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ご本願を味わう

『仏説無量寿経』16

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 弥陀果徳 講堂宝池荘厳

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す。また真珠・明月摩尼の衆宝をもつて、もつて交露としてその上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。〔大きさ〕あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至百千由旬なり。縦広深浅、おのおのみな一等なり。八功徳水、湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味はひ甘露のごとし。黄金の池には、底に白銀の沙あり。白銀の池には、底に黄金の沙あり。水精の池には、底に瑠璃の沙あり。瑠璃の池には、底に水精の沙あり。珊瑚の池には、底に琥珀の沙あり。琥珀の池には、底に珊瑚の沙あり。シャコの池には、底に碼碯の沙あり。碼碯の池には、底にシャコの沙あり。白玉の池には、底に紫金の沙あり。紫金の池には、底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝、乃至七宝、うたたともに合成せり。その池の岸の上に栴檀樹あり。華葉垂れ布きて、香気あまねく熏ず。天の優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華、雑色光茂にして、弥く水の上に覆へり。かの諸菩薩および声聞衆、もし宝池に入りて、意に水をして足を没さしめんと欲へば、水すなはち足を没す。膝に至らしめんと欲へば、すなはち膝に至る。腰に至らしめんと欲へば、水すなはち腰に至る。頸に至らしめんと欲へば、水すなはち頸に至る。身に灌がしめんと欲へば、自然に身に灌ぐ。還復せしめんと欲へば、水すなはち還復す。冷煖を調和するに、自然に意に随ふ。〔水浴せば〕神を開き、体を悦ばしめて、心垢を蕩除す。〔水は〕清明澄潔にして、浄きこと形なきがごとし。〔池底の〕宝沙、映徹して、深きをも照らさざることなし。微瀾回流してうたたあひ灌注す。安詳としてやうやく逝きて、遅からず、疾からず。波揚りて無量なり。自然の妙声、その所応に随ひて聞えざるものなし。あるいは仏声を聞き、あるいは法声を聞き、あるいは僧声を聞く。あるいは寂静の声、空無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・無畏・不共法の声、もろもろの通慧の声、無所作の声、不起滅の声、無生忍の声、乃至、甘露灌頂、もろもろの妙法の声、かくのごときらの声、その聞くところに称ひて、歓喜すること無量なり。〔聞くひとは〕清浄・離欲・寂滅・真実の義に随順し、三宝・〔十〕力・無所畏・不共の法に随順し、通慧、菩薩・声聞の所行の道に随順す。三塗苦難の名あることなく、ただ自然快楽の音のみあり。このゆゑに、その国を名づけて安楽といふ。

 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 また、その国の講堂[こうどう]精舎[しょうじゃ]・宮殿・楼閣[ろうかく]などは、みな七つの宝で美しくできていて、真珠や月光摩尼[がっこうまに]のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている。
 その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬[ゆじゅん]から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水は実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露[かんろ]のような味をしている。
金の池には底に銀の砂があり、銀の池には底に金の砂がある。
水晶の池には底に瑠璃[るり]の砂があり、瑠璃の池には底に水晶の砂がある。
珊瑚[さんご]の池には底に琥珀[こはく]の砂があり、琥珀の池には底に珊瑚の砂がある。
シャコの池には底に瑪瑙[めのう]の砂があり、瑪瑙の池には底にシャコの砂がある。
白玉[はくぎょく]の池には底に紫金[しこん]の砂があり、紫金の池には底に白玉の砂がある。
また、二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある。池の岸には栴檀[せんだん]の樹々があって、花や葉を垂れてよい香りをあたり一面に漂わせ、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている。
 もしその国の菩薩や声聞たちが宝の池に入り、足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし、[ひざ]までつかりたいと思えば膝までその水かさを増し、腰までと思えば腰まで、さらに首までと思えば首まで増してくる。身にそそぎたいと思えばおのずから身にそそがれ、水をもとにもどそうと思えばたちまちもと通りになる。その冷たさ暖かさはよく調和して望みにかない、身も心もさわやかになって心の汚れも除かれる。その水は清く澄みきって、あるのかどうか分からないほどであり、底にある宝の砂の輝きは、どれほど水が深くても透きとおって見える。水はさざ波を立て、めぐり流れてそそぎあい、ゆったりとして遅すぎることも速すぎることもない。
 その数限りないさざ波は美しくすぐれた音を出し、聞くものの望みのままにどのような調べをも奏でてくれる。あるいは仏・法・僧の三宝を説く声を聞き、あるいは寂静[じゃくじょう]の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜[はらみつ]の声、あるいは十力[じゅうりき]無畏[むい]不共法[ふぐほう]の声、さまざまな神通智慧[じんずうちえ]の声、無所作[むしょさ]の声、不起滅[ふきめつ]の声、さらに無生法忍[むしょうぽうにん]の声から甘露灌頂[かんろかんじょう]の声というふうに、さまざまなすばらしい教えを説く声を聞くのである。そしてこれらの声は、聞くものの望みに応じてはかり知れない喜びを与える。つまりそれらの声を聞けば、清浄[しょうじょう]離欲[りよく]寂滅[じゃくめつ]・真実の義にかない、仏・法・僧の三宝や十力・無畏・不共法の徳にかない、神通智慧や菩薩・声聞の修行の道にかなってはずれることがないのである。
 このように苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえなく、ただ美しく快い音だけがあるから、その国の名を安楽というのである。


