[index]    [top]

七高僧の教えを味わう

往生論註を味わう 21

【浄土真宗の教え】

観察門 器世間「荘厳主功徳成就」

『往生論註』巻上

浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)
【二一】
正覚阿弥陀 法王善住持

 この二句は荘厳主功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、羅刹、君となればすなはち率土あひダンす。宝輪、殿に駐 馬を立む まればすなはち四域虞ひなし。これを風の靡くに譬ふ。あに本なからんや。このゆゑに願を興したまへり。「願はくはわが国土にはつねに法王ましまして、法王の善力に住持せられん」と。「住持」とは、黄鵠、子安を持てば、千齢かへりて起り、魚母、子を念持すれば、ガク 夏水ありて冬水なきをガクといふ を経て壊せざるがごとし。安楽国は〔阿弥陀仏の〕正覚のためによくその国を持せらる。あに正覚の事にあらざることあらんや。このゆゑに「正覚阿弥陀 法王善住持」といへり。

聖典意訳
 正覚の阿弥陀法王 善く住持したまえり

 この二句を、荘厳主功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土を見れば、羅刹を君とすれば、その君に治められる国土の民は互いに食いあう。【転輪王が車を宮殿に駐め、そこにいて国を治めると、四方の人々は心配がなくなる】。これを、風が吹いてすべてのものがそれに靡くにたとえる。みなその根本がある。こういうわけで法蔵菩薩は願をおこされ「わが国土にはいつも法王があって、その法王の不可思議の力によって住持せられているようにしよう」と願われた。「住持」というのは、鶴がなくなった子安の墓の上でこれを念持したので、千年の命が再びよみがえり、親魚が自分の卵を念持すると、夏は水があるが、水のかれる冬を経ても、くだけないようなものである。安楽浄土は、阿弥陀如来の正覚の善力によって支えられている。その浄土が弥陀の正覚のものがらでないものがあろうか。こういうわけで「正覚の阿弥陀法王 善く住持したまえり」といわれたのである。

(註:【 】部分は、『聖典意訳 七祖聖教 上』(本願寺出版社)では、「転輪王がなくなって御殿に法輪を駐めるようになると、四方の人が安らかでなくなる」とありますが、これは完全に誤訳ですから上記のように改正しておきました)


 器世間(浄土)の荘厳功徳成就を十七の別で観察するうち「荘厳功徳成就」の詳細を観察します。これは「浄土における阿弥陀仏の存在意義」を明らかにするのであり、具体的に言えば、全世界の本来的な中心軸を明らかにする意義を持ちます。

 仏力住持により正定聚となる

正覚阿弥陀 法王善住持
 この二句は荘厳主功徳成就と名づく。
▼意訳(意訳聖典より)
 正覚の阿弥陀法王 善く住持[ジュウジ]したまえり
 この二句を、荘厳主功徳成就[ショウゴンシュクドクジョウジュ]と名づける。

 ここでは浄土の「主」である「阿弥陀仏」を観察します。
 実は後の章(28章〜36章)でも仏の荘厳八種功徳を観察する箇所があり、特に35章は今回同様「荘厳主功徳成就」と名がついている程ですから多少重複するところがあるかも知れません。しかしこの21章では、阿弥陀仏そのものを観察することが主題なのではなく、浄土における阿弥陀仏の存在意義を明らかにするという観点から注釈を深めていきます。
 ところで、阿弥陀仏の浄土なのだから、阿弥陀仏が存在しなければ成立しないのは当たり前ではないか≠ニ簡単に考えてしまう人も居るようですが、そうではありません。浄土荘厳が余りにも完璧に成就してしまうと、仏の存在が忘れられてしまう可能性もあるのです。実際、国家繁栄の裏で国の基軸を見失い、家が富んだために親の存在が希薄になり、先祖代々の精神文化が廃れる傾向も見られるでしょう。初心を忘れ、目の前の繁栄に浮かれていると、誰のお陰で繁栄しているのか、何のために繁栄しているのか、という支柱を忘れがちになります。

