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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』24
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生因 三輩往生・中輩
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 24
仏、阿難に語りたまはく、「それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じたてまつるべし。多少、善を修して、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、ゾウを懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏に随ひてその国に往生して不退転に住せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん」と。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 24
釈尊が続けて仰せになる。
「次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏[の国に生れたいと願うものがいて、上輩[のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。そして善い行いをし、八斎戒[を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋[をかけ、灯明[を献[じ、散華[や焼香[をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身[のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身[そのままであり、多くの聖者[たちとともにその人の前に現れてくださるのである。そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転[の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」
- 註釈版
- 仏、阿難[に語りたまはく、「それ中輩[といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門[となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提[の心を発[して一向[にもつぱら無量寿仏を念じたてまつるべし。多少、善を修して、斎戒[を奉持[し、塔像[を起立[し、沙門に飯食[せしめ、ゾウを懸[け灯[を燃[し、華[を散[じ香を焼[きて、これをもつて回向[してかの国に生れんと願ぜん。
- 現代語版
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釈尊が続けて仰せになる。
「次に中輩[のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏[の国に生れたいと願うものがいて、上輩[のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。そして善い行いをし、八斎戒[を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋[をかけ、灯明[を献[じ、散華[や焼香[をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。
上輩のところで述べましたように、三輩に共通する点はまず「願生」(心を至してかの国に生れんと願ずる)で、本願力回向のはたらきで浄土に生まれようと願うこと。次に「無上菩提心[を発[す」こと。そして第三は「一向[にもつぱら無量寿仏を念じたてまつる」ということです。この共通点を内包して同時に三種の相違を超えて報いてゆく、という広範な信心の実像を、中輩の現場で明らかにしてゆきたいと思います。
<それ中輩[といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門[となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提[の心を発[して一向[にもつぱら無量寿仏を念じたてまつるべし>
(次に中輩[のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏[の国に生れたいと願うものがいて、上輩[のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである)
