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ご本願を味わう

『仏説無量寿経』21

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 弥陀果徳 華光出仏

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 また風吹きて華を散らし、仏土に遍満す。色の次第に随ひて雑乱せず。柔軟光沢にして馨香芬烈なり。足その上を履むに、陥み下ること四寸、足を挙げをはるに随ひて、還復すること故のごとし。華、用ゐることすでに訖れば、地すなはち開き裂け、次いでをもつて化没す。清浄にして遺りなし。その時節に随ひて、風吹きて華を散らす。かくのごとく六返す。また衆宝の蓮華、世界に周満せり。一々の宝華に百千億の葉あり。その華の光明に無量種の色あり。青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり。イ曄煥爛として日月よりも明曜なり。一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す。身色紫金にして相好殊特なり。一々の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙の法を説きたまふ。かくのごときの諸仏、各々に無量の衆生を仏の正道に安立せしめたまふ」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 また風が吹いて花を散らし、この仏の国を余すところなくおおい尽す。それらの花は、それぞれの色ごとにまとまって入りまじることがない。そして、やわらかく光沢があって、かぐわしい香りを放っている。その上を足で踏むと四寸ほどくぼみ、足をあげるとすぐまたもとにもどる。花が必要でなくなれば、たちまち地面が開いて花は次々とその中へ消え、すっかりきれいになって一つの花も残らない。このようにして、昼夜六時[ちゅうやろくじ]のそれぞれに、風が吹いて花を散らすのである。
 またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。その花の放つ光には無数の色がある。青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。それらは鮮やかに輝いて、太陽や月よりもなお明るい。それぞれの花の中から三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がたが現れる。そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる。この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくすべてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである」


 日々新たに まごころの華をもって荘厳

註釈版
 また風吹きて[はな]を散らし、仏土に遍満[へんまん]す。色の次第[しだい][したが]ひて雑乱[ぞうらん]せず。柔軟光沢[にゅうなんこうたく]にして馨香芬烈[きょうこうふんれつ]なり。足その上を[]むに、[くぼ][くだ]ること四寸、足を[]げをはるに随ひて、還復[げんぷく]すること[もと]のごとし。華、用ゐることすでに[おわ]れば、地すなはち開き裂け、[]いでをもつて化没[けもつ]す。清浄にして[のこ]りなし。その時節に随ひて、風吹きて華を散らす。かくのごとく六返[ろっぺん]す。
現代語版
 また風が吹いて花を散らし、この仏の国を余すところなくおおい尽す。それらの花は、それぞれの色ごとにまとまって入りまじることがない。そして、やわらかく光沢があって、かぐわしい香りを放っている。その上を足で踏むと四寸ほどくぼみ、足をあげるとすぐまたもとにもどる。花が必要でなくなれば、たちまち地面が開いて花は次々とその中へ消え、すっかりきれいになって一つの花も残らない。このようにして、昼夜六時[ちゅうやろくじ]のそれぞれに、風が吹いて花を散らすのである。

<また風吹きて[はな]を散らし、仏土に遍満[へんまん]す>
(また風が吹いて花を散らし、この仏の国を余すところなくおおい尽す)
 この「風」は
前章の後半に説かれた<自然の徳風>で、「地獄の猛火 風と変じて涼し」と転じられた風であり、諸行無常の嵐や地獄の猛火が吹く中でも「はかり知られぬ微妙の法音」が奏でられる風であります。
 この風が吹いて、華を散らし、仏国を余すところなくおおい尽す、ということですが、「華」とは、まごころの智慧に咲いた華で、総じて言えば「人間としての華」であり「仏性の華」でしょう。『仏説阿弥陀経』には「昼夜六時[ちゅうやろくじ]に天の曼陀羅華[まんだらけ][あめふ]らす」と説かれていますが、具体的には、自分の人生や縁ある環境をまごころの智慧で彩ることを言います。この華が「仏土に遍満す」ということですから、この箇所の意を汲めば――恐ろしい人生顛倒の熱風・寒風・暴風さえ浄土の徳によって涼風に転じられた風、この風に乗って、まごころの智慧に咲いた華が社会の底力となって敷きつめられる≠ニいう意味になるでしょう。
(参照:{荘厳雨功徳成就「#永き歴史を宿す真心の華」}

