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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』23

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生因 三輩往生・上輩

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 23

 仏、阿難に告げたまはく、「十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じたてまつり、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らん時に臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて、今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 23

 また阿難[あなん]に仰せになる。
「すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れたいと願うものに、大きく分けて上輩[じょうはい]中輩[ちゅうはい]下輩[げはい]の三種がある。まず上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひらすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転[ふたいてん]の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力[じんずうりき]を持つ身となるのである。だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい」


 三輩の共通点

註釈版
   仏、阿難[あなん]に告げたまはく、「十方世界[じっぽうせかい]諸天[しょてん]人民[にんみん]、それ心を[いた]してかの国に生れんと[がん]ずることあらん。おほよそ三輩[さんぱい]あり。
現代語版
 また阿難[あなん]に仰せになる。
「すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れたいと願うものに、大きく分けて上輩[じょうはい]中輩[ちゅうはい]下輩[げはい]の三種がある。

 阿弥陀仏の浄土に往生することについて、前章では「仏願[ぶつがん]生起本末[しょうきほんまつ]弥陀成仏[みだじょうぶつ]のいわれ」を聞き開くことで信心歓喜が私に回施される≠ニいう内容を明らかにし、「無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである」との文を信心の総括として味わいましたが、今章から三章にわたって往生・願生の具体相を明らかにします。

十方世界[じっぽうせかい]諸天[しょてん]人民[にんみん]
(すべての世界の天人や人々で)
 これは、一切衆生を将来必ず(当来[とうらい])往生せしむる≠アとを無量寿仏が願われていますので、十方世界と呼びかけられたのでしょう。大経のこの先「釈迦指勧 十方来生」では、釈尊が十方世界無量の仏国の行者に向かって「皆当往生[かいとうおうじょう]」(みなまさに無量寿仏の浄土に往生すべし)と呼びかけられます。

<心を至してかの国に生れんと願ずることあらん>
(心から無量寿仏の国に生れたいと願うものに)
 これは前章に言う「至心に回向したまへり」ということです。私が信心歓喜するといえども無量寿仏の功徳であり、全ては本願力回向のはたらきであることを言います。

<おほよそ三輩[さんぱい]あり>
(大きく分けて上輩・中輩・下輩の三種がある)
「三輩」とありますが、ここがこれからの章の問題です。往生の具体相を三輩に分けてあらわすには分ける理由があるのです。そこでまず、三輩の共通点を明らかにし、次に三輩を分けるものは何か≠明らかにしなくてはなりません。
 三輩の共通点とは何かと言うと、三つあります
 まずは「願生」(心を至してかの国に生れんと願ずる)ということ。これは話の流れからすれば当然に共通のことなのですが、本願力回向のはたらきで浄土に生まれようと願うことです。下輩だけ「欲する」となっているのは、本願を夢物語的な驚きで受け止めているせいでしょう。願生と欲生の違いがここに出ています。
 次に、「無上菩提心[むじょうぼだいしん][おこ]す」こと。そして三つ目は「一向[いっこう]にもつぱら無量寿仏を念じたてまつる」ということです。


往生論註105 巻下/七祖篇 注釈版
 王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。
現代語版
 王舎城[おうしゃじょう]において説かれた《無量寿経[むりょうじゅきょう]》のうえを考えてみると、往生を願う上・中・下の三類の人の中で、その修行には優劣があるけれども、いずれもみな、無上菩提心[むじょうぼだいしん]すなわち他力の信心をおこさないものはない。この無上の大信心は自分が仏になろうと願う心であり、この自分が仏になろうと願う心は、そのまま衆生を済度[さいど]しようとする心である。衆生を済度しようとする心とは、衆生を[おさ]めて仏のまします浄土に生まれさせる心である。こういうわけであるから、彼の安楽浄土[あんらくじょうど]の往生を願う人は、かならず無上菩提心すなわち信心を起こさねばならぬ。もし人が、この信心をおこさずに、ただかの浄土の楽しみを受けることが絶えまのないということを聞いて、楽しみを貪るために往生を願うような者は、また往生はできぬのである。そこで、「自身の住持[じゅうじ]の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと[おも]うが故なり」といわれたのである。「住持の楽」とは、彼の安楽浄土は阿弥陀如来の本願力によってたもたれて、楽しみを受けることが絶えまがないということである。


