巻上 正宗分 弥陀果徳 寿命無量
仏説無量寿経 巻上釈尊がさらに阿難に仰せになる。
「無量寿仏の寿命は実に長くて、とてもはかり知ることができない。そなたもそれを知ることはできないだろう。たとえ、すべての世界のものがみな人間に生れて、残らず声聞や縁覚となり、それらの聖者がすべて集まって、思いを静め、心を一つにしてさまざまな智慧をしぼり、百千万劫の長い間、力をあわせて数えても、その寿命の長さを知り尽すことはできない。その国の声聞・菩薩・天人・人々の寿命の長さもまた同様であり、数え知ることもたとえで表すこともできない。また声聞や菩薩たちの数もはかり知れず、説き尽すことができない。それらの聖者たちは智慧が深く明らかで、自由自在な力を持ち、その手の中にすべての世界をたもつことができるのである」
前回までは阿弥陀仏の光明(はたらき)の実際を見てきましたが、今回は「阿弥陀仏と念仏者の寿命(主体)が長く久しい」という事実を見ていきます。ここで阿弥陀仏の本質と衆生の本質が明らかになっていきます。
これは<たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ>(わたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません)という第十三願{寿命無量の願}が成就した果報です。
ここで重要なのが、「無量寿仏は寿命長久」であるということと、「称計すべからず」ということです。
「無量寿仏は寿命長久」であるとは、一体どういう事実を言うのでしょう。
結論から先に申します。まず「無量寿仏」とは、一切諸仏の智慧と徳の総体であり、仏性の歴史的主体であり、求道の王(中心)であり、一切衆生と共に環境と歴史を創造する「創造的根本主体」であります。こう聞いても何のことか解らない方もみえるでしょうが、一度最後まで目を通して下されば、大まかには解って頂けると思います。
この無量寿仏の「寿命」は、単に心臓が動いていることを言うのではありません。仏が仏としての本分を尽くし続けている期間を寿命というのです。
衆生はただ単に生きているだけではありません。何かを求めて生きている。生きよう、生きよう、より良く生きようと願って生きている、これが生命の本質であり仏性なのですから、この何か≠明らかにし、自らの内に見出し、実現させていくことにより本当に満足する人生を成就できるのです。
仏の本分は「自覚覚他 覚行円満」と言いまして、智慧と徳が円熟することにあります。もっと言いますと、円熟しようと願い続け、行じ続け、徳を得、徳を名に込めて衆生にはたらき続けている、その期間を寿命と言うのです。ですから「これで完成した」と座り込んだ途端に寿命は尽きてしまうのです。どこまでも道の途中でありながら、今、今、今と願いを成就させてゆく卒業なしの求道心が仏の寿命です。特に阿弥陀は一切衆生を胸に抱いている仏です(一切衆生を胸に抱いている存在に阿弥陀と名がつけられた)から、実際に一切衆生が覚りを開くまで阿弥陀の寿命が尽きることはありません。
仏の命は上記等のことを総じて
「願作仏心」は、理想仏である世自在王仏に成ろうと願いをかけ続けること。一つの覚りに満足して法に執着するのではなく、真心をもって常に新たな地平を目指し、常に覚り、常に新たに覚り、衆生とともに本当に人生を成就させ続けてゆく卒業なしの道心が「願作仏心」です。
「度衆生心」は「願作仏心」の必然的展開です。それは一切衆生の往生と正定聚の位を得さしめるはたらきの源泉であり、「願作仏心」と不二の関係を持つ心です。『往生論註1』には<仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る>とありますように、往生を願う衆生には仏徳の報いである智慧と徳すべてが一人ひとりに施され、その環境のはたらきによって衆生が目覚め、ひとり一人の国土が阿弥陀仏の浄土のように素晴らしい環境になることを約束するのです。阿弥陀仏の浄土は、正定聚不退転の菩薩を無限に生み出してゆく環境でありますから、その根本主体である阿弥陀仏もまた限りない寿命を得ていることが解るでしょう。(参照:{往生論註を味わう 21})
次に「称計すべからず」について。
<たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身を得て>ということですから、全ての生命がもし人間となって、しかも<ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて>とあります。