<色の次第[しだい][したが]ひて雑乱[ぞうらん]せず>
(それらの花は、それぞれの色ごとにまとまって入りまじることがない)
「色の次第」というのは、まごころの智慧に咲いた華が、それぞれの状況や生い立ちなど個々において成立するものを示しています。この色の次第に随ひて「雑乱せず」ということは何を意味しているのでしょう。
 これには、玉石混交を避ける≠ニいう意と惰性をいましめる≠ニいう意が考えられます。
 前者の意を[]んでみれば、たとえば、「世の中にはたくさん宗教があるが目指すところは結局同じだろう」と言う人がいます。また、「どうせ人間なんて同じじゃないか」とか、「あの国の人間はみな信用できない」というように粗雑にものを見ている人がいます。こうなると玉石混交で、宝があってもその輝きは失われ、個性は発揮されず、家や地域の特色も生かされません。本当は、一人ひとりの個性や、家や地域の歴史的特性を鑑みた上で、人間や世界のことを語るべきなのです。親子の別もない、師と弟子の立場もないような平等は悪平等で、これが粗雑な世界観となって現代社会の根底を揺るがしているのです。
 後者の意を[たず]ねてみると、たとえば、画家が絵を描く際、初心者の頃はひたすら集中し、一心に絵に取り組んできたものが、長じて才能が開花しテクニックが上達してくると、惰性で描いてもそれなりの絵が出来上がってしまいます。ここに「雑乱」の入る余地ができてしまうのですが、これをいましめているのでしょう。才能が開花しテクニックが上達したら、そのテクニックと才能を持った上で精一杯の作品を作り上げることが真の創造活動となります。画家はこのように絵の創作を生業[なりわい]としますが、仏教は生きた人間を創造することを[むね]とします。浄土では人生を自由自在に、日々新鮮な心がけで創作してゆくことが適うのですが、穢土では馴れによる「雑乱」が発生するのです。
 たとえば蓮如上人のお言葉には――

一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。神にも仏にも馴れては、手ですべきことを足にてするぞと仰せられける。如来・聖人(親鸞)・善知識にも馴れまうすほど御こころやすく思ふなり。馴れまうすほどいよいよ渇仰の心をふかくはこぶべきこともつともなるよし仰せられ候ふ。

『蓮如上人御一代記聞書』138 より

▼意訳(現代語版より)
蓮如上人は、「神に対しても仏に対しても、馴れてくると手ですべきことを足でするようになる。阿弥陀如来・親鸞聖人・よき師に対しても、馴れ親しむにつれて気安く思うようになるのである。だが、馴れ親しめば親しむほど、敬いの心を深くしなければならないのは当然のことである」と仰せになりました。

とありますが、こうした気安さからくる馴れというのは、日々新たに自らと環境を創造することを旨とする仏教徒にとっては由々しき問題でしょう。
 また島田幸昭師は――
 実はこれはお浄土に触れた、お浄土に触れたものは、自ずからそういう生活ができるんだと。裏からいうならば、私たちの生活は全部、過去の惰性ですよ、惰性。だから見なさいね。私らは過去の若いときに、子どものときにしつけられた習慣なら、大儀ないの。ところが今度、違ったことをしよう思うと、なかなか難しいの。それをだから、過去の惰性でやっておっても、なんぼ良いことをしておっても惰性でするものと、自分を日々新た、日に新たで、引き破り引き破りしていく行為とは、値打ちが違うんだということを、ここでいっておるのであります。それほど日々新た、日に新たということを、このお経がいおうとしておいでるのだと思うのであります。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

と述べてみえ、経典の真意は惰性を破って自分の人生を成就させていくことにあると示されました。

柔軟光沢[にゅうなんこうたく]にして馨香芬烈[きょうこうふんれつ]なり>
(やわらかく光沢があって、かぐわしい香りを放っている)
 まごころの智慧に咲いた華が「柔軟光沢」であり「馨香芬烈」であるということですが、「柔軟」は境遇や相手に素直に随うことをいいます。ただし仏教でいう柔軟は、軟弱で優柔不断な態度を指すのではありません。金剛心と一味になった素直さ≠ナす。単に境遇に随うだけではなく、現場に根を張って養分を吸い取り、広く学び貫く力強さを持っているのです。境遇に随うだけでは境遇からくる偏狭[へんきょう]な世界に閉じて臭気が漂いますが、浄土の天・人は、境遇に安んじながらも境遇を超えた世界が開かれ、かぐわしい香りの漂う生活が実現します。
「光沢」は本質が輝き出ることを言います。まごころの智慧が境遇によって磨かれ、輝きを放ち、生活が[うるお]ってくるのです。
「馨香芬烈」は香気が強いことを言います。かつては偏狭な人生観に閉じて異臭を放っていた生活が、浄土の土徳が回施[えせ]されることにより、広く心地よい香りが放たれるようになった、このことを仏事においては焼香で象徴するのです。まごころの智慧に咲いた華が境遇に磨かれ輝けば、生活に潤いと心地よい香りがもたらされることは必定でしょう。ここでは、仏法がただ見栄えがよく立派な教え≠ナあるだけでなく、人々が身近に触れて満足せしむる≠ニいうはたらきを有することが明かされているのです。

