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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』22

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生因 十一・十七・十八願成就

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 22

 仏、阿難に告げたまはく、「それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 22

 釈尊[しゃくそん]阿難[あなん][おお]せになった。
「さて、無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れる人々はみな正定聚[しょうじょうじゅ]に入る。なぜなら、その国に邪定聚[じゃじょうじゅ]不定聚[ふじょうじゅ]のものはいないからである。すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳[くどく]をほめたたえておいでになる。無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生[おうじょう]することができ、不退転[ふたいてん]の位に至るのである。ただし、五逆[ごぎゃく]の罪を犯したり、仏の教えを[そし]るものだけは[のぞ]かれる」

▼意訳
「さて、無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚[しょうじょうじゅ]に入る。なぜなら、その国に邪定聚[じゃじょうじゅ]不定聚[ふじょうじゅ]のものが生れることはないからである。すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。すべての人々は、その仏の名号[みょうごう]のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転[ふたいてん]の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを[そし]るものだけは[のぞ]かれる」


 第十一願成就(上巻の内容に順じた真実信心)

 これから下巻を読み味わうわけですが、下巻は全体として真実信心を明らかにし現実を批判する巻となっています。『仏説無量寿経』の上巻の最後には三十六百千億の諸仏が出現し、衆生ひとり一人に諸仏が寄り添い、浄土の徳を信心として回施し仏道を成就せしめてゆくことが説かれてありましたが、下巻は、この回施された信心の内容を明らかにするのです。
 つまり上巻は阿弥陀仏のいわれ(始終・経緯)が明らかにされているのですが、下巻は南無のいわれが明かされるのです。これによって、真実信心によって私の人生がどう変わるのか≠ェ解りますので、虚偽の信心はその化けの皮が[]がされてしまうのです。

 そこで下巻では、まず信心決定した人は正定聚の菩薩になることが説かれ、この菩薩の上にもたらされた徳を明らかにします。上巻に説かれた弥陀成仏のいわれ・浄土の功徳が、私自身に具体的にどのようにはたらくのかを説くわけです。いわば南無の内容が明らかになります。
 次に[ひるがえ]って、南無の立場からこの世の三毒の迷いを明らかにし、五悪を離れ五善を保つように説かれます。信心獲得者の眼を通して衆生の有様を映し出すわけです。
 やがて世尊は阿難はじめ聴衆に、無量寿仏とその国土と菩薩・声聞衆を目の当たりに拝ませ、真実信心の尊さと、[よこしま]な信心の不利益を説き、弥勒菩薩にこの不利益を生んだ訳を説き、真実信心と教えの実践を勧めます。

註釈版
 仏、阿難に告げたまはく、「それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。
現代語版
 釈尊[しゃくそん]阿難[あなん][おお]せになった。
「さて、無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れる人々はみな正定聚[しょうじょうじゅ]に入る。なぜなら、その国に邪定聚[じゃじょうじゅ]不定聚[ふじょうじゅ]のものはいないからである。
意訳
「さて、無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚[しょうじょうじゅ]に入る。なぜなら、その国に邪定聚[じゃじょうじゅ]不定聚[ふじょうじゅ]のものが生れることはないからである。

 ここはまさに下巻で語る内容の総体が説かれています。それは畢竟[ひっきょう]正定聚とは何か≠ニいうことであります。正定聚を明らかにして実践せしめ、邪定聚・不定聚を廃することことができれば下巻の役割は果たすことができるのです。
 それでは正定聚とは何かというと、一言で言えば『仏説無量寿経』上巻の内容に順じた真実信心≠ナあり、本願の歴史を背景とした正しい人生観≠ナありましょう。こうした浄土の徳のこもった人生観で歩めば成仏は当来[とうらい](「将来」以上に確実)において必ず果たせ、滅度が適うのです(参照:{必至滅度の願})。さらには、究極として成仏を果たすことも重要ですが、道の途中であっても「この道を行けばよし」との信を持つこと、これが最も重要なのです。
 自身を省みれば、浄土真宗に帰すれども、とても「私は成仏した」などとは言えませし「私は既に浄土に往生している」とも言えません。しかし「この道を行けばよし」と言い得る道が見出せれば、浄土に向かって歩む一歩一歩の中に、お浄土の側から功徳が働き、諸仏は行者を護り導くことが適います。
 これに対して「邪定聚・不定聚」は、経の意に背いたり、教えを無視した自分勝手な信心を言います。「私はこのように確信しています」と言っても、自分勝手な人生観では浄土の功徳はかえって阻害[そがい]され、諸仏護念[しょぶつごねん]もその甲斐[かい]がなくなってしまいます。そこで{第十九・至心発願の願}が邪定聚の機で、{第二十・至心廻向の願}が不定聚の機である≠ニ解釈されてきました。しかし古来よりの解釈で言えば、「邪定聚」は外凡夫[げぼんぶ]で、自分を省みることの無い畜生[ちくしょう]。「不定聚」は内凡夫[ないぼんぶ]で自らを省みながらも覚りの地に足がつかず退転の危険をはらんだ菩薩(四十段以下の退転の菩薩)。そして「正定聚」は地位(四十一段から五十一段)に入った不退転の菩薩を言います。

 ところで、聖典の「現代語版」には二つの訳が載っていますが併記するには意図があり、おそらく最初の「無量寿仏の国に生れる人々は」というのは漢語をそのまま訳したのであり、「無量寿仏の国に生れようとする人々は」というのは教学をふまえて訳したのでしょう。しかも後者の訳は「みなこの世で正定聚に入る」と念を入れています。
 前の訳では「無量寿仏の国に生まれた人々は」なのか「無量寿仏の国に生まれようとする人々は」なのかが解りません。しかし経典の真意が後者にあることは正定聚の内容を確かめれば解ります。
(参照:{正定聚・不退転の菩薩について}

 第十七願成就(仏性が言葉を発する以前の歓喜の叫び)

註釈版
 十方恒沙[じっぽうごうじゃ]諸仏如来[しょぶつにょらい]は、みなともに無量寿仏[むりょうじゅぶつ]威神功徳[いじんくどく]不可思議[ふかしぎ]なるを讃歎[さんたん]したまふ。
現代語版
すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳[くどく]をほめたたえておいでになる。
意訳
すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。