往生要集66 巻下/七祖篇 注釈版
 二には、『双巻経』(大経・下)の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな「一向にもつぱら無量寿仏を念じたてまつれ」とのたまへり。
聖典意訳
 【念仏を往生の業としている例として】二つには、《無量寿経[むりょうじゅきょう]》の三輩[さんぱい][ごう]については、それぞれ浅深[せんじん]があるけれども、いずれにも通じて説かれている。
 一向[いっこう]にもつぱら、無量寿仏を念ぜよ。

 まず「無上菩提心[むじょうぼだいしn]」ですが、これは畢竟[ひっきょう]第十八願の三心(至心[ししn]信楽[しんぎょう]欲生[よくしょう])であり、衆生に回施された真実信心そのものです。ちなみに、無上菩提心の中に真実信心があるのではなく、真実信心の中に無上菩提心があるのでもありません。無上菩提心が真実信心であり、真実信心が無上菩提心なのです。なぜなら真実信心は衆生の意志(自力)で発こした心ではなく、全く如来の三心(他力)そのものだからです。無上菩提心でない信心は、自分の偏見や悪性を正当化しつつ発こす自力の信心でありますから、よこしまで狭量な信心であり、このような信心では真実報土に往生することが適わないのは当然でしょう。また真実信心とならない菩提心は理論上だけの菩提心であり、本当の生きてはたらく菩提心ではありません。たとえば、伝統といえども継承者のない伝統は抜け殻であるのと同様です。
(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?}

 次に「一向[いっこう]にもつぱら無量寿仏を念じたてまつる」ですが、親鸞聖人は――

『一念多念証文』15 より/注釈版
 「一心専念」(散善義四六三)といふは、「一心」は金剛の信心なり。「専念」は一向専修なり。一向は、余の善にうつらず、余の仏を念ぜず。専修は、本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修は、こころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり。もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。
現代語版
一心専念[いっしんせんねん]」というのは、「一心」とは、決して壊れることのない他力の信心のことであり、「専念」とは、一向[いっこう]専修[せんじゅ]することである。一向とは、念仏以外の善に心を移さないことであり、阿弥陀仏以外の仏を念じないことである。専修とは、本願の名号を、二心[ふたごころ]なくただひとすじに称えることである。「修」は心が定まっていない状態をととのえ直して、念仏するということである。「専」は「もっぱら」ということであり、一つということである。「もっぱら」というのは、念仏以外の善を修めたり、阿弥陀仏以外の仏に心を移したりすることがないのをいうのである。

と論じられてみえます。
 つまり、念仏以外の善に心を移さず、阿弥陀仏以外の仏を念じず、弥陀成仏のいわれを聞き開いて、万善万徳のこもった名号をひらすら褒め称えさせていただく≠ニいうことです。
 これだけ聞くとどうして念仏以外の善はだめなのだろう?∞なぜ阿弥陀仏以外の仏を念じてはいけないのか?≠ニ疑問がわく人もいるでしょう。実際、阿弥陀仏のみ一向する姿勢から浄土真宗は偏屈な宗旨だ≠ニ世間で誤解されているのではないでしょうか。この誤解に対して「決して偏屈な宗旨ではない」と反論しても、他の仏だって尊いのに弥陀一仏のみでは独善的だ。それに念仏以外の善行だって必要だし、雑善を排除したら社会は成り立たないじゃないか≠ニ批判されたら、浄土真宗の僧侶はどう応えるのでしょう。

