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ご本願を味わう
『仏説無量寿経』17
【浄土真宗の教え】
巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳1
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 巻上
阿難、かの仏国土にもろもろの往生するものは、かくのごときの清浄の色身、もろもろの妙音声、神通功徳を具足す。処するところの宮殿・衣服・飲食・衆妙華香・荘厳の具は、なほ第六天の自然の物のごとし。もし食せんと欲ふ時は、七宝の鉢器、自然に前にあり。金・銀・瑠璃・シャコ・碼碯・珊瑚・琥珀・明月真珠、かくのごときの諸鉢、意に随ひて至る。百味の飲食、自然に盈満す。この食ありといへども、実に食するものなし。ただ色を見、香を聞ぐに、意に食をなすと以へり。自然に飽足して身心柔軟なり。味着するところなし。事已れば化して去り、時至ればまた現ず。かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥オンの道に次し。そのもろもろの声聞・菩薩・天・人は、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形に異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、天・人の名あり。顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 巻上
阿難よ、無量寿仏[の国に往生したものたちは、これから述べるような清らかな体とすぐれた声と神通力[の徳をそなえているのであり、その身をおく宮殿をはじめ、衣服、食べものや飲みもの、多くの美しく香り高い花、飾りの品々などは、ちょうど他化自在天[のようにおのずから得ることができるのである。
もし食事をしたいと思えば、七つの宝でできた器がおのずから目の前に現れる。その金・銀・瑠璃[・シャコ・瑪瑙[・珊瑚[・琥珀[・明月真珠[などのいろいろな器が思いのままに現れて、それにはおのずからさまざまなすばらしい食べものや飲みものがあふれるほどに盛られている。しかしこのような食べものがあっても、実際に食べるものはいない。ただそれを見、香りをかぐだけで、食べおえたと感じ、おのずから満ち足りて身も心も和らぎ、決してその味に執着することはない。思いが満たされればそれらのものは消え去り、望むときにはまた現れる。
まことに無量寿仏の国は清く安らかであり、美しく快く、そこでは涅槃[のさとりに至るのである。その国の声聞・菩薩・天人・人々は、すぐれた智慧と自由自在な神通力をそなえ、姿かたちもみな同じで、何の違いもない。ただ他の世界の習慣にしたがって天人とか人間とかいうだけで、顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない。すべてのものが、かたちを超えたすぐれたさとりの身を得ているのである」
前章までは本願成就の果報を浄土荘厳の内容によって学び歎じましたが、本章からしばらくは、浄土に往生した眷属(御同朋)の荘厳によって浄土の功徳を学びたいと思います。これによって念仏者本来の人生とはどのようなものかが具体的に示されます。
なお曇鸞大師も『往生論註』『論註』観察門 器世間「荘厳眷属功徳成就」において眷属功徳を解釈し、天親菩薩が「如来浄華[の衆は 正覚の華より化生[す」と肝心要を論じられている訳を明かしてみえます。
- 註釈版
- 阿難[、かの仏国土にもろもろの往生するものは、かくのごときの清浄の色身[、もろもろの妙音声[、神通功徳[を具足[す。処[するところの宮殿[・衣服[・飲食[・衆妙華香[・荘厳[の具は、なほ第六天[の自然[の物のごとし。
- 現代語版
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阿難[よ、無量寿仏[の国に往生したものたちは、これから述べるような清らかな体とすぐれた声と神通力[の徳をそなえているのであり、その身をおく宮殿をはじめ、衣服、食べものや飲みもの、多くの美しく香り高い花、飾りの品々などは、ちょうど他化自在天[のようにおのずから得ることができるのである。
