『往生論註』巻上
この二句は荘厳妙色功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、優劣不同なり。不同なるをもつてのゆゑに高下もつて形る。高下すでに形るれば、是非もつて起る。是非すでに起れば、長く三有に淪 没なり む。このゆゑに大悲心を興して平等の願を起したまへり。「願はくはわが国土は光炎熾盛にして第一無比ならん。人天の金色よく奪ふものあるがごとくならじ」と。いかんがあひ奪ふ。明鏡のごときを金辺に在けばすなはち現ぜず。今日の時中の金を仏(釈尊)の在時の金に比するにすなはち現ぜず。仏(釈尊)の在時の金を閻浮那金に比するにすなはち現ぜず。閻浮那金を大海のなかの転輪王の道中の金沙に比するにすなはち現ぜず。転輪王の道中の金沙を金山に比するにすなはち現ぜず。金山を須弥山の金に比するにすなはち現ぜず。須弥山の金を三十三天の瓔珞の金に比するにすなはち現ぜず。三十三天の瓔珞の金を炎摩天の金に比するにすなはち現ぜず。炎摩天の金を兜率陀天の金に比するにすなはち現ぜず。兜率陀天の金を化自在天の金に比するにすなはち現ぜず。化自在天の金を他化自在天の金に比するにすなはち現ぜず。他化自在天の金を安楽国中の光明に比するにすなはち現ぜず。所以はいかんとなれば、かの土の金光は垢業より生ずることを絶つがゆゑなり。清浄にして成就せざるはなきゆゑなり。安楽浄土はこれ無生忍の菩薩の浄業の所起なり。阿弥陀如来法王の所領なり。阿弥陀如来を増上縁となしたまふがゆゑなり。このゆゑに「無垢光炎熾 明浄曜世間」といへり。「曜世間」とは二種世間を曜かすなり。
- 聖典意訳
無垢 の光炎 [ 熾 んにして[ 明浄 に世間に輝く[ この二句を、荘厳妙色功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、優劣が同じでない。優劣が同じでないから上下の別がでてくる。上下の別があるから好き嫌いの別がおこってくる。好き嫌いがおこるから、それがもととなってながく迷いに沈むのである。こういうわけだから、大悲の心をおこして、優劣上下のない平等な色相を成就しようという願をおこされ、「わが国土は光明の盛んなること第一で比べるものがなく、あたかも人間や天上界の金色には、更にそれを奪って勝ったものがあるのと同じでないようにしよう」と願われた。
どのように互いに奪うかといえば、きれいな鏡を金の側におくと、その光が現れない。今の時の金を、釈迦仏在世の時分の金に比べると、光が現れない。仏在世の時の金を閻浮那金に比べると、また現れない。閻浮那金を大海中の転輪王の道の金沙に比べると、また現れない。転輪王の道の金沙を金山に比べるとまた現れない。金山を須弥山の金に比べるとまた現われない。須弥山の金を三十三天の瓔珞の金に比べるとまた現れない。三十三天の瓔珞の金を夜摩天の金に比べるとまた現れない。夜摩天の金を兜率陀天の金に比べるとまた現れない。兜率陀天の金を化自在天の金に比べるとまた現れない。化自在天の金を他化自在天の金に比べるとまた現れない。他化自在天の金を安楽浄土の中の光明に比べると現れない。
どういうわけかというと、かの浄土の光明は、有漏のけがれた業から生じたものではないからであり、真如にかなった清浄の功徳が成就しているからである。安楽浄土は、無生忍をえられた法蔵菩薩の清浄の業から成就されたものであり、阿弥陀如来法王の治められる処である。阿弥陀如来をすぐれた力とするから、「無垢の光炎熾んにして 明浄に世間に輝く」といわれる。「世間に曜く」というのは、衆生世間(如来および聖衆)と器世間(浄土)の両方に曜くことである。
観察門の第6、浄土の「荘厳妙色功徳成就」について味わってみたいと思います。
『浄土論』総説分には、<(浄土の)
無垢光炎熾 明浄曜世間
この二句は荘厳妙色功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、優劣不同なり。不同なるをもつてのゆゑに高下もつて形る。高下すでに形るれば、是非もつて起る。是非すでに起れば、長く三有に淪 没なり む。このゆゑに大悲心を興して平等の願を起したまへり。「願はくはわが国土は光炎熾盛にして第一無比ならん。人天の金色よく奪ふものあるがごとくならじ」と。
▼意訳(意訳聖典より)無垢 の[ 光炎 [ 熾 んにして[ 明浄 に世間に輝く[
この二句を、荘厳妙色功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、優劣が同じでない。優劣が同じでないから上下の別がでてくる。上下の別があるから好き嫌いの別がおこってくる。好き嫌いがおこるから、それがもととなってながく迷いに沈むのである。こういうわけだから、大悲の心をおこして、優劣上下のない平等な色相を成就しようという願をおこされ、「わが国土は光明の盛んなること第一で比べるものがなく、あたかも人間や天上界の金色には、更にそれを奪って勝ったものがあるのと同じでないようにしよう」と願われた。