 実は一向というのは、他の仏を排除するのではなく、一切諸仏の導きによって本仏である阿弥陀仏を忘れずに念ずる≠ニいうことなのです。私たちは諸仏のおかげで阿弥陀仏を念じることが適うのですが、諸仏は有限の機(一定の条件や資質)にしか応じませんので、諸仏に固執すると差別や排除される衆生が生まれてしまいます。そこで、諸仏を尊みながらも、それは手がかりとして、深く無限の機に報いる阿弥陀仏まで念じることが肝心なのです。念仏以外の善行を排除するのではなく、あらゆる善行の根本に念仏の大善があることを確認し、小善に固執して自他を排除したり差別することをなくすのです。

 上輩は菩提心の純粋な躍如[やくじょ]

註釈版
それ上輩[じょうはい]といふは、家を捨て欲を[]てて沙門[しゃもん]となり、菩提心[ぼだいしん][おこ]して一向[いっこう]にもつぱら無量寿仏[むりょうじゅぶつ]を念じたてまつり、もろもろの功徳[くどく][しゅ]してかの国に生れんと[がん]ぜん。
現代語版
まず上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひらすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。

 ここで三輩を分けるものは何か≠明らかにし、如来回向[にょらいえこう]の信心には差別がないことを証明します。

 まずは境遇などの外的な要因で三輩に分ける≠ニいう考え方があります。次に宗教的動機や個人的資質など内的な要因で三輩に分ける≠ニいう考え方もあります。さらには私に回施され身に満ちた浄土の功徳が広範な場に報いてはたらきを発揮する≠ニいう理解も可能です。

 つまり、先の二つはおおよそ三種の信心獲得者がいて、内的・外的要因によって往生の具体相が違う≠ニいう理解になり、そうであれば往生において差別が存在する形となります。しかし三つ目の解釈では、三種の信心獲得者がいるのではなく、一人の人間に全ての往生の相が信心として回施され、現場現場においていつでもどこでも、内的・外的要因がどうあろうとそれに寄り添って、信心の功徳は必ず具体的な相として発揮されることを明かす≠ニいう理解になります。そうであれば、往生において差別が存在しない形となります。

 実は古来より先の二つの解釈が有力であったため、三輩に差別が存在する≠ニいうことが定説となっていました。特に中国では、第十八願は浄土に生まれる最低限の資格でありこれは下輩に相当し、第十九願は最高の資格で上輩に相当、第二十願はその中間の資格で中輩に相当する、との理解が一般的でした。そこで親鸞聖人は、「また横出[おうしゅつ]あり、すなはち三輩[さんぱい]九品[くぼん]定散[じょうさん][きょう]化土[けど]懈慢[けまん]迂回[うえ]の善なり」(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末)73 横超釈)、または「如来の[]方便[ほうべん]欣慕浄土[ごんぼじょうど]善根[ぜんこん]なり」(『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本)15 三経隠顕)等と決め、「大願清浄[だいがんしょうじょう]報土[ほうど]には品位階次[ほんいかいじ]をいはず」という原則に照らし、三輩往生を方便として退けてきました。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末)73 横超釈/注釈版
 「横超断四流」(玄義分二九七)といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり。
現代語版
 さきに引いた善導大師[ぜんどうだいし]の『観経疎[かんぎょうしょ]』に「横超断四流[おうちょうだんしる]」(玄義分)といわれている。横超[おうちょう]というのは、横とは、竪超[しゅちょう]竪出[しゅしゅつ]に対し、超とは遠まわりに対する言葉である。竪超[しゅちょう]というのは聖道門[しょうどうもん]の中の大乗真実の教えである。竪出[しゅしゅつ]というのは聖道門の中の大乗方便[だいじょうほうべん]の教えであり、二乗[にじょう]・三乗の区別を立てるものであって、さとりを開くまで遠まわりしなければならない教えである。横超[おうちょう]というのは、本願が成就して、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教え、すなわち真宗である。また浄土門の中に横出[おうしゅつ]がある。それは三輩・九品[くぼん]の機が定善[じょうぜん]散善[さんぜん]を修め、方便化土[ほうべんけど]である懈慢界[けまんがい]に往生する遠まわりの善の教えである。本願によって成就された清らかな報土[ほうど]は、三輩・九品[くぼん]の別を問わない。往生すると同時に、[すみ]やかにこの上ないさとりを開くから横超というのである。
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本)5 要門釈 引文/注釈版
この願(第十九願)成就の文は、すなはち三輩の文これなり、『観経』の定散九品の文これなり。
現代語版
この第十九願の成就文[じょうじゅもん]は、『無量寿経』の三輩[さんぱい]の往生を説く文であり、また『観無量寿経』の定善[じょうぜん]散善[さんぜん]九品[くぼん]の往生を説く文である。