<足その上を[]むに、[くぼ][くだ]ること四寸>
(その上を足で踏むと四寸ほどくぼみ)
「足その上を履む」とは、回施された浄土の宝衣・宝華の上を浄土の天・人たちが歩むということをいいます。行為的世界の果報によって整った環境において、真心のこもった社会基盤が敷かれた上を、私たちは誰も経験したことのない真っ新な一歩を歩む。限りないまごころのこもった宝の華の上を、今自分がこの現場において、誰も為したことがないことを為すのです。すると、どんな一歩であっても浄土はその一歩を受け入れ、四寸の足跡をつけることができるのです。なぜ四寸かと言うと――苦諦・集諦・滅諦・道諦の四諦を表す=A四種の正修行功徳成就を表す=A常楽我浄の浄土の四徳を表す%剽l々な解釈ができますが、浄土の四徳とするのが勝義でしょう。
「常」とは、外道や声聞・縁覚の無常を越えた如来常住の報身(行為的世界の根本主体)が回施されることであり、「楽」とは、外道の苦を捨て正定聚に住するがゆえに必ず滅土に至る≠ニ、生きて甲斐あり死んで悔いの残らぬ人生が回施されることであり、「我」とは、欲望や生死に迷う穢悪の我を捨てて真の主体を立ち上げることが回施されるということであり、「浄」とは、娑婆の苦を捨てて仏菩薩の正法に帰依するということです。(参照:{「唯だ一たびのこの命」という厳粛さを「#常楽我浄の四顛倒 」})。
 ですから「すなはち下ること四寸」とは、念仏行者の生活の一足一足が浄土の四徳に適った歩みとなるという意味になります。

<足を[]げをはるに随ひて、還復[げんぷく]すること[もと]のごとし>
(足を上げるにしたがってまたもとどおりにかえる)
 念仏行者の生活は浄土の「常楽我浄」の四徳が回施された歩みですから、過去に為した立派な一歩を誇りに思いたい気持ちが衆生の側には起きるのですが、浄土はその執着から離れ、すぐに元通りの地に戻ってしまいます。なぜなら、いくら善行をなしても「この足跡を残そう」と執着が起きれば、執着のせいで善根が善根でなくなってしまうからです。
 このことは仏教の中でも重要な意味を持っていて、例えば、過去の仏たちから仏教徒の守るべき基本的宗教生活を端的に示した「七仏通誡偈[しちぶつつうかいげ]」というものがあります。

諸悪莫作[しょあくまくさ]衆善奉行[しゅぜんぶぎょう]自浄其意[じじょうごい]是諸仏教[ぜしょぶっきょう]

つまり、すべての悪しき行いをやめ、積極的に善を実践し、(悪をやめ善を行う根本である)心自身の浄化に努めること、これが(時空を超えた)仏たちの教えである≠ニ伝承されていますが、この中で一番重要なのは「自浄其意」というところです。すべての悪しき行いをやめ、積極的に善を実践することは、道を修する者にとっては当然のことなのですが、問題なのは、私はすべての悪しき行いをやめたぞ!=A私は積極的に善を実践したぞ!≠ニいう執着で、こうした恩着せがましい根性が起こってくると全てが台無しになってしまうのです。
 なぜなら、これでは「善を実践した」ということが単なる取引に過ぎなくなり、善に対する見返りが遅ければ容易に怒りや絶望に変ってしまうからです。こうした執着のある善を「有漏善」とも「少善」「自力の善」ともいい、「恒沙塵数の如来は 万行の少善きらひつつ 名号不思議の信心を ひとしくひとへにすすめしむ」(浄土和讃 83)等と、諸仏は少善を廃して如来回向の信心を勧めるのです。
 ちなみに有名な「悪人正機」:「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄 第三条)で言う「善人」は少善に執着して性悪が自覚できない善人であり、「悪人」は少善に執着する自分の性悪を自覚した悪人でありましょう。
 また行者の中には、あの日あの時に感じた喜びを決して忘れません≠ニかあの感動を唯一の心の支えにしています≠ニ言うような人もいて、これは一見「いい話」のようですが、過去は過去、現在の支えにはなりません。
 こうした点、浅原才市同行は――

