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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』25

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 衆生往生因 三輩往生・下輩

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 25

 仏、阿難に告げたまはく、「それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 25

 さらに続けて仰せになる。
「次に下輩[げはい]のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩[ちゅうはい]のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」


 本願力回向の信心が一生相続

註釈版
 仏、阿難[あなん]に告げたまはく、「それ下輩[げはい]といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと[ほっ]することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提[むじょうぼだい]の心を発して一向[いっこう]に意をもつぱらにして、乃至十念[ないしじゅうねん]無量寿仏[むりょうじゅぶつ]を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。
現代語版
 さらに続けて仰せになる。
「次に下輩[げはい]のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。

 今回は三輩[さんぱい]の最後「下輩[げはい]」について学びます。前回・前々回と重なりますが三輩の共通点を述べますと、まずは「願生」(心を至してかの国に生れんと願ずる)で、私が浄土に生まれようと願う≠アと。次に「無上菩提心[むじょうぼだいしん][おこ]す」こと。そして第三は「一向[いっこう]にもつぱら無量寿仏を念じたてまつる」ということです。これら共通点が生じた訳は、全てが本願力回向のはたらきによるものである≠アとです。行者個人の理性や意思で起こすものではありませんから共通しているのです。そしてこの本願力回向のはたらきこそ法灯明の依りどころそのものであり、このはたらきによって成就した真実信心が自灯明の依りどころなのです。
 一方、三輩に相違点が生じるのは全て内外の業縁によるものです。私に回施される浄土の功徳・智慧は同じですが、発揮の様相は異なってきます。つまり、心を至して無量寿国に生れんと願ずる一切衆生に上輩・中輩・下輩全ての功徳が回向されるのですが、衆生の側の時機に応じて三輩のうちのどれかが表出され、生活の現場で実を結ぶのです。このように現場現場で信心が形をとって成就してくるのでありますから、逆に言えば、形をとり現場において成就しない信心は真実信心ではないのです。
 その中で上輩は、修諸功徳[しゅしょくどく](もろもろの不可称不可説不可思議の功徳を修すること)で浄土の功徳が身に付き、人格そのものが立派になり、世界中の人々がその人徳になびく、という発揮。中輩は、真実信心の催しが恭敬供養[くぎょうくよう]・慈善活動として発揮され我執が破れていきます。
 すると下輩はどういう有様かというと、純粋に修諸功徳をしたいとは思うが存分に行うことはできず、また衆生の助けとなる援助もしたいが我執が強くて充分にできない。何と自分は愚かな情けない人間か≠ニ嘆いていると、他のことは中途半端にしかできませんがせめて念仏させていただこう=A本願力回向のはたらきを讃嘆させていただきます≠ニいう、最後の要めのところが出てくるのです。

 ところで、下輩の文言を読んでみますと少し複雑な構造になっていることが解ります。つまり、「無上菩提[むじょうぼだい]の心を[おこ]して」と「至誠心[しじょうしん]をもつて」、「乃至十念[ないしじゅうねん]」と「乃至一念[ないしいちねん]」、「無量寿仏を念じたてまつりて」と「かの仏を念じたてまつりて」、「その国に生れんと願ずべし」と「その国に生れんと願ぜん」というように、微妙に表現を変えて二重に説かれているのです。なぜこんな複雑な構造をしているのでしょうか。
 実は理由は簡単なことで、下輩は一種ではなく二種あることを示しているのです。つまり、「まさに無上菩提[むじょうぼだい]の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念[ないしじゅうねん]無量寿仏[むりょうじゅぶつ]を念じたてまつりて」という面と、「深法[じんぽう]を聞きて歓喜信楽[かんぎしんぎょう]疑惑[ぎわく][しょう]ぜずして、乃至一念[ないしいちねん]、かの仏を念じたてまつりて、至誠心[しじょうしん]をもつてその国に生れんと[がん]ぜん」という面の二種が存在しているのです。ですから、「若聞深法[にゃくもんじんぽう]」は「もし深法を聞きて」ではなく「もしくは深法を聞きて」と読み下し、「あるいは奥深い教えを聞いて」と現代語訳するのが妥当で、これは『仏説阿弥陀経』でも「若一日 若二日 若三日」を「もしは一日、もしは二日、もしは三日」と読み下し、「あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日」と現代語訳していることと同じです。