 前節は{必至滅度の願}の成就文でしたが、ここは{諸仏称名の願}の成就文です。願文では「わが名を称せずは」ですが、成就文では「功徳」をほめるとなっています(名と功徳の関係は次節で詳説します)。上巻で明かされた弥陀成仏[みだじょうぶつ]のいわれ・経緯を聞いて、十方恒沙の諸仏如来は、無量寿仏の計り知れぬ尊さに感激しその功徳をほめたたえてみえる、と説かれています。

「諸仏如来」は、先の私に成りきっていただいた三十六百千億の諸仏≠ナすから阿弥陀の化仏≠ナす。私の劣悪なる機に応じ、阿弥陀仏が様々に姿を変えて私の足元から立ち上がり、声なき声で私を導くこの化仏が「諸仏如来」です。ならば、諸仏如来が無量寿仏の功徳を褒め称えるとは、具体的にどういうことを言うのでしょう。

 それは、仏性が言葉を発する以前の歓喜の叫び、ともいうべきものでしょう。

 仏性は凡夫性と表裏一体のものであります。人間は自らの凡夫性を正当化しようとする悪い癖があるのですが、ここに清浄荘厳の功徳を施し、衆生に慚愧[ざんき]懺悔[さんげ]願生[がんしょう]せしむるはたらきが仏性です。そしてこの仏性の歴史を法蔵菩薩の因果をもって明らかにしたのが『仏説無量寿経』の上巻なのです。仏性が果てしなく長い修行を経て諸仏となり我が背に宿った、この我ならぬ我が、本仏である阿弥陀仏の尊い歴史を聞けば、感激してその功徳の素晴らしさを讃嘆せざるを得なくなります。この我ならぬ我の讃嘆が弥陀の名告りを受けて私の讃嘆となることが次の称名念仏[しょうみょうねんぶつ]なのです。

 第十八願成就(諸仏による功徳讃嘆を受け衆生は信心歓喜する)

註釈版
 あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜[しんじんかんぎ]せんこと、乃至一念[ないしいちねん]せん。至心[ししん]回向[えこう]したまへり。かの国に生れんと[がん]ずれば、すなはち往生[おうじょう][]不退転[ふたいてん][じゅう]せん。ただ五逆[ごぎゃく]誹謗正法[ひぼうしょうぼう]とをば[のぞ]く」と。
現代語版
無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生[おうじょう]することができ、不退転[ふたいてん]の位に至るのである。ただし、五逆[ごぎゃく]の罪を犯したり、仏の教えを[そし]るものだけは[のぞ]かれる」
意訳
すべての人々は、その仏の名号[みょうごう]のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転[ふたいてん]の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを[そし]るものだけは[のぞ]かれる」

 ここは{至心信楽の願}の成就文です。前節では、我ならぬ我≠ナある三十六百千億の諸仏が阿弥陀仏の歴史を聞いてその功徳に感激し讃嘆するのですが、この讃嘆が私に「南無阿弥陀仏」の名号として回施され、真実信心となって受領することが適うのです。ではなぜ讃嘆が名号となったのでしょう。

 法相[ほっそう]祖師[そし]法位[ほうい]のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を[しょう]するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名[ぶつみょう]を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定[けつじょう]して[うたがい]なし。称名往生[しょうみょうおうじょう]これなんの[まど]ひかあらんや」と。
『顕浄土真実教行証文類』行文類二60 大行釈 引文 より
意訳▼(現代語版 より)
法相宗の祖師、法位が『大経義疏[だいきょうぎしょ]』にいっている。
「仏がたはみなその功徳を名号におさめる。だから、名号を称えることは、仏の功徳をたたえることである。仏の功徳はわたしたちの罪を滅して利益を生じる。名号もまたその通りである。もし仏の名号を信じたなら、善根[ぜんごん]を生じて悪を滅するのは、間違いのないことであり、疑いのないことである。名号[みょうごう][とな]えて往生を得ることに、何を迷う必要があろうか」
しかるに『経』(大経・下)に「[もん]」といふは、衆生、仏願[ぶつがん]生起本末[しょうきほんまつ]を聞きて疑心[ぎしん]あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向[ほんがんりきえこう]の信心なり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末)65 信一念釈 より
意訳▼(現代語版 より)
 ところで、『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。

 このように、<その名号を聞きて>は「無量寿仏の名を聞いて」とだけ訳するのではなく、「その仏の名号のいわれを聞いて」と意訳した方がより明確になります。名を聞いただけでは、その名に込められた「仏願の生起本末」の功徳は解りません。名のりの背景には巨大な功徳が裏づけとなっていることを知らねばならないでしょう。そこで法位は「諸仏はみな徳を名に施す」と明かされたのです。

 ちなみに、「名号」が現れた事実を言えば世尊が名を付けられた≠フですが、宗教的真実は阿弥陀仏自身の名告りを世尊が見出された≠フです。阿弥陀仏は名号とともに世尊の前に姿を現され、世尊の説法によって衆生に披露されたのですが、説法されるはるか以前から阿弥陀仏は限りない功徳を積まれてみえ、その寿命を無量無辺[むりょうむへん]に広げ、阿僧祇劫[あそうぎこう]に保ち、十方恒沙の諸仏如来となって衆生とともに歩みを進めてみえたのです。そしてこうしたことが理屈ではなく私自身の人生において証明される≠ニいうことが最も重要なのです。
 世尊最大の手柄は、この広大な内容を覚るとともに、言葉や名を用いて明らかにされたことです。言葉や名と成らなければ私にその尊い内容は伝わらず、私を包み、私に成り切って同行される尊い存在に心が及ぶことはなかったでしょう。
 これを身近な例で[たと]えれば、偉大な政治家が出現すれば、その名を聞いただけで民衆はこの政治家の功績を思い浮かべることができるでしょう。偉大なスポーツ選手も、競技場で名が告げられただけでその選手の活躍を思い浮べ、人々はその名を連呼することで日ごろのプレーを褒め称えることになるのです。もし選手に名がなければ、今までの活躍や期待を統合するものがないので讃嘆も刹那的[せつなてき]で単発に終わってしまうでしょう。無量寿仏も、衆生とともに歩み貫く仏性が「名号」となって初めて私たちはその統合された内容に気付くことができるのです。