これ 才市
よろこびはあてにならぬ
消えて逃げるぞ
逃げぬお慈悲は 親の恩

と見破っています。過去の経験に執われた人生ほど惨めな人生はありません。色あせた過去の栄光などさっさと捨てて、自らの新たな一歩を今踏み出すことが真実信心の生活なのです。

<華、用ゐることすでに[おわ]れば、地すなはち開き裂け、[]いでをもつて化没[けもつ]す。清浄にして[のこ]りなし>
(花が必要でなくなれば、たちまち地面が開いて花は次々とその中へ消え、すっかりきれいになって一つの花も残らない)
 これは宗教で一番恐ろしい「法執」を避けることを言うのでしょう。浄土の華は確かに素晴らしく清浄で見事な彩りがあるのですが、どんな立派なものでも必要がなくなれば用いないのが道理です。有名な[いかだ][たと]え≠烽りますが、河を渡るのに必要な筏も陸を行くには邪魔になります。正しいことや立派なことも執着すべきではなく、すぐに捨て離れなければなりません。成功の裏にある執着を見落とし「株を守りて兎を待つ」人が多いのは娑婆の常。こうした娑婆の常があるゆえに、「次いでをもつて化没す。清浄にして遺のこりなし」と説かれるのでしょう。

<その時節に随ひて、風吹きて華を散らす。かくのごとく六返[ろっぺん]す>
(このようにして、昼夜六時[ちゅうやろくじ]のそれぞれに、風が吹いて花を散らすのである)
「六返」は「昼夜六時」で、今言うところの「四六時中[しろくじちゅう] いつでも」という意味で、「その時節に随ひて」というのはその時その時に随って≠ニいうことですから、いつでも24時間、まごころの華をもって浄土を荘厳する≠ニいうことです。
 浄土は、日々新たにまごころの華をもって荘厳し続ける世界です。常なる更新によって停滞と惰性を廃してゆくのが浄土の荘厳なのです。これはもちろん法蔵菩薩の願力によって華を散らすのですが、風が「地獄の猛火風と変じて涼し」で、恐ろしい人生顛倒の熱風・寒風・暴風さえ涼風に転じられていく≠ニいう内容を鑑みますと、具体的には、浄土の天・人の日暮しは、受けた災難さえ華と転じるほどの果報を持つ≠ニいう意味になるでしょう。

 三十六百千億の仏

註釈版
また衆宝[しゅぼう]蓮華[れんげ]、世界に周満[しゅうまん]せり。一々[いちいち]宝華[ほうけ]に百千億の[はなびら]あり。その華の光明に無量種[むりょうしゅ]の色あり。青色[しょうしき]青光[しょうこう]白色[びゃくしき]白光[びゃっこう]あり、[げん][おう][しゅ][]の光色もまたしかなり。イ曄煥爛[いようかんらん]として日月よりも明曜[みょうよう]なり。一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す。身色紫金[しんじきしこん]にして相好殊特[そうごうしゅどく]なり。一々の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙[みみょう]の法を説きたまふ。かくのごときの諸仏、各々[かくかく]に無量の衆生を仏の正道[しょうどう]安立[あんりゅう]せしめたまふ」と。
現代語版
 またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。その花の放つ光には無数の色がある。青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。それらは鮮やかに輝いて、太陽や月よりもなお明るい。それぞれの花の中から三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がたが現れる。そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる。この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくすべてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである」

<また衆宝[しゅぼう]蓮華[れんげ]、世界に周満[しゅうまん]せり>
(またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており)
「蓮華」は大乗仏教を象徴する華です。『往生論註』の下巻には、『浄土論』の「衆生の淤泥華[おでいけ]を開く」を解釈して――