 すると、この二種は同一人物か別人か?≠ニいう大問題が生じるわけですが、ひとまず別の人物≠ニいう解釈で話を進め、最後にもう一度この問題を考察し直したいと思います。

 では下輩前半の人の特徴は何かというと、まずは「一向に意をもつぱらにして」(ひたすら心を一つにして)ということです。これは上輩・中輩と共通していますが、下輩後半にはありません。また「乃至十念」というところ、現代語版では「わずか十回ほどでも無量寿仏を念じて」と訳してありますが、本当は{至心信楽の願}にもありますように、「念」は信念(チッタ)であり、至心・信楽・欲生を一念と見て、乃至十念は、十は満数で、回向された一念が一生相続して行く相(憶念[おくねん])を誓われたもの≠ナすから、ここでも「信心の相続してゆく相」を現わしていると見るべきでしょう。島田幸昭師の洞察や加藤仏眼師の梵語研究の成果を蔑ろにしてはなりません。

 このように、本願力回向の功徳が我が身に至り、ひたすら真実信心を依りどころにして、真実の願いに開かれた人生へ生まれ変わりたいと願う、この回向された念を一生相続していくことが下輩前半の特徴です。

 たった一度でも

註釈版
もし(もしくは)深法[じんぽう]を聞きて歓喜信楽[かんぎしんぎょう]疑惑[ぎわく][しょう]ぜずして、乃至一念[ないしいちねん]、かの仏を念じたてまつりて、至誠心[しじょうしん]をもつてその国に生れんと[がん]ぜん。
現代語版
もし(あるいは)奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら

 下輩の後半は、本願力回向の真実信心が我が身に至り届いていながら、歓喜するのはほんの一瞬で、生活に追われて仏事は後回しになり、信心を一生保つことさえできない人間の往生が説かれます。わがまま横着の極みと言えますが、おそらく世の中の大半の人間はこの範疇[はんちゅう]に入るのではないでしょうか。
 私自身、様々な仏縁によってつねに称名念仏させていただいておりますが、油断すれば一瞬にして「十悪[じゅうあく]五逆[ごぎゃく]四重[しじゅう]謗法[ほうぼう]闡提[せんだい]破戒[はかい]破見[はけん]等の罪を造りて、いまだ除尽[じょじん]することあたはず」という宿業が騒ぎだし、せっかくの仏縁も台無しにしてしまいがちです。そしてその度ごとに、我が身に満ちてはたらく無量寿仏(阿弥陀仏)の催しに気付かされ、懺悔とともに願生の念を新たにさせていただくのです。

深法[じんぽう]を聞きて歓喜信楽[かんぎしんぎょう]疑惑[ぎわく][しょう]ぜずして>
(もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず)

 これは聞法の成就をいいます。何度も言うようですが、私が聞法するということもあくまで本願力回向の[もよおし]しで、この催しによって無明・我執が砕かれる、その現れとして三輩が出現するのです。実際には上輩の修諸功徳であったり、中輩の様々な寄進であったり、下輩の称名念仏は浄土より回施された功徳であり、回施された内容が行者の身の上において発揮されてくるのです。またこれら三輩の功徳は別々に届けられるのではありません。ひとり一人に全ての功徳が回施されるのです。つまり三輩全ての腹底には、
{声聞無量の願}で見出された「聞法精神」が浄土という形をとって成就し、機に応じて形をとり、身に満ち場を得て躍動しているのです。

 ですから下輩の人も修諸功徳や様々な寄進と無縁ではなく、上輩の人も様々な寄進や称名念仏と無縁ではありません。しかし自分はどういう人間であるかを知る必要はあり、それによって自分ににふさわしい方法が見つかり、効率的に成果を得ることができるのです。

