巻上 正宗分 法蔵発願 重誓偈
仏説無量寿経 巻上
- 【八】釈尊が阿難に仰せになる。
「そのとき法蔵菩薩は、この願を述べおわってから、次のように説いた」- わたしは世に超えすぐれた願をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。
この願を果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主となり、
力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、誓って仏にはならない。
わたしが仏のさとりを得たとき、その名はすべての世界に超えすぐれ、
そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。
欲を離れて心静かに、清らかな智慧をそなえて菩薩の修行に励み、
この上ないさとりを求めて、天人や人々の師となろう。
不可思議な力で大いなる光りを放ち、果てしのない世界をくまなく照らして、
煩悩の闇を除き去り、多くの苦しむものをひろく救いたい。
智慧の眼を開いて無明の闇をなくし、
迷いの世界の門を閉じて、さとりの世界の門を開こう。
すべての功徳をそなえた仏となって、そのすぐれた輝きはすべての世界に行きわたり、
太陽も月もその光りを奪われ、天人も輝きを隠すであろう。
人々のためにすべての教えを説き明かし、ひろく功徳の宝を与えよう。
常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう。
すべての仏がたを供養し、さまざまな功徳をそなえ、
願も智慧もそのすべてを満たし、世界中でもっともすぐれたものとなろう。
師の仏の何ものにもさまたげられない智慧がすべてを照らし尽すように、
願わくは、わたしの功徳や智慧の力も、このもっともすぐれた仏のようでありたい。
この願いが果しとげられるなら、天も地もそれにこたえて打ち震え、
空からはさまざまな天人が美しい花を降らすであろう。
法蔵菩薩は世自在王仏に四十八願を述べ終わりますと、重ねてこの『重誓偈』を誓われます。これは経典ではよく用いられる手法で、多くの教説を散文で述べ終えた後、すぐに要点を韻文(偈)にまとめて誦するのです。ですからこの『重誓偈』は先の四十八願を凝縮した内容なのであり、また「願い」からさらに進んで、「誓い」という重い責任を負う形をとって説かれるのです。日本語でも「願う」は「音ぐ」で「本音の発露」であり、「誓う」は「血交う」という意味ですから、『重誓偈』は短い偈文であっても、仏の万感を込めた内容と言えるでしょう。
『重誓偈』は別名「三誓偈」とも言われていますが、その理由は――
我建超世願 必至無上道 : われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。
斯願不満足 誓不成正覚 : この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
最初の「我」は、四十八願全てを説き終えた段階の「我」ですから、求道の前衛主体である念仏者の「我」と、その根本主体である阿弥陀仏の「我」が一体(機法一体)となった「我」、つまり南無阿弥陀仏と成り切った「我」です。これは大乗仏教に戻して言えば「常楽我浄」の性根の生まれた「我」(参照:{礼拝門・讃嘆門・作願門「#「我一心」の主体は」})であり、全人類を内に宿しながら求道の全主体として万感の思いを込めて叫ばれた「我」でありましょう。この機法一体の「我」が覚りを得れば、阿弥陀仏も正覚を取った甲斐があり、同時に一切衆生も覚りを開いておられる≠ニ見抜くことができる訳です。すなわち「我」が浄土往生を願えば一切衆生も往生を願う、この仏と衆生の願いが一体となったところの「我」が浄土を建立し、建立した浄土が衆生に働く(回向する)のです。