淤泥華[おでいけ]」といふは、『経』(維摩経)に、「高原の陸地[ろくじ]には蓮華を[しょう]ぜず。卑湿[ひしゅう]淤泥[おでい]にすなはち蓮華を生ず」とのたまへり。これは凡夫[ぼんぶ]、煩悩の泥のなかにありて、菩薩[ぼさつ]のために開導[かいどう]せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに[たと]ふ。まことにそれ三宝を紹隆[しょうりゅう]してつねに絶えざらしむ。
『往生論註』93
淤泥華[おでいけ]」とは、経《維摩経》に「高原の陸地には蓮華は生じないが、湿った泥の中に蓮華が生ずる」と説かれている。これは、この土の凡夫が煩悩の泥の中にあって、浄土から出られた菩薩に導かれて、よく仏の正覚をひらく華、すなわち信心を生ずるのにたとえたのである。まことに仏法僧の三宝を十方世界にひろめて、つねに絶えないようにするのである。
(聖典意訳)

と明らかにしています。衆生は煩悩の泥の中に根を張り、煩悩を養分としてこそ真実信心が開かれる、という道理を蓮華に喩えているのです。たとえ心を浄土に樹てていても、宿業の現実に根を張らないような根無し草人間は本物ではありません。空想的・逃避的な浄土は化土であり、真実報土ではないのです。ただし「煩悩を養分として」と言っても、煩悩の泥に[まみ]れ染まってしまうのではありません。鳩摩羅什[くまらじゅ]はこの点について――

たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥を取ることなかれ。
と警告しています。
 つまり、浄土のはたらきにより、煩悩を煩悩と明らかにすることによってかえって無上菩提心が回施され、今この立場において私が人間としての華を開くことができる、ということが重要なのです。泥が穢土の象徴であり蓮華が浄土の象徴なのです。穢土を穢土と知らしめて浄土があり、浄土を浄土と願わしめて穢土があります。
 さらには、この蓮華の華が閉じているのか開いているのか、という点も問題になります。浄土に往生したと言っても胎生往生では蓮華が閉じている状態で、そこは「七宝の獄」であり、「五百年の間、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、仏がたを供養してさまざまな功徳を積むこともできない」のです。
十住毘婆沙論[じゅうじゅうびばしゃろん]』易行品11 弥陀章に、「もし人善根[ぜんごん][]うるも、疑へばすなはち華開けず。信心清浄なれば、華開けてすなはち仏を見たてまつる」と言明されている通りです(参照:
{「蓮莟を模す」の間違い})。
 なお「衆宝の蓮華」とありますが、これはそれぞれの場所的自覚が華開いた「蓮華」であり、これが「世界に周満せり」、世界中に咲き開いていることを表しています。単なる「人」ではなく、立場の徳によって育まれた「人間」が世界中に真心の華を咲かせているのです。親は親としての立場があり、社長は社長として、政治家は政治家として、学生は学生としての立場があるでしょう。「花咲かじじい」の飼っている犬は「ここ掘れワンワン」と宝のありかを示しました。今から「自分探し」に出かける必要はないのです。今自分自身が立っている歴史的立場において人間の華を開くことが「衆宝の蓮華」でありましょう。

一々[いちいち]宝華[ほうけ]に百千億の[はなびら]あり。その華の光明に無量種[むりょうしゅ]の色あり>
(一一の花には百千億の花びらがあり、その花びらには無数の色彩がある)
「百千億」は、歴史を通した全人類の数を言います。今自分自身が立っている歴史的立場において人間の華を開く、その華は自分一人の華でありながら、内容的には劫初[ごうしょ]よりつくり営んできた人類真心の成果が全て詰まっています。華開くのは私個人においてですが、私の立っている足元の座は個人ではない。人類の真心の徳によって支えられている座なのです。
「その華の光明に無量種の色あり」は、真心の徳には人それぞれ個性があり、日々新たにその個性を精一杯華咲かせていることを表しています。先に<色の次第に随ひて雑乱せず>とありましたが、ここでその実際の有様が表現されているのでしょう。

青色[しょうしき]青光[しょうこう]白色[びゃくしき]白光[びゃっこう]あり、[げん][おう][しゅ][]の光色もまたしかなり。イ曄煥爛[いようかんらん]として日月よりも明曜[みょうよう]なり>
(青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。それらは鮮やかに輝いて、太陽や月よりもなお明るい)
 これは『仏説阿弥陀経』にも同様の表現がありますが、一人ひとりが各自の個性を全発揮し輝くことは太陽や月よりも明るい、ということを表しています。六色は本来は六道の迷いを表していますが、如来は三界は我が有なり≠ニ六道に迷う衆生を一人子のごとく包み、諸仏となって寄り添い、衆生一人ひとりが六道の宿業を引きうけつつ人間としての華を咲かせて輝くよう導くのです。これは諸仏の人間を見る目が実に優れて肯定的だということでもあるでしょう(参照:{無有好醜の願})。