<信心歓喜せんこと、乃至一念せん>
(信じ喜び、わずか一回でも仏を念じ)
(信じ喜ぶ心がおこるとき)
 南無阿弥陀仏の名号となっていただいた無量寿仏の功徳ですが、これを私がとなえたとしても、名号の内容を知らないうちは名に意味を見出せません。先の例で言えば、偉大な政治家の名前も、偉大なスポーツ選手の名前も、私がその功績を知らず活躍を見聞きしないうちは、名を聞いても心は動きません。無量寿仏も同じで、私は無量寿仏を信じます≠ニ言っても、阿弥陀仏の内容、弥陀成仏[みだじょうぶつ]のいわれを知らなければ、実績を知らない政治家を信じることはできないのと同様、無量寿仏を信じることなど本当は不可能でしょう。どんなチームでどんな活躍をしているか知らない選手に対して応援することはできないのと同様、無量寿仏の名を歓喜のうちに連呼することなど恥ずかしくてできないはずです。
 もちろん、他人から「名号を[とな]えてみなさい」と強制されれば「南無阿弥陀仏」と声に出すことはできるでしょう。「救われると信じて名を称えれば、善を生じ悪を滅し、浄土往生を得ることは確実」ということも間違いではありません。しかしそれは、いずれ「弥陀成仏のいわれを知る」ということが前提にあるのです。

 弥陀成仏のいわれを知れば、仏性の歴史の尊さに頭が下がり、歓喜のうちに名号を[とな]えることが適います。「[とな]える」のではありません、「[とな]える」のです。「唱」は単に声に出すことですが、「称」はたたえる、[]め称えるのです。浄土三部経には「唱」の字は登場しませんし、親鸞聖人の著にも「唱」は引用文のみで、みずから述べられる弥陀の名号については必ず「称」の字が用いられます。ですから、「信心歓喜」を総じて言えば、「弥陀成仏のいわれ・仏願の生起本末[しょうきほんまつ]」が、ひとり一人の信心の生活によって証明されるのです。事実によって阿弥陀仏の物語が真実であると証明されるのです。

 また「乃至一念[ないしいちねん]せん」は{至心信楽の願}に願われた「至心[ししん]信楽[しんぎょう]欲生[よくしょう]」の三心の成就であり、これを一心・一念と総じたものです。願文では「乃至十念[ないしじゅうねん]」であったものが、この成就文では「乃至一念」となっています。
 これは、願文は如来の願いですから、常に「至心・信楽・欲生」を一念として衆生に回向され、「十」は満数ですから「十念」、信心が一人ひとりの人生において完全に成就することを願われます。しかし成就文の方は、衆生の信心の有様を述べたものですからつねに信の一念においてのみはたらく≠フで「乃至一念」と説かれたのでしょう。「今」こそが永劫[ようごう]の修行功徳のはたらきどころ。信心はつねに今、今、今とはたらきますので「一念」なのです。

 ところがこの気付きを握りしめ、「私が以前受け取ったこれこれこのような歓喜が信心です」と言ってしまえば、そんな信心は抜け殻に過ぎなくなります。「私はあの日、あの時、信心を獲得しました」と[にぎ]ったところに信心はないのです。抜け殻を保つことを自力と言います。他力は握りしめることができません。握った途端に自力に変貌してしまうからです。
 これを譬えて言えば、長い伝統文化といっても、その発揮どころは一瞬一瞬の創造の現場にあることに似ているでしょう。常なる改革の歴史を尊み、惰性に陥りがちな自分の生き様を破る力となるのが本来の伝統です。しかしもし伝統の成果に執着して現場の改革を怠れば、その途端に伝統は抜け殻となり、創造の活力を削ぐ重荷になってしまいます。安楽浄土は「花が必要でなくなれば、たちまち地面が開いて花は次々とその中へ消え」等、そうした重荷を消す環境であることが説かれています。

<至心に回向したまへり>
(心からその功徳をもって)
(それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから)
 これは信心歓喜が他力回向であるということを言います。先の「信心歓喜せんこと、乃至一念せん」は、我ならぬ我である諸仏が無量寿仏の功徳を讃嘆し、讃嘆された内容を私が名号のいわれとして聞き開き、感動のあまり仏の名号を褒め称える、こうした称名念仏[しょうみょうねんぶつ]でありますから、結局この念仏は<至心に回向したまへり>、「無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものである」と言えるのです。
 さらに、如来より回施された「至心・信楽・欲生」は、生活の現場では「慚愧[ざんき]懺悔[さんげ]願生[がんしょう]」となってはたらきます。このはたらきに気付かされて念仏を称えることが真実信心なのです。
 ならば、さらに仏意を徹底しようと試みれば「至心に回向せしめたまへり」と読み下しても良いでしょう。私がどれほど卑劣で真実に背き、悪あがきをして仏に反抗しても、畢竟[ひっきょう]として無量寿仏を讃嘆し称名念仏することになるのです。無量寿仏のはたらきは我が足元にまで及んでいますので、弥陀成仏のいわれはやがて私の事実となり、この事実に随って[よこし]まな悪道を捨て、善なる道を歩まざるを得なくなってしまいます。真実に背き続け、悪性の捨てられぬ私にとっては、生きる現場の導きがなければ真実善なる人生は成就できません。

<かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん>
(無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生[おうじょう]することができ、不退転[ふたいてん]の位に至るのである)
(無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転[ふたいてん]の位に至るのである)
 この文はこの章全般の総括となります。「願」と「往生」の関係について詳細を言えば、たとえば『仏説阿弥陀経』では――

舎利弗、もし人ありて、すでに発願[ほつがん]し、いま発願し、まさに発願して、阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんものは、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提[あのくたらさんみゃくさんぼだい]退転[たいてん]せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生れ、もしはいま生れ、もしはまさに生れん
『仏説阿弥陀経』12
もし人々が阿弥陀仏の国に生れたいとすでに願い、または今願い、あるいはこれから願うなら、みなこの上ないさとりに向かって退くことのない位に至り、その国にすでに生れているか、または今生れるか、あるいはこれから生れるのである
(現代語版)
とあります。
 整理しますと: 阿弥陀仏の国に生れたいと「すでに願い」をおこせば(已発願[いほつがん])その国に「すでに生れている」(已生[いしょう])、「今願い」をおこせば(今発願[こんぽつがん])今生れる(今生[こんじょう])、「これから願う」(当発願[とうほつがん])ならば「これから生れる」(当生[とうしょう])。已発願=已生、今発願=今生、当発願=当生ですから、重要なのは「生まれたいと願いをおこす」(発願)ことなのです。願いをおこした人々は皆「正定聚・不退転」を得、弥陀の浄土に生まれることが適うのです。しかも、願ったらやがて成就する≠フではありません。願いの中に成就あり≠ナ、願いを起こすことがそのまま成就なのです。
 またここでは「みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざる」(みなこの上ないさとりに向かって退くことのない位に至り)とありますように、正定聚・不退転の念仏者は常に浄土の菩提心≠背に持っていることを明かしています。
(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?}