<かの仏国土にもろもろの往生するものは、かくのごときの清浄の色身[>の「色身」は「物質的な身体」ですから、誰もが良く知っている「肉体」、生きて活動する血肉や骨や皮や内臓や神経などでできている身体のことです。浄土に往生した者たちは清らかな肉体をもっている、ということですから、浄土に往生する者はみな生きて活動する者たちに他なりません。死んだ後に浄土に往生する訳ではない、ということがこの一文でも証明されるでしょう。
ただし「私は既に往生している」とか「私は信心獲得者だ」と誇った者は邪[な邪定聚[です。なぜなら邪見驕慢の悪衆生は往生を願う願心が朽ちてしまっているからです。そうではなく「願いの中にこそ成就あり」で、真に浄土往生を願い続けることそのものが往生(願往生・願生)なのです。この願いの深さを経典では臨終の名において語るのですが、言葉を理屈で解釈し「往生は死後である」と断定してしまえば願いが切実さを失ってしまいます。
浄土を浄土と願わしめて穢土があり、穢土を穢土と知らしめて浄土あり≠ナすから、私たちは願いの中で往生は成就しているのですが、それは穢土の苦悩あればこその願いですから、丸々浄土でもなければ丸々穢土でもないのです。
願往生心の定まった正定聚[の信心者は「清浄の色身[」がそなわるということですが、これは{具足諸相の願}の果報により念仏者が「三十二大人相」を得ることを言います。実際、真実信心者は確実に素晴らしい形相を得ることが適います。私事になりますが、学生の頃、教えの問題で様々不信を抱いて悩んでいた頃、本山で出遇った一人の老人のお顔が素晴らしく柔和な深みを湛えてみえることに驚き、このような素晴らしいお姿の信徒を生み出す宗旨ならば教えを真剣に学ぶべきだ≠ニ翻[ったことがあります。
思い返せば、『仏説無量寿経』が説かれた経緯も、釈尊の「姿色清浄[ 光顔巍巍[」たるお姿に阿難が驚き問うたことから始まるのであり(参照:{発起序}) 、法蔵が世自在王仏に出会ってまず驚いたのはそのお姿が「光顔巍々[ 威神無極[」であることでした(参照:{讃仏偈})。
<もろもろの妙音声[>は、先の三十二大人相のうち「梵声相[]を言うのでしょう。これはすばらしく良く通る声≠ナあることを称えるのですが、オペラ歌手のような美声や大声というより、発する声も言葉もまごころから出て深みがある≠ニいうことを言い、そのために広く伝わり人々を安穏ならしめるのでしょう。そういう意味では{得弁才智の願}や{弁才無尽の願}も関連する功徳です。
<神通功徳[を具足[す>
「神通」とは「六神通」で――宿命通[(参照:{令識宿命の願})/
天眼通[(参照:{令得天眼の願})/
天耳通[(参照:{天耳遙聞の願})/
他心通[(参照:{他心悉知の願})/
神足通[(参照:{神足如意の願})/
漏尽通[(参照:{不貪計心の願})
を言います。こうした六神通が念仏者にそなわるということですが、全体として言えば「すぐれた智慧に基礎づけられた自由自在な活動能力」であり、具体的には一切衆生の立場と本音が御同朋として共感され、一切衆生を御同行と仰ぎ褒めあいながら共に歩むことができる≠ニいうことでしょう。こうした敬虔な能力が、浄土の功徳として念仏者にふり向けられて具わるのです。
<処[するところの宮殿[・衣服[・飲食[・衆妙華香[・荘厳[の具は、なほ第六天[の自然[の物のごとし>
第六天は欲界の最高処で、他の天界の神々がつくり出した欲境(欲望の対象)を自在に受けることができる境涯や環境をいいます。ただし第六天は魔王の住処でもあるため魔天ともいい、本来は充分注意をして過ごさねばならない危険な状態なのです。ではなぜこのような第六天を浄土功徳の譬えに持ち出されてあるかと言いますと、浄土の功徳は迷った人間には理解し難く、真実のみを述べれば衆生はそっぽを向いてしまいますので、似て非なる功徳として第六天を譬えに出し、身を乗り出してたところに浄土功徳の真相を説くのでしょう。