行者[ぎょうじゃ]まさに知るべし。もし[][がく]せんと[ほっ]せば、[ぼん]より[しょう]に至り、すなはち仏果[ぶっか]に至るまで、一切[さわり]なくみな学することを得ん。もし行を学せんと欲せば、かならず有縁[うえん]の法によれ。[すこ]しき功労[くろう][もち]ゐるに多く[やく][]ればなり。
『観経疏』散善義10
(行者よ、よく知るがよい。もしさとりについてただ学ぶだけなら、凡夫の法から聖者の法、さらに仏のさとりにいたるまで、どの教えでも学ぶことができる。しかし、実際に行を修めようと思うなら、必ず自分にふさわしい法によるべきである。なぜなら、少しの力で多くの利益を得るからである)

乃至一念[ないしいちねん]、かの仏を念じたてまつりて>
(わずか一回でも無量寿仏を念じ)

 前半の乃至十念と異なり、信心を一生相続することは保証できないが、一度でも本願力回向の催しに触れ、無量寿仏を念じるならば、ということです。こう聞くと、一度で充分ならばさっさと念仏を済ませて、後は好き放題に生きれば良い≠ニ考えがちです。しかしこれは屁理屈で、一度でも本当に本願力回向の催しに触れた者は、聞法精神が発動して止まず、念仏がその胸から消えることはありません。このように、おのずと信心は一生相続してゆくもので、浄土の徳分から言えば「乃至十念」なのですが、私自身を語る場合は敬虔な態度で「乃至一念」と述べざるを得ないのです。
 ただし、先の{十一・十七・十八願成就} では、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり」と信心の現場が説かれ、さらに親鸞聖人は、「一念」を「信心二心[しんじんにしん]なきがゆゑに」と積極的に解釈し、浄土に生まれる真実の因であると肯定されてみえます。

 しかるに『経』(大経・下)に「[もん]」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心[ぎしん]あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向[ほんがんりきえこう]の信心なり。「歓喜[かんぎ]」といふは、身心[しんしん]悦予[えつよ][あらわ]すの[かおばせ]なり。「乃至[ないし]」といふは、多少を[せっ]するの[ことば]なり。「一念」といふは、信心二心[しんじんにしん]なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土[しょうじょうほうど]真因[しんいん]なり。金剛[こんごう]真心[しんしん]獲得[ぎゃくとく]すれば、[おう]五趣八難[ごしゅはちなん][どう]を超え、かならず現生[げんしょう]に十種の[やく][]
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末)65 信一念釈より
現代語版:ところで、『無量寿経[むりょうじゅきょう]』に「[もん]」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末[しょうきほんまつ]を聞いて疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。「歓喜[かんぎ]」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至[ないし]」というのは、多いのも少ないのも[]ねおさめる言葉である。「一念」というのは、信心は二心[ふたごころ]がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなはち清らかな報土[ほうど]に生まれるまことの因である。
 金剛の信心を得たなら、他力によって速やかに五趣趣[ごあくしゅ]八難処[はちなんじょ]という迷いの世界をめぐり続ける世間の道を超え出て、この世において、必ず十種の利益[りやく]を得させていただくのである。

 このように「一念」を積極的に評価することは尊いことなのですが、先に「十念」とあって並び称される場合は、一念を敬虔な態度をともなった信心≠ニ解釈した方が良いのではないでしょうか。

至誠心[しじょうしん]をもつてその国に生れんと[がん]ぜん>
(まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら)