浄土より回向された智徳を純粋な形で発揮したものが上輩で、その生き様は――以前は他人のことなど眼中になく、一にも二にも自分が大事、我が家が大事。それも金銭欲や名誉欲を叶えることに終始し、自分に都合の悪いことが起これば怒ったり落胆し、物事の真偽を問わず道理に暗い毎日だった。しかし、弥陀成仏のいわれを聞き開く機会がおとずれ、自分は今まで何をしていたのか≠ニ悔やみ、回施された「上求菩提[ 下化衆生[」の無上菩提心に依って一念発起し、煩悩に支配されていた家の呪縛を捨て、仏の大道に集う一切衆生の家を打ち建て、衆生を教化しつつそれを自らの敬虔な修行とする≠フです。
このように修諸功徳(もろもろの不可称不可説不可思議の功徳を修すること)で浄土の功徳が身に付き、人格そのものが立派になり、世界中の人々がその人徳になびく、これが上輩でしたが、このような殊勝な心がけをそのまま純粋な形で実行できる人はなかなか居ません。宿業の束縛から逃れられず、内的・外的要因によって、頂いた功徳を純粋なまま保持することができない、という境遇の人が大半といっても良いでしょう。
では純粋な本願力回向の活動が適わない人たち、つまり――「行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはず」(上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができない)というように、上輩の形では成就しない人たちには、浄土の信心はどうはたらくのでしょうか。いわば在家仏教者の生活態度はどのようなものか≠ニいうことが中輩以降に書かれているのです。
ちなみに、中輩者・下輩者には上輩者の「修諸功徳」は無縁かというと、そうではありません。中輩者・下輩者にも願いとしては修諸功徳を宿しているのです。「かくあらん」との願いは上輩者に劣ることはありません。その証拠が「まさに無上菩提[の心を発[して一向[にもつぱら無量寿仏を念じたてまつるべし」という文言でしょう。如来回向の内容には三輩の差別はありません。ですから中輩者・下輩者に回向された信心にも純粋な修諸功徳がこもっているので、内外の機会が許せば上輩の内容も成就してくるのです。さらに言えば、上輩者の信心の中にも中輩・下輩の内容がこもっているので、内外の機会が許せば中輩・下輩の内容も成就してくるのです。
つまり、心を至して無量寿国に生れんと願ずる一切衆生に上輩・中輩・下輩全ての功徳が回向され、衆生の側の時機に応じて三輩のうちのどれかが発揮され、生活の現場で実を結ぶのですが、内外の事情が変わればその都度三輩のうちのどれかが発動し、以前とは異なる形で、現場現場で信心が形をとって成就してくるのです。その中で中輩者というのは、内的要因は上輩者と変わりがないのですが、外的要因が異なり、親兄弟や一族を養う必要がある人たち、また様々な社会的呪縛から身が自由にならず、思う存分さまざまな功徳を修することが適わない人たちのことをいいます。
<多少、善を修して、斎戒[を奉持[し、塔像[を起立[し、沙門に飯食[せしめ、ゾウを懸[け灯[を燃[し、華[を散[じ香を焼[きて、これをもつて回向[してかの国に生れんと願ぜん>
(そして善い行いをし、八斎戒[を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋[をかけ、灯明[を献[じ、散華[や焼香[をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである)
このように、多少の善を修する。「多少」とはほんの少し≠ニいう意味ではなく、自分のできる範囲内で精一杯の功徳を修めさせていただく=Aこれが中輩です。できる限り精一杯させていただいても、回施された浄土の徳分を知れば「ほんの少し」としか言えない、そこで敬虔な態度で「多少」というのでしょう。そこでまずは八斎戒[を守る。八斎戒とは、一日一夜を限って在家信者が守る八つの戒めです。
- 不殺生戒[:殺生をしない
- 不偸盗戒[:盗みをしない
- 不淫戒[(離非梵行戒):一昼夜は性交を断つ
- 不妄語戒[:嘘をつかない
- 不飲酒戒[:酒を飲まない
- 離眠坐高広厳麗牀座[:高座に坐り好床に臥さない。
- 離塗飾香鬘[離舞歌観聴[:身に香油を塗らず装身具をつけず、演劇などの催し物を見ない
- 離非時食戒[:正午を過ぎてから食事をとらない
(参照:{戒律について})
これは六斎日(毎月陰暦の8日,14日,15日,23日,29日,30日/ウポーサタの日)に出家生活を一日だけ保つ形をとっています。様々な事情により一生にわたって修行者の戒律を守り切ることはできませんが、戒律の精神は胸にいただき、事情が許す限りは守らせていただきます%凾ニいう心がけを言うのでしょう。浄土の功徳が仏教徒全般の機に応じてはたらき、まずは戒律としての発揮になったのです。