物や精神が豊富に整うことが第六天であるとすれば、あらゆる物や精神を最高の宝として活かすことができるのが浄土です。私にとって本当に必要なものは金品や知識ではありません。私を本当に導く言葉は饒舌からは生まれません。たった一つのものでも、たった一言でも、真心が通う中では人生を変えるほどの宝となります。曇鸞大師は<他化自在天の金を安楽国中の光明に比するにすなはち現ぜず>と解釈されてみえます(参照:{『論註』観察門 器世間「荘厳妙色功徳成就」})。
「宮殿[」は前章にありましたように、浄土の果報として居場所や落ち着き場所が与えられることを言いますが、講堂[・精舎[・宮殿[・楼閣[・浴池[全てを「宮殿」が代表しているのでしょう。すると、広く法を学び、論じ、修行する場があり、仏性の果報として様々な楽しみを得ることができる≠ニいうことを「宮殿」ひとつで表していることになります。
「衣服[・飲食[・衆妙華香[」については、{正宗分 法蔵修行 #無尽蔵の宝を衆生に恵む} に法蔵菩薩の修行として行じられていたものが、いよいよ一切衆生に開かれた環境の徳として成就したことを告げています。仏の功徳が環境の徳として成就してこそ、私たちは安心してこれを頼りにすることができるのです。内容が重なりますが、この中で「衣服」は懺悔を象徴し(参照:{衣服随念の願})、「飲食」は<『経』のなかに命を説きて食とす>とある通り、仏の命である菩提心を象徴し(参照:{地獄・極楽の食事風景})、「衆妙華香」は(言動等により)功徳が心地よく衆生に回施されることを象徴しています。
- 註釈版
- もし食[せんと欲[ふ時は、七宝の鉢器[、自然[に前にあり。金[・銀[・瑠璃[・シャコ・碼碯[・珊瑚[・琥珀[・明月真珠[、かくのごときの諸鉢[、意[に随[ひて至る。百味[の飲食[、自然に盈満[す。この食ありといへども、実[に食するものなし。ただ色を見、香[を聞[ぐに、意に食をなすと以[へり。自然に飽足[して身心柔軟なり。味着[するところなし。事已[れば化して去り、時至ればまた現[ず。
- 現代語版
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もし食事をしたいと思えば、七つの宝でできた器がおのずから目の前に現れる。その金・銀・瑠璃[・シャコ・瑪瑙[・珊瑚[・琥珀[・明月真珠[などのいろいろな器が思いのままに現れて、それにはおのずからさまざまなすばらしい食べものや飲みものがあふれるほどに盛られている。しかしこのような食べものがあっても、実際に食べるものはいない。ただそれを見、香りをかぐだけで、食べおえたと感じ、おのずから満ち足りて身も心も和らぎ、決してその味に執着することはない。思いが満たされればそれらのものは消え去り、望むときにはまた現れる。
このことは以前、{地獄・極楽の食事風景}に詳説しましたので参照していただきたいと思いますが、再掲載しますと――
ここでは食事をしたいと思えば、最高級の器も、最高級の食事や飲み物も思いのままに得ることができる。しかし実際にはご馳走を食するものはいない。ただ食事を見て香りをかぐだけで満足し、身も心も和らぎ、味に執着することはない。すると食事は消え去り、望めばまた現れる≠ニ説いてあります。これは仙人のように霞[を食べていることを言うのではありません。「極楽」が「真実願土」であり同時に「真実報土」であるゆえに、住民は食事を見て香りをかぐだけで満足するのです。
また『涅槃経』迦葉品には、<『経』のなかに命を説きて食とす>とあり、因果の差はありますが、「食」は「仏の命」の意味を持ちます。
さらに言えば、極楽のご馳走を口にしてしまう者は真実信心のない不定聚・邪定聚の退転の菩薩で、極楽の辺地にある閉じた蓮の莟[の中に胎生し、五百年間のあいだ七宝の宮殿が牢獄ともなり、仏・菩薩を見ることなく、如来の教えを聞くことも適わず、諸仏を供養できず、功徳を積むことができません。「実[に食する」とは「法執」を意味するのでありましょう。宗教の中で最も頑迷で恐ろしいのがこの「法執」で、教義を盾に他人の迷惑や痛みを省みない宗教者は実に多いものです。