<ただ五逆[ごぎゃく]誹謗正法[ひぼうしょうぼう]とをば[のぞ]く>
(ただし、五逆[ごぎゃく]の罪を犯したり、仏の教えを[そし]るものだけは[のぞ]かれる)
(ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを[そし]るものだけは[のぞ]かれる)
「五逆」とは五逆罪のことで、恩に逆らい福徳に逆らう五つの大罪を言います。無間地獄[むけんじごく]に堕ちる業因のため五無間業・五無間とも言いますが、具体的には数種の説があります。

「三乗の五逆」(小乗の五逆・単の五逆):
@害母(殺母・母を殺す) A害父(殺父・父を殺す) B害阿羅漢(殺阿羅漢・阿羅漢を殺す) C出仏身血(悪心出仏身血・仏身から血を出す) D破和合僧(破僧・和合僧を破る)。
 ※インドの原文では害母・害父の順だが、シナで害父・害母の順に書き換えられて日本に伝えられた。
「五無間業に類似する五無間同類業」(近五無間・五無間同分):
@母や無学尼を汚す A住定の菩薩を殺す B有学の聖者を殺す(害父の同類) C僧の和合縁を奪う D卒塔婆を破壊する(出仏身血の同類)。
「大乗の五逆」(複の五逆):
@塔寺を破壊し経蔵を焼き三宝の財物を奪い、あるいはそれらを人に行わせ、またはその行為を見て喜ぶ A三乗(声聞・縁覚・大乗)の法を謗り聖教を軽んじる B出家者を罵り責めたり禁閉したり還俗させるなどして修行を妨げ酷使して死に至らせる C父母を殺し仏身から血を出し和合僧を破り阿羅漢を殺す(小乗の五逆のうち一罪を犯す) D因果業報を否定し十不善業(十悪)を行い後世を畏れず、人々にこうした邪説を説く。
「誹謗正法」は破法・断法ともいい、仏法の悪口をいうこと、仏の正しい教法をそしることをいいます。先の五逆とともにきびしく誡められる重罪で、謗法の相は、仏・仏法・菩薩・菩薩法を否定することで、自らそう思ったり、他人の説に従って思い込むことも指します。こうした邪見と不信によって仏法をそしる者は地獄におち、永久にさとりを得ることができないとされます。
 つまり、「無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり」と言っても、五逆と誹謗正法の者は除かれる≠ニいう但し書きがあるのです。{至心信楽の願}にも同じ文言あるのですが、これは「抑止門[おくしもん]」と呼ばれています。

 ここで問題なのは、抑止門は阿弥陀仏の直説か釈迦の方便か≠ニいうことです。伝統教学としては「抑止[おくし]は釈尊の方便なり」(口伝鈔20)との理解、つまり、本願の真意は逆謗[ぎゃくほう](五逆と誹謗正法)の者も除かないが、世尊が教えを説かれる時に道徳的配慮でこれを誡められた≠ニの理解をいちおうの勝義としています。往生の問題と道徳の問題を別に見て、信心こそが肝心だが、これにかまけて道徳的問題を蔑ろにするな≠ニいうわけでしょう。善導大師や親鸞聖人も一部ではこうした理解を示し、無間地獄に堕ちるよりは良いが、謗法のままでは華のつぼみに包まれ、七宝の獄に入ったように三つのさわりがある≠ニ逆謗を廃するように勧めます(参照:{「蓮莟を模す」の間違い})。逆謗を教団組織や他人の問題とするとこうした理解に落ち着くでしょう。
 しかし逆謗を自分を問題としてとらえてみれば、逆謗はむしろ信心が至り届いて初めて見える自分の姿ではないか、と読めるのではないでしょうか。親鸞聖人も自らのことを正定聚に入っていることを喜ばず≠ニ嘆じてみえます。

 まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞[ぐとくらん]、愛欲の広海[こうかい]沈没[ちんもつ]し、名利[みょうり]太山[たいせん]に迷惑して、定聚[じょうじゅ]の数に入ることを喜ばず、真証[しんしょう][さとり]に近づくことを[たの]しまざることを、[]づべし[いた]むべしと。
『顕浄土真実教行証文類』信文類三 113(末)明所被機
 いま、まことに知ることができた。悲しいことに、愚禿親鸞は、愛欲の広い海に沈み、名利の深い山に迷って、正定聚に入っていることを喜ばず、真実のさとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥しく、嘆かわしいことである。

