平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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ごく最近ですが、義父の葬儀があり、その後の満中陰など、本願寺派のご住職に何回か法要を勤めていただきました。気になった細かい点です
(言葉の問題だけですが、住職にはちょっと聞けません)。
1. 読経後の回向で、「同発菩提心」と唱えているようですが、真宗では「菩提心」を否定的に考えているのではないでしょうか? 正像末和讃では、「大菩提心をこせども...流転せり」となっています。この言葉が、四十八願文などの「正覚」と同じ意味(訳語の相違)とすれば、法蔵菩薩などのように自力で悟りに至る者が用いる言葉に思えます。
2. 法話で、「お浄土に往生する」と説明されていましたが、「浄土」は「世界」または「仏国土」を意味する普通名詞ではないでしょうか?
正信偈では、「諸仏浄土」の句があります。阿弥陀如来の浄土の意味では、「安楽国(大経)」や「極楽(観経、小経)」の方が適切と思います。
ご質問ありがとうございます。早速にお応えしたいところですが、一般の人にとっては少し難かしい問いかも知れませんので、まずご質問の内容を分かりやすく説明した上で返答させていただきます。
〉 1. 読経後の回向で、「同発菩提心」と唱えているようですが
おっしゃる通り、法要などでは読経の後、念仏・和讃と進み、最後の回向ではこの文をよく用います。原典は善導大師の『観経疏』玄義分 巻第一 帰三宝偈の最後の方に出てきます。
〉 真宗では「菩提心」を否定的に考えているのではないでしょうか? 正像末和讃では、「大菩提心をこせども...流転せり」となっています。
ここで質問に引かれてみえる正像末和讃は――
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
『正像末和讃』 三時讃 (一七)
一に延促を明かすとは、ただ一切衆生苦を厭ひて楽を求め、縛を畏れて解を求めざるはなし。みな早く無上菩提を証せんと欲せば、先づすべからく菩提心を発すを首となすべし。この心識りがたく、起しがたし。たとひこの心を発得すとも、経によるに、つひに、すべからく十種の行、いはゆる信・進・念・戒・定・慧・捨・護法・発願・回向を修して、菩提に進詣すべし。しかるに修道の身相続して絶えずして、一万劫を経てはじめて不退の位を証す。当今の凡夫は現に信想軽毛と名づけ、または仮名といひ、または不定聚と名づけ、または外の凡夫と名づく。いまだ火宅を出でず。なにをもつてか知ることを得る。『菩薩瓔珞経』によりてつぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるがゆゑに難行道と名づく。
『安楽集』 巻下 より
▼意訳(意訳聖典より)
一つに、延促[ちそく]を明かすとは、すべての衆生は苦を厭[いと]うて楽を求め、迷いをおそれてさとりを求めないものはない。みな早く無上仏果[むじょうぶっか]を證[さと]ろうと思うならば、まず菩提心をおこすことを第一とせねばならぬ。ところが、この心は識[し]りがたく、起こしがたい。たとい、これを起こしても、経(菩薩瓔珞本業経)に依[よ]れば、ついに信・進・念・戒・定・慧・捨・護法・発願・回向という十種の行を修めて、仏果まで進めねばならぬ。ところで修道する者は、絶えず相続して一万劫を経てはじめて不退の位を證[さと]るのである。今頃の凡夫は、現に信想[しんそう]の軽毛[けいもう]と名づけ、また仮名[けみょう]の菩薩ともいわれ、また不定聚ともなづけ、また外[げ]の凡夫ともいい、まだ迷いの火宅[かたく]を出ておらない。どうして知られるかというと、≪菩薩瓔珞経≫(菩薩瓔珞本業経)に道を修める行位[ぎょうい]をくわしく述べられてあるのによれば、必ず次第階級を経なければならぬ道理であるから、難行道という。
親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六(本) 聖道釈 三時開遮 において、この後半部分、「しかるに修道の身相続して絶えずして」以下を引用されてみえます。
内容をうかがえば――菩提心をおこすことが第一だが、これは識り難いし、起こし難いし、起こしても一万劫を経てようやく正定聚不退の位に至ることができる。いまどきの人は信心が毛のように軽く、名ばかりの菩薩・仏教者で、「外の凡夫」であり、煩悩の炎に焼かれながらそこから出ようとしない。菩提心を起こし仏果を得るのはとても難かしい行である。―― という訳ですから、確かに自らを凡夫の衆と心得る真宗教団では、この菩提心が仏果に結びつくのは絶望的な難行であり、<「菩提心」を否定的に考えているのではないでしょうか?>との疑問はもっともなことです。
ちなみに「外の凡夫」とは「外凡」のことで、自己を問題とせず外ばかり責めたり憧れたりする凡夫のことです。大乗仏教では十信以下の状態をいい、これ以後の「内凡」・「内の凡夫」とは峻別しています。