 浄土においても、願いは成就した≠ニ落ち着いてしまうと、途端に願いの歴史は崩壊し、後は抜け殻の国土が残るだけとなってしまいます。実際、高僧と呼ばれる人たちの解釈でも、文言だけを見ると、仏願を言質にして条件闘争をしているかのような誤解を与える箇所もありますので気をつけねばなりません。常に願いの基軸を反芻[ハンスウ]して念じ、願いの報いであることを忘れぬように保つ(住持)必要があるのです。
 かつて島田幸昭師は、浄土と阿弥陀仏の関係について「創造的世界の創造的根本主体」と喝破されましたが、私たちもそうした大きな流れをつかんだ上で浄土観察を進めていけば、阿弥陀仏の存在意義を明らかにすることが可能となるでしょう。これは取りも直さず、全世界の本来的な中心軸を探る作業なのです。

<正覚阿弥陀 法王善住持>
 これは「仏力住持」のことで、『論註』第1章{『十住毘婆沙論』と『往生論註』}に――

「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。
▼意訳(意訳聖典)
易行道とは、ただ仏を信ずることによって浄土の往生を願えば、如来の願力によって浄らかな国土に生まれ、仏力によってただちに大乗正定聚の部類に入ることができる。
とある通りです。
 ここで二つの力がはたらいている事が解るでしょうか。第一は、「仏願力に乗じて浄土往生を得る」、第二は、「仏力住持して、正定聚に入る」、この二つがきちんと分けて解説してあることを見逃してはいけません。
 日本においては、平安時代まではとにかく浄土に往生しさえすれば良い≠ニ考えられていましたので、信心の内容まで吟味されなかったのですが、親鸞聖人は法難の中で曇鸞大師の導きに出遇い、信の内容こそを問われたのです。
 つまり「信」が「信仰」のままであったり、欲望の充足や安逸を求めた不純な信で往生を願えば、化土(疑城胎宮・懈慢辺地)に胎生するに留まり仏・菩薩に永く出遇うことが適わないのです。これを「不定聚」とも「邪定聚」ともいいます言います。
 そこで聖人は、信仰から至心・信楽・欲生と脱皮する真実信心の内容を明らかに示されました(参照:{至心信楽の願}{#信仰と信心と信楽})。ここでようやく私たちは真実報土に化生する本来の道が開かれたのであり、<大乗正定聚の部類に入ることができる>ようになったのです。

「不定聚・邪定聚」と「正定聚」の違いを卑近な例で言えば、たとえば、有名大学に受かりさえすれば良い≠ニいう証書欲しさで受験する人と、この大学に入ってじっくりと学びたい≠ニいう目標を立てて受験する人の違いでしょうか。ただ安逸を求めて浄土に往生しても、蓮の華が閉じて浄土の中身が解らず、結局は往生した甲斐がない。これを化土(疑城胎宮・懈慢辺地)に胎生するといい、不定聚・邪定聚の部類といいます。
 浄土に往生する目的が本願成就のいわれに適っていれば、往生し甲斐があり、蓮の華が開いて浄土の内容が解る。これを真実報土に化生するといい、正定聚の部類といいます。

 如来の善住持は[たくま]しく、ここには一片の疑念もさしはさむものではありませんが、私たちの側としては「ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば」という課題が残っています。浄土往生を願う、願生の内容や熱意が肝心なのであり、この願生が起こる因縁も自力ではなく如来回向の信心である、と見抜かれた方が親鸞聖人でありますが、この曇鸞大師の著においてもその萌芽を見ることができるでしょう。

 羅刹と転輪聖王

仏本なんがゆゑぞこの願を興したまへる。ある国土を見そなはすに、羅刹、君となればすなはち率土あひダンす。宝輪、殿に駐 馬を立む まればすなはち四域虞ひなし。これを風の靡くに譬ふ。あに本なからんや。
▼意訳(意訳聖典より)
仏は因位の時に、どうしてこの願をおこされたのかというと、ある国土を見れば、羅刹[ラセツ]を君とすれば、その君に治められる国土の民は互いに食いあう。【転輪王[テンリンノウ]が車を宮殿に[とど]め、そこにいて国を治めると、四方の人々は心配がなくなる】。これを、風が吹いてすべてのものがそれに[なび]くにたとえる。みなその根本がある。