 前半は「無上菩提[むじょうぼだい]の心を発して」と説かれてありますが、後半は至誠心です。「至誠心」も「無上菩提心」も本質的には如来他力の真実心ですが、「至誠心」は三因仏性(引出仏性・了因仏性・生因仏性)のうちの引出仏性の段階を指し、限りなく殻を破って真実を明らかにする心は「無上菩提心」と表現します。どちらも真実心に違いありませんが、わざわざ言葉を変えて表現してあるのは、至り届いた真実心の発揮どころに深さの違いがあるからです。「至誠心」は初期段階、「無上菩提心」は全体を指す、と解釈できるでしょう。
 これを{至心信楽の願}で鑑みれば、「至誠心」は真実誠種[しんじつじょうしゅ]の心(至心)で、至心を体としてさらに深い真実誠満[しんじつじょうまん]の心(信楽)が生じ、信楽を体として創造的な願楽覚知[がんぎょうかくち]の心(欲生)が生まれます。ですから「至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん」ということは、具体的には、如来回向の真実心が回施され、聞法精神が発動し始めたため、自分自身の身心の有様を見ることが適い、私は何と愚かで浅はかな人間だろう。悪道に染まり嘘偽りのばかりの人生ではなかったか≠ニ慚愧[ざんき]されること。同時に、この慚愧によって清浄なる真実心が私はじめ全ての衆生に回施され続けていることを知るのです。
 しかし至誠心はまだ理想主義を抜け出ておりませんので、法が私の生活の現場にまで至り届いていることに気付かず、時として自己否定に陥る危険をはらんでいます。

至心は自己の真実の在り方を求める心ですが、まだ即自的で、自己が何ものか、自己の置かれている場所が自覚されていません。それが信楽になりますと、自己が場所的に自覚されて、わしは人間である。先祖によって産み出され、先祖の歴史を背負い、人間として深い願いを血の中に宿している自分であると、自己が置かれている歴史的世界が見えてきます。また欲生心はさらに、全人類がそこに置かれている運命共同体としての世界が、自己の内に自覚され、世界が自己を呼びさますという形で、菩提心が働いてくるのです。
島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』より

 このように至誠心(至心)はまだ未熟な心ですが、本願力回向の真実心である以上、時を経ずして信楽に深まり、欲生と展開することは必須ですから、「至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん」ということが往生の真因であることは疑いのないことです。

 無量寿仏はどこまでも私を離れない

註釈版
この人、終りに[のぞ]んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を[]。功徳・智慧は、次いで中輩[ちゅうはい]のもののごとくならん」と。
現代語版
命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩[ちゅうはい]のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

<この人、終りに臨んで>
(命を終えようとするとき、このものは)

 これは、
上輩中輩で述べましたように、浄土の菩提心を回施されながら宿業に束縛された我が身を懺悔[さんげ]した言葉であります。そして下輩の本意を察すれば――せっかく浄土の縁をいただきながら、宿業に呪縛されてお恥ずかしい限りの毎日で、浄土の眷属方々にあわせる顔がありません。私はせっかくの仏縁を喜ばず、仏を仏とも思わぬありさまでしたので、さまざまな功徳を積むことは適いませんし、寄進により恭敬供養[くぎょうくよう]の功徳を修めさせていただくこともできません。しかし本願の[もよお]しにより無量寿仏を念じ、浄土に生れたいと願うことが適いました。皆様お待ち下さい。せめて死ぬ間際までには無量寿仏を仰ぎ見ることができる私になりたいと願っております≠ニいうよう心がけを言うのでしょう。

<夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を[]
(夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ)

