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七高僧の教えを味わう

往生論註を味わう 13

【浄土真宗の教え】

観察門 器世間「荘厳妙色功徳成就」

『往生論註』巻上

浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)
【一三】
無垢光炎熾 明浄曜世間

 この二句は荘厳妙色功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、優劣不同なり。不同なるをもつてのゆゑに高下もつて形る。高下すでに形るれば、是非もつて起る。是非すでに起れば、長く三有に淪 没なり む。このゆゑに大悲心を興して平等の願を起したまへり。「願はくはわが国土は光炎熾盛にして第一無比ならん。人天の金色よく奪ふものあるがごとくならじ」と。いかんがあひ奪ふ。明鏡のごときを金辺に在けばすなはち現ぜず。今日の時中の金を仏(釈尊)の在時の金に比するにすなはち現ぜず。仏(釈尊)の在時の金を閻浮那金に比するにすなはち現ぜず。閻浮那金を大海のなかの転輪王の道中の金沙に比するにすなはち現ぜず。転輪王の道中の金沙を金山に比するにすなはち現ぜず。金山を須弥山の金に比するにすなはち現ぜず。須弥山の金を三十三天の瓔珞の金に比するにすなはち現ぜず。三十三天の瓔珞の金を炎摩天の金に比するにすなはち現ぜず。炎摩天の金を兜率陀天の金に比するにすなはち現ぜず。兜率陀天の金を化自在天の金に比するにすなはち現ぜず。化自在天の金を他化自在天の金に比するにすなはち現ぜず。他化自在天の金を安楽国中の光明に比するにすなはち現ぜず。所以はいかんとなれば、かの土の金光は垢業より生ずることを絶つがゆゑなり。清浄にして成就せざるはなきゆゑなり。安楽浄土はこれ無生忍の菩薩の浄業の所起なり。阿弥陀如来法王の所領なり。阿弥陀如来を増上縁となしたまふがゆゑなり。このゆゑに「無垢光炎熾 明浄曜世間」といへり。「曜世間」とは二種世間を曜かすなり。

聖典意訳
 無垢[むく]光炎[こうえん][さか]んにして 明浄[みょうじょう]に世間に輝く

 この二句を、荘厳妙色功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、優劣が同じでない。優劣が同じでないから上下の別がでてくる。上下の別があるから好き嫌いの別がおこってくる。好き嫌いがおこるから、それがもととなってながく迷いに沈むのである。こういうわけだから、大悲の心をおこして、優劣上下のない平等な色相を成就しようという願をおこされ、「わが国土は光明の盛んなること第一で比べるものがなく、あたかも人間や天上界の金色には、更にそれを奪って勝ったものがあるのと同じでないようにしよう」と願われた。
どのように互いに奪うかといえば、きれいな鏡を金の側におくと、その光が現れない。今の時の金を、釈迦仏在世の時分の金に比べると、光が現れない。仏在世の時の金を閻浮那金に比べると、また現れない。閻浮那金を大海中の転輪王の道の金沙に比べると、また現れない。転輪王の道の金沙を金山に比べるとまた現れない。金山を須弥山の金に比べるとまた現われない。須弥山の金を三十三天の瓔珞の金に比べるとまた現れない。三十三天の瓔珞の金を夜摩天の金に比べるとまた現れない。夜摩天の金を兜率陀天の金に比べるとまた現れない。兜率陀天の金を化自在天の金に比べるとまた現れない。化自在天の金を他化自在天の金に比べるとまた現れない。他化自在天の金を安楽浄土の中の光明に比べると現れない。
どういうわけかというと、かの浄土の光明は、有漏のけがれた業から生じたものではないからであり、真如にかなった清浄の功徳が成就しているからである。安楽浄土は、無生忍をえられた法蔵菩薩の清浄の業から成就されたものであり、阿弥陀如来法王の治められる処である。阿弥陀如来をすぐれた力とするから、「無垢の光炎熾んにして 明浄に世間に輝く」といわれる。「世間に曜く」というのは、衆生世間(如来および聖衆)と器世間(浄土)の両方に曜くことである。