 羅刹[ラセツ]は、後には仏教の守護神となるのですが、元は悪鬼の一種でした。論註のこの譬えは元の悪鬼の性質を言います。神王形で甲冑を着け、刀を持って白獅子に乗り、足が速く、大力で、人間を魅惑してこれを食う足疾鬼が羅刹です。たとえば、織田信長は天下布武[テンカフブ]の印文によって日本を統治しようとしましたが、これは武力・恐怖心に頼った統治を示しています。こんな羅刹のような者が君主となれば、家臣は疑心暗鬼となり、統治下の国民も迷惑を被ることは必然でしょう。たとえ一時的に武力の恐怖で国が治まっても、統治にひとたび[ほころ]びが生じれば反旗を翻す勢力が現れ、内乱が起こり、民衆への大虐殺が始まることは世界の歴史が証明しています。人類の歴史全般を通じた悲劇は、羅刹のような暴力的な王によって引き起こされてきたのです。侵略されたり裏切られれば、国民は殺されることを覚悟して反抗するか、じっと耐え忍ぶしかありません。

 また、羅刹のような王ではないにしろ、統治を行う力量や人徳をそなえていない王の下でも国民は安心して暮らすことができません。国が治まらなければ統治は乱れ、悪行が横行し、内乱が生じる可能性があるからです。また他国に侵略されれば国民は戦死したり、捕虜になったり、奴隷になったり、難民となって彷徨[さまよ]うことにもなりかねません。
 これは古代どころか、近代、いや今現在の世界においても重要事でしょう。侵略を続ける大国が小国の自治や文化や宗教を奪い、民族や宗教による差別を定着させ、愛国の名のもとにあらゆる暴虐を隠蔽[インペイ]するような事態が世界各地で起こっているのです。

 インドにおいても羅刹のような王は数多く存在しました。釈尊在世当時もつねに戦争が行われていて、釈迦族もその渦中で滅亡してしまいました。明日の命は知れぬ≠ニ言っても、民族間闘争や内乱で滅亡することは耐え難いものがあります。寿命で死ぬのは受け入れることができても、戦争や内乱で親族一同が虐殺されたり民族浄化の憂き目を見る事態はとても受け入れられません。そこで国民は、転輪王[テンリンノウ]の統治を願ったのでした。

 転輪王(転輪聖王)とは、古代インドの理想的国王で、正義や徳をもって世界を治める仁王のことです。身に三十二相をそなえ、即位の時、天から輪宝を感得し、これを転じて天下を威伏治化するのです。この転輪王が、天から感得した輪宝(宝輪)を<殿に駐(馬を立む)まれば>、つまり、天下を治めるべき正義や徳の宝を体現し、この宝が宮殿の中心に収まって為政として転じられれば、ということです。そうなれば当然、草が風になびくように王の正義や威徳が四方に広がり、人々は恐れや心配がなくなります。武力によって治めるのではなく、正義と人徳によって治められた国は、「国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである」と『仏説無量寿経』40に示された通りの国を建設することができます。これは民衆の切なる願いでしょう。
 インド史上最初の統一王はアショーカ王でしたが、カリンガ征服戦争までは羅刹のごとき王であったことが伝えられています。しかし後には転輪王のごとき功績を残しています。仏教の功徳が現実に転じられた良き例と言えるでしょう。(参照:{アショーカ王の功罪}

転輪王は身に三十二相をそなえている≠ニいう点をもう少し深めてみると、三十二相は仏徳の総合的体現ですから(参照:{具足諸相の願})、法王としての資質も具えていることを意味します。

それ一如に範衛してもつて化を流すものは法王、四海に光宅してもつて風を垂るるものは仁王なり。しかればすなはち、仁王・法王、たがひに顕れて物を開し、真諦・俗諦たがひによりて教を弘む。このゆゑに玄籍宇内に盈ち、嘉猷天下に溢てり。
最澄著『末法灯明記』(『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六・80に引用)

▼意訳(現代語版より)
さて、唯一絶対の真実にもとづき、人々を教え導くものは法王であり、広く世界を治め、徳をもって人々を導くものは仁王である。したがって、仁王と法王とはそれぞれに世に現れて人々を導き、仏教の真理と世間の道理とは互いに助けあって教えを広めるのである。これによって奥深い教えが世に広まり、正しい道が天下に行きわたる。

 たとえば釈尊生誕時にアシタ仙人はその瑞相を拝見し、いずれ転輪聖王か仏となる≠ニ述べたことが伝わっていますが、これは転輪聖王と仏は本質的に同じであり、立場のみが異なっていることを示しています。つまり、世俗における国家の王となれば単なる世俗の王というだけではなく宗教的な智徳を身に即けた王となる、それが転輪聖王であります。そうであれば、宗教界の王であっても宗教界の王というだけではなく世俗的な内容もよくよく理解できる王となる、これが法王であります。つまり、王となるのであれば最高の王となり、仏となるのであれば最高の仏となる。この最高の王と最高の仏の智徳を併せ持った理想存在こそ世自在王仏であります。