「塔像[を起立[し沙門に飯食[せしめ」以下は、私自身は思う存分に修諸功徳を行うことはできませんが、せめて修行者の助けとなるよう物心両面で援助しましょう≠ニいうことです。これは恭敬供養[といって、敬虔[な気持ちで相手を敬[い自分の所有物を捧げるのです。
かつてコーサラ国の首都舎衛城[にスダッタという慈善家がいて、釈尊から法を聞いて信者となり、ジェータ太子の園林に黄金を敷いてこれを買い取り九精舎を建立し、太子も長者の熱意に感じ入り二階建ての楼門を造って寄進した、これが祇園精舎[(祇樹給孤独園[/ジェータバナ・アナータピンダダスヤ・アーラーマ)の縁起と伝えられていますが、こうした類[いが中輩者に報いた信心の発揮でしょう。ただし、貧者が誠心をもって捧げた一灯は、長者の万灯よりも功徳が大きい≠ニいう「貧者の一灯」の説話もあり、供養は物の多少によらず一心にまごころをこめるのを尊ぶことは忘れてはならないでしょう。
「天蓋[」は日差しや雨を防ぐための傘で、屋外で仏が説法された際に用いたと伝えられています。これは文字通り説法者に日傘や雨傘を捧げる≠ニいう意味もありますが、総じて言えば、相手の真心と供養の善根が感応して、辺り一面に仏の功徳が咲き広がること≠象徴しています。これを生活の現場に即せば、仏法弘通[の障[げとなっている内外の要因を除き、愛山護法[の活動に参画させていただくことをいいます。また世の中には真実の法を妨げる邪な思想や暴力がはびこり、その為に人々は嘘や悪意に惑わされ戦々恐々として毎日をおくる破目に陥っています。そこで「天蓋[をかけ」て尊い宝を護るのです。何かと話題の「おふくろさん」(作詞:川内広範 作曲:猪俣公章)という歌には、お前もいつかは世の中の 傘になれよと教えてくれた あなたのあなたの真実 忘れはしない≠ニいう詞がありますが、これも天蓋の精神と同じでしょう。
「灯[を燃[し」も単にロウソクなどに火を灯すのではなく、光明無量の果徳に感応した行であり、仏教の原則から言えば、無明を破く自灯明[・法灯明[の展開を言います。つまり――自分の人生で真の依りどころは自分であり他人を頼りにしてはならない(自灯明)。しかし肝心な自分が一番頼りにならないと知り、かく知らしめた本願を依りどころとする(法灯明)。本願に照らされつつ、本願が私の身に成りきられて真実信心となる。この南無と成り切られた阿弥陀仏を依りどころとして生活する、これが燃灯[の実際でしょう。
「華[を散[じ香を焼[きて」は、浄土の功徳が心地よく衆生に回施されることを象徴しています。{法蔵修行}では「天より妙華[を雨[らして、もつてその上に散[ず」(天人は美しい花をその上に降らせた)とありますが、法蔵菩薩の行が私の身の上に功徳となって満ちたため、自分の生活の現場で散華焼香[が適ってくるのです。
仏法は、教えを語る人や行じる人たちの口ぶり、もしくは信徒の生活態度の好ましさが評判を得て弘まってゆきます。人間は理屈で動くのではありません、まごころのこもった言動に感化されて動くのです。これが下劣ではどんなに尊い教えも皆から信用されません。特に問題なのは、自分が理解した内容にとらわれ、相手の事情や気持ちを無視して教えを力説してしまうことです。他人の心を無視し、異なる意見を徹底的に弾じてしまえば、相手は混乱し仏法への嫌悪・憎悪の念を強くしてしまうでしょう。散華焼香はそうしたことがないように、仏教徒として周囲によい雰囲気を漂わせ、この麗しい評判によって人々に菩提心を起こさしめてゆくのです。
(参照:{妙香合成の願})
「これをもつて回向[してかの国に生れんと願ぜん」とは、以上の事柄が恭敬供養[の実践で、総じて言えば、真実信心の催しが慈善活動として発揮されることが中輩の相です。
ただし慈善活動が偽善や売名であっては本当の中輩ではありません。もちろん上輩の修諸功徳も「俺はさまざまな功徳を積んだぞ」と威張っては台無しです。あくまで本願力回向の信心によって無明・我執が砕かれる、その現れとして修諸功徳であったり様々な寄進が適うのです。自分の計らいで成就したのではありません。そしてそれらの腹底には、声聞無量の願で見出された「聞法精神」が浄土という形をとって成就し、機に応じて形をとり、身に満ち場を得て躍動しているのです。これは『仏説無量寿経』上巻・序分の最後にある「願楽欲聞」(願楽して聞きたてまつらんと欲ふ)との指導にも順ずる内容で、「願」は行願で、ただ聞くのではない、はっきりした目的があって願うこと。「楽」は前に聞いたことを重ねてもう一度楽しんで願うこと。「欲」は飢えたものが食を求めるように貪るように欲しがること≠ニいう先師のお示しも含めて味わいたい内容です。
このように、上輩者による修諸功徳も中輩者による物心の寄進も、そして後の章で述べます下輩者による念仏も、一見行者の計らいで行われているようですが、全てが本願力回向の催しなのであります。浄土の側から言えば、浄土の菩提心が真実信心となって私の身に満ち、私の性格や宿業に応じて報い、生活の現場現場で具体的に展開しているのが三輩の姿なのです。