「我建超世願」の「超世願」は、申し述べる師が「世自在王仏」でありますから、世を超え出てしまったままの願いではありません。「出世」ではなく「出出世」。法蔵菩薩はかつて「世において自在なる智徳を得た主体(王)」である師と等しくならん(斉聖法王)と願いを建てたのです。「自在」とは「自ずから在る」という意味ですから、本来在るもの全てが成就せんと働き出した仏であり、生命の内に宿っているあらゆる可能性が発揮され、自らと環境を障りなく創造してゆく理想王でしょう。この理想が理想に留まらず、現実の成就を目指す機法一体の「我」が目覚めた。それが法蔵菩薩と世自在王仏の出遇いであり、「超世願」が建てられた歴史的な意義だったのです。
また仏教全体で言えば、大衆とともに「大道を体解して無上意をおこさん」「ふかく経蔵に入りて智慧海のごとくならん」「大衆を統理して一切無碍ならん」と、真実そのものが回向して建てた願いであり、さらに他の諸仏に超え勝れんと建てた願い、それが「超世願」なのでしょう。いわば本願全体の満足、四十八願の総合的な成就を誓います。
「必至無上道」の「無上道」は、我は既に真実信心を得た≠ニか既に無上道を得た≠ニ生悟りして過去の境地に留まるのではなく、かといってまだまだ道は遠くにある≠ニか死んで後に覚る≠ニ先ばかり見つめるものでもありません。現在ただ今の人類全てが「無上道に至らん」と歩を進める、その歩みを尊んでいるのです。いわば人間讃歌でしょう。島田幸昭師は<「無上道に至らん」というそれが「無上道」>と仰いましたが、まことに言い得て妙なる表現です。仏の寿命は無上菩提心であり、無上菩提心の道程が無上道であります。そして「無上道に至らん」とする寿命が尽きることがない仏、という意味で阿弥陀仏を「無量寿仏」と尊み意訳したのでしょう。
極論ではありますが、仏教とはこの「必至無上道」の展開である、と言えるでしょう。それは同時に、人類の歩みは「必至無上道」の展開である≠ニいう意味でもあるのです。
(参照:{寿命無量の願})
「斯願不満足 誓不成正覚」は、四十八願全体で願われた「設我得仏……不取正覚 」(たとひわれ仏を得たらんに、……正覚を取らじ)と同じ表現ですが、やはり「誓い」の方が責任が重い表現です。願いも誓いもどちらも完全に完成した≠ニ言いきれるものではなく、かといって成就なんて無理だ≠ニ放棄することもできない内容です。なぜならそれは、「人間だからこそ人間になりたい」、「親だからこそ親になりたい」と、つねに存在それ自体の成就を誓う内容だからです。ですから、仏道・無上道はいつも道の途中ではありますが、同時に歩みを進める一歩一歩それ自体が無上道が成就した姿そのもの。誓願の中に無上道が完成されているのであります。
法蔵菩薩にとってはこの第一の誓願の成就が全てであり、後はその具体化であり展開なのでしょう。
我於無量劫 不為大施主 : われ無量劫において、大施主となりて、
普済諸貧苦 誓不成正覚 : あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。
これは前の「必至無上道」が展開する要めの第一歩で、具体的には第十二願と第十八願の内容を誓い直しています。
ではどういう道程を通って現実の力と成るのかというと、阿弥陀仏の
具体的には、心ある人間に生まれてさせて頂きながら性根のない私たち衆生(諸貧苦もしくは諸貧窮)に、心を至す心(至心)≠回向し、自己のめざめを経験させるとともに、深くして底のない無明を見出させ、歴史的・全人間的自覚(信楽)へと深め、人類共通の場と精神と創造の方向性を示してゆく(欲生)のです。これらの道行きが見えてこそ、行き詰った人々への大施主となることができ、人生の展開を示すことも可能なのです。逆にこうした道程が見えない人がする親切やアドバイスは、時として大きなお世話になったり仇になってしまうものです。
なおこれは単なる空想でも机上の空論でもありません。現実の歴史はこの大施主が為す創造の方向に進みつつあるのであり、これが人類歴史の大法則であります。この法則を見出し、法則の要点に名を付け、物語りに仕上げていただいたものが『仏説無量寿経』上巻であり、この法則に遵って具体的な働きや国家・社会像を語り、各種の活動や生活の留意点を説いていただいたものが『仏説無量寿経』下巻なのです。
