく、中国の法、梵天と通ずるがゆゑなり。「声」とは名なり。名はいはく、安楽土の名なり。経にのたまはく、「もし人ただ安楽浄土の名を聞きて往生を欲願するに、また願のごとくなることを得」と。これは名の物を悟らしむる証なり。
『釈論』(大智度論・意)にいはく、「かくのごとき浄土は三界の所摂にあらず。なにをもつてこれをいふとならば、欲なきがゆゑに欲界にあらず。地居なるがゆゑに色界にあらず。色あるがゆゑに無色界にあらざればなり。けだし菩薩の別業の致すところのみ」と。有を出でてしかうして有なるを 「有を出でて」とは、いはく、三有を出づるなり。「しかうして有なる」とはいはく、浄土の有なり 微といふ。名よく開悟せしむるを妙 妙は好なり。名をもつて、よく物を悟らしむるゆゑに妙と称す といふ。このゆゑに「梵声悟深遠 微妙聞十方」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
天竺(印度)においては、清浄なる行を梵行とし、よいことばを梵言とする。印度では梵天を尊重するから、だいたい梵ということばをもってほめことばとする。また印度のことがらは梵天と通じているからである。「声」とは名のことである。名とは安楽浄土の名である。経(《平等覚経》・《大阿弥陀経》の意)に「もし人が、ただ安楽浄土の名を聞いて往生を願うものは、また願いのごとく往生をうる」とある。これは浄土の名が衆生を悟らせるところの證拠である。
釈論(《智度論》)にいうてある。「このような浄土は、三界に摂まるところではない。なぜそういうのかといえば、欲がないから欲界ではない。大地の上にいるから色界ではない。色形があるから無色界ではない。考えて見ると法蔵菩薩の特別な因位の業によって成就されたところである。」有を出てしかも有であるのを微という。「有を出る」とは三界を出ることである。「しかも有である」とは浄土の有ることである。名号がよく衆生を悟らしめるのを妙という。「妙」とは好の意味である。名をもって人を悟らせるから妙という。こういうわけで「梵声の悟らすこと深遠なり 微妙にして十方に聞こゆ」といわれたのである。
「荘厳妙声功徳成就」の肝要についてはほぼ説明が終わりましたが、言葉の解釈について曇鸞大師は留意点を挙げています。
「天竺国(印度)には浄行を称して」〜「これは名の物を悟らしむる証なり」まで。
インドにおいては梵天を尊重しているから、「清浄なる行」=「梵行」、「妙辞・よい言葉」=「梵言」と、
この中で興味深いことは「印度のことがら」、つまりインドの文化・文明のことを<中国の法>と表記しているところです。「中国」とはもちろん中華思想が反映された呼称のことで、「自らを世界の中央に位置する文化国家であるという意識をもって呼んだ自称」であり、「我らこそが文化文明の中心地である」と胸を張り、周囲の国や地域を
しかしこの箇所で曇鸞大師は、自らの国を指すのではなく、インドを「中国」と表記しているのです。小さなことですがこれは実に賞賛すべきことです。曇鸞大師の時代は
曇鸞大師は自らの名に「曇」(=雲がおく深く重なって重苦しい意)と「鸞」(=瑞鳥)の字を用い、真心をもって敬虔な態度で仏法を学び修した態度がうかがえますが、国名の表記におしてもインドを中華の地と定めたことは、私たちもよくよく学び習う必要があるでしょう。思えば、現状を追認して自分や自国を誇り、他人や他国を
親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』や『浄土文類聚鈔』などの著作において「愚禿釈親鸞」等と「愚禿」の字を用いてみえますが、これも曇鸞大師の「曇」の意が反映された自称でしょう。
自慢や他人の悪口を極力廃し、他国の名声を自らの道の成就として拝まれたこうした尊い方々のおかげで、本当に愚鈍な私も浄土往生を願う機会を得るのであります。
「『釈論』(大智度論・意)にいはく」から終わりまでについては、「浄土は三界の所摂にあらず」ということが問題となっていますが、これは{荘厳清浄功徳成就「#三界の道に勝過せり」}に詳説してありますので参考にしてください。少しだけ補足するとすれば、曇鸞大師自身は三界の教師という立場から三界の有様を悲嘆し、批判する帰依処として浄土を念じ本願を領解してみえるのですが、天親菩薩の立場はあくまで浄土に立って入出無碍の門を提示してみえます。
最後にこの「荘厳妙声功徳成就」に相当する解義分を引きます。
『往生論註』73(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)
荘厳妙声功徳成就とは、偈に「梵声悟らすこと深遠なり 微妙にして十方に聞こゆ」と言える故なり。
これがどうして不思議であるかというと、経(《平等覚経》・《大阿弥陀経》の意)に「もし人があって、浄土の浄らかで安楽なることを聞いて、心から往生を願うだけの者も、また往生を得て、正定聚に入る」と説かれている。これは国土の名号が衆生利益のはたらきをするのである。どうして思いはかることができようか。
「国土の名字、仏事をなす」ということが、<いづくんぞ思議すべきや>ということ。思議しても思議し尽くすことができぬ浄土の名のはたらきに讃嘆の声は途切れることがありません。
(「正定聚」については、{正定聚・不退転の菩薩について}、{必至滅度の願}を参照下さい)
観察門 器世間「荘厳妙声功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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