- 註釈版
- その人、終りに臨[みて、無量寿仏はその身を化現[したまふ。光明・相好[はつぶさに真仏[のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏[に随[ひてその国に往生して不退転[に住[せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん」と。
- 現代語版
-
このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身[のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身[そのままであり、多くの聖者[たちとともにその人の前に現れてくださるのである。そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転[の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」
<その人、終りに臨[みて>
(このものが命を終えようとするとき)
これは、上輩でも述べましたように、浄土の菩提心を回施されながら宿業に束縛された我が身を懺悔[した言葉であります。そして中輩の本意を察すれば――せっかく浄土の縁をいただきながら、宿業に呪縛されてお恥ずかしい限りの毎日で、浄土の眷属方々にあわせる顔がありません。私はさまざまな功徳を積むことは適いませんが、日々ひらすら無量寿仏を念じ、できる範囲で精一杯、様々な寄進により恭敬供養[の功徳を修めさせていただき、浄土に生れたいと願っております。皆様お待ち下さい。せめて死ぬ間際までには皆様に褒めていただけるような私になりたいと願っております≠ニいうよう心がけを言うのでしょう。
<無量寿仏はその身を化現[したまふ。無量寿仏はその身を化現[したまふ。光明・相好[はつぶさに真仏[のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ>
(無量寿仏は化身[のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身[そのままであり、多くの聖者[たちとともにその人の前に現れてくださるのである)
上輩では無量寿仏が大衆であり、大衆が無量寿仏であると受領することが適うのですが、中輩者は「化現したまふ」(化身のお姿を現してくださる)とあります。凡夫も中輩者も上輩者もその肉眼に映る相手は大衆しかいません。大衆と別に無量寿仏が存在しているわけではないのです。しかし中輩者は上輩者と異なり、出あう相手ひとり一人の身の上に仏の顕現を見≠スり大衆を十方恒沙[の諸仏如来と拝む中で無量寿仏を観じる≠アとはできません。しかし如来回向の菩提心と寄進のおかげで、大衆を無量寿仏の化身として敬うことが適うのです。
化身とは、仏が衆生などの形相をとって現れたものを言いますが、上輩と異なるのは悉有仏性[の「眼見[」と「聞見[」の違いによるものでしょう。「眼見」は一切衆生悉有仏性[を直接見ることができますが、聞見は、そのままでは仏性を見ることができないので、よくよく教法を聞いて、聞いた通りが肯かれ、肯かしめた如来回向の信心によって仏性を見るのです。仏性は本仏である無量寿仏が一切衆生を如来の一人子(一子地)と定めた種ですから、中輩はこれを直接「眼見」することは適いませんが「聞見」することは適う、これを「化現」というのでしょう。
また、「ごとし」というのは不一不二、同じではないが分かつこともできない≠ニいうこと、「光明」ははらたき≠ナ「相好」は形に現れた相≠ナすから、中輩者の人生を総括してみれば、大衆を通して無量寿仏のはたらきと尊い相を聞見することが適うことになります。すぐには大衆が諸仏であると気付かないのですが、教法を聞くたびに確かに仏だなあ≠ニ思い返していたので、臨終においてはもろもろの大衆に十方恒沙[の諸仏如来よ≠ニ拝むことが適ってくる、こうしたことが願いの深さにおいて説かれているのでしょう。
(参照:{人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか? })
<すなはち化仏[に随[ひてその国に往生して不退転[に住[せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん>
(そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転[の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである)