このことは曇鸞大師も、<浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪[るために往生を願うのであれば、往生できないのである>と忠告され、如来回向の無上菩提心を起こさねばならぬ道理が説かれています。ちなみにこの「無上菩提心」は「願作仏心」であり、同時に「度衆生心」でもあります。
(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?})
この「無上菩提心」を起こした菩薩こそ正定聚の菩薩であり、極楽の池に咲いた蓮の華の上に化生し、ただちに仏・菩薩と遇い、阿弥陀如来より直接教えを聞き、諸仏を供養し、功徳を積むことができるのです。
正定聚の菩薩が食事を口に運ばないということは、仏法や学びに関しても貪[りを嗜[める意があるのでしょう。また、仏法を個人や組織で独占しないことも意味します。仏法を学んでも自分だけの利益として貪り求めることなく、浄土の様々な功徳を得ても執着することなく、一切衆生とともに「みなまさに往生すべし」との願いを受けているため口に運ばないのでしょう。
<百味[の飲食[、自然に盈満[す>につきましては、島田幸昭師の講話に詳しくあります。
本当のご馳走というものは、ただ単に食べる中の品物がご馳走でなしに、器もご馳走、今度はそのお膳もご馳走、今度はその周囲もご馳走、家もご馳走。出してくださる人のお気持ちもご馳走。何もかもが整わなければ、本当のご馳走にならない。こういう意味で百味の飲食というものが、そこにもてなしてくださる相手のほうもでありますけれども、またこっちの受け取るほうも両方が心と心が肝胆相照らすか、感応道交しなかったならば、本当のご馳走にならない。そういう意味のことをここでおっしゃっておるんだなと思うのでありますが。私たちの実際の生活において、それでよかろうと思うております。
<中略>
したがって、これ全部、これは私の日常生活がお金があっても本当の幸せにならない。なんぼ学問があっても器量がようても、それだけでは決して幸せになれない。そういうように皆、仮の幸せだから。それを本当の幸せにする打ち出の小槌というものが、それがお念仏であるという、そのお念仏もただ口で南無阿弥陀仏と唱えるんじゃない。お浄土の徳の働くお念仏。だから、本当のお念仏は親鸞聖人がおっしゃるように「この行はもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海」とおっしゃっておるように、これはお浄土が働く姿だから。大行ですから。お浄土の不可称不可説不可思議の功徳の働く姿がお念仏でありますから、あらゆるものを転じて本当に幸せにすること。そういう、ただ幸せじゃありません。道なら道。道というものを道徳とか、あるいはいろんな道があります。人間の道がありますけれども、そういう道を本当の道にするものが、お念仏であるというお経の説き方でありますから、そこで一つの例として、それが出てきておるわけであります。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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このように、「七宝の鉢器[」や「百味[の飲食[」といえども、大金をかけて集めたもの≠ニいうより心尽くしと手間をかけて用意されされたもの≠ナありましょう。佐賀のがばいばあちゃん≠ナおなじみの徳永サノさんは、「貴重品は、物だけじゃないよ。笑顔・親切・やさしさ・人の心もだよ」と仰ってみえます。
またこうした心尽くしを受け取る側も、それを充分感じ入ることができるかどうかが問われます。「たったこれだけか」などと不満を感じたり、せっかくの内容を未消化に終わらせてしまっては、宝が活きてきません。この心尽くしをもって我が人生と糧とし、一切衆生に頂いた真心を捧げます≠ニ手を合わせ、「済みません」の気持ちで受け取ることで全てが適うのです。
また、真心を頂いたということで何かお返しをなければ≠ニ重荷に感じることも執着のひとつです。互いにこうした恩着せがましい気持ちがないことを<味着[するところなし。事已[れば化して去り>というのでしょう。