仏教では、その境涯・境地により「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人」という三界(凡夫の迷いの世界)(参照:{荘厳清浄功徳成就「#三界の道に勝過せり」})と、「声聞・縁覚・菩薩・仏」という聖者の悟りの世界に分け、あわせて「十界」「六凡四聖」といい、さらにこの十界各々に十界を有する(十界互具)と説きます。すると「声聞・縁覚」の二乗は既に六道を脱していますので、迷いを重ねるだけの人生ではなく、仏道を歩む聖者の仲間なのですが、『助道法』(菩提資糧論)には以下のような徹底した批判が記され、龍樹菩薩や天親菩薩もこれを自らの著書で引かれています。(参照:{『十住毘婆沙論』と『往生論註』})
もし声聞の地位や 縁覚の地位に堕ちるならば
これを菩薩の死と名づける そうなれば一切の利益を失う
たとい地獄に堕ちても かような畏 れは生じないが[
もし二乗の地位に堕ちるならば すなはち大きな畏れとなる
なんとなれば地獄の中に堕ちても ついには仏果に至ることはできるが
もし二乗の地位に堕ちるならば ついに仏になる道をさまたげるからである
仏みずから経の中に こういうことを説かれてある
寿命を惜しむような人は 首を斬られることを大いに畏れる
菩薩もまたこの通り もし声聞の地位や
縁覚の地位に堕ちるならば 大きな畏れを生じるであろう
このように、地獄に堕ちるより二乗(声聞・縁覚)に堕ちる方が悪い≠ニいうことですが、どうして大乗仏教では二乗にこのような激しい批判が加えられたのでしょう
それは、たとえば地獄は迷いと苦難の最たる世界ですが、それゆえ自らが迷っていることには気づきやすく、何らかの変革を求めざるを得ない心境にあることは確かでしょう。ただ変革の方法と依りどころを知らないだけですから、仏法に出遇って道を求めればやがて仏に成ることができるのです。
しかし「声聞」は、「自分は尊い仏法を知っている」という思い込みがあり、下手に知識ばかりが増えてしまっていますので、仏教の基本である自己変革を為そうという発心が起きず、言い訳と議論ばかりが上手になってしまいがちです。「心を直さぬ学問して何の詮かある」と叡尊は言われましたが、現代においても仏教の研究が単なる教養や思索的な面白さに偏りがちな傾向にあり、憂慮すべき状態であることは否めません。
ただし、本来の「声聞」は決して悪い意味ではありません。菩薩としての私も常に一人の人間として立ち返り、一生涯仏法を聞いてお育ていただきます≠ニわが身を振り返った時に出てくる言葉が「声聞」なのです。この本来の声聞が浄土の声聞なのであり、その聞法精神を親鸞聖人は「五劫の思惟も兆載の修行も、ただ親鸞一人がためなり」(歎異抄7)と領解されてみえるのです。
またこの「光明無量」の章の最初には「あるいは仏光ありて七尺を照らし」とあり、『仏説無量寿経』28(下巻)には「かの仏国のなかのもろもろの声聞衆の身光は一尋なり」とありますように、聞法の際にはつねに一個人の立場に立ち返らねばなりません。この念仏者自身の聞法精神を名づけて「声聞」といい、念仏者の環境全体を背負った求道精神を名づけて「菩薩」というのですが、「ただ親鸞一人がためなり」に留まってしまうことが悪いのです。経典では「菩薩の光明は百由旬を照らす」と説かれていますし、親鸞聖人は「如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命」と、菩薩としての領解に展開してみえます。「菩薩の死」と批判された「声聞」は、こうした菩薩としての展開ができない「声聞根性」が抜けない人のことを言うのでしょう。
それではひとたび声聞になってしまったら絶対に仏果に至ることは無いのでしょうか。阿弥陀仏のはたらきは、声聞には及ばないのでしょうか。
実は、『仏説観無量寿経』を読むとそうではないことが解ります。美人で頭が良く大国の王妃として栄華を極めた上に仏法を聞く機会に恵まれていたイダイケ夫人も、ダイバダッタと息子の裏切りに遭うまでは批判的な意味の声聞でしかありませんでした。ところが絶望の淵で釈尊の勧めによって浄土往生を願うことができましたので、途端に本願一乗海に入ることができ、息子や国民共々菩提心を発こすことが適ったのです。ですから二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す≠ヘ、二乗に堕す危険性を強調して説いているのですが、もし念仏に遇う機会がなければ「仏道を遮す」まま朽ちてしまうところでした。
