『往生論註』巻上
この四句は荘厳触功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、金・玉を宝重すといへども衣服となすことを得ず。明鏡を珍翫すれども敷具によろしきことなし。これによりて目を悦ばしむれども、身に便りならず。身・眼の二情あに鉾楯せざらんや。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土の人天の六情、水乳に和して、つひに楚越の労を去らしめん」と。ゆゑに七宝柔軟にして目を悦ばしめ身に便りなるなり。「迦旃隣陀」とは、天竺(印度)の柔軟草の名なり。これに触るればよく楽受を生ず。ゆゑにもつて喩へとなす。註者(曇鸞)のいはく、この間の土・石・草・木はおのおの定体あり。訳者(菩提流支)なにによりてか、かの宝を目けて草となすや。まさにそのフウ 草風を得る貌なり 然エイ 草の旋る貌なり ビョウ 細き草をビョウといふ なるをもつてのゆゑに、草をもつてこれに目くるのみ。余もし参訳せばまさに別に途あるべし。「生勝楽」とは、迦旃隣陀に触るれば染着の楽を生ず。かの軟宝に触るれば法喜の楽を生ず。二事あひはるかなり。勝にあらずはいかん。このゆゑに「宝性功徳草 柔軟左右旋 触者生勝楽 過迦旃隣陀」といへり。
- 聖典意訳
- 宝性功徳の草は 柔軟にして左右に
旋 れり
触るる者は勝楽を生ずること迦栴隣陀 に過ぎたり[ この四句を、
荘厳触功徳成就 と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、金や玉を重んずるけれども、それを衣服にすることはできない。きれいな鏡を珍しくもてあそんでも、それを敷具にあてがうことはできない。これらのものは、目に見ていいけれども、身にふれるのに便利ではない。そうすると、身にふれるのと目に見るとの二つの心持が矛盾するではないか。こういうわけで「わが国土の人人は、目・耳・鼻・舌・身・意の六根を楽しませることが水と乳のように一致して、[ 楚 と[ 越 が離れるようなわずらわしさをなくならしめよう」と願われた。こういうわけで浄土の七宝は柔らかで、目で見て楽しませると共に、身にふれても心地がよいのである。「迦栴隣陀」というのは、天竺(印度)の柔らかな草の名である。これに触れるとよく楽しい味わいをおこさせるから、これをもって[ 喩 えとしたのである。[
註者(曇鸞自身を指す)がいう。この世界では、土や石や草やまたは木などにはそれぞれ別別の定まった体がある。翻訳者はどういうわけで浄土の宝に草という文字をつけたのであるか。それはよく風に靡 いてやわらかく動く草のようであるから。草の文字をもってこれに名づけただけである。もし自分がその翻訳に参加したならば、もう少し方法があったであろう。[
「勝楽を生ずる」とは、天竺の草の迦栴隣陀にふれると、執着の楽を生ずるが、浄土の柔らかな宝にふれると、法を喜ぶ楽しみをおこさせる。二つのものの相が非常に違っている。それで勝れているといわねばならない。こういうわけ「宝性功徳の草は 柔軟にして左右に旋れり 触るる者は勝楽を生ずること 迦栴隣陀に過ぎたり」といわれたのである。
私ごとになりますが、以前研修会{ユニバーサルデザイン≠ノついて}の準備委員会において、皆で「聞いて!来て!見て!触って!!仏青!! 〜あなたを想う〜」と副題をつけたのですが、この中で私が「触って!!」を入れるよう強力に推したのは、こうした意図があったからです。
宝性功徳草 柔軟左右旋 触者生勝楽 過迦旃隣陀
この四句は荘厳触功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、金・玉を宝重すといへども衣服となすことを得ず。明鏡を珍翫すれども敷具によろしきことなし。これによりて目を悦ばしむれども、身に便りならず。身・眼の二情あに鉾楯せざらんや。このゆゑに願じてのたまはく、「わが国土の人天の六情、水乳に和して、つひに楚越の労を去らしめん」と。ゆゑに七宝柔軟にして目を悦ばしめ身に便りなるなり。「迦旃隣陀」とは、天竺(印度)の柔軟草の名なり。これに触るればよく楽受を生ず。ゆゑにもつて喩へとなす。註者(曇鸞)のいはく、この間の土・石・草・木はおのおの定体あり。訳者(菩提流支)なにによりてか、かの宝を目けて草となすや。まさにそのフウ 草風を得る貌なり 然エイ 草の旋る貌なり ビョウ 細き草をビョウといふ なるをもつてのゆゑに、草をもつてこれに目くるのみ。余もし参訳せばまさに別に途あるべし。
▼意訳(意訳聖典より)
宝性功徳の草は 柔軟にして左右に旋 れり[
触るる者は勝楽を生ずること迦栴隣陀 に過ぎたり[
この四句を、荘厳触功徳成就 と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの功徳を荘厳しようという願をおこされたのかというと、ある国土をみれば、金や玉を重んずるけれども、それを衣服にすることはできない。きれいな鏡を珍しくもてあそんでも、それを敷具にあてがうことはできない。これらのものは、目に見ていいけれども、身にふれるのに便利ではない。そうすると、身にふれるのと目に見るとの二つの心持が矛盾するではないか。こういうわけで「わが国土の人人は、目・耳・鼻・舌・身・意の六根を楽しませることが水と乳のように一致して、[ 楚 と[ 越 が離れるようなわずらわしさをなくならしめよう」と願われた。こういうわけで浄土の七宝は柔らかで、目で見て楽しませると共に、身にふれても心地がよいのである。「迦栴隣陀」というのは、天竺(印度)の柔らかな草の名である。これに触れるとよく楽しい味わいをおこさせるから、これをもって[ 喩 えとしたのである。[