ただし、執着がないから真心が消えてしまうのではありません。<時至ればまた現[ず>で、必要な時になれば、ああ、あの時頂いた心尽くしを、ここで発揮させてもらおう≠ニいう形で真心が蘇るのです。
- 註釈版
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かの仏国土は、清浄安穏[にして微妙快楽[なり。無為泥オン[の道[に次[し。そのもろもろの声聞[・菩薩[・天・人[は、智慧高明[にして神通洞達[せり。ことごとく同じく一類[にして、形に異状[なし。ただ余方[に因順[するがゆゑに、天・人の名あり。顔貌端正[にして超世希有[なり。容色微妙[にして、天にあらず人にあらず。みな自然虚無[の身、無極[の体[を受けたり」と。
- 現代語版
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まことに無量寿仏の国は清く安らかであり、美しく快く、そこでは涅槃[のさとりに至るのである。その国の声聞・菩薩・天人・人々は、すぐれた智慧と自由自在な神通力をそなえ、姿かたちもみな同じで、何の違いもない。ただ他の世界の習慣にしたがって天人とか人間とかいうだけで、顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない。すべてのものが、かたちを超えたすぐれたさとりの身を得ているのである」
<かの仏国土は、清浄安穏[にして微妙快楽[なり。無為泥オン[の道[に次[し>
「清浄安穏」はそのままの意味で、清らかであり安らかな環境であることを言います。「微妙快楽」は{『論註』観察門 器世間「荘厳無諸難功徳成就」}にも書きましたが、「法楽楽[」という求道の楽しみを中心とした快楽であり、そこには五官や名誉心などを充足する「外楽[」や、内面や精神面の楽しみを充足する「内楽[」のような執着性はありません。浄土には法楽楽も外楽や内楽もあるのですが、外楽を本当に活かして執着がなく、内楽を本当に活かして執着がない。全ての本質を活かすのが浄土であり、同時に清浄のはたらきで執着をなくすのです。こうした煩悩が無いことを<無為泥オン[の道[に次[し>と示し、真実念仏者である浄土の住民は涅槃に至った阿羅漢と同様に煩悩がほとんど無いことを説いています。ただしこれは、現実の念仏者に煩悩がなくなることを言うのではありません。我が煩悩を煩悩と知らしめる念仏の功徳を言うのです。煩悩は隠蔽され放置されると巨悪となります。煩悩を煩悩と知らしめる、ということがいかに大切かが解るでしょう。
安楽声聞[・菩薩衆[ 人天智慧[ほがらかに
身相荘厳[みなおなじ 他方に順じて名をつらぬ
浄土和讃22
顔容端正[たぐひなし 精微妙躯非人天[
虚無之身無極体[ 平等力を帰命せよ
浄土和讃23
<そのもろもろの声聞[・菩薩[・天・人[は、智慧高明[にして神通洞達[せり。ことごとく同じく一類[にして、形に異状[なし。ただ余方[に因順[するがゆゑに、天・人の名あり>
「智慧高明[にして神通洞達[せり」はそのままの意味で、浄土の住民は智慧や神通力(前節の六神通)も優れていることを言います。ここで問題なのは、声聞[・菩薩[・天・人[はどうして区別があるのか、ということです。
「ことごとく同じく一類[にして、形に異状[なし」とありますから、外側から見ても声聞や菩薩といった差は解らないが、「ただ余方[に因順[するがゆゑに、天・人の名あり」ということですから、極楽浄土に往生する以前の一般的な言い慣わしで仮に分けることも可能である≠ニいうのです。
ここは具体的には二通りの解釈があり、浄土と余方(他方)に時間的な差があり、余方の影響が残っている時間において菩薩・声聞・人・天と分ける≠ニする解釈、もう一つは同じ浄土の住民でも立場の違いから菩薩・声聞・人・天と分ける≠ニする解釈があります。
浄土は往生したらみな一様になって誰が誰だか解らなくなる≠ニいうところではありません。尊さはみな同じで最上に尊く輝く、ここに上下の差別はないのですが、「青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり」(『大経』21)と、各人の個性が最大限に発揮される環境です(参照:{無有好醜の願})。