 優劣に悩む人々

 観察門の第6、浄土の「荘厳妙色功徳成就」について味わってみたいと思います。
『浄土論』総説分には、<(浄土の)無垢[むく]光炎[こうえん][さか]んにして 明浄[みょうじょう]に世間に輝く>とあり、同解義分には<荘厳妙色功徳成就とは、偈に「無垢光炎熾 明浄曜世間」といへるがゆゑなり>とあります(参照:{総説分と解義分})が、具体的には優劣に悩む人々の問題を、浄土のはたらき(光明)によって解決してゆく段となっています。

無垢光炎熾 明浄曜世間
 この二句は荘厳妙色功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、優劣不同なり。不同なるをもつてのゆゑに高下もつて形る。高下すでに形るれば、是非もつて起る。是非すでに起れば、長く三有に淪 没なり む。このゆゑに大悲心を興して平等の願を起したまへり。「願はくはわが国土は光炎熾盛にして第一無比ならん。人天の金色よく奪ふものあるがごとくならじ」と。
▼意訳(意訳聖典より)
無垢[むく]光炎[こうえん][さか]んにして 明浄[みょうじょう]に世間に輝く
 この二句を、荘厳妙色功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、優劣が同じでない。優劣が同じでないから上下の別がでてくる。上下の別があるから好き嫌いの別がおこってくる。好き嫌いがおこるから、それがもととなってながく迷いに沈むのである。こういうわけだから、大悲の心をおこして、優劣上下のない平等な色相を成就しようという願をおこされ、「わが国土は光明の盛んなること第一で比べるものがなく、あたかも人間や天上界の金色には、更にそれを奪って勝ったものがあるのと同じでないようにしよう」と願われた。

「優劣不同」(優劣が同じではない)とか「高下もつて[あらわ]る」(上下の別がでてくる)とはどういう意味でしょう。優劣があるのかないのか、優劣があっても何かが同じなのか、ここがはっきり定まらないと以下がまとまりません。そこで原点の四十八願をうかがうと、たとえば――

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ。

『仏説無量寿経』第3願(悉皆金色の願)

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ。

『仏説無量寿経』第4願(無有好醜の願)

▼意訳(現代語版より)
 わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて金色に輝く身となるということがないようならわたしは決してさとりを開きません
 わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の姿かたちがまちまちで、美醜があるようなら、わたしは決してさとりを開きません
という願いが発こされています。

 世俗の世間(娑婆)では、先入観で固まった頑迷な優劣がはびこり、この優劣に従って上下が固定化・実体化され、評価が下されることになります。しかも評価する側の「ものさし」に合った事柄が評価され、そうでないものは排除されるのが社会の実態でしょう。背が高いか低いか、肌の色がどうか、職業の貴賎、能力や収入、性格の差、民族や男女の差別など、社会にはそうした抜き差し難い差別がはびこっています。この対策として法律で平等を定めても、心の差別までは解決できません。これによって<三有に淪(没なり)む>ことになってしまいます。「三有」とは、有漏法「三界」の生存を言いますが、ここでは形を変えて迷いが繰り返し起こり、人生の問題を解決する一歩が踏み出せないまま流転を繰り返すことを言います。
(参照:{観察門 器世間「荘厳清浄功徳成就」「#三界の道に勝過せり」}

 比べて浄土の衆生は全身が喜びに輝く「不断の智的快活」として真金色の姿であり、また「青色青光、黄色黄光」の個性が輝き照らしあう世界です。差異が上下の評価で固定化されず、互いの特徴が生かされ、映えあって響く社会になってほしい、という願いが成就した環境が浄土です。こうした浄土の伝統が土徳(環境の徳)となって、優劣に悩む人々の問題を高度に解決し、人々を社会的・歴史的視野に立った覚りに導くのでしょう。