註者(曇鸞自身を指す)がいう。この世界では、土や石や草やまたは木などにはそれぞれ別別の定まった体がある。翻訳者はどういうわけで浄土の宝に草という文字をつけたのであるか。それはよく風に靡 いてやわらかく動く草のようであるから。草の文字をもってこれに名づけただけである。もし自分がその翻訳に参加したならば、もう少し方法があったであろう。[
「荘厳触功徳成就」の源泉は{触光柔軟の願}や{常受快楽の願}にあります(柔軟は「水」で象徴されることが多いのですが、「草」でも表現されています)。ここでは仏法がただ見栄えがよく御立派な教え≠ナあるだけでなく人々が身近に触れて満足せしむる≠ニいうはたらきを有することを強調しています。
特に<金・玉を宝重すといへども衣服となすことを得ず>は、前回の{荘厳妙色功徳成就}では、諸天の金を比較として使用しているため、誤解を解く意味でもここに「荘厳触功徳成就」が来ることが良い流れとなっています。
<楚越の労を去らしめん>とは、楚と越は隣国ながら争いが絶えなかった故事にちなみ、六根に不調和がないように≠ニいう浄土のはたらきを表しています。現代に照らせば、原理主義やカルトに陥らせないための導きとも言えます。
<註者(曇鸞)のいはく>以下では、曇鸞大師が『浄土論』の翻訳者(菩提流支)にダメ出し≠します。浄土の宝の譬えに草(迦旃隣陀)は無いだろう≠ニ言うわけです。自分(曇鸞)が翻訳に参加すれば<別に途あるべし>(もう少し方法があったであろう)とも批判しています。しかし私たちにしてみればそこまで言うのなら対案を示しておいてほしかった≠ニ思われますが如何でしょう。穿った見方をすれば、草以上に良い譬えが出なかった可能性はあります。ならば試みに、<柔軟にして目を悦ばしめ身に便りなるなり>(柔らかで、目で見て楽しませると共に、身にふれても心地がよい)という浄土の七宝「荘厳触功徳成就」に適った譬えを皆で考えてみても良いでしょう。
「生勝楽」とは、迦旃隣陀に触るれば染着の楽を生ず。かの軟宝に触るれば法喜の楽を生ず。二事あひはるかなり。勝にあらずはいかん。このゆゑに「宝性功徳草 柔軟左右旋 触者生勝楽 過迦旃隣陀」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
「勝楽を生ずる」とは、天竺の草の迦栴隣陀にふれると、執着の楽を生ずるが、浄土の柔らかな宝にふれると、法を喜ぶ楽しみをおこさせる。二つのものの相が非常に違っている。それで勝れているといわねばならない。こういうわけ「宝性功徳の草は 柔軟にして左右に旋れり 触るる者は勝楽を生ずること 迦栴隣陀に過ぎたり」といわれたのである。
ここからは「
『解義分』では――
『往生論註』66(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)と解説されています。
荘厳触功徳成就とは、偈に「宝性功徳の草は 柔軟にして左右に旋れり 触るる者の勝楽を生ずること迦栴隣陀 に過ぎたり」と言える故なり。[
これがどうして不思議であるかというと、そもそも金銀のような宝のたぐいは固く強いのであるが、浄土の宝は柔らかい。これに触れる者は、執着するはずであるのに、これが仏道を増進させることは愛作 と同じである。どうして思いはかることができようか。愛作と名づける菩薩があった。みめかたちがうるわしくて、人がみな愛着の煩悩を起こした。経(《大乗方便経》)に「これに執着する者が、かえってよい心を起こさしめられて、あるいは天上界に生まれ、あるいは菩提心を起こした」と説かれてある。[
人間、生きる甲斐は快楽を得ることにあります。快楽の無い人生は虚しく、苦痛ばかりの人生では生まれてきたことさえ恨みに思ってしまいます。鳩摩羅什が阿弥陀仏の浄土「安楽国」を「極楽」とまで意訳した本意もここにあるでしょう。『讃仏偈』においても、浄土に到る者は「快楽安穏」ならんと願われています。
しかし、蜜を塗った刀をなめれば舌を切るように、「楽」と思って近づくとかえって「苦」を受けることもあります。真実の快楽はどこにあるのでしょう。
『往生論註』114(巻下 解義分 願事成就章)より
楽に三つの種類がある。
一つには外楽、これは眼・耳・鼻・舌・身の五識によっておこる楽しみである。
二つには内楽、これは初禅天・二禅天・三禅天の禅定の意識でおこす楽しみである。
三つには法楽楽、すなわち仏法の楽しみ、これは智慧によって生ずる楽しみである。この智慧によっておこる楽しみは、阿弥陀仏の功徳を愛楽するよりおこるのである。
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(参照:{荘厳清浄功徳成就「#三界の道に勝過せり」})
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観察門 器世間「荘厳触功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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