ですから最初の時間的な差≠ニする解釈では、表面的には解らないが、往生以前の内容が名として残留している≠ニいう意味になりますし、後の立場の差≠ニする解釈では浄土の住民が聞法精神を発揮すれば声聞と名がつき、求道精神が発揮されれば菩薩と名がつき、人道として浄土の功徳を発揮すれば人と名がつき、浄土の土徳を楽しめば天と名がつく≠ニいうように、各人の立場に仮に名がついているという解釈になります。
<顔貌端正[にして超世希有[なり。容色微妙[にして、天にあらず人にあらず>
これはこの章の初めにありましたように、{具足諸相の願}の果報により念仏者が「三十二大人相」を得ることを言います。
<みな自然虚無[の身、無極[の体[を受けたり>
「自然」や「虚無」「無極」というのは、古来より「涅槃」と解釈されてきましたが、わざわざ「身」や「体」とあるのは、肉体的・精神的なものを背負い生きている「この身体」の問題でありましょう。親鸞聖人も心だけではなく身の問題を大事にされてみえました。生きて活動し労働する人々と歩まれた聖人ゆえでしょうが、これは浄土経典も同じです。
穢土においては様々苦悩が多く、人々は濁流に飲み込まれ、迷いに迷った挙句、浮かび上がることが適わないまま命を終えてしまいがちです。浄土の住民であっても、身体的・精神的苦痛はつねに降りかかってきます。しかしこうした苦痛を苦痛として留めないのが浄土の住人で、念仏とともに「お育てにあずかります」とつねに頭が下がり、苦悩や障害があってもそれが人生を歩む上では邪魔にはならないのです。
これが他人との関係においての「身」であればどうでしょう。たとえば世間一般では「他人に迷惑をかけないように生きろ」と言います。しかし誰でも、どう生きても、必ず他人に迷惑はかけるものです(参照:{「人に迷惑をかけるな」と言うけど})。ならばどうすれば良いのかというと、一見迷惑をかけているようでありながら、周囲の人たちは喜んでその迷惑を引き受けてくれる、そうした生き方ができることを「自然虚無[の身」と言うのでしょう。先師はこれを「あっても邪魔にならん。しかも、おらんことになれば、寂しくなるという、こういう人間になること。なかなかこれは修行が要りますよ」と仰いました。
最後の「無極[の体[」というのは、行く先々、その場その場一杯に人間としての華が咲く≠ニいうことです。人生には様々な浮沈がありますが、浮いた時は浮いた場にしっかり応じて人間としての華を咲かせ、沈んだ時は沈んだことを悲嘆せず沈んだ場に応じて人間としての華を咲かせる。また働きに出れば働き先で、家庭に帰れば家庭の中で、地域の活動に入れば地域活動の中で、国や世界を動かす問題に関わればそうした大きな場において、どんな場においても人間としての華を咲かせることができる。こうした柔軟で自在な身になることを「無極の体」と言うのでしょう。浮いて華々しくしていてこそ自分が発揮できる≠ニか、逆に目立たず隠れていた方が自分が発揮できる≠ニ固執する人も多いのですが、外側の条件が整わないと幸せに生きられないようでは、つねに自分の境遇に戦々恐々としていなければならず、本当の安心は得られません。
念仏者は自分から出しゃばるようなことはしませんが、浄土の土徳によって限りない智慧と徳を宿しておりますから、もし人から頼まれたりして必要が生じれば、どんな場でも、どんな境遇においても、浄土の智慧や徳を無限に発揮することが適うのです。
念仏者は本来、以上のような功徳を浄土の土徳として受け取ることが適うのでありますが、本来的にそうで「ある」ことが本当にそう「成る」≠フは、事実としてではなく、願いの成就によるものであります(参照:{『論註』観察門 器世間「荘厳一切所求満足功徳成就」})から、極楽浄土は「真実報土」であるとともに「願土」とも言えるのです。
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浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)