「優劣不同」(優劣が同じではない)とか「高下もつて
▼意訳(現代語版より)という願いが発こされています。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて金色に輝く身となるということがないようならわたしは決してさとりを開きません
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の姿かたちがまちまちで、美醜があるようなら、わたしは決してさとりを開きません
世俗の世間(娑婆)では、先入観で固まった頑迷な優劣がはびこり、この優劣に従って上下が固定化・実体化され、評価が下されることになります。しかも評価する側の「ものさし」に合った事柄が評価され、そうでないものは排除されるのが社会の実態でしょう。背が高いか低いか、肌の色がどうか、職業の貴賎、能力や収入、性格の差、民族や男女の差別など、社会にはそうした抜き差し難い差別がはびこっています。この対策として法律で平等を定めても、心の差別までは解決できません。これによって<三有に淪(没なり)む>ことになってしまいます。「三有」とは、有漏法「三界」の生存を言いますが、ここでは形を変えて迷いが繰り返し起こり、人生の問題を解決する一歩が踏み出せないまま流転を繰り返すことを言います。
(参照:{観察門 器世間「荘厳清浄功徳成就」「#三界の道に勝過せり」})
比べて浄土の衆生は全身が喜びに輝く「不断の智的快活」として真金色の姿であり、また「青色青光、黄色黄光」の個性が輝き照らしあう世界です。差異が上下の評価で固定化されず、互いの特徴が生かされ、映えあって響く社会になってほしい、という願いが成就した環境が浄土です。こうした浄土の伝統が土徳(環境の徳)となって、優劣に悩む人々の問題を高度に解決し、人々を社会的・歴史的視野に立った覚りに導くのでしょう。
続いて、こうした高度な解決方法を、世俗の価値観と対比し、比べても比べ尽くせぬ内容を明らかにしていきます。
いかんがあひ奪ふ。明鏡のごときを金辺に在けばすなはち現ぜず。今日の時中の金を仏(釈尊)の在時の金に比するにすなはち現ぜず。仏(釈尊)の在時の金を閻浮那金に比するにすなはち現ぜず。閻浮那金を大海のなかの転輪王の道中の金沙に比するにすなはち現ぜず。転輪王の道中の金沙を金山に比するにすなはち現ぜず。金山を須弥山の金に比するにすなはち現ぜず。須弥山の金を三十三天の瓔珞の金に比するにすなはち現ぜず。三十三天の瓔珞の金を炎摩天の金に比するにすなはち現ぜず。炎摩天の金を兜率陀天の金に比するにすなはち現ぜず。兜率陀天の金を化自在天の金に比するにすなはち現ぜず。化自在天の金を他化自在天の金に比するにすなはち現ぜず。他化自在天の金を安楽国中の光明に比するにすなはち現ぜず。
▼意訳(意訳聖典より)
どのように互いに奪うかといえば、きれいな鏡を金の側におくと、その光が現れない。今の時の金を、釈迦仏在世の時分の金に比べると、光が現れない。仏在世の時の金を閻浮那金に比べると、また現れない。閻浮那金を大海中の転輪王の道の金沙に比べると、また現れない。転輪王の道の金沙を金山に比べるとまた現れない。金山を須弥山の金に比べるとまた現われない。須弥山の金を三十三天の瓔珞の金に比べるとまた現れない。三十三天の瓔珞の金を夜摩天の金に比べるとまた現れない。夜摩天の金を兜率陀天の金に比べるとまた現れない。兜率陀天の金を化自在天の金に比べるとまた現れない。化自在天の金を他化自在天の金に比べるとまた現れない。他化自在天の金を安楽浄土の中の光明に比べると現れない。
ここでは比較できるもの≠例に出しつつ比較できないもの≠見出していくのですが、これは仏教の経論釋にはよく登場する手法です。
まずは「明鏡」と「金」を比べると、「明鏡」は劣っているのでその価値は評価されません。
次に、「現在の金」と「釈尊在世の時代の金」を比べると「現在の金」は劣っている。
「釈尊在世の時代の金」と「閻浮那金」を比べると「釈尊在世の時代の金」は劣っている。
この次第で、「閻浮那金」より「大海のなかの転輪王の道中の金沙」、「金山」、「須弥山の金」、「三十三天の瓔珞の金」、「炎摩天(夜摩天)の金」、「兜率陀天の金」、「化自在天の金」、「他化自在天の金」、最後に「安楽国中の光明」が最も勝れていることを明かします。
これで、先の願いが適っていることは解りましたが、どのような理由で阿弥陀浄土のはたらきが、人間や天上界の金の価値とは異なる勝れたものとなったのか、も明かさなければなりません。
所以はいかんとなれば、かの土の金光は垢業より生ずることを絶つがゆゑなり。清浄にして成就せざるはなきゆゑなり。安楽浄土はこれ無生忍の菩薩の浄業の所起なり。阿弥陀如来法王の所領なり。阿弥陀如来を増上縁となしたまふがゆゑなり。このゆゑに「無垢光炎熾 明浄曜世間」といへり。「曜世間」とは二種世間を曜かすなり。
▼意訳(意訳聖典より)
