『往生論註』巻上
この二句は荘厳無諸難功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは朝には袞寵に預びて、夕には斧鉞に惶く。あるいは幼くしては蓬藜に捨てられ、長じては方丈を列ぬ。あるいは鳴笳して出づることをいひ、麻テツして還ることを催す。かくのごとき等の種々の違奪あり。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土は安楽相続して畢竟じて間なからしめん」と。「身悩」とは飢渇・寒熱・殺害等なり。「心悩」とは是非・得失・三毒等なり。このゆゑに「永離身心悩 受楽常無間」といへり。
- 聖典意訳
永 く身心の悩みを離れて 楽しみを受くること常に[ 間 なし[ この二句を、
荘厳 [ 無諸難 [ 功徳成就 と名づける。仏は[ 因位 の時、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、あるいは[ 朝 には天子の[ 寵愛 を受けながら、夕には刑罰を受けて殺されることにおののく。あるいは幼い時に粗末な所に捨てられたものが、長じて立派な食事をする身分になる。あるいは出る時には[ 笳 を鳴らしてにぎやかに道に出たが、帰る時には肉親をなくして[ 喪服 を着て帰る。このようにいろいろな心にたがう悲しいことがある。こういうわけで「わが国土は、楽しみが続いてとぎれることがないようにしよう」と願われた。「身の悩み」とは[ 飢渇 ・[ 寒熱 ・殺害などである。「心の悩み」とは、[ 是非 ・[ 得失 によって起こる[ 三毒 の[ 煩悩 などである。こういうわけだから「[ 永 く身心の悩みを離れて 楽しみを受くること常に[ 間 なし」といわれたのである。[
器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうち「荘厳
永離身心悩 受楽常無間
この二句は荘厳無諸難功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、あるいは朝には袞寵に預びて、夕には斧鉞に惶く。あるいは幼くしては蓬藜に捨てられ、長じては方丈を列ぬ。あるいは鳴笳して出づることをいひ、麻テツして還ることを催す。かくのごとき等の種々の違奪あり。
▼意訳(意訳聖典より)
永 く身心の悩みを離れて 楽しみを受くること常に[ 間 なし[
この二句を、荘厳 [ 無諸難 [ 功徳成就 と名づける。仏は[ 因位 の時、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、あるいは[ 朝 には天子の[ 寵愛 を受けながら、夕には刑罰を受けて殺されることにおののく。あるいは幼い時に粗末な所に捨てられたものが、長じて立派な食事をする身分になる。あるいは出る時には[ 笳 を鳴らしてにぎやかに道に出たが、帰る時には肉親をなくして[ 喪服 を着て帰る。このようにいろいろな心にたがう悲しいことがある。[
人間、誰しも望むことが<
しかし多くの場合こうした本心を言動に表すと、「わがままだ」「あつかましい」などと他人から釘を刺されてしまいます。そして他人からの介入が頻繁になると本心を心の底にとどめるようになってしまい、本心と違うことを言ったり行ったりするようにさえなります。すると次第に本心が抑圧され、他人の欲望や都合に
もちろんこれには「快楽追求ばかりでは人間が堕落してしまう」、「
経典にも――
『仏説阿弥陀経』3
▼意訳(現代語版より)とあり、阿弥陀仏の浄土は人々が本心より楽しみ望む国土であることを示しています。
舎利弗よ、その国をなぜ極楽と名づけるかというと、その国の人々は、何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから、極楽というのである。
しかしこうした本心一途な願いを無視し、身心の悩みを
このようにみずから楽しみを拒否し、快楽を否定的にとらえている人は結構大勢いるのですが、これは一つには、世の中は悲劇的なことが多いので快楽を期待しながら何度も裏切られてしまい、かえって悩みを深くする経験が重なってしまったせいでありましょう。またさらには、最初から快楽を否定的にとらえ、快楽そのものを罪悪視する教えや宗教が世に
後者のようなネガティブな世界観は全く無意味ですから今すぐ捨ててしまえば良いのですが、問題は、いつの間にか快楽を追求することに
このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土は安楽相続して畢竟じて間なからしめん」と。「身悩」とは飢渇・寒熱・殺害等なり。「心悩」とは是非・得失・三毒等なり。このゆゑに「永離身心悩 受楽常無間」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
こういうわけで「わが国土は、楽しみが続いてとぎれることがないようにしよう」と願われた。「身の悩み」とは飢渇 ・[ 寒熱 ・殺害などである。「心の悩み」とは、[ 是非 ・[ 得失 によって起こる[ 三毒 の[ 煩悩 などである。こういうわけだから「[ 永 く身心の悩みを離れて 楽しみを受くること常に[ 間 なし」といわれたのである。[
一般的には「快楽=煩悩」と理解されているようですが、これは世捨て人に合わせた特殊な理解であり、去勢された教えであり、生きる力とならない、毒され偏った見方であります。仏教では、身心を悩まし
ちなみに菩提心とは、「
これを現代に即して言うならば、菩提心とは、明確な意志と、正しい世界観と、真の依りどころを持つこと≠ノ尽きるでしょう。ちなみに今『往生論註』観察門を解釈しているのは、正しい世界観を得るために行っているのです。