 しかしもし第三の解釈が可能であり、差別性を拭うことができるのであれば、三輩往生を本願力回向の功徳発揮として、品位階次ではなく、現場における浄土の功徳発揮の広範性として見直すことも可能となるでしょう。

 つまり、阿弥陀仏の肝心要[かんじんかなめ]は本願力回向の三心であり、これは身近な言葉で言えばまごころ≠ナあります。如来のまごころが具体的に働き出すと無上菩提心≠ニなり、一切衆生に聞法精神を見出すことができたのです(参照:{声聞無量の願})。これは三輩のすべてはもちろん、『観経』に説かれる下品下生でさえ見出される衆生の機ですが、この機に如来の全功徳が注ぎ込まれ、いよいよ真実信心として成就するのが第十八願・至心信楽の願です。しかしこれはあらゆる機を包括[ほうかつ]していますので具体的な相はありません。
 第十八願が具体的な展開を示すのは第十九願・第二十願でありますが、親鸞聖人在世当時の学問では、第十八願を通さずに第十九願・第二十願を実践していましたので、聖人はこの二つの願は表向きは自力の願であると解釈されました。しかし経典の流れを素直に読めば、第十八願を踏まえて後にその具体的展開として第十九願・第二十願を説かれた、という解釈も可能でしょう(参照:{三願転入と展開})。そうであれば、三輩も異方便ではなく本願展開の具体相と見ることが可能となります。

 形それ自体は確かに本質ではないでしょう。しかし本質も形をとらなければ本質の発揮はあり得ません。本願力回向の信心も、それ自体は形はなくとも、生活の中に、人生の中に、生き方という形を取らねば発揮がありません。生活に発揮されない信心は観念論に留まってしまいます。形を取るというのは、人間の機に報いるということです。人間の生き方には時代や環境の違いから千差万別の相がありますので、信心の発揮にも千差万別の相が生まれます。本質は一つでもその発揮は無限の相を生むのです。これを大きく三種に分けたものが三輩往生でありましょう。三輩を示すことにより、真実信心が、どのような人間にも、どのような時代・環境にもはたらくことを証明しているのです。肝心要めは本願のまごころ。これがあらゆる人間のあらゆる状況に報いて必ず発揮がある、ということを代表して三輩の具体相を示すのでしょう。

 以上の解釈をもって上輩を読み解いていきますと、三輩に共通する「無上菩提心」が純粋な形で躍如[やくじょ]していることが読み取れます。
 つまり――以前は他人のことなど眼中になく、一にも二にも自分が大事、我が家が大事。それも金銭欲や名誉欲を叶えることに終始し、自分に都合の悪いことが起これば怒ったり落胆し、物事の真偽を問わず道理に暗い毎日だった。しかし、弥陀成仏のいわれを聞き開く機会がおとずれ、自分は今まで何をしていたのか≠ニ悔やみ、回施された「上求菩提[じょうぐぼだい] 下化衆生[げけしゅじょう]」の無上菩提心に依って一念発起し、煩悩に支配されていた家の呪縛を捨て、仏の大道に集う一切衆生の家を打ち建て、衆生を教化しつつそれを自らの敬虔な修行とする。――もろもろの功徳を修するというのは、こうした一番難しい人間関係において、根本の無量寿仏を念じ、真心の浄土に生まれることを願いつつ、自他がお育ていただくことを言うのでしょう。
 なお浄土教においての出家は出出世間(参照:{荘厳水功徳成就「#浄土建設の精神」})であり、荷物をまとめて家を出るのではなく、家に居ようが居まいが、結婚しようがしまいが、自家第一主義の呪縛から開放されることを言います。そして上輩の人間は、浄土のまごころによって自分自身をつくりかえ、広く環境を創造してゆくのです。

 この世で無量寿仏を見るとは?