 他力の菩提心によって正直に自らを見つめた時、本当に自分自身を裏切り、恩や福徳に逆らうものの正体が見えてくるのではないでしょうか。

 資料

諸仏が働くという。それを受けて下巻が出てくるのでありますから、お浄土から出てきた諸仏は私たちにどう働くのか。今度は私がどうして受け取るのか。受け取ったならば私がどう生活が変わるのか。内容の生活が変わるのか。何が見えるのか。現実のこの世のどういうところが見えるのか。それがずっと皆、書いてあるのであります。したがって、私はこの『大無量寿経』(上巻)は阿弥陀仏のいわれ、今度その阿弥陀仏が「南無」となって働く。今度は南無のいわれ、下巻。だから、上巻が阿弥陀仏のいわれで、下巻が南無のいわれ。しかも、<中略>阿弥陀に向かって南無するのではない。阿弥陀が南無となって働くのです。南無それ自体が法蔵菩薩だから。
 だから、浅原才市が言うでしょう。念仏というのは、これは仏と仏が拝むこと。今までは仏と仏が拝むことはなかったのだから。だから、浅ましい私が仏を頼む、仏を拝むのです。そうでしょう。浅原才市がそれを破ったのです。そうではない。仏と仏が拝むこと。南無が阿弥陀に拝まれて、阿弥陀が南無に拝まれて、南無の仏というのが私に宿った法蔵菩薩のこと。今度は阿弥陀の仏という。その阿弥陀の仏と南無の仏と、仏と仏が拝み合うこと。これが機法一体の南無阿弥陀仏とこう言っておりましょう。<中略>
 ところが、今度浅原才市がそれならば、本当にこの教えを受け取れているかというと、受け取れておらない。というのは何かと言うと、ここでは実は阿弥陀の浄土が私の上に働いて、南無の仏と阿弥陀の仏とこう向き合うのではない。阿弥陀を背中にして、私が日常生活の中にお浄土の徳を表すのです。歴史をつくっていくの、新しい世界をつくるのです。
 だから、言うならば、大体こういうことは昔の言葉を見ればすぐ解るのであります。「機」という。人間の機のことをどうかと言いますと、初めは「性得(しょうとく)の機」という。またこんな話になりましたが、これは生まれながらにして持っておる機という。これは腹を立てたり欲を起こしたり、あれが欲しいこれが欲しいというそういう煩悩のことを性得の機という。その「機」というのは何かと言うと、弾みになると、その煩悩が弾みになって今度何が生まれて来るかと言うと、自力が生まれる。「自力計度(じりきけたく)の機」といいますが、これは「度(たく)」というのはこれは計らうこと、量りという字で。度量の「度」です。これも計り。だから、自力計度の機という。これも機であります。そうすると、浅ましい心が出てくると「これじゃならん、これじゃならん」と立派な人間になりたいと自力の計らいの心が生まれてくる。今度それが破れて自力が機となって、それが動機となって、今度「受法の機」、法を受け取る。だから、南無は受法の機で法を受け取るのです。だから、南無と阿弥陀を受け取る。受法の機でしょう。受け取ったらどうか、お浄土参り。ここで止まっておりましょう。そうではないの。
 さらに、これは『大無量寿経』は「法現の機」、法が法現の機です。南無は阿弥陀の法を受け取ると同時に、今度は阿弥陀の徳をもらって、今度は法を現す機であります。だから、南無阿弥陀仏の中にお浄土の徳がこもっておりましょう。親鸞聖人が言うならば「不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てり」と、私の五尺の体の中にお浄土の功徳がこもっておる。それを今度は現すのです。だから、法現と法を現す必要がある。けれども、「法現の機」というものを言うた人は一人もおらない。だから、この三つしかない。今、徳川時代の学者のいうことを誰でも構わないからお寺さんに聞いてみなさい。これだけしか言わないから。
 ところが、これから説いていく下巻は、全部、これはお浄土の徳を受け取ったならば、私の日暮らしがどう変わってくるのか。これをこれから説いていく。そういうものであります。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より


『顕浄土真実教行証文類』信文類三123(末)/浄土真宗聖典第二版
 五逆といふは(往生十因)、「もし&M017616;州によるに五逆に二つあり。一つには三乗の五逆なり。いはく、一つにはことさらに思うて父を殺す、二つにはことさらに思うて母を殺す、三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもつて仏身より血を出す。恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。この逆を執するものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づく。また『倶舎論』のなかに、五無間の同類の業あり。かの頌にいはく、〈母・無学の尼を汚す、[母を殺す罪の同類。] 住定の菩薩、[父を殺す罪の同類。] および有学・無学を殺す、[羅漢を殺す同類。] 僧の和合縁を奪ふ、[僧を破する罪の同類。] 卒都波を破壊する、[仏身より血を出す]〉と。 二つには大乗の五逆なり。『薩遮尼乾子経』に説くがごとし。〈一つには塔を破壊し経蔵を焚焼する、および三宝の財物を盗用する。二つには三乗の法を謗りて聖教にあらずというて、障破留難し隠蔽覆蔵する。三つには一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し還俗せしめ、駆使債調し断命せしむる。四つには父を殺し、母を害し、仏身より血を出し、和合僧を破し、阿羅漢を殺す。五つには謗じて因果なく、長夜につねに十不善業を行ずるなり〉と。{以上} かの『経』(十輪経)にいはく、〈一つには不善心を起して独覚を殺害する、これ殺生なり。二つには羅漢の尼を婬する、これを邪行といふなり。三つには所施の三宝物を侵損する、これ不与取なり。四つには倒見して和合僧衆を破する、これ虚誑語なり〉」と。{略出}
現代語版
 五逆[ごぎゃく]ということについて、次のようにいっている。
「シ州によれば五逆罪に二種類ある。第一には三乗のすべての教えに通じる五逆罪である。すなわち、一つには、故意[こい]に父を殺すこと、二つには、故意に母を殺すこと、三つには、故意に阿羅漢[あらかん]を殺すこと、四つには、間違った考えをおこして教団の和を乱すこと、五つには、悪い心をいだいて仏の体を傷つけて血を流すことである。これらは父母や仏や僧などから受けた恩や徳に背くから、逆罪というのである。この逆罪を犯したものは命が終れば間違いなく無間地獄[むけんじごく]に堕ち、果てしなく長い間、間断[かんだん]なく苦しみを受けるから、無間業[むけんごう]ともいう。
 また、『倶舎論[くしゃろん]』の中に、無間地獄に堕ちるこの五逆罪と同類の行いをあげている。すなわちその[]の文に、<母や無学果[むがくか]比丘尼[びくに]を汚すことは母を殺す罪と同類、無漏定[むろじょう]に住する菩薩を殺すことは父を殺す罪と同類、有学果[うがくか]・無学果の聖者[しょうじゃ]を殺すことは阿羅漢を殺す罪と同類、教団の和の縁となるものを奪うことは教団の和を乱す罪と同類、仏塔を壊すことは仏の体を傷つけて血を流す罪と同類>といっている。
 第二には大乗の五逆罪である。これは『薩遮尼乾子経[さつしゃにけんじきょう]』に、<一つには、仏塔を壊し、経典を焼き、三宝[さんぽう]の財物を盗むこと、二つには、声聞[しょうもん]縁覚[えんがく]菩薩[ぼさつ]の教えを[そし]って仏教ではないといい、仏法の流布[るふ]をさまたげ、危難[きなん]を加え、仏法の光をおおい隠して広まらないようにすること、三つには、持戒[じかい]無戒[むかい]破戒[はかい]にかかわらず、すべての出家した人に対して、ののしり打って苦しめ、過失[かしつ]を並べ立てて閉じ込め、還俗[げんぞく]させて、かりたてて使い、重税を課して、ついに命の断つまでに追い込むこと、四つには、父を殺し、母を害し、仏の体を傷つけて血を流し、教団の和を乱し、阿羅漢を殺すこと、五つには、因果の道理を否定して、常に十悪の罪を犯すこと>と説かれている通りである。
大方広十輪経[だいほうこうじゅうりんぎょう]』には、<一つには、善くない心をおこして縁覚を殺すこと、これは殺生である。二つには、阿羅漢のさとりを得た比丘尼を殺すこと、これは邪淫[じゃいん]である。三つには、施された三宝の財物を横領[おうりょう]すること、これは偸盗[ちゅうとう]である。四つには、間違った考えをおこして教団の和を乱すこと、これは妄語[もうご]である>と説かれている。