また「縁覚」は先に述べたように「独覚」であり、師につかず法統に依らず、天然自然に触れて独り覚る者≠ネのですが、これでは歴史的現実に立つことができず、人類共通の課題にも無頓着になってしまいます。私たちが生きている場は常に歴史的現実なのであり、人類共通の課題を担って生活しているのです。共に覚ろうと願い行じ、共に生きる環境を整えていくことが「菩薩」として生きる道であり、この自覚を得て歩む者を正定聚・不退転の菩薩≠ニ言うのです。(参照:{自然と社会と仏教の関係}、{「自然法爾」とはどういう意味ですか? })
さらに言えば、独立独歩では偏狭な人生観を打ち破ることができず、師を得なければ仏果を得ることは適いません。経典においても、世自在王仏が荘厳(創造)すべき仏土について、<そなた自身で知るべきであろう>と独立独歩を勧めたにも関わらず、阿弥陀仏は<いいえ、それは広く深く、とてもわたしなどの知ることができるものではありません。世尊、どうぞわたしのために、ひろくさまざまな仏がたの浄土の成り立ちをお説きください。わたしはそれを承った上で、お説きになった通りに修行して、自分の願を満たしたいと思います>と申しあげた、とあります(参照:{法蔵発願 思惟摂取 })。親鸞聖人も曇鸞大師の導きのおかげで浄土論が領解でき、教学を確立することが適いました。あらゆる高僧も、師の無い人はいません。
なぜなら、師がいなければ人はいつも第一歩から始めなければならなくなるからです。誰しも覚りを開く可能性はあると言っても、何万年もかければ適いますが、覚るまでに命が尽きてしまいます。しかし善き師(善知識)に出遇えば、独りでは何万年もかかるところが本当に短い期間で仏果を得ることが適います。これは仏道のみならず、あらゆる道に通じます。たとえば科学や医学を極めようとした時、独立独歩ではどこまで学べるか
真言を採り集めて助けて往益を修せしむ。なんとなれば、前に生ずるものは後を導き、後に去かんものは前を訪ひ、連続無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり。『安楽集』3
と仰いましたが、「真言」は密教の言葉という意味ではなく真心そのもの≠言います。先人たちから受け継がれてきた尊い智慧と徳を<連続無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す>と言わしめた道綽禅師の胸の中には、無量寿仏の寿命長久が宿っていたことが解るでしょう。これによって言葉が単なる情報ではなく輝きを放ついのちになるのです。
このことが次の――
<すべてともに集会し、禅思一心にその智力を竭して、百千万劫においてことごとくともに推算してその寿命の長遠の数を計らんに、窮尽してその限極を知ることあたはじ>(それらの聖者がすべて集まって、思いを静め、心を一つにしてさまざまな智慧をしぼり、百千万劫の長い間、力をあわせて数えても、その寿命の長さを知り尽すことはできない)に表れています。
歴史の重みを知らない縁覚や、自己変革を願わない声聞には、たとえ経典はあっても文字の羅列でしかありません。「寿命長久」と聞いてもそこに驚きや感動がありませんから、寿命長久が時間的なものとしてしか受け取れません。声聞・縁覚の二乗は結局、自力の頭で数えたり勝手な想像を出ませんから「知り尽すことはできない」のです。
しかし仏・菩薩であれば、如来回向の信心により「寿命長久」を感動をもって受け取ることができるのです。ただしこれは、仏・菩薩は実際に阿弥陀仏の寿命の長さを知り尽すことができた≠ニいう意味で言うはありませせん。「阿弥陀仏の寿命の長さを知り尽すことはとてもできないなあ」と嘆じる経典の真意が「骨身にしみて領解できる」ということが「寿命無量」の真意なのです。仏・菩薩は常日頃、人類や生命全般に尊崇の念を抱いて生きていますので、「寿命長久」と聞けばその言葉の真意が解り同感できるので、寿命長久の譬えには声聞・縁覚のみで、仏・菩薩は入っていないのでしょう。
これは――
<たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿命よく限量なからん。その本願の修短自在ならんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ> (わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう。ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、その限りではありません。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません)という第十五願{眷属長寿の願}が成就した果報で、これによって創造的根本主体≠ナある阿弥陀仏の寿命が創造的前衛主体≠ナある眷属(念仏者)の寿命と成ります。阿弥陀のいのちが阿弥陀の方からはたらいて私のいのちと成り切る。根本と前衛のいのちが一体となることで、現実社会にはたらき出ることが可能となります。これは、「最も前衛なるものだけが真に根源なるものを具する」という現象面の真実を、原理として示している箇所でもあります。
ここでまず注目すべきは、「声聞・菩薩・天・人」はいますが「縁覚」がいないことです。このあたりが阿弥陀仏の浄土の特徴でしょう。縁覚は独覚で、師につかず法統に依らず天然自然に触れて独り覚る者を言いますが、この縁覚がいないと言うことは取りも直さず、阿弥陀仏の浄土は人類の歴史や文明と密接な関係にある環境だ、ということが証明されているのです。ですから極楽は山の彼方にある≠ニ逃避的に仰いだ国土は、少なくとも阿弥陀仏の浄土の本質をあらわすものとは言えないのです。
では「声聞・菩薩・天・人」がいるのはどういうわけでしょう。また「地獄・餓鬼・畜生・修羅」界の住民がいないのはどういうわけでしょう。
まず「地獄・餓鬼・畜生」は、第一願{無三悪趣の願}に、三悪道を浄める願いが建てられ、この願が成就した果報の浄土ですから、地獄・餓鬼・畜生の悪環境は浄化されています。修羅は四十八願においては特に触れていませんが、正義を振りかざして争いを好む性質上、浄土においてはその癖が浄化されているのでしょう。つまり、これらの課題を克服した環境が我々人類の歴史や文明に存在し、悪世界を浄化しようと働き出てくださっている、この尊いはたらきと徳を持った世界が安楽国土(阿弥陀仏の浄土)とみずから名のったのです。
つぎに「声聞」がなぜ浄土にいるのかという問題は、先に説明した通り、菩薩がまず一個人として、一生涯にわたって仏法を聞き開こう≠ニいう聞法精神が盛んであることを示しています。「浄土の声聞」はこの個人の問題を踏まえながら社会的な立場に展開するのですが、一般に言う「声聞」は、「自分は尊い仏法を知っている」という思い込みがあり、下手に知識ばかりが増えてしまっていますので、大抵は仏教の基本である自己変革を為そうという発心が起きず、言い訳と議論ばかりが上手になってしまいがちです。
親鸞聖人は――
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『顕浄土真実教行証文類』信文類三(末)65・信一念釈
と、法を聞き開くことによって阿弥陀仏の歴史と浄土の本質が覚れることを示しています。阿弥陀仏の浄土では、聞法がそのまま仏徳讃嘆となり、本願力回向の菩提心を発こすことが可能となるのです。本願の法を聞くことによって、いつのまにか浄土往生を願わずにはおれなくなり、結果として正定聚の菩薩となり、やがて仏果を得ることが適うのです。
これは諸仏の浄土とは異なり、阿弥陀仏の浄土は全ての衆生それぞれの場に応じ、常に楽しく修する道場を提供することができることをあらわしています。なぜなら、本願成就の歴史を聞き開くだけで、自分の本来の姿を見出し、今の自分の有様を懺悔し、一切衆生とともに広大会に立って、本願成就があらためて自分の身の上の成就となってはたらく、そうした一切の道程が浄土の土徳に含まれているからです。つまり、阿弥陀国土の声聞は諸仏国土の声聞と異なり、声聞であっても菩薩の内容を持った聞法であり、仏道を遮すことなく、声聞から菩薩・仏の立場に直ぐに開き、また立ち戻ることができる身なのです。
これは天・人も同様で、ともに迷いの世界の癖を残しながら、浄土の土徳によってそのまま浄土の眷属となることができるのです。島田幸昭師は仏の願心が受けとれて、その人の信心となったことを「人天」と現わしたものでしょう≠ニ示されています。
なお、聖典では<天・人>(天人・人々)と別に解釈されていますが、天と人は別ではなく「天人」だけであるという解釈も成り立ちます。人々の状態が声聞界・縁覚界・天人界などの境地境涯であることを示しているのに、ここにわざわざ「人々」が入るのは蛇足だというわけです。このことは後にも触れてみます。