註釈版
これらの衆生、寿[いのち]終らん時に[のぞ]んで、無量寿仏は、もろもろの大衆[だいしゅ]とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に[したが]ひてその国に往生す。すなはち七宝[しっぽう][はな]のなかより自然[じねん]化生[けしょう]して不退転[ふたいてん]に住せん。智慧勇猛[ちえゆうみょう]にして神通自在[じんずうじざい]ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて、今世[こんぜ]において無量寿仏を見たてまつらんと[おも]はば、無上菩提[むじょうぼだい]の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし」と。
現代語版
このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転[ふたいてん]の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力[じんずうりき]を持つ身となるのである。だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい」

 この箇所は<寿[いのち]終らん時に[のぞ]んで>をどう解釈するかによって意味が大きく異なります。現代語版では「命を終えようとするとき」と訳していますが、「寿」と「命」は違います。ですから「臨寿終時」は単に死ぬ間際[まぎわ]になって≠ニいう意味ではありません。人生総括の臨終を念じながら三昧[ざんまい]と日常の無碍[むげ]一体≠象徴しているのです。身は宿業を背負いつつ仏地に樹てた心で日々を歩む、こうした穢土と浄土より生え抜いた手が合わさった臨界点を「寿終らん時に臨んで」と言うのでしょう。先師は「現に今心の深い所に動いているまごころの菩提心が、重い宿業の底を潜って出てきた、涙の言葉です」と仰いました。
 つまり、臨終になればこうしたことが適う≠ニいう単純な言葉ではありません。その本意を察すれば――せっかく浄土の縁をいただきながら、宿業に呪縛されてお恥ずかしい限りの毎日で、浄土の眷属方々にあわせる顔がありません。しかし日々ひらすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、浄土に生れたいと願っております。皆様お待ち下さい。せめて死ぬ間際までには皆様に褒めていただけるような私になりたいと願っております≠ニいうような殊勝な心がけを言うのでしょう。

<無量寿仏は、もろもろの大衆[だいしゅ]とともにその人の前に現れたまふ>
(無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる)
 先ほども触れましたが、上輩は弥陀果徳・眷属荘厳を純粋に表出していますので、浄土の徳分そのものの体現となっています。「無量寿仏は、もろもろの大衆[だいしゅ]とともにその人の前に現れたまふ」とは、無量寿仏と大衆とが別に存在しているわけではないことを言います。凡夫も上輩者もその肉眼に映る相手は大衆しかいません。ところが上輩者にとっては出あう相手ひとり一人の身の上に仏の顕現を見、大衆を十方恒沙[じっぽうごうじゃ]の諸仏如来と拝む中で無量寿仏を観じることが適うのです。もちろん無量寿仏と大衆は同じではありませんが、上輩では無量寿仏が大衆であり、大衆が無量寿仏であると受け取ることが適うのです。
{弥陀果徳 華光出仏}で言えば、無量寿仏が「三十六百千億の仏」として衆生の生きる現場に至りとどき、仏の功徳はそのまま行者の身に満ち、[あやま]ち倒れそうになる行者を背後より目覚めさせ、願生の歩みを継続せしむるのです。このことが体解できれば、浄土への導きは大衆と成り切られた無量寿仏でありますから、これはもう日々何も心配がなく、日常がそのまま浄土の歩みとなるのです。

<すなはちかの仏に[したが]ひてその国に往生す。すなはち七宝[しっぽう][はな]のなかより自然[じねん]化生[けしょう]して不退転[ふたいてん]に住せん。智慧勇猛[ちえゆうみょう]にして神通自在[じんずうじざい]ならん>
(そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転[ふたいてん]の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力[じんずうりき]を持つ身となるのである)
 上輩では宿業を背負って歩む十方恒沙の諸仏如来はそのまま無量寿仏でありますから、日々の生活がそのまま浄土の功徳体現の場となります。すると自ずと、穢土の泥田に[まみ]れた生活から、仏宝まごころの蓮華を土台として生まれかわることが適い、すぐに正しい人生観が得られ、求道の志は留まることがありませんので、仏道を成就し人生を成就することは必然として適うわけです。
 たとえば『職人日用』には――