 ただし、これによって祭政一致国家を目指すわけではありません。世俗の王が世自在王仏の理想を目指せば仁王となり、宗教界の王が世自在王仏の理想を目指せば真の仏(法王)となる、という源をいうのです。政教分離でありながら、この二者が反目するのではなく、助けあっていけば、おのずと世自在王仏の理想が具現化し、豊かで平和な世界を創造してゆくことができる。これが一切衆生とともに現実の歴史を背負って歩む「弥陀成仏のいわれ」であります。本願成就の歴史は人類の果てしない精神史なのです。

 私たちはこの「弥陀成仏の経緯」とも「本願成就のいわれ」とも言われる道程を聞き開いてゆく、すると本願成就の歴史が私の事実となるのです。
<衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり>(信文類三・65)という聞法を通じて、私の側から仏に成るのではなく、如来の側から私に成り切ることが適う。本来として私に宿されていた人類の歴史全ての宝が、聞法を縁として扉が向こう側(浄土の側)から開き、現実に私に成り切って苦難の人生を生きる力となるのです。

転輪王[テンリンノウ]が車を宮殿に[とど]め、そこにいて国を治めると、四方の人は心配がなくなる>とは、以上の内容のうち、譬え話としては世俗の王が世自在王仏の理想を目指し、阿弥陀成仏の経緯を聞き開いて仁王となり、仏力が保たれ永く世に平和をもたらす≠アとを説いているのですが、『論註』のこの箇所ではあくまで浄土を明らかにする意図を持っています。ですから、この世俗的な譬えをもって、浄土に阿弥陀仏が存在する意義を説いているのです。

 住持の実際

このゆゑに願を興したまへり。「願はくはわが国土にはつねに法王ましまして、法王の善力に住持せられん」と。「住持」とは、黄鵠、子安を持てば、千齢かへりて起り、魚母、子を念持すれば、ガク 夏水ありて冬水なきをガクといふ を経て壊せざるがごとし。安楽国は〔阿弥陀仏の〕正覚のためによくその国を持せらる。あに正覚の事にあらざることあらんや。このゆゑに「正覚阿弥陀 法王善住持」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
こういうわけで法蔵菩薩は願をおこされ「わが国土にはいつも法王があって、その法王の不可思議の力によって住持せられているようにしよう」と願われた。「住持」というのは、鶴がなくなった子安の墓の上でこれを念持したので、千年の命が再びよみがえり、親魚が自分の卵を念持すると、夏は水があるが、水のかれる冬を経ても、くだけないようなものである。安楽浄土は、阿弥陀如来の正覚の善力によって支えられている。その浄土が弥陀の正覚のものがらでないものがあろうか。こういうわけで「正覚の阿弥陀法王 善く住持したまえり」といわれたのである。

 前節までのことが解れば、この文はそのまま領解できるでしょう。
<あに正覚の事にあらざることあらんや>(浄土が弥陀の正覚のものがらでないものがあろうか)ということは、『仏説無量寿経』9(法蔵修行)において――

この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり。 不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して……
▼意訳(現代語版)
そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。
とあるように、本願の目的は「妙土を荘厳す」ということが第一であり、その結果の浄土ですから、浄土を観察する私たちは、浄土建立の根本精神とその主体を忘れては本意が適いません(参照:{法蔵修行の実際})。
 世俗においても、ある国について真に学ぼうと思えば、その国の現在の様子を学ぶだけでは不足で、その国の歴史を知り、その国の根本精神と国体を感得せねば充分ではないでしょう。自国についても同様です。まして浄土は根本主体である阿弥陀仏と本願ぬきには成立しません。

 なお「荘厳主功徳成就」に相当する解義分を引きますと――

 荘厳主功徳成就とは、偈に「正覚阿弥陀 法王善住持」といへるがゆゑなり。
 これいかんが不思議なる。正覚の阿弥陀不思議にまします。かの安楽浄土は、正覚の阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや。「住」は不異不滅に名づく。「持」は不散不失に名づく。不朽薬をもつて種子に塗りて、水に在くに瀾れず。火に在くにコガれず。因縁を得てすなはち生ずるがごとし。なにをもつてのゆゑに。不朽薬の力なるがゆゑなり。もし人、一たび安楽浄土に生ずれば、後の時に、意に三界に生じて衆生を教化せんと願じて、浄土の命を捨てて、願に随ひて生ずることを得て、三界雑生の火のなかに生ずといへども、無上菩提の種子は畢竟じて朽ちず。なにをもつてのゆゑに。正覚の阿弥陀の善住持を経るをもつてのゆゑなり。

