ご本願を味わう

『仏説無量寿経』3b

【浄土真宗の教え】

巻上 序分 発起序

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【三】 ・・・ここに世尊、阿難に告げてのたまはく、「いかんぞ阿難、諸天のなんぢを教へて仏に来し問はしむるか。みづから慧見をもつて威顔を問へるか」と。阿難、仏にまうさく、「諸天の来りてわれを教ふるものあることなし。みづから所見をもつてこの義を問ひたてまつるのみ」と。仏のたまはく、「善いかな阿難、問へるところはなはだ快し。深き智慧、真妙の弁才を発し、衆生を愍念せんとしてこの慧義を問へり。如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。無量億劫にも値ひがたく見たてまつりがたきこと、なほ霊瑞華の、時ありて、時にいまし出づるがごとし。いま問へるところは、饒益するところ多し。一切の諸天・人民を開化す。阿難、まさに知るべし。如来の正覚は、その智量りがたくして、〔衆生を〕導御するところ多し。慧見無碍にして、よく遏絶することなし。一ザンの力をもつて、よく寿命を住めたまふこと、億百千劫無数無量にして、またこれよりも過ぎたまへり。諸根悦予してもつて毀損せず。姿色変ぜず、光顔異なることなし。ゆゑはいかん。如来は、定と慧と究暢したまへること極まりなし。一切の法において自在を得たまへり。阿難、あきらかに聴け、いまなんぢがために説かん」と。対へてまうさく、「やや、しかなり。願楽して聞きたてまつらんと欲ふ」と。

 『浄土三部経(現代語版』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【三】・・・そこで釈尊は阿難に対して仰せになった。
「阿難よ、天人がそなたにそのような質問をさせたのか、それともそなた自身のすぐれた考えから尋ねたのか」
 阿難が答えていう。
「天人が来てわたしにそうさせたのではなく、まったく自分の考えからこのことをお尋ねしたのでございます。
 そこで釈尊は仰せになった。
「よろしい、阿難よ、そなたの問いはたいへん結構である。そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で、人々を哀れむ心からこのすぐれた質問をしたのである。如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。このような仏のお出ましに会うことは、はかり知れない長い時を経てもなかなか難しいのであって、ちょうど優曇華の咲くことがきわめてまれであるようなものである。だから、今のそなたの問いは大きな利益をもたらすもので、すべての天人や人々をみな真実の道に入らせることができるのである。
 阿難よ、知るがよい、如来のさとりは、はかり知れない尊い智慧をそなえ、人々を限りなく導くのである。その智慧は実は自在であり、何ものにもさまたげられない。わずか一度の食事によって限りない寿命をおたもちになり、しかも喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、輝かしいお顔も気高く、少しもお変わりにならない。なぜなら如来は禅定と智慧をどこまでもきわめ尽し、すべてを思いのままにする力を得ておいでになるからである。阿難よ、わたしはこれからそなたのために詳しく説くから、よく聞くがよい」
 阿難はお答えした。
「はい、喜んで聞かせていただきます」