後世を願うというは、我が身を信ずるを本意とす。まこと成仏を願う人ならば、ただ自身を信ずべし。自身を信ずるというは、自身すなわち仏なれば、仏の心を信ずべし。仏に欲心なし、仏の心に瞋恚なし、仏の心に愚痴なし、仏の心に生死なし、仏の心に是非なし、仏の心に煩悩なし、仏の心に悪事なし。
と記されてありますが、これは上輩往生のありさまをいいます。浄土の徳分としてだけ言えば、一切衆生にこの功徳が真実信心として回施されているのです。しかし時代性や業の深さから、自分は純粋に信心の徳が表出できないため、「自身すなわち仏」などとはとてもおこがましくて言えません。むしろ自分の姿を慚愧・懺悔させていただき、願生の思いを新たにするのであります。
 ちなみに「蓮華」は高原や清水には咲かず、泥田にこそ咲く華であり、これが浄土を象徴する華となっているのは、煩悩の肥料が豊富に施された世間という畑で仏法が生長することをあらわしています。
[たと]えば高原の陸地に蓮華は生ぜず、卑湿淤泥[ひしつおでい][すなわ][]の華は生ずるがごとし
『維摩経』

たとえば臭泥[しゅうでい]の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華を[]りて、臭泥を取ることなかれ。
(鳩摩羅什)

 大まかに言えば、泥田は穢土[えど]を象徴し、蓮華は浄土を象徴しています。つまり、泥田に蓮華が咲くように、穢土の煩悩を養分としながら浄土にまごころの華を咲かせることが往生なのです。したがって、穢土がなければ浄土はありません。また浄土がなければ穢土はただ汚いだけで、現実に生きる意味を見出すことはできません。現実社会は穢土と浄土が表裏一体となって成り立っているのです。ただ、穢土の煩悩を養分とする≠ニいっても、煩悩をそのまま肯定して採るのではありません。穢土に根を張って生きながら穢土の泥田に埋没することなく、美しい人生の華を咲かせることが願生の利益なのです。

私の住んでいるところは
穢土というて
煩悩がからみ合うているが
春がきたら
花が咲く
(榎本栄一)

 なお「化生[けしょう]」というのは、浄土の蓮華の[うてな]に場が与えられるだけでなく、場の尊さが解かって頭が下がり、場の尊さによってお育ていただく身となるということです。これに比べ「胎生[たいしょう]」は、場は与えられても場の尊さが解らないので、お育ていただく身となることが極めて難しいのです。胎生については『仏説無量寿経』(42釈迦指勧 胎化得失)において学びますが、親鸞聖人は――

本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる
『正像末和讃』69誡疑讃

と詠まれ、含花未出[がんけみしゅつ]には「はなにふくまるるなり」(異本左訓)と蓮華の花につつまれて出られないこと≠いましめてみえます。
(参照:{「蓮莟を模す」の間違い}
 ちなみに衆生が「往生を願う」ということも、衆生個人の決断に依るのではありません。仏徳が成就した果報として衆生は仏徳讃嘆を果たし「生まれんと願う」ことが適うのです。いずれも法蔵菩薩の願力と阿弥陀仏の仏力の果報ですから、最終的には一切衆生はみな安楽国土に願生し(皆得往生)、みな正定聚不退転の菩薩と成り、みな自らの国の主となって国土荘厳にいそしむことが適うのです。