往生[おうじょう]」は、煩悩[ぼんのう][しば]られ三悪道[さんまくどう]の業に閉じた人生から、真実の願いに開かれた人生へ生まれ変わること≠いいます。「凡夫往生[ぼんぶおうじょう]得否[とくふ]乃至一念発起[ないしいちねんぽっき]時分[じぶん]なり」(改邪鈔15)とありますように、往生の[かなめ]即得往生[そくとくおうじょう](参照:{十一・十七・十八願成就 })ですが、『大経』はこれに続いて上輩中輩・下輩の当得往生[とうとくおうじょう](臨終における往生)が説かれているので、この往相を三章にわたって解釈させていただいているわけです。
 もちろんこれには大切な意味があり、一念発起[いちねんぽっき][かなめ]である信心が一生をかけて臨終までどのように展開するのか、ということを三種に分けて説かれるのです。物事には一瞬で決する問題もあれば、長時間かけて熟成させる課題もあります。親鸞聖人は後者のことを『顕浄土真実教行証文類』(信文類三(本)36 三一問答 法義釈 信楽釈)に「[しん][どう][もと]とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法[ぜんぽう]長養[ちょうよう]す」云々[うんぬん]と『華厳経』(賢首品・唐訳)を引いて論じてみえます。
 臨終往生の問題は、人生全てを総括した内容、それも無量寿仏や大衆とどう関わってきたかを問います。もちろん、充実した一生全体を振り返ってみれば、あの時があったからこそ≠ニいう肝心要が「乃至一念発起[ないしいちねんぽっき]時分[じぶん]」ですから、浄土真宗教学では盛んに「一念発起入正定之聚[いちねんぽっきにゅうしょうじょうしじゅ]」を論じるのですが、この「出遇い」同様「一生の関わり」も大切であることは言うまでもないでしょう。これが三輩で論じられているのです。

 さて、下輩者も中輩者も上輩者もその肉眼に映る相手は大衆しかいません。この大衆は無量寿仏と同じではありませんが、大衆の他に無量寿仏が存在しているわけでもありません。永劫[ようごう][いにしえ]より大衆とともにあって、ひとり一人刹那[せつな]刹那の業に寄り添い、清浄[しょうじょう]荘厳[しょうごん]の歴史を重ね続ける存在を無量寿仏等と[たた]えさせていただくのです。ですから上輩者にとっては無量寿仏が大衆であり、大衆が無量寿仏であると受領することが適うのですが、中輩者は「化現したまふ」(化身のお姿を現してくださる)、下輩者は「夢のごとくにかの仏を見たてまつりて」(夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て)と縁を結ぶのです。
 しかし下輩者は、上輩者のように出あう相手ひとり一人の身の上に仏の顕現[けんげん]を見≠スり大衆を十方恒沙[じっぽうごうじゃ]の諸仏如来と拝む中で無量寿仏を観じる≠アとはできず、また中輩者のように如来回向の菩提心と寄進のおかげで、大衆を無量寿仏の化身として敬う≠アとも適いません。下輩者は、出会う相手を鬼や邪魔者と決めつけ、悪いことはみな大衆のせいにし自分を正当化してきた、その悪い癖が身心にこびりついたままになっているのです。
 そのため、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」という聞法が成就し信心獲得が適っても、自分に都合が悪い縁が重なると、目の前の相手を信じ親しむことができなくなってしまいます。それどころか、時として相手を疫病神[やくびょうがみ]仇敵[きゅうてき]としてしか見ることができなくなり、御同朋[おんどうぼう]は理屈だけで、絵に描いた餅のようにしか味わうことができず、親しみは夢幻のように消えてしまいます。臨終の際も、後顧[こうこ][うれ]い無く色々あったけれど、皆さん本当にありがとう≠ニ感謝の念で最期を迎えることができるかどうか、精一杯生き切ることができて、ご先祖様方々にも迎え入れられる私になりました≠ニ先人たちに胸を張って遇うことができるかどうか[はなはだ]だ疑問をかかえて生きている、というのが下輩者の有様です。

 ですから下輩者臨終の際には、上輩や中輩にあった「もろもろの大衆とともに」という確約はなく、無量寿仏だけを「夢のごとくにかの仏を見たてまつりて」いる場合もあるのでしょう。ひとり一人の人間関係や死に際は千差万別ですが、無量寿仏だけは絶対に私を離れないのです。

<功徳・智慧は、次いで中輩[ちゅうはい]のもののごとくならん>
中輩[ちゅうはい]のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである)