 【大無量寿経点睛】(島田幸昭著『八葉通信』第11号) より

【大無量寿経点睛】
(4)法は永遠、機は常に今
経意
 世尊は「阿難、お前はへつらいやお愛想に問うたのか、それとも自分で見たままを問うたのか」。
阿難は「滅相もございません。私に他意や不純な雑念があってお尋ねしたのではございません。唯私の見たまま思うたままをお尋ねしたのでございます」。
仏は「よう問うてくれた。わしは大変嬉しいぞ。これは心の眼が開いていなければ見えず、深い智慧がなければ言葉にはならない。お前の問いはここにいる全ての聴衆の心の眼を開いて、自覚にまで高めることになるのであろう。
 わしがこの世に出たのは、多くの人々が自分が見えず人生も解らず、徒に迷い悩んでいるのを見て、じっとしておれぬ無蓋の大悲から、人間として生きるまことの道を明らかに教えて群萌を救い、真実の幸せを得させたいからである。如来の出世に値[あ]うことは無量億劫にも難く、また如来に見[まみ]えて法を聞くことはなお難い。あたかも霊瑞華が時たま咲くようなものである。阿難、今お前が問うたことは、富める者も貧しい者も、閑のある人も閑のない人も、智者も愚者も、一切の人々が救われる新しい歴史の扉を開く、画期的な事件になるであろう。
 阿難、よく聞いて忘れるなよ。如来のさとりはその智慧は深くして量りなく、どんな人をも導くことができる。また慧見は明らかで碍りなく、どんな事件も解決できぬことはない。そして唯一食の力で寿命を保つことは億百千劫それよりも遙かに超えている。全身は常に悦びに満ちて衰えることはなく、肌の色が変わることも、顔の輝きが異なることもない。それは如来の三昧と智慧は透徹して極まりなく、この世の一切のことに自在であるからである。
 阿難、諦らかに聞け。今お前の問いの中にある一大事因縁を説くであろう」。
阿難は「どうぞお願いします。楽しんでお聞かせ頂きます」。

【科段】 ここと前月号の一段は、どうしてこの経が説かれることになったのか、また今日の私たちとどう関係するのかという大事なところですが、経文が解り難いので、私は大胆に訳しましたから、お経を目の前に置いて経文と見合わせながら読んで下さい。これから後も私の解説を離れて経文に重きをおいて下さい。
 今の所は二段に分かれていて、初めの釈迦が阿難に問うている所から「一切の諸天人民を開化する」という所までが、阿難と聴衆の気がついていない無意識の心を喚び醒まして、釈迦がこの世に出たのはこの経を説くためであることを説き、「阿難まさに知るべし」から後の文は、阿難が今日初めてと驚いたことを押さえて、如来のさとりはどういうものかを説くのです。

【諸天の教え】 経文の「諸天の教え」ということに解説者は皆困っているのですが、釈迦が、阿難の問いが阿難が見たまま思うたままであることを確かめ、それによって、一万二千の聴衆の一人ひとりに、阿難の問いは自分の感じていることを判[はっ]きり言葉として言い現わしてくれたことを自覚させるためですから、私は「諸天の教え」ということを「へつらい」とか「お愛想」と訳したのです。そのことは、親鸞が「阿難とは聞法歓喜と訳す」といい、『観経』の「アジャセとは一切衆生に名づける」といって、「経に阿難とあるのは、三千年昔の阿難ではない。法を聞くことを喜びとしているもののことであり、阿闍世とは後の世の私たちのことである」といっていることでも解るでしょう。