<このゆゑに阿難、それ衆生ありて、今世[こんぜ]において無量寿仏を見たてまつらんと[おも]はば、無上菩提[むじょうぼだい]の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし>
(だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい)
 上輩の願生者は「今世[こんぜ]において無量寿仏を見たてまつらん」、つまりこの世で無量寿仏を見たてまつりたい≠ニいう希望が適うのです。無量寿仏を直接拝むことが適うとはどういうことでしょう。仏像のように目の前に無量寿仏がお立ちになられるのでしょうか。
 実はそうではありません。上輩者は、生きて生活するその時その時において、目の前に展開する事柄一切、出会う相手ひとり一人に、「仏願[ぶつがん]生起本末[しょうきほんまつ]弥陀成仏[みだじょうぶつ]のいわれ」を観じることができる、ということを言うのです。無量寿仏を見たてまつるというのは、身に受けた無上菩提心の歴史的経緯と展開の成果を全身で認識する≠ニいうことに他なりません。

 このことを身近な例で譬えてみると、一つの国を見るについて、その国に生まれ住んでいながらどういう法律やシステムで国が動いているか解らない人もいるでしょう。また、現在の体制は解っても国の歴史的な経緯を知らない人もいるでしょう。しかし中には、国の歴史的な成り立ちから、先祖代々国民の苦難や努力を知り、彼等の血と汗と涙を自分の身に引き受けて生きている人もいるでしょう。最後の例に挙げた人は、道を歩くにしても、人々と言葉を交わして仕事をするにしても、日々の暮らしの一々に国の歴史や伝統を感じることが適います。上輩者は、「修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひらすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願う」ので、如来回向の功徳が行者の身に満ちていますから、日々の日暮しの中でも、出会う相手ごとに無量寿仏の御苦労を見たてまつることが適い、願生の志が一生にわたって継続されてゆくのです。

 資料

十八願というのは原理である。今の三輩あるということは、具体的人間の生活の上に原理、原理という言葉は悪いですが、まことそのものと言いましょうか。まことそのものが具体的に、人間の上に働くときに、それが三輩という形を取るのだと、こう思うのであります。
<中略>
表面を見れば、家を捨て欲を捨てと書いておるけれども、実は心を捨てたの。そうすれば何かというと、心を捨てたと、今の法蔵菩薩の心からもう一遍見るならば、これは何かというと、第一に上輩は人格そのもの。なんぼお金があっても財産があっても、人間そのものが立派にならんと本当のものではないと、こう思うて、だから自分自身が「立派な人間になりたい、立派な人間になりたい」とこういう人のことを上輩と、こう言うのだろうと。  そうすると、十九願がそうなってきましょう。十八願において信心決定した人が、不可称不可説不可思議の功徳。そのもろもろの功徳が、修諸功徳でありますから、もろもろの不可称不可説不可思議の功徳を修するので。身に付くこと。だから、人格そのものを立派にしていこうというのが上輩だと、こう受け取ればいいわけであります。
<中略>
 この「上輩」というのは何かといいますと、家を捨て国を捨て欲を捨てて沙門となる。これは出家です。坊さんになって出家して、そして今度はどうかというと、この人は自分自身を立派にしたいのです。「修諸功徳」といいますから、そういう自分自身が「修諸」もろもろの功徳。不可称不可説不可思議の功徳を身に付けること。だから、私そのものが立派になること。そういう修行をするのです。  そういう修行をすれば、そこで何かというと、これは今までは皆、十九願だとこう言いましょう。ところが、同じ十九願と言うても、親鸞聖人のおっしゃる十九願というのと、今までの学者の言う十九願はどうも違うらしい。
<中略>
 そこで、菩提心とは「上求菩提、下化衆生」で、お念仏の中には二通りあるのです。何かというと、いつでもこれは自分が置かれた場所的自覚だから、「私は親だった」と「私は人間だった」と眼が覚めるのです。人間なら一人ではない。私の周囲があるのです。そうすると、私が立派な人間になろうと思うたら、私一人立派になることはできないのです。周囲の人が認めてくれないといけないのです。いつも申しますように、評判にならなくてはいけないのです。
<中略>
 ところが、親鸞聖人は本願を憶念するの、本願力に乗ずるのです。そうすると、まことのいい年寄りになろうと思えば、もうひとりでに仏の本願を憶念せずにおれなくなるのです。行き詰まるから。だから、自然にそうなりましょう。それが働くのです。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

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