しかし時として、どちらも単に「凡夫」と総称してしまいがちで、教学に混乱を招く原因となっています。つまり、「信心を得ても凡夫であることには変らない」という言葉のみに固執し、この重要な「外」と「内」の違いが語られず、凡夫の内容が激変していることを積極的に述べてこなかったきらいがあるのです。
〉 この言葉が、四十八願文などの「正覚」と同じ意味(訳語の相違)とすれば、法蔵菩薩などのように自力で悟りに至る者が用いる言葉に思えます。
法蔵菩薩については、単に自力というだけではなく、一切衆生の済度を願っての修行ですから、私ども個人と比較はできませんが、それでも五劫という時を経ての願成就、十劫(永劫)の寿を保つ仏のはたらきを憶いますと、私どもの起こそうと努力する菩提心はとても仏果を得るとは思えません。「それなのに・・・」という疑問はよく分かります。
〉 2. 法話で、「お浄土に往生する」と説明されていましたが、「浄土」は「世界」または「仏国土」を意味する普通名詞ではないでしょうか?
〉 正信偈では、「諸仏浄土」の句があります。阿弥陀如来の浄土の意味では、「安楽国(大経)」や「極楽(観経、小経)」の方が適切と思います。
この疑問もよく分かります。「浄土」は阿弥陀如来に特定された言葉ではありません。
正信偈にも――
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
法蔵菩薩の因位のとき、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
とあり、法蔵菩薩は在世自在王仏の導きで諸仏浄土の視察を行なっている旨が語られています。
この疑問点にも、後ほどお応えさせていただきます。
まず1.の質問ですが、菩提心には二種類ある、ということをよくよく学んでいただきたいと思います。
しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 菩提心釈 より
▼意訳(現代語版より)
ところで、菩提心には二種類ある。一つには竪[しゅ]すなわち自力の菩提心、二つには横[おう]すなわち他力の菩提心である。また竪の中に二種がある。一つには竪超[しゅちょう]、二つには竪出[しゅしゅつ]である。この竪超と竪出は、権教・実教・顕教・密教、大乗・小乗の教えに説かれている。これらは、長い間かかって遠まわりをしてさとりを開く菩提心であり、自力の金剛心であり、菩薩がおこす心である。
また、横[おう]の中に二種類がある。一つには横超[おうちょう]、二つには横出[おうしゅつ]である。横出とは、正行・雑行・定善・散善を修めて往生を願う、他力のなかの自力の菩提心である。横超とは、如来の本願力回向による信心である。これが願作仏心、すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心は、すなわち他力の大菩提心である。これを横超の金剛心というのである。
他力の菩提心も自力の菩提心も、菩提心という言葉は一つであって、意味は異なるといっても、どちらも真実に入ることを正しいこととし、またかなめとし、まことの心を根本とする。よこしまで不純なことを誤りとし、疑いをあやまちとするのである。そこで、浄土往生を願う出家のものも在家のものも、信には完全な信と完全でない信とがあるという釈尊の仰せの意味を深く知り、如来の教えを十分に聞き分けることのないよこしまな心を永久に離れなければならない。
(語句の解説:資料2▼参照)
このように、一口に菩提心と言っても竪(自力)と横(他力)の二種類があり、その二種にもさらに出(漸教:長い時を経てさとりを得る教え)と超(頓教:直ちにさとりを得る教え)の二種に分けることができます。浄土真宗の信心は「願力回向の信楽」、如来よりたまわる信心で、菩提心も自力で発するものではなく、「浄土の大菩提心」つまり如来より回向された菩提心ですから、横(他力)なのです。しかも第十八願の願意に肯づくならば、決して退かない横超の金剛心を得、他力の大菩提心を直ちに発こすことができるのです。
ただし、自力も他力も、菩提心の根本的な精神は同じで、どちらも「<入真を正要とす>:真実に入ることを正しいこととし、またかなめとし、<真心を根本とす>:まことの心を根本とする。<邪雑を錯とす>:よこしまで不純なことを誤りとし、<疑情を失とする>疑いをあやまちとする」ことは変わりません。如来の教えを中途半端に学んでいたり、他力という言葉に居座って、よこしまな心を離れる気が無いならば、とても菩提心を発こすことはできないのです。
ちなみに「横超」の菩提心・金剛心は浄土真宗の教相判釈[きょうそうはんじゃく]の基本であり、これを「二雙四重[にそうしじゅう]の教判」といい、仏教における浄土真宗の立場を明らかにしています。
なお「横超」の言葉は、先に引用した『観経疏』玄義分 巻第一 帰三宝偈の最初にある「共発金剛志 横超断四流:ともに金剛の志を発して、横に四流(四種の煩悩)を超断すべし」によっています。
さらに親鸞聖人は『一念多念文意』において、『大無量寿経』に説かれた「次如弥勒」という言葉から、念仏の衆生は弥勒と同じである意を明かされます。