ちなみにこの法則は、現実においては一方向にのみ進むわけではありません。一進一退、迷走を繰り返して人類の歴史は
私は大施主に成れるのか成れないのか。今はとても大施主に成っているとは言えません。大施主となる性根も実力も実績もないからです。しかし同時に私はいつか大施主に成りたい≠ニも思っています。身の程知らずな思いですが、全ての人間の心底で響いていますので、耳を澄ませば聞こえてくるはずです。人々の嘆き声を聞くたびに、弱きものが不条理な圧制に苦しむ姿を見るたびに、精神弱く自己実現できず行き詰っている人々を見るたびに、いつか大施主に成りたい≠ニ誰しも思うのです。成れるかどうかは別として、誰しも成りたいと思う、この思いの深さが「無量劫」でありましょう。同時に「無量劫」は現在の大施主になれない性根なしの我の懺悔でもあります。
金や権力があるだけでは人間は救えません。そのことを身に染みて懺悔でき、人間の道行きが示せてこそ本当の大施主なのです。これこそ如来が私に成り切った「我」のはたらきでありましょう。
我至成仏道 名声超十方 : われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟靡所聞 誓不成正覚 : 究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
『正信偈』には「重誓名声聞十方」とあります通り、親鸞聖人はここを「重誓偈」の肝心要めと見てみえるようです。「名声」は「ミョウショウ」と読みますが、意味は「メイセイ」と同じです。
地位も名声も要らん≠ニいうのが出家仏教であるのに対し、在家仏教は人間関係や国や組織や家庭などが問題となってきますので、地位も名声も大事な要素として扱っているのです。ただしこの地位や名声は、虚栄心の満足として求めるものではありません。足元を見つめつつ、道心の内容を問う最後の段階が地位と名声なのです。時間の問題はありますが、名声が獲得できない限りその内容は本物ではありません。
具体的には、その人の置かれた状況である地位(座)が人間をつくり、その人間の真心こもった業績により信頼の徳が生まれ、この徳が名声となって世界を駆け回り、やがて信頼の徳が増す形で座に戻ってくるのです。現に世にある座の徳はすべて、先人たちの実績や徳の積み重ねでできたものでありますが、仏徳はその中でも最高の名声を博しているのです。
逆に、その人がその地位にふさわしくない悪行を重ねればその座は脅かされるのであり、信頼は損なわれ、悪徳は不善の名となって世に知れ渡ります。するとその座も汚されてしまうわけですが、仏が仏の座を汚すわけにはまいりません。これは僧侶や念仏者も同様でしょう。僧侶が僧侶の座に相応しくない悪行を重ねれば結果として仏教の評判は下がり、僧侶が僧侶の座に相応しい行跡を重ねれば名声が生まれます。
聖徳太子も「人はよく法をひろむ、法は人によってひろまる」と仰ってみえます。「名声十方に超えん」との誓願には、仏も仏教徒もそうした仏の座を尊んでゆこう≠ニいう誓いが込められているのです。
これは四十八願で言えば、名声は諸仏称名の願、不善の名を無くす誓願は離諸不善の願の成就を誓っているのです。先の「必ず無上道に至らん」「大施主となり諸貧苦を済う」という南无阿弥陀仏の展開は、仏が仏の座を全うせんとの誓願が名に集約されたものに他ならず、仏は十方の衆生に、その名に込められた信頼・徳を褒め称えてほしいわけです。そして十方の衆生は、南无阿弥陀仏の名を褒め称えているうちに、自ずと名に込められた徳を誉めることになり、この仏徳讃嘆によって仏の浄行が我が身に回向され、日々新たに信心を獲得せしめてゆくのです。
(参照:{言葉の重さと立場の徳})
「我、超世の願を建つ」と言う。これ誰が言うのか。これは、静かに目を閉じてお念仏する。お念仏の中に、そこに「我、超世の願の願を建つ」と、私が言うのではない。私の魂のもっと深いところから、「我、超世の願を建つ」という地響きが、そういう地響きが私に聞こえてくる。そういうものを説かれたものが、「我、超世の願を建つ」という。それを聞いた。このお経を書いた人は、それ魂の叫びを聞いたのだろうか。