『往生論註』43 巻上
 問ひていはく、天親菩薩の回向の章のなかに、「普共諸衆生 往生安楽国」といへるは、これはなんらの衆生とともにと指すや。答へていはく、王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、「仏、阿難に告げたまはく、〈十方恒河沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを称嘆したまふ。諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、すなはち一念に至るまで心を至して回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とを除く〉」と。これを案じていふに、一切の外道・凡夫人、みな往生を得ん。また『観無量寿経』のごときは九品の往生あり。「下下品の生とは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごとき愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕して、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごとき愚人、命終の時に臨みて、善知識、種々に安慰して、ために妙法を説き教へて念仏せしむるに遇はん。かの人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げていはく、〈なんぢもし念ずることあたはずは無量寿仏と称すべし〉と。かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿仏〉と称せん。仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除き、命終の後に金蓮華のなほ日輪のごとくしてその人の前に住するを見、一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生を得ん。蓮華のなかにおいて十二大劫を満てて、蓮華まさに開けん。[まさにこれをもつて五逆の罪を償ふべし。]観世音・大勢至、大悲の音声をもつてそれがために広く諸法実相、罪を除滅する法を説かん。聞きをはりて歓喜して、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく」と。この経をもつて証するに、あきらかに知りぬ、下品の凡夫ただ正法を誹謗せざれば、仏を信ずる因縁をもつてみな往生を得と。
 問ひていはく、『無量寿経』(下・意)にのたまはく、「往生を願ずるものみな往生を得。ただ五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』(意)にのたまはく、「五逆・十悪もろもろの不善を具するもまた往生を得」と。この二経、いかんが会する。答へていはく、一経(大経)には二種の重罪を具するをもつてなり。一には五逆、二には誹謗正法なり。この二種の罪をもつてのゆゑに、ゆゑに往生を得ず。一経(観経)にはただ十悪・五逆等の罪を作るとのたまひて、正法を誹謗すとのたまはず。正法を謗ぜざるをもつてのゆゑに、このゆゑに生ずることを得。
 問ひていはく、たとひ一人ありて、五逆罪を具すれども正法を誹謗せざれば、『経』(観経)に生ずることを得と許す。また一人ありて、ただ正法を誹謗して五逆の諸罪なし。往生を願ぜば生ずることを得やいなや。答へていはく、ただ正法を誹謗せしめば、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得ず。なにをもつてこれをいふとならば、『経』(大品般若経・意)にのたまはく、「五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕してつぶさに一劫の重罪を受く。正法を誹謗する人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽きぬれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経」と。仏(釈尊)、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪きはめて重きをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人すでに誹謗を生ず。いづくんぞ仏土に生ぜんと願ずる理あらんや。たとひただかの土の安楽を貪りて生ぜんと願ずるは、また水にあらざる氷、煙なき火を求むるがごとし。あに理を得ることあらんや。
 問ひていはく、なんらの相かこれ正法を誹謗する。答へていはく、もし仏なく、仏の法なし、菩薩なく、菩薩の法なしといはん。かくのごとき等の見、もしは心にみづから解し、もしは他に従ひて受け、その心決定するをみな正法を誹謗すと名づく。
 問ひていはく、かくのごとき等の計はただこれおのが事なり。衆生においてなんの苦悩ありてか五逆の重罪に踰えたるや。答へていはく、もし諸仏・菩薩の、世間・出世間の善道を説きて衆生を教化するものなくは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切の善法みな断じ、出世間の一切の賢聖みな滅しなん。なんぢただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆゑに正法を謗ずる人、その罪もつとも重し。
 問ひていはく、業道経にのたまはく、「業道は称のごとし。重きもの先づ牽く」と。『観無量寿経』(意)にのたまふがごとし。「人ありて五逆・十悪を造りもろもろの不善を具せらん。悪道に堕して多劫を経歴して無量の苦を受くべし。命終の時に臨みて、善知識の教に遇ひて、〈南無無量寿仏〉と称せん。かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足してすなはち安楽浄土に往生することを得。すなはち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて退せず。三塗のもろもろの苦と永く隔つ」と。「先づ牽く」の義、理においていかんぞ。また曠劫よりこのかた、つぶさにもろもろの行を造りて、有漏の法は三界に繋属せり。ただ十念阿弥陀仏を念じたてまつるをもつてすなはち三界を出づ。繋業の義またいかんせんと欲する。答へていはく、なんぢ五逆・十悪の繋業等を重となし、下下品の人の十念をもつて軽となして、罪のために牽かれて先づ地獄に堕して三界に繋在すべしといはば、いままさに義をもつて校量すべし。軽重の義は心に在り、縁に在り、決定に在りて、時節の久近・多少には在らず。いかんが「心に在る」。かの造罪の人はみづから虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念は善知識の方便安慰によりて実相の法を聞きて生ず。一は実なり、一は虚なり。あにあひ比ぶることを得んや。たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至らば、すなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。これを心に在りと名づく。いかんが「縁に在る」。かの造罪の人はみづから妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生によりて生ず。この十念は無上の信心に依止して、阿弥陀如来の方便荘厳真実清浄無量の功徳の名号によりて生ず。たとへば人ありて毒の箭を被りて、中るところ筋を截り骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けば、すなはち箭出で毒除こるがごとし。[『首楞厳経』(意)にのたまはく、「たとへば薬あり、名づけて滅除といふ。もし闘戦の時用ゐてもつて鼓に塗るに、鼓の声を聞けば箭出で毒除こるがごとし。菩薩摩訶薩またかくのごとし。首楞厳三昧に住してその名を聞けば、三毒の箭自然に抜け出づ」と。]あにかの箭深く毒はげしくして、鼓の音声を聞くとも、箭を抜き毒を去ることあたはずといふことを得べけんや。これを縁に在りと名づく。いかんが「決定に在る」。かの造罪の人は有後心・有間心に依止して生ず。この十念は無後心・無間心に依止して生ず。これを決定と名づく。三の義を校量するに十念は重し。重きもの先づ牽きてよく三有を出づ。両経は一義なるのみ。
 問ひていはく、いくばくの時をか名づけて一念となす。答へていはく、百一の生滅を一刹那と名づく。六十の刹那を名づけて一念となす。このなかに念といふはこの時節を取らず。ただ阿弥陀仏を憶念するをいふ。もしは総相、もしは別相、所観の縁に随ひて、心に他想なくして十念相続するを名づけて十念となす。ただ名号を称するもまたかくのごとし。
 問ひていはく、心もし他縁せば、これを摂して還らしめて念の多少を知りぬべし。ただ多少を知るともまた無間にはあらず。もし心を凝らし想を注げば、またなにによりてか念の多少を記することを得べき。答へていはく、『経』(観経)に「十念」とのたまへるは、業事成弁を明かすのみ。かならずしも頭数を知ることを須ゐず。「&M033610;蛄は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るものこれをいふのみ。十念業成とは、これまた神に通ずるものこれをいふのみ。ただ念を積み相続して他事を縁ぜざればすなはち罷みぬ。またなんぞ念の頭数を知るを須ゐることを仮らんや。もしかならずすべからく知るべくはまた方便あり。かならずすべからく口授すべし。これを筆点に題することを得ざれ。
聖典意訳
 問うていう。天親菩薩[てんじんぼさつ]回向[えこう][もん]の中に「[あまね][もろもろ]の衆生と共に 安楽国[あんらくこく]に往生せん」といわれたのは、これはどういう衆生を指すのか。
 答えていう。王舎城[おうしゃじょう]で説かれた《無量寿経[むりょうじゅきょう]》をうかがうと、「仏が阿難[あなん][おお]せられる。『十方の恒河[ごうが][すな]の数ほどの諸仏如来[しょぶつにょらい]は、みな共に無量寿仏の威神功徳[いじんくどく]の不可思議なことを讃嘆[さんたん]していられる。すべての人人は、その名号[みょうごう]のいわれを聞いて信心歓喜[しんじんかんぎ]する一念のとき、それは、仏の至心[ししん]から与えられたものであるから、浄土を願うたちどころに往生[おうじょう]すべき身に定まり、不退[ふたい]の位に入るのである。ただ五逆[ごぎゃく]の罪を犯したり、正法[しょうぼう][そし]ったりするものだけは[のぞ]かれる』」といわれるのである。この経文[きょうもん]の上から考えると、五逆・謗法[ほうぼう]以外の一切の凡夫[ぼんぶ]はみな往生できる。また《観無量寿経[かんむりょうじゅきょう]》のごときは九品[くぼん]の往生がある・すなわち「下品下生[げぼんげしょう]というのは、あるいは衆生あって、よくない業である五逆・十悪を作り、いろいろの悪業を[そな]えている。こういう愚かな人は、自分の作った悪業のゆえに、未来に悪道におちて、永い間かかって、苦を受けることが限りがない。こういう愚かな人も、命の終わるときに[のぞ]んで、善知識[ぜんぢしき]がいろいろに[なぐさ]め、尊い法を説いて、教えて念仏せしめるのに[]う。この人は、病苦にせめられて、仏を念ずるいとまがない。そこで善知識は告げて『そなたが、もし仏を念ずることができないなら、阿弥陀如来の名号[みょうごう]を称えよ』と[すす]める。このようにして、心から念仏してたえず、十念の念仏をするならば、その仏名[ぶつみょう]を称えたことによって、一念一念の中に八〇億劫[おくこう]という長い迷いの罪が除かれ、命の終わった時には、日輪[にちりん]のような金蓮華[こんれんげ]が、その人の前に現われるのを見る。しばらくの間に極楽世界[ごくらくせかい]に往生することができ、蓮華[れんげ]の中にあって十二大劫[だいこう]を満ちて後に、その蓮華が開く。これによって 五逆の罪を[つぐな]うのである 観世音[かんぜおん]大勢至[だいせいし]は大悲の音声[おんじょう]をもって広く罪をほろぼす諸法実相[しょほうじっそう]の法をお説きになる。聞き終わって大いに喜び、そのときに菩提心[ぼだいしん]を起こすのである。これを下品下生[げぼんげしょう]のものと名づける」と。この経を證拠[しょうこ]として明らかに知られる。下下品[げげぼん]凡夫[ぼんぶ]正法[しょうぼう][そし]らずに、仏を信ずることによって、みな往生できるのである。
 問うていう。《無量寿経》には「浄土の往生を願うものは、みなこれを得る。ただ、五逆罪と仏法を謗るものとを除く」と説いてある。《観無量寿経》には「五逆・十悪などいろいろの善くないしわざをそなえているのも、また往生できる」といわれている。この二つのお経の意をどう解釈すべきであろうか。
 答えていう。《大経》の方には、二種の重罪[じゅうざい][]ねているからである。一には五逆、二には仏法を謗ることである。この二種の罪があるから往生を得ぬ。《観経》は、ただ十悪・五逆などの罪を造るといって、仏法を謗るとはいわれていない。仏法を謗らないから、こういうわけで往生を得るのである。
 問うていう。たとい一人は、五逆罪を造っても、仏法を謗らないから、お経には往生を許されてあるとするならば、また別の人があって、ただ仏法を謗るだけで、五逆罪などのほかの罪を造らないものが、往生を願えば浄土の往生ができるであろうか、どうか。
 答えていう。ただ仏法を謗って、さらにほかの罪は一つなくても、かならず往生はできない。なぜこういうのかといえば、経(《大品般若経》)の中に「五逆の罪人は無間地獄の中におちて、一劫の間の重罪を受ける。仏法を謗った人は、無間地獄の中において、その一劫がつきると、また転じて他の無間地獄の中におちる。このように、百千の無間の大地獄をめぐる」と説かれてあって、仏はこの人間が、地獄を[まぬが]れる時がいつであるかを示されていない。それは、仏法を謗る罪が最も重いからである。また、正法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人間は、すでに仏法を謗っているのであるから、こういうものが浄土の往生を願うはずがない。たとい信がなくて、ただ浄土の安楽なるを聞いて、その楽しみを[むさぼ]って往生を願うものがあるとしても、あたかも、水でない氷、煙のでない火を求めるのと同様で、往生をうる[ことわり]のある筈がない。