(資料3▼参照)
このように、竪漸の金剛心の弥勒と、横超の金剛心の念仏者は、さとりに至る方法は違っていても、ともに「この世ですでに不退転の位に至っており、必ず仏のさとりを開く」という立場は同じであることが述べられています。
そして、こうした菩提心をおこそうとせず、単に自身の安楽を求めて往生を願う人に対して、聖人は曇鸞大師の言葉を引いて批判されています。
王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。このゆゑに、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なし。おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。
曇鸞著『往生論注』巻下 解義分 善巧摂化章 菩提心釈 より
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 菩提心釈 に引用
▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
王舎城において説かれた『無量寿経』によれば、往生を願う上輩・中輩・下輩の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな、無上菩提心をおこすのである。この無上菩提心は、願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心はそのまま度衆生心である。度衆生心とは、衆生を摂[おさ]め取って、阿弥陀仏の浄土に生まれさせる心である。このようなわけであるから、浄土に生まれようと願う人は、必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。もし、人がこの心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪[むさぼ]るために往生を願うのであれば、往生できないのである。だから『浄土論』には<自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う>と述べられている。<変ることのない安楽>とは、浄土は阿弥陀如来の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、絶え間なく楽しみを受けることができるということである。
総じて、回向という言葉の意味を解釈すると、阿弥陀仏が因位の菩薩のときに自から積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである。
そして聖人はこうした意を要約して以下三首の『正像末和讃』を書かれました。
浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心を
度衆生心となづけたり
『正像末和讃』 三時讃 (二〇)
度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり
同 (二一)
如来の回向に帰入して
願作仏心をうるひとは
自力の回向をすてはてて
利益有情はきはもなし
同 (二二)
さらに、善導大師が「専念」と言われた内容を様々に解釈して、「一心」、「真実信心」、「金剛心」、「願作仏心」、「度衆生心」、「大菩提心」のつながりを明らかにし、回向された信心が平等であり、これこそは「仏道の正因」であることを聖人は述べてみえます。(資料4▼参照)
また、菩提心と仏性・如来との関連についても、涅槃経の「すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである」、「大信心は仏性であるり、仏性はそのまま如来である」の文(資料5▼参照)を引かれ、この菩提心こそ如来の本体であることも明らかにされました。
もちろん、この大菩提心・金剛心は大経にある本願の三心、つまり至心・信楽・欲生であることは言うまでもありません。(資料6▼参照)
このように、自力・他力、漸・頓の違いはあっても、菩提心は仏教の中心であり、浄土真宗においては阿弥陀如来より回向された「横超の菩提心」をおこすことが必須といえるでしょう。ただし、菩提心をおこすのも如来の願力の自然[じねん]のはたらきですから、念仏者は驕[おご]り高ぶることなく、感謝・報謝の思いを忘れず、慚愧・懺悔の念とともに菩提心をおこすことが肝心でしょう。(資料7▼参照)
私論として言いますと、この心は仏教の中心ということにとどまらせず、人類のいとなみの中心に菩提心をすえて、そのはたらきを仰ぐ中で文化・文明を創造していくべきだと思います。それでこそ、世界に真の平和が訪れるのではないでしょうか。
次に、2.の質問ですが――
〉 2. 法話で、「お浄土に往生する」と説明されていましたが、「浄土」は「世界」または「仏国土」を意味する普通名詞ではないでしょうか?