【出世の本懐】 ここに「如来無蓋の大悲を以て世に出る」とあるのを、今までは皆「如来」を普通名詞の三人称と解釈して、仏一般として「したもう」と敬語を使っているのですが、ここは釈迦が自らのことを如来といったので、釈迦自身がこの世に出たことをいっているのです。「三界を矜哀する」を徳川時代では全ての学者が、「私たちが迷いを迷いと知らず生きているので、『そこは迷いの娑婆であるぞ』と教えて、どこかの世界へ連れてていくこと」といってきたのですが、それは現実の人生からの逃避で、世捨て人の悪魔外道の教えです。それは問題の解決ではありません。
仏教は内道といって、与えられた環境や境遇はそのまま受けて、自分が、光明のお育てによって心の眼を開き、仏の智慧が自分の智慧となって生きることで、今までとは違った人間になることです。親鸞も「信心開発した人は凡夫ではない菩薩である。それも上位の正定聚不退転の菩薩である」といっています。ここに「道教を光闡し」とあるのを、ほとんどの学者が「聖道自力の教えを説いた」といっていますが、これも人間としてこの世に生きる人の道のことです。
また「群萌」は衆生と同じ意味で、私たち人間のことですが、今までは群がり萌え出る者と訓んで、雑草のことといって、「雑草は、梅や桜のように人から讃められもせず、むしろ踏みにじられる存在である。けれども踏まれても蹴られても、いよいよ深く根を張って逞しく生きる、われら民草のことである」といってきましたが、それは僻み根性か、それとも人間をよく知らぬ学者の眼です。それを存覚上人唯一人、「人間は外観はどうあれ、どんな人も法の雨に遇えば、必ず仏道の芽を生ずるから、われわれ人間のことを群萌と説かれたのである。経に一切衆生に悉く仏性があると説いているのもこのことである」といっています。
「群萌を救う」とは、死後にどこかの世界へ生まれさせることではありません。「真実の利を恵ま」れることです。真実の利とは本当の幸せのことです。全ての人は、意識無意識の違いはあっても、皆幸せを求めている存在です。しかし幸せとは何かを知っている人は極めて稀です。『アラビアンナイト』も、メーテルリンクの『青い鳥』のチルチル、ミチルも、幸せを探し求めてさまようて、「明日になったら、あの山を越えたら」と、幸せを未来に尋ねたり、「昔はよかった、戦争以前はよかった」と過去の憶い出に浸っても、目醒めてみればみなぬか喜び、「幸せの光はわが家にあった」といっています。
中国人は「旬日春を尋ねて春を得ず。春は枝頭にあってすでに十分」(幸せは求めるから逃げ水のように逃げる。春は向こうから野にも山にもわが家にもやってくる)と。日本の古代では「紅葉の錦神のまにまに」(我々が願わんでも「天然の美」か神の仕業か、幸せは与えられている)と満足しているが、ほとんどの人々は「山の彼方の空遠く、幸い住むと人のいう。ああ我ひと共に求め行きて、涙さしぐみ帰り来ぬ。山の彼方になお遠く、幸い住むと人のいう」と、大きな溜め息をついている。この世に絶望した多くの人は「不老不死の水」を死後に求めて、仏にすがっていた。
近世になってポチを連れていた「花咲爺」さんは、「幸せは天からは降っては来ぬ。いつも自分の立っている足元を掘れば、幸せは大地から湧いて出る」といい、「越後の獅子」は「体当たりで一所不在の旅に出よ。自分自身こそ幸せの花である」と教えているが、さて手に入った幸せとは、果たしてどんなものであったのだろうか。私たちが幸せと掴んだものは、悉く幸せに似ている幸せの隣のもので、仮の宝です。心から満足できるものは一つもありません。それどころか、気がついてみれば副作用に毒されたり、却って大切なものを失っています。ここにいう真実の幸せとは、それさえあれば決して不幸せに陥ることのないもので、親鸞も「苦しみを転じて楽しみとなし、悪を転じて徳を成す打出の小槌である」といっています。それだけではない、「人間の求めたものより遥かに大きなものが与えられる、真実の宝である」といっています。
 「無量億劫にも値い難く、見[まみ]えることも難い」とは、「如来の出世に遇うことも難いが、たとい出世に遇えたとしても、如来ということが解らず過ごし、たとい法を聞いても、自分の心の眼が開くことがまことに難い」それは「霊瑞華」のようなものである。霊瑞華とは優曇華のことで、一般では三千年に一度開くといわれていますが、華が開くのではない、華を見る眼が開くのです。優曇華は無花果科の華で、私たちが実と思って食べている、あれが花です。皮を被っているから花と気がつかぬのです。それは「値い難し」という値の字がそれを現しているのでしょう。値は人の値打が解ることで、たとえば親の値打は親が生きている時は解らぬが、親が死んで初めて親の尊さがわかる。お金も有る時は湯水のように使うが、無くなって初めてお金の有難さが解ると同じことです。
自分の眼が開けぬば仏も浄土も見えません。しかし後白河法皇撰の『梁塵秘抄』に「ほとけは常にいませども、現つならぬが哀れなる。人の音せぬ暁に、仄かに夢に見えたもう」というのとは違います。先月号の「仏仏想念の世界」の世自在王仏の徳でなければ法蔵菩薩は誕生せず、法蔵菩薩の眼でなければ世自在王仏の徳は見えない」という、徳と眼の関係です。