 問うていう。どういうのを正法を誹謗するというのか。
 答えていう。もし仏もなく、仏法もなく、菩薩[ぼさつ]もなく、また菩薩の法もないという。こういうような見解をもって、あるいは自分でそういうふうに考え、あるいは他の人に教えられてそういう心になっているものを、すべて正法を誹謗すると名づける。
 問うていう。こういうような考えは、ただ自分がそう考えているだけである。他の人に対して、何の苦しみを与えるから、五逆の重罪より超えているというのであろうか。
 答えていう。もし、諸仏・菩薩のような方方が、世間の道や、また仏法の道の善い教を説いて衆生とさとされることがなかったならば、どうして仁義礼智信という世間の道があることを知ろうか。このようにしたならば、世間の一切の善い道が断たれてしまい、仏教の一切の尊い方方がなくなってしまうであろう。そなたは、ただ五逆罪が重いということを知っていて、五逆罪は、正しい法がなくなるから起こるということを知らないのである。こういうわけで、正法を誹謗する人は、その罪が最も重いのである。
 問うていう。業道[ごうどう]を説かれた教典の中に、「業の道理は[はかり]のようなものであって、重い方が先に引く」と説かれてある。《観経》には「人が五逆・十悪を作り、多くの善くないしわざをそなえるならば、まさに悪道におちて、はかり知られぬ長い間、無量の苦しみを受けねばならぬ。ところが命の終わるときに臨んで、善知識が教えて南無阿弥陀仏を称えさせてくださるのに[]うた。このように、心から念仏を称えて十念を具足[ぐそく]するならば、すなわち安楽浄土に往生し、大乗の正定聚[しょうじょうじゅ]の位に入って、ついに後戻りはしない。そこで、三途[さんず]のいろいろな苦しみとはもう[なが][へだ]たってしまう」といわれてある。そうすると、重い方が先に引くという業道の理においてはどうなるのか。また、無始[むし]よりこのかた、多くのいろいろなしわざをして来た有漏[うろ]の結果である身心は、三界[さんがい][つな]がれている。それが、わずかに十たび阿弥陀仏を念ずることによって三界を出るとするならば、業力につながれるといういわれはまたどうなるのか。
 答えていう。そなたは、この世で犯した五逆・十悪や、無始以来三界に[つな]いでいる業などを重いとして、下下品の人の十念を軽いとする。そこで、犯した罪に引かれてまず地獄におち、三界に繋がれるというならば、今まさしく義理をもって比べよう。軽い重いということは、つとめる人の心にあり、その所縁[しょえん]にあり、またそのときの心の決定[けつじょう]か不決定かにあるのであって、時の長い短い・多い少ないにかかわるのではない。その「心にある」とはどういうことかというと、かの罪を造る人は、真如にそむいた誤った考えから生ずるのである。この十念の念仏は善知識が教え慰めて、真如にかなった名号法を聞かせることから生ずるのである。一は真実であり、一は虚仮[こけ]である。どうしてこれを比較することができようか。たとえば千年の闇室[あんしつ]に、もし光がしばらくでも入れば、ただちに明るくなるようなものである。どうして、[やみ]は千年、[しつ]の中にあったのだから光が入っても去らぬということができようか。これを心にあるというのである。「所縁にある」とはどういうことかというと、かの罪を造る人は、みずから妄想[もうそう]の心により、煩悩虚妄[ぼんのうこもう]果報[かほう]である衆生を相手として起こす。この十念の念仏は、この上なき信心により、阿弥陀如来の真実のお慈悲より成就した尊い名号によって生ずるのである。たとえば、人が毒の矢を受けて、あたったところの[すじ]がきれ、骨が破れたとしても、もし滅除薬[めつじょやく]を塗った[つづみ]を聞けば、矢は抜け出て毒も除かれるようなものである。
首楞厳経[しゅりょうごんぎょう]》に「たとえば薬があって滅除[めつじょ]と名づける。もし戦の時にこれを鼓に塗っておけば、その鼓の音を聞くものは、矢が抜けて毒が除かれるように、菩薩もまたこのとおりで、首楞厳三昧[しゅりょうごんざんまい]に入って、その名を聞くものは、三毒の矢がひとりでに抜け出る」と説かれてある。
 どうして、かの矢が深く入って毒がはげしいから、鼓の音声を聞いても、矢を抜き毒を消すことができないといわれようか。これを所縁にあるというのである。「決定にある」とはどういうことかというと、かの罪を造る人は、それが平生[へいぜい]の時であるから、まだ後があるというゆっくりした考え、したがって、いろいろの間雑[けんぞう]する心によって起こす。この十念は、臨終であるから、もはや後がないという考え、したがって、専念[せんねん]の心によって起こす。これを決定にあるというのである。この三つの道理から考えると、十念の方がその力が重い。そこで、重いものがまず引いて、よくこの三界の迷いを出ることができる。こういうわけで、《観経》と業道のことを説かれた経典とのいわれは一つである。
 問うていう。どれ程の時を名づけて一念とするのであるか。
 答えていう。百一の生滅[しょうめつ]を一刹那[せつな]といい、六十刹那を名づけて一念とするのである。しかしながら、今ここに念というのは、この時間の長さをいう説を取るのではない。ただ、阿弥陀仏を憶念[おくねん]して、その全体のお相でもよく、または一部分のお相でもよいが、その[かん]ずる所縁[しょえん][したが]って心に他の思いを[まじ]えず十たび相続[そうぞく]するのを十念とするのである。ただ名号を称えることもまたこのとおりである。
 問うていう。もし心が他のことを考えるならば、その考えをもとに戻して念ずるから、何遍念じたということがわかる。しかしながら、その念の数を知れば、また間が切れて相続ではない。もし心を凝らしてそのことに想いを注ぐならば、どうして念の数を知ることができようか。
 答えていう。《観経》に十念と説かれてあるのは、ただそういう人は往生の業事が成就するということであって、必ずしもその念仏の数を知らねばならぬというのではない。たとえば[せみ]は春秋を知らない。ゆえにこの虫は夏ということも知らないのである。ただ人間がそれを知って、蝉が鳴くのは夏だけというだけである。十念によって往生の業事が成就するというのは、神通力[じんずうりき]をもっている仏がいわれるだけである。衆生においては、ただ念仏相続して他のことを考える必要がないのである。また、どうして念仏の数を知らねばならぬということがあろうか。もし、必ず数を知らねばならぬというならば、また方法がある。しかし、それは口ずからいうことであって、筆で書きしるすことはできない。

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