〉 正信偈では、「諸仏浄土」の句があります。阿弥陀如来の浄土の意味では、「安楽国(大経)」や「極楽(観経、小経)」の方が適切と思います。
おっしゃる通り、正確に表現する場合は「安楽国」「極楽」を用いるべきでしょう。
『大無量寿経』には「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」とありますし、『観無量寿経』には「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ」「浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽国土に生ずることを得しめん」、『阿弥陀経』には「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ」とあります。経典では他に、「安楽浄土」「極楽国地」「極楽世界」「極楽宝国」などの表現があります。
「諸仏浄土」の例としては、阿シュク仏の「東方妙喜世界」、薬師仏の「東方浄瑠璃世界」、釈迦仏の「霊山浄土」、
毘盧遮那仏の「蓮華蔵世界」などがあり、さらに弥勒菩薩の「兜率天」や観音菩薩の「普陀落山」なども浄土に含めることができます。
しかし、今日一般に「浄土」といえば、阿弥陀仏の「安楽国」「極楽浄土」が念頭に置かれていることは確かで、これは長年にわたって圧倒的に人々の信仰・信心を集めた結果と言えるでしょう。阿弥陀仏の浄土教の歴史には、人々と苦難を共にし、摂取不捨の功徳を説き、菩提心を発こすことに寄与された僧俗の活躍が刻まれています。
また、これは布教伝道の成果というだけでなく、浄土三部経典、特に『大無量寿経』の真意が浄土建立の経緯を顕すことに集約されていて、一切衆生の済度と弥陀如来の成仏と浄土建立が同等の意味を持ち、諸仏と比べると「浄土」にかかる重さが桁違いに大きいことも考え合わせなければなりません。
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはりて、仏(世自在王仏)にまうしてまうさく、〈やや、しかなり。世尊、われ無上正覚の心を発せり。願はくは仏、わがために広く経法を宣べたまへ。われまさに修行して仏国を摂取して、清浄に無量の妙土を荘厳すべし。われをして世においてすみやかに正覚を成りて、もろもろの生死勤苦の本を抜かしめたまへ〉」と。仏、阿難に語りたまはく、「ときに世饒王仏、法蔵比丘に告げたまはく、〈修行せんところのごときの荘厳の仏土、なんぢみづからまさに知るべし〉と。比丘、仏にまうさく、〈この義、弘深にしてわが境界にあらず。やや、願はくは世尊、広くために諸仏如来の浄土の行を敷演したまへ。われこれを聞きをはりて、まさに説のごとく修行して、所願を成満すべし〉と。そのときに世自在王仏、その高明の志願の深広なるを知ろしめして、すなはち法蔵比丘のために、しかも経を説きてのたまはく、〈たとへば大海を一人升量せんに、劫数を経歴せば、なほ底を窮めてその妙宝を得べきがごとし。人、至心に精進して道を求めて止まざることあらば、みなまさに剋果すべし。いづれの願か得ざらん〉と。ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。ときにかの比丘、仏の所説を聞きて、厳浄の国土みなことごとく覩見して無上殊勝の願を超発せり。その心寂静にして志、所着なし。一切の世間によく及ぶものなけん。五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す」と。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 思惟摂取 より
▼意訳(現代語版より)
釈尊が阿難に仰せになった。
「法蔵菩薩は、このように述べおわってから、世自在王仏に、<この通りです。世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起しました。どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説きください。わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。どうぞわたしに、この世で速[すみ]やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください>と申しあげた」
釈尊はさらに言葉をお続けになる。
「そのとき世自在王仏は法蔵菩薩に対して、<どのような修行をして国土を清らかにととのえるかは、そなた自身で知るべきであろう>といわれた。
すると法蔵菩薩は、<いいえ、それは広く深く、とてもわたしなどの知ることができるものではありません。世尊、どうぞわたしのために、ひろくさまざまな仏がたの浄土の成り立ちをお説きください。わたしはそれを承った上で、お説きになった通りに修行して、自分の願を満たしたいと思います>と申しあげた。
そこで世自在王仏は、法蔵菩薩の志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、この菩薩のために教えを説いて、<たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう>と仰せになった。そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。
そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。そして五劫の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである」
仏教の常識で言えば、自らの浄土建立は自ら知って行なうのが当然ですが、阿弥陀如来は真の如来としての本懐を遂げるため、人々の苦悩の原因を取り除きたいとの思いから法蔵菩薩となり、世自在王仏に諸仏浄土の教えを請うわけです。
つまり浄土建立は一切衆生のためにこそ為されるのであり、阿弥陀如来という名もそうした存在理由を示しています。如来が如来の位にふさわしいはたらきを具えるためにあえて菩薩となり、諸仏の浄土をたずね、「人々の善悪と、国土の優劣」を見るのです。そしてこれら全ての功徳を一つの仏国土にまとめ上げるべく修行を重ね、結果として諸仏の浄土に超え勝れた仏国土を建立されるのです。
経典には次に四十八願と重誓偈が説かれ、さらにその成就の姿を示して、阿弥陀浄土の本意と人々を導き入れるプログラムが披露されます。私たちは幾度もこの経典を読むことで如来の深い真意に触れ、感応し、自ずと仏になろうとする心・菩提心が目覚めることになるのです。
以上のように、伝道の成果によって確立された通念があり、教学における浄土の重要性がある中で、浄土真宗の僧侶が単に「浄土」と言えば、それは阿弥陀仏の浄土を指すことは明らかですから、あえて正確に言うことを求める必要はないと思いますが、いかがでしょう。
先づ大衆を勧めて願を発して三宝に帰せしむ。
道俗の時衆等、おのおの無上心を発せ。
生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。
ともに金剛の志を発して、横に四流を超断すべし。
弥陀界に入らんと願じて、帰依し合掌し礼したてまつれ。
世尊、われ一心に尽十方の
法性真如海と、報化等の諸仏と、
一々の菩薩身と、眷属等の無量なると、
荘厳および変化と、十地と三賢海と、
時劫の満と未満と、智行の円と未円と、
正使の尽と未尽と、習気の亡と未亡と、
功用と無功用と、証智と未証智と、
妙覚および等覚の、まさしく金剛心を受け、
相応する一念の後、果徳涅槃のものに帰命したてまつる。
われらことごとく三仏菩提の尊に帰命したてまつる。
無礙の神通力をもつて、冥に加して願はくは摂受したまへ。
われらことごとく三乗等の賢聖の、仏の大悲心を学して、
長時に退することなきものに帰命したてまつる。
請ひ願はくははるかに加備したまへ。念々に諸仏を見たてまつらん。
われら愚痴の身、曠劫よりこのかた流転して、
いま釈迦仏の末法の遺跡たる
弥陀の本誓願、極楽の要門に逢へり。
定散等しく回向して、すみやかに無生の身を証せん。
われ菩薩蔵頓教、一乗海によりて、
偈を説きて三宝に帰して、仏心と相応せん。
十方恒沙の仏、六通をもつてわれを照知したまへ。
いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の教に乗じて、広く浄土の門を開く。
願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、
同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。
『観経疏』 玄義分 巻第一 帰三宝偈 より
▼意訳(意訳聖典より)
まず大衆に発願を勧めるために、三宝に帰依したてまつる。
僧俗すべての人々よ おのおの無上の信心をおこせ。
生死は はなはだ厭[いと]いがたく 仏法はまた欣[ねが]いがたい。
それゆえともどもに他力金剛の信心おこして ただちに生死の流れを断ちきり
弥陀の浄土に往生を願って 如来を信じ合掌・礼拝せよ
世尊よ、わたしは一心に <あらゆる十方の
法性真如海 報化などの諸仏がた
一々の菩薩身 および無数の眷属
荘厳身および変化身 十地ならびに三賢位の菩薩
修行の時劫の満ちたものと満たないもの 智行の円かなものと円かでないもの
煩悩の尽きたものと尽きないもの 余残の気の亡くなったものと亡くならないもの
有功用のものと無功用のもの 真如の理をさとったものとさとらないもの
妙覚および等覚のかた すなわちまさしく金剛智を得て
真如をさとる最後の一念を経て 果徳涅槃をきわめる方>などに帰依したてまつる
わたしたちはことごとく 三仏菩提尊に帰依したてまつる
自在の神通力をもって 願わくは冥[ひそか]に加護して摂めたまえ
わたしたちはことごとく 三乗などの賢聖のかたがた
すなわち仏になる慈悲を修めて とこしえに退転しない方に帰依したてまつる
請い願わくは遙[はる]かに加護して 念々に諸仏を見せしめたまえ
わたしたち愚かな凡夫は 久遠の昔より迷いをつづけてきたが
いまや釈迦仏の 末法の世に遺[のこ]された
弥陀の本誓願 極楽に入る要[かなめ]な門に逢うた
定散をひとしく回向して すみやかに無生の身をさとろう
わたしは菩薩蔵であり 頓教[とんぎょう]である一乗の教法に依って
偈をつくって三宝に帰依したてまつり 仏のみ心と相応[そうおう]したい
十方のかぎりない仏たち 六神通をもってわたしを照覧したまえ
いま釈尊・阿弥陀仏二尊の教によって 広く浄土の法門を明らかにする
願わくは この尊い功徳をもって すべての人々に与え
もろともに信心をおこして 安楽国に往生しよう
竪超: | 竪は自力、超は頓教[とんぎょう]の意。自力の修行によって直ちにさとりを開く華厳・天台・真言・禅の各宗を指す。 |
竪出: | 竪は自力、出は漸教[ぜんぎょう]の意。自力で非常に長い間修行して漸次にさとりを開こうとする法相宗などの教えを指す。 |