<一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す>
(それぞれの花の中から三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がたが現れる)
 インドは掛け算の国と言われるように、ここでも全人類の数である百千億に、青・白・玄・黄・朱・紫の六色が、それぞれ六色と重なりあって「三十六百千億(360兆)の光明を放ち」となり、さらに一つひとつの光の中より三十六百千億の仏が出られる、と説いています。先には「青色に青光、白色に白光」等と説かれていましたが、さらに内容を深く尋ねていくのです。つまり――六道の迷いを下地として六色の光で覚りを象徴する。人生は人間と人間、宿業と宿業の重なり合いですから、六と六を掛けて三十六。衆生の総数である百千億全てに仏が寄り添い、諸仏となってその人に成りきる。これが「三十六百千億の光」であり「三十六百千億の仏」でしょう。ここでは、浄土の一々の華は、あらゆる人や物事が互いに無限の関係をもち融合一体化して私に座を与える≠ニいうことが表現されているのです。
 一体どれだけの仏があるのか計算するのも難しいほどですが、私が今生きて立っている現場はそれだけ多くの徳が込められている、ということを示しているのでしょう。ちなみに六は(最小の完全数ゆえか)古代インドでは満数をいい、この経典が編纂された頃から次第に十の満数に移行していきました。

身色紫金[しんじきしこん]にして相好殊特[そうごうしゅどく]なり>
(そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる)
「身色紫金にして」というのは、諸仏の性質がまごころの[かたまり]≠ナあることを示し、「不断の智的快活」の人格を真金色や紫金色にたとえたのでしょう。(参照:{悉皆金色の願}
「相好は殊特なり」は{具足諸相の願}にあるように三十二大人相者としての仏徳を満足させていることを言います。

<一々の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙[みみょう]の法を説きたまふ。かくのごときの諸仏、各々[かくかく]に無量の衆生を仏の正道[しょうどう]安立[あんりゅう]せしめたまふ>
(この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくすべてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである)
 一切衆生を教化して仏の正しい道に入らしめるために、このように天文学的な数の諸仏が大活躍し、さらに天文学的な数の光明(はたらき)によって法を説く、ということですが、これは具体的にどういう内容を言うのでしょう。特に「微妙の法を説く」場はどこでしょう。
 一般的に想像するには、寺院や説教所、もしくはホールなどの法話会場ということになります。確かに長い歴史を通してみれば、何億、何十億、いやもっと多くの説法の場があったでしょう。しかし先に「一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す」とありました。こうなると無限とも思える数の諸仏。とてもそれだけの僧侶はいませんし、人類の総数さえ越えてしまいます。
 これは私が今生きて生活する現場には全人類重々無尽の歴史徳が込められている≠ニいうことを表し、さらに、仏法が説かれるのは寺院や説教所ばかりではなく、人と人、人と物事が出会う場それぞれが仏まします聞法の場≠ニいうことも示しているのでしょう。生きて生活する場、出会いの場、別れの場、喜んだり悩んだりする場、それぞれが仏まします場であり、今現在説法の場なのです。自分の経験のみならず人類の歩み一切が無限に関係性を持って一人ひとりを支え育てる、そうでなければ一切衆生の教化など適うはずもありません。そうした諸々の内容が浄土の天・人ひとり一人に寄り添い、バックボーンとなり、百千の光明を放って真実の法が顕現するのです。
 これは念仏者の言葉や態度や作り出した物などを総合したものでありますが、その人自身が人々を導くのではありません。その人の背後にあるもの、如来より回施されたものが念仏者を通じて発揮され、人々を覚りに導くのです。

一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし
一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり
相好ごとに百千の ひかりを十方にはなちてぞ つねに妙法ときひろめ 衆生を仏道にいらしむる
『浄土和讃』42〜44 讃弥陀偈讃

 以上が『仏説無量寿経』上巻で、次からは下巻に移ります。なお、上巻は「阿弥陀仏のいわれ」(弥陀成仏の経緯)が説かれ、下巻は「南無のいわれ」(信心獲得の経緯)が説かれているわけですから、浄土の徳が生活の中で具体的にどうはたらくのか≠中心に学んでいきたいと思います。

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浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)