それを、だから、法蔵菩薩の四十八願ということは、どこか西方十万億の向こうの話ではなしに、皆手が合わされてみたら、このお経を説いた人。誰か分かりませんよ。このお経を説いた我。この我も、魂の底から聞こえてくる。そうすると、その人だけではない。私たちも、南無といわれにかなった手が合わされてみたら、「我が魂の底深く名告り続けるみ仏の久遠の願い」で、どんな人も手が合わされてみたら、南無の中から阿弥陀が働いておる。その阿弥陀のご説法。阿弥陀のご説法を聞いてでありますから、したがって、説いても説いてもこれちゃんと、南無の中に聞こえてくるご説法でありますから、そこに、私は、「我。超世の願を建つ」という。これ非常に大事なんだと思うんでありますよ。
<中略>
ところが、親鸞聖人。これから前に前進。前へ向いて行くのだから。したがって、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という一歩一歩日暮らしの中に、右の足は宿業の大地を踏まえた足。右も左の足がお浄土に大地踏まえた足に。同時に、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の前に向かって行くのだから。こうだと横向きでしょう。
<中略>
もう一つだけ、それならば、この願という「建てる」という。この建てるということは、建国の精神というように、今までなかったもの初めて建てる。そういう意味。だから、建国とか、建国祭言いましょう。建国、国が建つ。あれは、学校を出て建学精神と言って、学校を建てた精神という。
<中略>
だから、私らは結果ばかり求めておる。諸仏の道は、諸仏のさとりは結果ばっかり。そうです。お金が貯まったらいいのです。今度、家が建ったらいいの、いい婿さんが見つかったらいいのです。そうでない、本当は「でかそう、でかそう、でかそう」という道中に本当のものがあるのです。そういう道。世を超えるのに、世の中にありながら、しかも、普通の人の常識と違った道。それを「無上道」。だから、「無上道」そのもの、道そのものが結果、モットー。そういう信心はそういうもの。それを「信心は菩提心だ」と親鸞聖人おっしゃいましょう。菩提心。だから、無上菩提心でしょう。それが大事なのです。「我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん」ということは、法蔵菩薩その人がいつでも気が付いてみたら、無上道から「これから」と呼び返され呼び返されて、これでいつでも無上道に立ち返るのです。「これから、これから、これから」という。いつでも信の第一歩に立つという。そういうことを「必ず無上道に至らん」と、こうおっしゃったのだろう。実は「無上道に至らん」というそれが「無上道」。裏から言えば、無上道に立った人が無上道に至らんと、こう願うのです。そうではありませんか。
<中略>
あれが欲しい、これが欲しいという財産が欲しい。そういうお金が欲しいということと。今度はそれが財産も要らんぞ。今度は、あれはしとうない、これはしとうないという身を惜しむ、横着者。たとえ身を粉にしても構わんぞ、骨を砕いても構わんぞ。今度は死にとうない、死にとうないということは、たとえ、死んでも構わんぞ。こういう「身と名と財」とを投げ捨ててさえも、それがまことそのものでしょう。まことそのものが私を動かす。そういう純粋なものが出てきた。そういう道を「無上道」という。
それなら、いつもそうかと言うと、ただ捨てるのではありません。そこに出てくる。そういう同じ出ても世を超えるのではない。世においてお金も欲しい、財産も欲しい、命も欲しいのです。あれもしとうない、これもしとうないとあるのです。あったその中でそういうのが働くのです。そこに矛盾の世界があるわけ。そういう道を「無上道」とおっしゃったのではないだろうかと思うわけであります。
仏説無量寿経講話(島田幸昭)より
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