 比較できるものからできないものへ

 続いて、こうした高度な解決方法を、世俗の価値観と対比し、比べても比べ尽くせぬ内容を明らかにしていきます。

いかんがあひ奪ふ。明鏡のごときを金辺に在けばすなはち現ぜず。今日の時中の金を仏(釈尊)の在時の金に比するにすなはち現ぜず。仏(釈尊)の在時の金を閻浮那金に比するにすなはち現ぜず。閻浮那金を大海のなかの転輪王の道中の金沙に比するにすなはち現ぜず。転輪王の道中の金沙を金山に比するにすなはち現ぜず。金山を須弥山の金に比するにすなはち現ぜず。須弥山の金を三十三天の瓔珞の金に比するにすなはち現ぜず。三十三天の瓔珞の金を炎摩天の金に比するにすなはち現ぜず。炎摩天の金を兜率陀天の金に比するにすなはち現ぜず。兜率陀天の金を化自在天の金に比するにすなはち現ぜず。化自在天の金を他化自在天の金に比するにすなはち現ぜず。他化自在天の金を安楽国中の光明に比するにすなはち現ぜず。
▼意訳(意訳聖典より)
どのように互いに奪うかといえば、きれいな鏡を金の側におくと、その光が現れない。今の時の金を、釈迦仏在世の時分の金に比べると、光が現れない。仏在世の時の金を閻浮那金に比べると、また現れない。閻浮那金を大海中の転輪王の道の金沙に比べると、また現れない。転輪王の道の金沙を金山に比べるとまた現れない。金山を須弥山の金に比べるとまた現われない。須弥山の金を三十三天の瓔珞の金に比べるとまた現れない。三十三天の瓔珞の金を夜摩天の金に比べるとまた現れない。夜摩天の金を兜率陀天の金に比べるとまた現れない。兜率陀天の金を化自在天の金に比べるとまた現れない。化自在天の金を他化自在天の金に比べるとまた現れない。他化自在天の金を安楽浄土の中の光明に比べると現れない。

 ここでは比較できるもの≠例に出しつつ比較できないもの≠見出していくのですが、これは仏教の経論釋にはよく登場する手法です。

 まずは「明鏡」と「金」を比べると、「明鏡」は劣っているのでその価値は評価されません。
 次に、「現在の金」と「釈尊在世の時代の金」を比べると「現在の金」は劣っている。
「釈尊在世の時代の金」と「閻浮那金」を比べると「釈尊在世の時代の金」は劣っている。
 この次第で、「閻浮那金」より「大海のなかの転輪王の道中の金沙」、「金山」、「須弥山の金」、「三十三天の瓔珞の金」、「炎摩天(夜摩天)の金」、「兜率陀天の金」、「化自在天の金」、「他化自在天の金」、最後に「安楽国中の光明」が最も勝れていることを明かします。

ちなみに用語の説明をしますと――
閻浮那金[エンブナゴン](閻浮檀金・閻浮那陀金・閻浮檀那紫金)」:
閻浮樹の大森林を流れる河の底に産する砂金。その黄金は赤黄色で紫色を帯びている。金のうち最も高貴とされた。
「金山」:
須弥山をめぐる七重の金山。
須弥山「四天王衆天」:
六欲天の第一天。須弥山の中腹にある四天王(四大天王・護世四天王)の住処。四天王は帝釈天につかえ、部衆とともに仏法の守護を念願とし、仏法に帰依する人びとを守護する護法神。持国天[ジコクテン]王は東方を、増長天[ゾウチョウテン]王は南方を、広目天[コウモクテン]王は西方を、多聞天[タモンテン]王は北方を守護する。部衆の中では八部の鬼衆が主なもので各天王にそれぞれ二部ずつ従う。ちなみに六道・諸天(神々)はみな須弥山の側面、もしくは上方・頂上に住処がある。諸天王の住む宮殿を天宮[テングウ]・天堂という。
「三十三天(トウ利天)」:
六欲天の第二天。須弥山の頂にあり、帝釈天(インドラ神)はここにある善見城に住む。城の四方には峰があり、峰ごとに八天ずつ、合わせて三十三天からなる。ここの天人の寿命は一千年。先の四天王衆天とこの三十三天をあわせて地居天[ジゴテン]という。釈尊の母摩耶夫人が没後この天に生まれたので、仏陀は母のために上天して説法された。
炎摩天[エンマテン]夜摩天[ヤマテン]須夜摩[シュヤマ]・善時天)」:
六欲天の第三天。閻魔王とも関係があり、光明常にあかくして昼夜なく随時に楽を受ける。時分を知り五欲の楽を受ける。炎摩天以上の神々の住処は、空中に層をなして住むから空居天という。その一昼夜は人間界の二百年にあたり、ここの天人は二千歳の寿をたもつ。
兜率陀天[トソツダテン](兜率天・覩史多天・妙足天・知足天)」:
六欲天の第四天。ここの天衆は足るを知って喜楽を集める。将来、仏となるべき一生補処の菩薩が住するところ。釈尊もかつてここで修行し、現在は未来仏である弥勒菩薩がここで説法している。それほど兜率陀天は荘厳も勝れ、他の仏土の荘厳を述べる時によく引用される。ここの天人の寿命は四千年、その一昼夜が人間界の四百年に当たる。
化自在天[ケジザイテン](化楽天・楽変化天・化自楽天)」:
六欲天の第五天。自ら妙楽の環境をつくり出して楽しむ。ここの天人の寿命は八千年、その一昼夜が人間界の八百年に当たる。
他化自在天[タケジザイテン](他化天・他化楽天・化応声天・第六天・他波羅維摩婆奢・波羅尼蜜天・婆舎跋提天)」:
六欲天の第六天。欲界の最高処で、他の天界の神々がつくり出した欲境(欲望の対象)を自在に受けることができる。魔王の住処であるため魔天ともいう。
(その他)
以上、欲界の六欲天の他に、「色界」に四禅天、「無色界」に四無色天があるが、四無色天は無色(物質を超えている)の天で住処を持たない。
とあり、「安楽国中の光明」つまり阿弥陀仏の浄土のはたらきは、これらとは比べることができない程勝れていて、先の<願はくはわが国土は光炎熾盛にして第一無比ならん。人天の金色よく奪ふものあるがごとくならじ>(わが国土は光明の盛んなること第一で比べるものがなく、あたかも人間や天上界の金色には、更にそれを奪って勝ったものがあるのと同じでないようにしよう)との願いが適っていることを明かします。