権教: | 真実の教に入らしめるために方便として仮に説かれた教え。実教に対する語。 |
実教: | 永久不変の究極的な真実の教え。権教に対する語。 |
顕教: | 言語文字の上にあきらかに説き示された教えの意。一般的には真言宗および天台宗の台密以外の一般仏教を指す。密教に対する語。 |
密教: | 大日如来の境地に到達したもの以外にはうかがい知ることのできない、最高深遠の教え。顕教に対する語。 |
心が堅固不動であるのを、金剛のように何ものにも破壊されないことに喩えたもの。 | |
横超: | 横は他力、超は頓教[とんぎょう]の意。他力浄土門中の頓教、すなわち第十八願の教えのこと。 |
横出: | 横は他力、出は漸教[ぜんぎょう]の意。他力によりながらもなお自力心が残っている第十九・第二十願の要門・真門の教えのこと。 |
しかれば、念仏のひとをば『大経』(下)には、「次如弥勒」と説きたまへり。弥勒は竪の金剛心の菩薩なり、竪と申すはたたさまと申すことばなり。これは聖道自力の難行道の人なり。横はよこさまにといふなり、超はこえてといふなり。これは仏の大願業力の船に乗じぬれば、生死の大海をよこさまにこえて真実報土の岸につくなり。「次如弥勒」と申すは、「次」はちかしといふ、つぎにといふ。ちかしといふは、弥勒は大涅槃にいたりたまふべきひとなり。このゆゑに「弥勒のごとし」とのたまへり。念仏信心の人も大涅槃にちかづくとなり。つぎにといふは、釈迦仏のつぎに五十六億七千万歳をへて、妙覚の位にいたりたまふべしとなり。「如」はごとしといふ。ごとしといふは、他力信楽のひとは、この世のうちにて不退の位にのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。
『一念多念文意』4 より
▼意訳(現代語版より)
本願に誓われたこの真実の信心は他力横超の金剛心である。それで、他力念仏の人のことを、『無量寿経』には「次如弥勒[しにょみろく](次いで弥勒のごとし)」とお説きになっている。
弥勒菩薩は竪の金剛心の菩薩である。「竪」というのは、「たてざまに」という言葉である。これは、自力で難行道を歩む聖道門の人のことである。「横」は「よこざまに」ということであり、「超」は「こえて」ということである。これは阿弥陀仏の本願他力の船に乗ったなら、迷いの大海をよこざまに越えて真実の浄土の岸につくということである。
「次如弥勒」というのは、「次」は「近い」ということであり、「つぎに」ということである。「近い」というのは、弥勒菩薩は必ず仏のさとりをお開きになる人ということである。だから「弥勒と同じようだ」と仰せになっているのである。すなわち他力信心の念仏者も仏のさとりに近づくということである。「つぎに」というのは、釈尊の次に、五十六億七千万年を経て必ず仏のさとりをお開きになるということである。「如」は「同じようだ」ということである。「同じようだ」というのは、他力の信心を得ている人は、この世ですでに不退転の位に至っており、必ず仏のさとりを開くということが、弥勒菩薩と同じようだというのである。
宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。願海平等なるがゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 一念転釈 より
▼意訳(現代語版より)
善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行のことである。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。
この専心は深い心、すなわち深心である。
この深心は深く信じる心、すなわち深信である。
この深信は堅く信じる心、すなわち堅固深信である。
この堅固深信はゆるぎない心、すなわち決定心である。
この決定心はこの上なくすぐれた心、すなわち無上上心である。
この無上上心は真実の徳を持った心、すなわち真心である。
この真心は生涯たもたれる心、すなわち相続心である。
この相続心は淳朴[じゅんぼく]で飾り気のない心、すなわち淳心である。
この淳心は常に仏を思う心、すなわち憶念である。
この憶念はまことの徳をそなえた心、すなわち真実一心である。
この真実一心は広大な法を受けた喜びの心、すなわち大慶喜心である。
この大慶喜心はまことの心、すなわち真実信心である。
この真実信心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、すなわち金剛心である。
この金剛心は仏になろうと願う心、すなわは願作仏心である。
この願作仏心は衆生を救おうとする心、すなわち度衆生心である。
この度衆生心は衆生を浄土に往生させる心である。
この心は大菩提心である。この心は大慈悲心である。なぜなら、はかり知れない阿弥陀仏の智慧によって生じるからである。
阿弥陀仏の本願が平等であるから、その阿弥陀仏より回向された信心も平等である。信心が平等であるから、その信心にそなわる智慧も平等である。智慧が平等であるから、慈悲も平等である。この大慈悲をそなえた信心が、浄土に至ってさとりを開く正因なのである。