【如来の覚り】 ここからは仏に値うことが難しいことを受けて、阿難が今日初めてということに対して、仏の覚りとはどういうものかを説くのです。ここの「如来」も仏一般のことに違いありませんが、釈迦自身が「わしのさとりは」という意です。智慧そのものは深くして底なく、多くの人を教え導き、自分自身日常の生活に生きることに行き詰まることはない。

【一食の力】を以てよくいつまでも生きることが出来、姿形も常に生き生きとしていて、気力も衰えることはない。肌の色もいつも艶つやしていて、顔も光り輝いている。何故かといえば、如来は常に三昧に住していて、心は寂かで、何ものにも動揺されることはない。その智慧はどんなことをも見極めることができ、一切の事件に自在であるからである。ここに「一食の力」というのは、体の食べ物のことではない、心の食べ物でさとりのことです。覚りは一遍心の眼を開けば、浄土の歴史的寿が自分の今を生きる生きる命となるから、永遠に迷いに転落することはない。それどころか、日常生活に当面する一つ一つの事柄によって、日々新たに、三昧と智慧をより深めて行くことができることです。ここは「法は永遠、機はいつも今」ということをいっているのです。

【阿難よ、諦かに聴け】 ここまで説いて、釈迦は改めて阿難の名を呼んで「諦かに聴け。これからお前のために説くぞ」といっています。一万二千の聴衆は釈迦の念頭から消えたのでしょうか。違います。恐らくこれは法の伝授は、一対一の師資相伝のものであることを現しているのでしょう。昔から法を聞くのに「お相伴」に聞くことを「盗み聞き」といって、「悪銭は身につかず」と誡めています。このことは経の終わった時、この経が聴衆にどのように受けとられているかを、必ず「得益文」として説いています。
 また法を説く者の心得として、「説法は空から灰を播くような説き方をしたのでは説いた効がない。必ず一対一のつもりで説け。そのためには、演台に立った時、素早く正面と右と左に一人ずつ、よく聞く熱心な同行を見定めて、その人と対話するような心持ちで法は説かねばならぬ」と教えています。
 阿難は釈迦のこの言葉を聞いて「願楽欲聞」といっています。何故願うということを三つも重ねて言わせたのでしょうか。「願」は行願で、ただ聞くのではない、はっきりした目的があって願うこと。「楽」は前に聞いたことを重ねてもう一度楽しんで願うこと。「欲」は飢えたものが食を求めるように貪るように欲しがることです。
 私は母から「仏法は初めて聞いたのでは解るものではない。たとい前の生で祇園精舎の軒下に巣をかけていた雀であってもよい、お釈迦さまの説法を言葉は解らんでも、声だけでも聞いたものが、この世で重ねて法を聞けば解る」と教えられました。経にはそのことを「前の生で何千何万という仏から法を聞いたものが重ねて聞いた時だけ、心の眼が開ける」と説いています。
 いよいよこれから法蔵菩薩の誕生です。

 『三経要義』本願寺出版社/中央仏教学院 より

 そこで釈尊はその理由を説明して、次のごとく述べられたのである。

如来以無蓋大悲矜哀三界所以出興於世光闡道教欲拯群萌恵以真実之利

されば釈尊の返答によれば、釈尊がこの世に出現されたのは余他の仏法を説くのが目的ではなく、それはみな弘願の教法を説くための方便階梯であって、釈尊の此土出現の目的は一つ、この弘願法たる大経を説くためであることを知り得るのである。ここにおいて阿難は、釈尊出世の目的である勝法を聞かせて頂きたいと願い、ここにいよいよ大経正宗分の説法が開かれるのである。
 宗祖は『本典』教巻に、「如来無蓋大悲」等の文及び、五徳瑞現の文を引用して、大経の出世本懐なることを示しているが、五徳瑞現の文をもって、本懐論の証明とするのは、この文によって大経説法の釈尊が余他の経典を説法せられた釈尊とその資格が異なり、本地仏たる阿弥陀仏と不二一体の格位にあることを表さんとするのである。

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