「化仏」(化身)は先に説明した通りの内容ですが、上輩者が無量寿仏の真実の姿である「報身」に随って往生するのと異なり、中輩者は「化身」に随って往生を果たします。ちなみに「往生」とは、煩悩に縛られ三悪道の業に閉じた人生から、真実の願いに開かれた人生へ生まれ変わることをいいます。死んで霊魂が別世界に赴[く≠ニいう意味ではありません。後者のような間違った迷信的往生は、真心で書かれた経典を理性の眼で読み、文字に執われた解釈によって発生した夢物語でしょう。いわゆる「指を看視[して月を視[ざるがごとし」ものです。『大智度論』の「義に依りて語に依らざるべし」との指摘は心して聞かねばなりません。
さて往生の際、上輩者は「七宝の華のなかより自然[に化生[する」、つまり浄業の報いた世界の真っ只中に場が与えられ、その場の尊さを即座に知ることができる≠フですが、中輩者の往生は化生か胎生[か、これだけでは判別がつきません。しかし続いて、「不退転[に住[せん」とあり、不退転に至ることが化生でありますから、必ず浄土に化生し不退転の位に至る≠アとは確かです。
ただ、あえて問いたいのは即かどうか≠ナす。上輩は経典の文言から往生即住不退転[であることが解るのですが、中輩は往生と住不退転に時間差があるのかどうか、これだけでははっきり判別できません。もちろん浄土の徳分から言えば「かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す」(参照:{十一・十七・十八願成就 })ですが、浄土の功徳・智慧が衆生に入り満ちるには、衆生の側の疑惑や計らいが問題で、ここに時間差を生む障害があるのです。
そこでこの時間差について『仏説観無量寿経』の九品を調べると、上品上生は「往生即住不退転」ですが金剛[の台[への化生です。上品中生は一夜を経て華開く(住不退転の意/参照:「蓮莟を模す」の間違い)のですが現場は紫金[の台、上品下生は一日一夜にして蓮華は開くのですが、歓喜地[に至るまでには三小劫[もかかります。
特筆すべきは中品上生で、大経でいえば中輩に相当する内容ですが、歓喜とともに蓮華の台に坐し、頭を上げる前に蓮華が開くのです。これは即得往生住不退転[ということを示しています。つまり時間的には上品中生や上品下生より早く浄土の蓮華は開き、開く時に諸々の仏法を領解することが適うのです。これにより中輩も往生即住不退転であることが解るでしょう。
続いて中品中生は往生の七日後に蓮華が開いて聞法が適い、中品下生も往生の七日後に聞法がかなうのですが、中品下生の衆生は観世音と大勢至から法を聞きます。これは父母孝養の徳によっているからでしょう
(参照:{観世音菩薩・大勢至菩薩は具体的には誰なのですか? })。
下品は仏法を誹謗中傷[しながら慚愧[もしなかった悪衆生ですが、善知識の導きによって称名念仏がかない、この功徳によって往生を果たします。しかし蓮華の華が開くのは、下品上生は往生の後四十九日後、下品中生は何と六劫も後、下品下生にいたっては十二大劫も後のことです。往生してもその間は化生ではなく胎生であり、『大経』で言えば七宝の獄に閉じ込められた状態であることは注意しなくてはなりません。往生してもこの間は功徳・智慧の発揮がなされず、往生した甲斐がないわけです。
なお、『大経』の上輩が『観経』の上品、『大経』の中輩が『観経』の中品、『大経』の下輩が『観経』の下品≠ニ解釈する人もいますが、下品については、往生の内容からも、時間差から言っても全く異なっています。
第十八願は「五濁悪世の衆生の選択本願信ずれば、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てり」と、私の中に無限のもろもろの功徳があったことが見つかったんでしょう。十八願です。そこから二十願は、中にある功徳が身につくこと、「修諸」、修身の修で身につくこと。これは大事なのではありませんか。それを今まで皆、自力だといってきた。間違いですよ。本当はなんぼ自分の中に功徳があっても、花が開かなかったら、顔に出てこなかったら、何の値打ちもないではないか。だから、私の家庭、十九の願は私の顔の上に、人相の上に功徳の花が咲くこと。今度、二十願は私の生活を通して環境の上にお浄土の花が開くこと。だから、十九の願も二十の願も皆、要ることでしょう。
だから、修諸功徳とはこのように、ただ単に智慧だけではない、智慧と徳が大事なのです。智慧と徳を成就していく。それをもろもろの功徳とこう言っておられるのでありますから、人格そのものであります。このものは、これがそういう私はそうなりたいんだが、できませんから、私が持っておるもので、お金があればお金をご用に立てますから、力があれば力をもって車の後を押してあげましょうと、このように自分の持っているものをもって、そして今度はみんなの幸せになってもらいたい。法を聞いてもらいたいというものが出てきたわけであります。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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