「次いで中輩のもののごとく」とは、たとえば、下輩者の仰ぎ見る仏は化身でありますが、同じ化身でも中輩者の受領する化身は「光明・相好はつぶさに真仏のごとし」と内容的には真実報身と同様なのに比べ、下輩者にはそのようなお墨付きは付されておりません。仏を受領する際に自分勝手な受け取り方をしたり、自力の癖を残した領解のまま過ごす可能性がありますので「夢のごとくにかの仏を見たてまつりて」と説かれているのでしょう。
 しかしそれでも、仏法に親しむことが適い、浄土に生まれることを願って称名念仏させていただく≠アと、この根本はまぎれもなく本願力回向の催しなのであり、如来より回施された計り知れぬ大きなはたらきですから、本来的には上輩と変らぬ功徳・智慧であり、下輩者も仏教理解の内容はともかく、必ず浄土に往生することは疑いをはさむ余地もありません。

 最後に下輩の二種は同一人物か別人か?≠ニいう問題を解かねばなりません。つまり、「まさに無上菩提[むじょうぼだい]の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念[ないしじゅうねん]無量寿仏[むりょうじゅぶつ]を念じたてまつりて」という人と、「深法[じんぽう]を聞きて歓喜信楽[かんぎしんぎょう]疑惑[ぎわく][しょう]ぜずして、乃至一念[ないしいちねん]、かの仏を念じたてまつりて、至誠心[しじょうしん]をもつてその国に生れんと[がん]ぜん」という二種は、同一人物として成立するか別人か、という問題です。ここまでは別人という想定で解釈を進めてきましたが、実は同一人物である、という解釈も成立することを以下に示します。
 それは、{人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか?}にも引きましたが、「随自意説[ずいじいせつ]」と「随他意説[ずいたいせつ]」の差と解釈できるのです。詳細は略しますが、同じ下輩を説く時、仏が仏の立場に立って説く随自意説の場合は「まさに無上菩提[むじょうぼだい]の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念[ないしじゅうねん]無量寿仏[むりょうじゅぶつ]を念じたてまつりて」と褒めるのですが、仏が下輩者本人の立場に立って説く随他意説の場合は「深法[じんぽう]を聞きて歓喜信楽[かんぎしんぎょう]疑惑[ぎわく][しょう]ぜずして、乃至一念[ないしいちねん]、かの仏を念じたてまつりて、至誠心[しじょうしん]をもつてその国に生れんと[がん]ぜん」となる。このように解釈すれば、仏のお褒めの言葉を受けて、私はお恥ずかしい≠ニ[へりくだ]ざるを得ない、そこで仏のお褒めの言葉≠ニ敬虔な態度で受領した言葉≠フ二種をもって下輩が説かれた。つまり、同一人物の往相を立場を変えて説かれたもの≠ニ解釈することも成立するのです。
 そもそも上輩・中輩は同一で下輩だけ別人を説くというのも唐突でありましょう。そうした上で下輩だけ随自意説と随他意説で説くのは、上輩・中輩は結果として随自意説と随他意説が重なるのに対して、下輩は表面的には重ならない可能性もあるので、そうした場合でも行者が絶望せず、仏法に親しみを持ってもらいうために念を入れて説かれたのではないでしょうか。