さて、そうした浄土の眷属(念仏者)について、<寿命の長短も、またまたかくのごとし。算数譬喩のよく知るところにあらざるなり> (寿命の長さもまた同様であり、数え知ることもたとえで表すこともできない)とはどういう意味でしょう。阿弥陀仏が寿命長久なのは解りますが、ひとり一人の寿命まで<またまたかくのごとし>(また同様であり)であるはずはありません。仏性の歴史は継承されますが、個人個人の寿命は諸行無常であり有限のはずです。それが阿弥陀仏と同様の寿命とはどういうことでしょう。
このことは{「人民〔の寿命〕も、無量無辺」の疑問}にも書きましたが、阿弥陀仏の寿命は浄土の住民に及ぶことによって本当に無量となるのであり、本当に一切衆生に無辺に広がり、無限に展開することが可能となるのです。法は人を待って広がる。阿弥陀仏は、現実に生きている人々を通してのみ存在し働くことができるのであり、衆生は、阿弥陀仏が存在するがゆえに有限の命が有限に閉じず、「計り知れない寿命」という歴史の重みを持つことができるのです。島田幸昭師は「阿弥陀仏のいのちが衆生のいのちとなる」と仰られましたが、阿弥陀仏の寿命と念仏者の寿命は不一不二で、一(全く同じ)とは言えませんが二(別)とも言えず、<寿命の長短も、またまたかくのごとし>と説かれるのです。
さらに注視すべきは<寿命の長短>とあることです。<寿命長久>だけなら解るのですが<長短>の「短」とはどういう意味でしょう。わざわざ寿命を短くする必要があるのでしょうか。
これは、念仏者は有限の命に<寿命長久>と普遍的な内容で生きることも可能なのですが、有縁を度す≠スめにあえて時空を限定した生き方をすることがある、ということでしょう。その時代特有の課題に即した生き方をすることを「短」と言うのです。
たとえば親鸞聖人は、『顕浄土真実教行証文類』を著された時は普遍的課題を背負って<寿命長久>の面を発揮されましたが、身近な方々と親身に接せられて時代特有の問題もないがしろにされませんでした。現代においても親鸞聖人の生き様が共感されるのは、如来回向の<寿命長久>が実現していることに他ならないのですが、中には当時の時代的特徴を感じる部分もあるでしょう。これが「短」ということです。
さらにいえば、蓮如上人は特に時代とともに生きられた方でした。ですから現代人にとって『御文章』は古い印象を与え、学者から無視されがちなのですが、<寿命長久>が背景にあることを見逃してはなりません(参照:{「自力を捨てる」ことこそが自力?「#魔を乗り切る」})。
<また声聞・菩薩、その数量りがたし。称説すべからず>
(また声聞や菩薩たちの数もはかり知れず、説き尽すことができない)
ここで問題なのは、直前に寿命を言う時は<声聞・菩薩・天・人の衆の寿命>とあったものが、数量を言う時は<声聞・菩薩、その数量りがたし>と天・人が抜けていることです。先に天と人は別ではなく「天人」だけであるという解釈も成り立ちます≠ニ書きましたが、もし「天・人」が「天人・人々」の別であれば、数量を言う時に「人々」が抜けるはずはありません。これを見ても「天人」だけとする解釈の方が正しいことが解るでしょう。
では寿命においては「声聞・菩薩・天人」であったものが、どうして数においては「声聞・菩薩」のみなのでしょうか。これは、阿弥陀仏より回向された寿命≠フ中には、可能性や種や徳として宿っているもの全てを含んでいるため天人も含まれているが、いよいよ現実に阿弥陀仏の寿命が回向された存在として数える時には天人は外される、ということでしょう。なお「その数量りがたし」については次章で詳説しますが、{声聞無量の願}が成就した上で、実際に仏法が転じられている果報を言います。
<神智洞達して、威力自在なり。よく掌のうちにおいて、一切世界を持せり>
(それらの聖者たちは智慧が深く明らかで、自由自在な力を持ち、その手の中にすべての世界をたもつことができるのである)
この「一切世界を持せり」の主語は誰でしょう。阿弥陀仏でしょうか、声聞・菩薩でしょうか。
現代語版では「それらの聖者たち」、つまり「声聞・菩薩」が主語となっていますが、いくら浄土の声聞・菩薩でも「一切世界を持せり」は言い過ぎではないかと思われます。阿弥陀仏より回向された無量のいのちを身に満たしている≠ニいっても、ひとり一人が実際に「その手の中にすべての世界をたもつことができるのである」と断言できるのでしょうか。