どういうわけかというと、かの浄土の光明は、有漏のけがれた業から生じたものではないからであり、真如にかなった清浄の功徳が成就しているからである。安楽浄土は、無生忍をえられた法蔵菩薩の清浄の業から成就されたものであり、阿弥陀如来法王の治められる処である。阿弥陀如来をすぐれた力とするから、「無垢の光炎熾んにして 明浄に世間に輝く」といわれる。「世間に曜く」というのは、衆生世間(如来および聖衆)と器世間(浄土)の両方に曜くことである。
娑婆の輝きなどは、諸天の金と比べたら取るべくもなく、この素晴らしい諸天の金の輝きでさえ<阿弥陀如来法王の治められる処>の光明の前では輝きを失う。それほど阿弥陀仏の浄土は素晴らしく輝いているのですが、これは垢業を絶った願い、無生忍の清浄なる業によって成就した国だからです。
(参照:{得三法忍の願}、{『仏説無量寿経』6a})
この内容をもっと具体的するため、遅ればせながらこの箇所に相当する『論註』下巻(解義分)を参考にしてみましょう。
『往生論註』65(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)
荘厳妙色功徳成就とは、偈に「無垢の光炎熾んにして 明浄に世間に輝く」と言える故なり。
これがどうして不思議であるかというと、浄土の光が物を照らせば表裏に徹し、その光が心を照らせば、ついに無明煩悩を尽くす。光が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。
<その光、事を曜かすにすなはち表裏を映徹す>(浄土の光が物を照らせば表裏に徹し)とは、どういう経緯をたどって成就したのでしょうか。先に示しました「悉皆金色の願」、「無有好醜の願」も重要ですが、さらに第27願を加えることで味わいが深くなります。
▼意訳(現代語版より)
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく、形も色も並ぶものがなく、きわめてすぐれていることは、とうていはかり知れないほどでしょう。かりに多くの人々が天眼通を得たとして、そのありさまを明らかに知り尽すことができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。
私たちは、「無限大悲の薫習した食べ物である。限意を以て不消化に終らせてはならぬ」とのお勧めに背き、周囲の人や物・物事・出来事を自分の都合に従って上下をつけ、欲によって好き嫌いを決め、その決め付けが原因となって長く迷いに沈むのです。浄土はそうした浅い理解や欲を離れた深い願い≠ェ成就した世界なのです。
ですから、浄土と娑婆に物や場所の違いがある訳ではないのです。ただ、目の前に存在する人や物や物事を見る眼が違うのです。関係性が違うのです。深みが違うのです。娑婆は浅く浄土は深い。物の深みを見る眼がなければ、どんな尊い宝も色や特徴が現われません。深い音を聞く耳がなければ、どんな尊い言葉も心に響きません。欲望に駆られた眼には、浄土の妙なる色は見ることができないのです。自分の都合や好き嫌いを募らせていては、本当の満足は得られないのです。ただ一つ、浄土回向の菩提心のみが、浄土の深い妙色を見さしめ、本当の満足を得る果報を生むのです。
▼意訳(現代語版より)
またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。その花の放つ光には無数の色がある。青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。それらは鮮やかに輝いて、太陽や月よりもなお明るい。それぞれの花の中から三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がたが現れる。そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる。この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくすべてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである
覚りの境地とはいかなるものか、私たち凡夫には本来はとても
なお<百千億の葉>(百千億の花びら)の「百千億」とは、『梵網経』に示されたように、一切衆生の数であり、「葉」(花びら)とはその一人ひとりの迷いを迷いと気付かせ懺悔に至らしめる仏性・まごころのことでしょう。浄土では一切衆生のまごころが互いに照らし合い、重なり合って、重々無尽の妙色を生み出しているのです。
(参照:{『仏説無量寿経』3a})
観察門 器世間「荘厳妙色触功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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