 資料

大体私らは自分の欠点を言われることが一番嫌なの。もう私にしましても、家内にしましても、もう欠点を言うたら、ぷっとふぐくらい膨れて、私は「はい、言われはすまいか、はい、言われはすまいか」こうなりましょう。だから、本当いうならば、上等の人は上輩でしょう。上等の人は、やっぱりまず第一に何よりも自分自身をつくり替えていこう。これが大事なの。
 ところが、それができない人は、せめて私は自分は力があるから力を持って皆さんのご用に立っていきましょうという。しかも、それによって私の我を砕く。私の我執を砕くのです。今度は、お金のある人はお金を寄付することによって、してあげるのではない、それによって私が自分自身の欲の心を離れるの。だから、「骨を砕いて身を粉にしても」ということは何かというと、汝、朝参りする子供ではないが、「『骨を砕いて』ひどいことを言う、身を砕いたりする」とこう言うて、御院家さんおしゃったが、骨を砕く、身を粉にするとは、自分のわがままな根性を砕くこと。それが身を粉にすること。そういうことを言っておるんであります。
 最後に、そうすると、そういうお金もない、力もない、智慧もない。そういう、人のご用に立つことができぬ者は、せめて私はお念仏させてもらいましょう。すると、お念仏させてもらいましょうというその心に、ちゃんと浄土が働くのです。だから、私、自力でお念仏してお浄土に参っていこうではない。「おいおい、おいおい」こういうご催促が出てくると、「何と私は、あの人のように立派なこともできんし、この人のように立派なこともできんが、まあとにかくお念仏させてもらいましょう」とこういう人は、お念仏するそこでお浄土に触れるの。
 今度、それならば、お念仏さえもできない人。お念仏のできない人はどうなるかいうと、「ただ私は、せめて私は何の役に立たんけれども、ご先祖さま、私は重い宿業を背負うて、聞かせてもらいたい聞かせてもらいたい」というそのこと一つであります。耳には入らんでも、その深い法を聞きたい。もしくは、「法を聞いて信心歓喜する」とありますけれども、実は信心歓喜は後なんです。ただ一生涯、法を聞かせてもらうということが喜びになっておるの。だから、法を聞いて喜ぶのではないの。法を聞かせてもらいたい、法を聞かせてもらいたいという、法を聞くことが私の喜びとなっておるの。その人は法を聞かせてもらいたいというまごころでしょう。法を聞かせてもらいたいというまごころ、そこでちゃんと浄土に触れるのです。
 だから、お浄土というものが、このように皆その人その人の性格に合った、宿業に合ったように、いつでもそこで働くの。だから、手が合わされてみたら、いつでもそこがお浄土に触れる場所であるということを言いたいために、三輩というものが説かれたんだろうと思うんであります。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より


 問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに論主(天親)「一心」といふや。
 答ふ。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主、三を合して一とせるか。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本)19 三一問答

現代語版: 問うていう。阿弥陀如来の本願には、すでに「至心・信楽・欲生」の三心が誓われている。それなのに、なぜ天菩薩は「一心」といわれたのであろうか。
 答えていう。それは愚かな衆生に容易にわからせるためである。阿弥陀仏は「至心・信楽・欲生」の三心を誓われているけれども、さとりにいたる真実の因は、ただ信心一つである。だから、天親菩薩は本願の三心を合せて一心といわれたのであろう。


あきらかに知んぬ、「至心」は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。「信楽」は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。「欲生」は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主(天親)、建めに「一心」といへるなりと、知るべし。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本)20 三一問答 字訓釈

現代語版:明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決定してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。
 いま、この三心のそれぞれの字の意味によって考えてみると、みな、まことの心であって、いつわりの心がまじることはなく、正しい心であって、よこしまな心がまじることはないのである。まことに知ることができた。疑いのまじることがないから、この心を信楽というのである。この信楽がすなわち一心であり、一心はすなわち真実の信心である。だから、天親菩薩は『浄土論』のはじめに「一心」といわれたのである。よく知るがよい。



 また問ふ。字訓のごとき、論主の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。
 答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本)21 三一問答 法義釈 至心釈

現代語版: また問う。字の意味によれば、愚かな衆生に容易にわからせるためには本願の三心を一心と示した天親菩薩のおこころは、道理にかなったものである。しかし、もとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために、三心の願をおこされたのである。このことはどう考えたらよいのであろうか。
 答えていう。如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりにこのおこころを推しはかってみると、すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
 この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体とするのである。


 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本)28 三一問答 法義釈 信楽釈

現代語版: 次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじわることがない。それで、これを信楽というのである。 すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。
 ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことに信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
 すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
 この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。


 次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本)39 三一問答 法義釈 欲生釈

現代語版: 次に欲生というのは、如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである。そこで、この仰せに疑いが晴れた信楽を欲生の体とするのである。まことに、これは大乗・小乗の凡夫や聖者などの定善・散善の自力の回向ではないから、不回向というのである。
 あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。そして他力(利他)真実の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。


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