『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。大喜大捨を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つるにあたはず、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。もろもろの衆生、つひにまさに得べきをもつてのゆゑなり。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といへるなり。大喜大捨はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は大信心と名づく。なにをもつてのゆゑに、信心をもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩はすなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり」と。以上
またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「あるいは阿耨多羅三藐三菩提を説くに、信心を因とす。これ菩提の因、また無量なりといへども、もし信心を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ」と。以上
またのたまはく(同・迦葉品)、「信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす」と。以上抄出
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈 より
▼意訳(現代語版より)
『涅槃経』に説かれている。
「善良なるものよ、大慈・大悲を仏性というのである。なぜかというと、大慈・大悲は、影が形につきしたがうように、常に菩薩から離れないのである。すべての衆生は、ついには必ずこの大慈・大悲を得るから、すべての衆生ことごとく仏性があると説いたのである。大慈・大悲を仏性といい、仏性を如来というのである。
また、大喜・大捨を仏性というのである。なぜかというと、菩薩が、もし迷いの世界を離れることができなければ、この上ないさとりを得ることはできない。あらゆる衆生は、ついには必ずこの大喜・大捨を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大喜・大捨は仏性であり、仏性はそのまま如来である。
また仏性を大信心というのである。なぜかというと、菩薩はこの信心によって、六波羅蜜の行を身にそなえることができるのである。すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大信心は仏性であるり、仏性はそのまま如来である。
また、仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である」
また次のように説かれている(涅槃経)。 「この上ないさとりについて説くなら、それは信心を因とする。さとりに至る因も数限りなくあるけれども、ただ信心について説けば、すべてその中に収まってしまうのである。
また次のように説かれている(涅槃経)。 「信には二種がある。一つには、ただ言葉を聞いただけでその意味内容を知らずに信じるのであり、二つには、よくその意味内容を知って信じるのである。ただ言葉を聞いただけで、その意味内容を知らずに信じているのは、完全な信ではない。また信には二種がある。一つには、たださとりへの道があるとだけ信じるのであり、二つには、その道によってさとりを得た人がいると信じるのである。たださとりへの道があるとだけ信じて、さとりを得た人がいることを信じないのは、完全な信ではない」
『唯信鈔文意』 より
▼意訳
この信心は衆生を摂め取って捨てないことから金剛心となる。これは『大無量寿経大経』の本願の三信心つまり至心・信楽・欲生である。この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」と言われました。この信楽は仏に成ろうと願うという心である。この願作仏心はすなわち度衆生心である。この度衆生心というのは、すなわち衆生を乗せて生死の大海を渡す心である。この信楽は衆生を無上涅槃に至らせる心である。この心はすなわち大菩提心である、大慈大悲心である。この信心はすなわち仏性である、すなわち如来である。
問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに、論主(天親)一心といふや。
答ふ。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主(天親)三を合して一とせるか。
顕浄土真実教行証文類 信文類三(本) 三一問答
▼以下意訳(現代語版)
問うていう。阿弥陀如来の本願には、すでに「至心・信楽・欲生」の三心が誓われている。それなのに、なぜ天菩薩は「一心」といわれたのであろうか。
答えていう。それは愚かな衆生に容易にわからせるためである。阿弥陀仏は「至心・信楽・欲生」の三心を誓われているけれども、さとりにいたる真実の因は、ただ信心一つである。だから、天親菩薩は本願の三心を合せて一心といわれたのであろう。
あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主(天親)、建めに「一心」といへるなりと、知るべし。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 字訓釈
▼以下意訳(現代語版)
明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決定してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。