『往生論註』74(巻下 解義分 観察体相章 器世間)

▼意訳(意訳聖典より)
 荘厳主功徳成就とは、偈に「正覚の阿弥陀法王 善く住持したまえり」 と言える故なり。  これがどうして不思議であるかというと、正覚成就の阿弥陀仏が不可思議にましますのである。かの安楽浄土はこの阿弥陀仏の善き力によって住持せられている。どうして思いはかることができようか。「住」とは変わらず滅しないことをいい、「持」とは散失しないことをいう。たとえば、朽ちない薬を草木の種に塗ると、水の中に置いてもくだけず、火の中に入れても焦げず、適当な因縁を得ればすなわち芽を出すのと同じである。なぜかというと、朽ちない薬の力によるからである。もし人が一たび安楽浄土に生まれたならば、後のとき自分の意に、迷いの三界に出てきて衆生を教化しようと願えば、浄土を離れて願いのとおりに生まれることができ、三界の迷いの境界の火や水の中に出てきても、無上仏果の種はついに朽ちないのである。なぜかというと、正覚成就の阿弥陀仏の善くたもちたもう力を受けているからである。
とある通りです。

「住持」については幾度も繰り返し説明がありますので、もう少し具体的に述べてみますと、安楽浄土は阿弥陀如来の正覚の善力によって支えられている、それは如来の無上菩提心に他ならないのです。

 王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。このゆゑに、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なし。おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。

『往生論注』105巻下・解義分・善巧摂化章・菩提心釈 より

▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
 王舎城において説かれた『無量寿経』によれば、往生を願う上輩・中輩・下輩の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな、無上菩提心をおこすのである。この無上菩提心は、願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心はそのまま度衆生心である。度衆生心とは、衆生を摂[おさ]め取って、阿弥陀仏の浄土に生まれさせる心である。このようなわけであるから、浄土に生まれようと願う人は、必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。もし、人がこの心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪[むさぼ]るために往生を願うのであれば、往生できないのである。だから『浄土論』には<自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う>と述べられている。<変ることのない安楽>とは、浄土は阿弥陀如来の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、絶え間なく楽しみを受けることができるということである。  総じて、回向という言葉の意味を解釈すると、阿弥陀仏が因位の菩薩のときに自から積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである。

 つまり、如来の無上菩提心が回向されて、私たちも無上菩提心をおこす。自力の菩提心ではなく、あくまで他力の菩提心、如来回向の菩提心です。この菩提心は「願作仏心」であり「度衆生心」、仏が真の仏に成ろうと願い求めることがそのまま衆生を尊敬することとなり、この仏が衆生を拝む功徳によって衆生を成仏に導くのです(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?})。これが「弥陀成仏のいわれ」であると同時に、私の信心となって生活の上ではたらきます。このように、根本主体(仏)と前衛主体(念仏者・正定聚の菩薩)において無上菩提心が回向される関係が保たれることを「住持」というのです。

 以上のように、無上菩提心の願と住持こそが全世界の本来的な中心軸なのであり、この本来的な中心を現実の文明の中心に置くことによって真に平和で豊かな世界が実現するのです。このように、本来が本来の場を得れば人々は安心して暮らすことができるようになり、すべての人が生き甲斐をもって人生を全うすることが適うのです。

 資料

観察門 器世間「荘厳主功徳成就」(漢文)

『往生論註』巻上

漢文
 (総説分)
【二一】
 正覚阿弥陀 法王善住持
此二句名荘厳主功徳成就仏本何故興此願見有国土羅刹為君則率土相 &M004299;宝輪駐{立馬長句反}殿則四域無虞譬之風靡豈無本耶是故興願願我国土常有法王法王善力之所住持住持者如黄鵠持子安千齢更起魚母念持子逕 &M018395;{夏有水冬無水曰&M018395;火岳反}不壊安楽国為正覚善持其国豈有非正覚事耶是故言正覚阿弥陀法王善住持

[←back] [next→]

[Shinsui]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)