しかしこうした智慧や菩提心は、自分だけの頑張りで成就するものではありません。歴史と環境の後押しがあってはじめて「
ところが前節の通り「心にたがう、ちぐはぐな行き違い」によって快楽追求の本心を裏切る煩悩が世にはびこっています。<このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土は安楽相続して畢竟じて間なからしめん」>ということですが、『仏説無量寿経』における直接の願文は{常受快楽の願}に当たります。
▼意訳(現代語版より)
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の受ける楽しみが、すべての煩悩を断ち切った修行僧と同じようでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
先ほども申しましたように、人間としての真の生き
ただし、蜜を塗った刀をなめれば舌を切るように、「楽」と思って近づくとかえって「苦」を受けることがあります。鉄眼道光は――「まどへる人の楽と思ふは、苦をもって、楽と思へるなり」(鉄眼仮名法語)と諭しています。またフランスの作家アンドレ・ジイドは――「快楽を得ようと努力するのではなく、努力そのもののうちに快楽を見出すこと」と格言を残し、さらに小泉吉宏さんは「幸せを めざすのなら その道のりも 幸せで いたいよね」(ブタのいどころ)と重要な提言をされています。
先にも申しましたが、
では、経や偈に表された煩悩を離れた真実の快楽≠ヘどこにあるのでしょう。曇鸞大師は「楽に三種あり」と分析されています。
『往生論註』114(巻下 解義分 願事成就章)より
楽に三つの種類がある。
一つには外楽、これは眼・耳・鼻・舌・身の五識によっておこる楽しみである。
二つには内楽、これは初禅天・二禅天・三禅天の禅定の意識でおこす楽しみである。
三つには法楽楽、すなわち仏法の楽しみ、これは智慧によって生ずる楽しみである。この智慧によっておこる楽しみは、阿弥陀仏の功徳を愛楽するよりおこるのである。
「
世間一般では外楽のみが快楽≠ニ誤解していますので、先に「人間としての真の生き甲斐は快楽を得ることにあります」と読んだ人の多くは違和感を感じたことでしょう。確かに五官の快楽ばかり追求していれば、快楽以上の虚無感や苦悩が生じ、人生は崩壊してしまいますので「楽しみを受くること常に
「
(参照:{荘厳清浄功徳成就「#三界の道に勝過せり」})
「
(参照:{荘厳触功徳成就})
ところで、以上の「外楽」「内楽」「法楽楽」はどういう関係にあるのでしょう。一般的には三種の楽は独立している、もしくは互いに反発しているものとして理解されがちでした。つまり、「外楽が多すぎると自分で内楽を発生させる力が弱まる」とし、また「外楽や内楽が多すぎるとそれで満足してしまい法楽楽に目が向かない」という理解です。
これには一理あり、「世俗的快楽と宗教的法楽楽は両立しない」と断じ「外楽や内楽などは捨てよ」と
しかしたとえば『明恵上人遺訓』(意訳)には――「風流の道を好む人びとの中から、立派な仏教者が出てくることは、昔も今も変らない。詩を作り、歌をたしなむこと自体は、仏の本旨ではないけれども、このような文芸の道に心ひかれる人は、やがて仏教も好きになり、智慧を具えた者となるから、かれの優しい心遣いも気品にあふれたものとなる」とあります。
さらに、浄土の功徳を生活に現れた土徳として披露している「解義分」に聞きますと――
『往生論註』77(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)と、驚くべきことが書いてあります。
荘厳 [ 無諸難 [ 功徳成就 とは、[ 偈 に「永く身心の悩みを離れて 楽しみを受くることは常に[ 間 なし」と言える故なり。[
これがどうして不思議であるかというと、経(《法句譬喩経 》・《[ 出曜経 》などの意)に「身は苦しみの器であり、心は悩みを受ける本である」と説かれている。しかるに浄土の人人は身があり心があるけれども、楽しみを受けることが絶え間ない。どうして思いはかることができようか。[
浄土における「法楽楽」は、「外楽」や「内楽」と別でありながら、同時に「外楽」や「内楽」の快楽を真に生かし切り、しかもそれらの短所を除く作用も持つというのです。
<しかるにかしこに身あり心ありて、楽を受くること間なし>(浄土の人人は身があり心があるけれども、楽しみを受けることが絶え間ない)とありますが、これは身心は「外楽」「内楽」の両作用(快楽と苦悩)を受ける器なので、本来は身心を離れなければ苦悩も離れないのですが、阿弥陀仏の浄土では、「外楽」や「内楽」を受ける身心(総じて言えば日常生活)がありながら、なおかつ法楽楽を受けることが絶え間なく、苦悩を生じることが無いのです。つまり、人びとは生きて煩悩を受ける身心を持ちながら、浄土往生を願う身となれば、「外楽」「内楽」の副作用的苦悩は去って快楽のみが生じる。そのため「法楽楽」はもちろん、「外楽」も「内楽」も全て丸々活かされる上に欠点が除かれてしまう。これが浄土の土徳であり、法楽楽の功徳が成就した「荘厳
これは一つには、如来回向の信心が功徳を発揮し、執着と無明が破れることで「外楽」や「内楽」の欠点が克服されるためであり、さらには、本願力に乗じれば一切の煩悩も菩提心に転じ、みな「法楽楽」の味わいになるためなのです。もちろん、この世に生きて生活する限り苦悩は尽きないものですが、念仏者は娑婆と浄土の両土に足をつけることが適い、
観察門 器世間「荘厳受用功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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