いま、この三心のそれぞれの字の意味によって考えてみると、みな、まことの心であって、いつわりの心がまじることはなく、正しい心であって、よこしまな心がまじることはないのである。まことに知ることができた。疑いのまじることがないから、この心を信楽というのである。この信楽がすなわち一心であり、一心はすなわち真実の信心である。だから、天親菩薩は『浄土論』のはじめに「一心」といわれたのである。よく知るがよい。
また問ふ。字訓のごとき、論主(天親)の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。
答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈
▼以下意訳(現代語版)
また問う。字の意味によれば、愚かな衆生に容易にわからせるためには本願の三心を一心と示した天親菩薩のおこころは、道理にかなったものである。しかし、もとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために、三心の願をおこされたのである。このことはどう考えたらよいのであろうか。
答えていう。如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりにこのおこころを推しはかってみると、すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。
『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈
▼以下意訳(現代語版)
次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじわることがない。それで、これを信楽というのである。 すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。
ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことに信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。
次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 欲生釈
▼以下意訳(現代語版)
次に欲生というのは、如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである。そこで、この仰せに疑いが晴れた信楽を欲生の体とするのである。まことに、これは大乗・小乗の凡夫や聖者などの定善・散善の自力の回向ではないから、不回向というのである。
あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。そして他力(利他)真実の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。
一、「十方無量の諸仏の 証誠護念のみことにて 自力の大菩提心の かなはぬほどはしりぬべし」(正像末和讃・四四)。御讃のこころを聴聞申したきと順誓申しあげられけり。仰せに、諸仏の弥陀に帰せらるるを能としたまへり。
『蓮如上人御一代記聞書』 本(25)より
▼意訳(現代語版より)
「『正像末和讃』の、
十方無量の諸仏の 証誠護念のみことにて
自力の大菩提心の かなはぬほどはしりぬべし
すべての世界の数限りない仏がたは、真実の言葉で本願他力の救いをお示しになり、お護りくださる。そのお言葉によって、自力でさとりを求めてもさとりを開くことはできないと知られるのである。
という一首のこころを聴聞させていただいたいのです」と、順誓が申しあげたとき、蓮如上人は、「仏がたはみな弥陀に帰して、本願他力の救いをお示しになるのを役目とされているのである」と仰せになりました。
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、かならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。
『親鸞聖人御消息』(1) 建長三歳辛亥閏九月二十日 より
▼意訳(日本の名著6 親鸞/中央公論社 より)
有念無念ということ。
いまわのきわに浄土からのお迎えがあるということは、さまざまな善行を積んで浄土に生まれようとする人のためにあるのであって、それは、その人が自力をたのむ人だからです。また臨終を待つということもさまざまな善行を手だてとして浄土に生まれようとする人にあてはまることで、それは、その人がまだ真実の信心をえていないからです。またそれは、十悪や五逆の罪を犯した人が臨終にはじめて正しい友(善知識)の導きに遇って、念仏を勧められる場合にいう言葉です。真実の信心をえた人は阿弥陀如来のお心に救い取られて捨てられませんから、浄土に生まれる(正定聚)身となっているのです。ですから臨終を待つ必要はなく、お迎えをたのむこともいりません。信心の定まるとき、浄土に生まれることも定まるのですから、お迎えの儀式を要しません。
正念というのは、広大な誓いを信ずる心の定まることをいいます。そしてこの信心がえられうことによって、かならずこの上ない仏のさとりに至ることができます。ですからこの信心を一心といい、この一心を金剛不壊の心といい、この金剛不壊の心を仏に与えられたさとりの心といいます。これこそはすなわち他力の中の他力であります。