 物事の深みと特徴の重なりを観察する

 これで、先の願いが適っていることは解りましたが、どのような理由で阿弥陀浄土のはたらきが、人間や天上界の金の価値とは異なる勝れたものとなったのか、も明かさなければなりません。

所以はいかんとなれば、かの土の金光は垢業より生ずることを絶つがゆゑなり。清浄にして成就せざるはなきゆゑなり。安楽浄土はこれ無生忍の菩薩の浄業の所起なり。阿弥陀如来法王の所領なり。阿弥陀如来を増上縁となしたまふがゆゑなり。このゆゑに「無垢光炎熾 明浄曜世間」といへり。「曜世間」とは二種世間を曜かすなり。
▼意訳(意訳聖典より)
どういうわけかというと、かの浄土の光明は、有漏のけがれた業から生じたものではないからであり、真如にかなった清浄の功徳が成就しているからである。安楽浄土は、無生忍をえられた法蔵菩薩の清浄の業から成就されたものであり、阿弥陀如来法王の治められる処である。阿弥陀如来をすぐれた力とするから、「無垢の光炎熾んにして 明浄に世間に輝く」といわれる。「世間に曜く」というのは、衆生世間(如来および聖衆)と器世間(浄土)の両方に曜くことである。

 娑婆の輝きなどは、諸天の金と比べたら取るべくもなく、この素晴らしい諸天の金の輝きでさえ<阿弥陀如来法王の治められる処>の光明の前では輝きを失う。それほど阿弥陀仏の浄土は素晴らしく輝いているのですが、これは垢業を絶った願い、無生忍の清浄なる業によって成就した国だからです。
(参照:{得三法忍の願}{『仏説無量寿経』6a}

 この内容をもっと具体的するため、遅ればせながらこの箇所に相当する『論註』下巻(解義分)を参考にしてみましょう。

 荘厳妙色功徳成就とは、偈に「無垢光炎熾 明浄曜世間」といへるがゆゑなり。
 これいかんが不思議なる。その光、事を曜かすにすなはち表裏を映徹す。その光、心を曜かすにすなはちつひに無明を尽す。光、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。

『往生論註』65(巻下 解義分 観察体相章 器世間)

▼意訳(意訳聖典より)
荘厳妙色功徳成就とは、偈に「無垢の光炎熾んにして 明浄に世間に輝く」と言える故なり。
 これがどうして不思議であるかというと、浄土の光が物を照らせば表裏に徹し、その光が心を照らせば、ついに無明煩悩を尽くす。光が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。

<その光、事を曜かすにすなはち表裏を映徹す>(浄土の光が物を照らせば表裏に徹し)とは、どういう経緯をたどって成就したのでしょうか。先に示しました「悉皆金色の願」「無有好醜の願」も重要ですが、さらに第27願を加えることで味わいが深くなります。

 たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、一切万物、厳浄光麗にして、形色、殊特にして窮微極妙なること、よく称量することなけん。そのもろもろの衆生、乃至天眼を逮得せん。よく明了にその名数を弁ふることあらば、正覚を取らじ。

『仏説無量寿経』第27願(万物厳浄の願)より

▼意訳(現代語版より)
 わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく、形も色も並ぶものがなく、きわめてすぐれていることは、とうていはかり知れないほどでしょう。かりに多くの人々が天眼通を得たとして、そのありさまを明らかに知り尽すことができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 私たちは、「無限大悲の薫習した食べ物である。限意を以て不消化に終らせてはならぬ」とのお勧めに背き、周囲の人や物・物事・出来事を自分の都合に従って上下をつけ、欲によって好き嫌いを決め、その決め付けが原因となって長く迷いに沈むのです。浄土はそうした浅い理解や欲を離れた深い願い≠ェ成就した世界なのです。

 ですから、浄土と娑婆に物や場所の違いがある訳ではないのです。ただ、目の前に存在する人や物や物事を見る眼が違うのです。関係性が違うのです。深みが違うのです。娑婆は浅く浄土は深い。物の深みを見る眼がなければ、どんな尊い宝も色や特徴が現われません。深い音を聞く耳がなければ、どんな尊い言葉も心に響きません。欲望に駆られた眼には、浄土の妙なる色は見ることができないのです。自分の都合や好き嫌いを募らせていては、本当の満足は得られないのです。ただ一つ、浄土回向の菩提心のみが、浄土の深い妙色を見さしめ、本当の満足を得る果報を生むのです。

また衆宝の蓮華、世界に周満せり。一々の宝華に百千億の葉あり。その華の光明に無量種の色あり。青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり。イ曄煥爛として日月よりも明曜なり。一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す。身色紫金にして相好殊特なり。一々の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙の法を説きたまふ。かくのごときの諸仏、各々に無量の衆生を仏の正道に安立せしめたまふ」と。

『仏説無量寿経』21 巻上 正宗分 弥陀果徳 華光出仏より

▼意訳(現代語版より)
またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。その花の放つ光には無数の色がある。青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。それらは鮮やかに輝いて、太陽や月よりもなお明るい。それぞれの花の中から三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がたが現れる。そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる。この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくすべてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである

 覚りの境地とはいかなるものか、私たち凡夫には本来はとても[うかが]い知ることはできない世界なのですが、経典を丁寧に読み解いていけば、覚りの基本構造を知ることはでき、仏の願いが私の願いにぶつかり、爆発し、一体となる(機法一体)体験を得ることができます。この<いづくんぞ思議すべきや>(どうして思いはかることができようか)と嘆ぜざるを得ない浄土の土徳を「荘厳妙色功徳成就」と称え観るのです。
 なお<百千億の葉>(百千億の花びら)の「百千億」とは、『梵網経』に示されたように、一切衆生の数であり、「葉」(花びら)とはその一人ひとりの迷いを迷いと気付かせ懺悔に至らしめる仏性・まごころのことでしょう。浄土では一切衆生のまごころが互いに照らし合い、重なり合って、重々無尽の妙色を生み出しているのです。
(参照:{『仏説無量寿経』3a}

 資料

観察門 器世間「荘厳妙色触功徳成就」(漢文)

『往生論註』巻上

漢文
 (総説分)
【一三】
 無垢光炎熾 明浄曜世間
此二句名荘厳妙色功徳成就仏本何故起此荘厳見有国土優劣不同以不同故高下以形高下既形是非以非既起長淪{没倫音}三有是故興大悲心起平等願願我国土光炎熾盛第一無比不如人天金色能有奪者若為相奪如明鏡在金辺則不現今日時中金比仏在時金則不現仏在時金比閻浮那金則不現閻浮那金比大海中転輪王道中金沙則不現転輪王道中金沙比金山則不現金山比須弥山金則不現須弥山金比三十三天瓔珞金則不現三十三天瓔珞金比炎摩天金則不現炎摩天金比兜率陀天金則不現兜率陀天金比化自在天金則不現化自在天金比他化自在天金則不現他化自在天金比安楽国中光明則不現所以者何彼土金光絶従垢業生故清浄無不成就故安楽浄土是無生忍菩薩浄業所起阿弥陀如来法王所領阿弥陀如来為増上縁故是故言無垢光炎熾明浄曜世間曜世間者曜二種世間也

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