もちろん、浄土の徳分としては断言できるので「それらの聖者たち」という訳が間違いとは言い切れませんが、念仏者がそこまで責任を持つというのは少し飛躍があるようにも思えます。
この点、島田幸昭師も以下のように訂正を促してみえます。
今まで私が見た範囲では、皆これがお浄土の声聞・菩薩の徳だとこう書いてあるんであります。ところが、どうも読んでみますとそうではなしに、これは「また声聞・菩薩、その数量り難く、称説すべからず」とこう書いて、切れて元へ戻って、阿弥陀仏の徳が寿命の徳が阿弥陀の仏のいのちの徳が「神智洞達し威力自在なり」と。そして、掌(たなごころ)の中に掌に、一切世界を持っておるんだとこう読んでいったら自然ではないかとこう思うんであります。これもまた、そういうことを言った人があるかどうかは分かりませんけれども、どうもこれでは、今までの人の読み方をしておったのでは、どうもこの文章が無理があるような感じがしますから。
そうすると、これは何が言いたいのかというと、実はいのちと言うてもただ単に息をするといういのちではないのです。だから、一切世界を持っておるという。ただお浄土だけではない。阿弥陀仏は、お浄土を持っておるだけではないのです。一切世界を掌に持っておるということは、実は迷いの世界だろうが、迷うておる人間だろうが、「三界は我が有(う)なり」。「三界」とは、「欲界・・色界・無色界」で、ほかの言葉で言うなら迷いの世界。五道、六道、全部それが私の世界だと抱き。だから「三界は我が有なり」、その中の衆生は一人残らず私の子だと一切衆生を皆、抱き取ったと言う。それが仏のいのちが仏のいのちに支えられて、掌(てのひら)でこう支えておるのです。だから、私たちが気がついてみるとみんな現在、仏のいのちの中にみんな支えられておるんだということを、まず言っておられるのだと思うんであります。
<中略>だから、私が知らざるときのいのちも仏のいのちと、こうおっしゃったように、この場合、息をするのではないのです。これは私たちが気がついてみたら、「一切衆生、悉有仏性」でしょう。子供のときから「いい子になりたい、いい子になりたい」というこの心さえも、「幸せになりたい、幸せになりたい」というこの心さえも、皆これが仏のいのちに支えられておる姿だということをおっしゃっておられるのだと思うんであります。
そういうわけで、まず仏のいのちとは、そういうように私の気がつかないところまでもちゃんと仏のいのちが染み通ってきておるのだということをここで念を入れておっしゃっておるんだ。しかも、それが、ただ支えておるのではないのです。「神智洞達」でありますから、ちゃんとかゆいも痛いも知り尽くして、その上でこの人はこの人、あの人はあの人、皆「青色青光、白色白光」の宿業、一人一人の宿業を見極めた上で一切衆生皆、支えておられるのだとこういうことを言おうとして、こういう言葉が出てきておるのではないだろうかと思うわけであります。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
おそらくこの通りなのでしょう。「三界は我が有なり」は、たとえ浄土といえども声聞には荷が重過ぎます。ただし、阿弥陀仏の<一切世界を持せり>の徳を回向された私たちにとっては、有縁の中では「我が有なり」の心がけを持ちたいものです。自分の関わっている人間関係の中で他人のことは興味なし≠ナ、自分の利益確保ばかりに動くのでは往生を願う意味がありません。子どもにとっての親心は、やがて親にとっての親心となるように、阿弥陀仏の寿命無量が回向された念仏者は実際、狭量な価値観を破って、広く人々を認め持する境地になる願いを発こしてゆくものなのです。
もし声聞地、および辟支仏地に堕するは、
これを菩薩の死と名づく。すなはち一切の利を失す。
もし地獄に堕するも、かくのごとき畏れを生ぜず。
もし二乗地に堕すれば、すなはち大怖畏となす。
地獄のなかに堕するも、畢竟じて仏に至ることを得。
もし二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す。
仏みづから『経』(清浄毘尼方広経)のなかにおいて、かくのごとき事を解説したまふ。
人の寿を貪るもの、首を斬らんとすればすなはち大きに畏るるがごとく、
菩薩もまたかくのごとし。もし声聞地、
および辟支仏地においては、大怖畏を生ずべし
『助道法』(菩提資糧論)
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