 講堂・精舎・宮殿・楼観・浴池の内容

 前章{道樹楽音荘厳} では道場樹(菩提樹)を行の象徴とし、自分自身の修行が法蔵菩薩の修行回向によって成就する≠ニいう内容を学びましたが、この章では、講堂宝池を法話・浄化の象徴とし、今生きて生活する場を清浄なる法話の現場と定めてゆく≠ニいう浄土の功徳を学びます。

註釈版
 また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す。また真珠・明月摩尼の衆宝をもつて、もつて交露としてその上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。〔大きさ〕あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至百千由旬なり。縦広深浅、おのおのみな一等なり。八功徳水、湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味はひ甘露のごとし。黄金の池には、底に白銀の沙あり。白銀の池には、底に黄金の沙あり。水精の池には、底に瑠璃の沙あり。瑠璃の池には、底に水精の沙あり。珊瑚の池には、底に琥珀の沙あり。琥珀の池には、底に珊瑚の沙あり。シャコの池には、底に碼碯の沙あり。碼碯の池には、底にシャコの沙あり。白玉の池には、底に紫金の沙あり。紫金の池には、底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝、乃至七宝、うたたともに合成せり。その池の岸の上に栴檀樹あり。華葉垂れ布きて、香気あまねく熏ず。天の優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華、雑色光茂にして、弥く水の上に覆へり。
現代語版
 また、その国の講堂[こうどう]精舎[しょうじゃ]・宮殿・楼閣[ろうかく]などは、みな七つの宝で美しくできていて、真珠や月光摩尼[がっこうまに]のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている。
 その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬[ゆじゅん]から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水は実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露[かんろ]のような味をしている。
金の池には底に銀の砂があり、銀の池には底に金の砂がある。
水晶の池には底に瑠璃[るり]の砂があり、瑠璃の池には底に水晶の砂がある。
珊瑚[さんご]の池には底に琥珀[こはく]の砂があり、琥珀の池には底に珊瑚の砂がある。
シャコの池には底に瑪瑙[めのう]の砂があり、瑪瑙の池には底にシャコの砂がある。
白玉[はくぎょく]の池には底に紫金[しこん]の砂があり、紫金の池には底に白玉の砂がある。
また、二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある。池の岸には栴檀[せんだん]の樹々があって、花や葉を垂れてよい香りをあたり一面に漂わせ、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている。

 阿弥陀仏の浄土には、<講堂[こうどう]精舎[しょうじゃ]宮殿[くでん]楼閣[ろうかく]>、そして<浴池[よくち]>があるというのですが、これらは具体的に何を表しているのでしょう。またこれらが自分自身の現実とどのように関わってくるのでしょうか。

講堂[こうどう]」には二種の意味があり、ひとつは「都市の公会堂」、もう一つは「経典を講じたり、法を説いたりする建物」で、ここでは主に後者を指します。ただし広義で「都市の公会堂」と理解しても良いでしょう。公会堂は常に開かれていて、いつでも誰でも中に入って休息することができ、宗教行事も行われる場所で、釈尊も各地の公会堂で説法したことがありました。ですからこの「講堂」は、法が講じられる場≠ナあると同時に法を広く論じる場≠表していると言えるでしょう。

精舎[しょうじゃ]」は、有名な祇園精舎[ぎおんしょうじゃ]もそうですが、修行者の住居・僧院という意味です。仏を安置し、仏法を念じ、僧たちが修行に励みながら共同生活する場所ですから、いわゆる寺院ということです。
 この「講堂精舎」を合わせれば、広く法を学び、論じ、修行する場≠ニいう意味になります。阿弥陀仏の浄土は{讃仏偈}に「われ仏とならんに、国土をして第一ならしめん。その衆、奇妙にして道場超絶ならん」とありますように、浄土は道場であり、身心の修行場という面を持ちます。それも山深い難行苦行の修行場ではなく、日々の生活が道場となった楽しい修行場です。

宮殿[くでん]」は浄土の果報[かほう]として居場所や落ち着き場所が与えられることを言います。与謝野晶子が「劫初[ごうしょ]よりつくりいとなむ殿堂[でんどう]に われも黄金[こがね]の釘一つ打つ」と歌った「殿堂」が「宮殿」です。具体的には人々の生活環境や文化文明や人生観の果報ですが、浄土の宮殿ですから、物体としての果報ではなく、「仏性」や「信心」といわれる真心の果報を言います。ただし「かの辺地[へんじ]の七宝の宮殿に生れて、五百歳のうちにもろもろの[わざわい]を受くることを得ることなかれ」(『仏説無量寿経』33巻下 正宗分 釈迦指勧 弥勒領解)と警告されているように、宮殿にあまり長く留まることは災厄につながる、ということは肝に銘じておかねばなりません。具体的には、浄土の果報を誇って安逸[あんいつ][むさぼ][][たしな]めているのです。

楼観[ろうかん]」は見晴らしの良い高殿[たかどの]で、天親菩薩は『浄土論』願生偈に「宮殿諸楼閣[くでんしょろうかく]にして 十方を[]ること無碍[むげ]なり」と示されています。浄土の詳細を学ばせていただいているうちに、浄土の功徳によっていつのまにか浄土全体が見えてくることを言います。いわば高殿に登って浄土を俯瞰[ふかん]できるようになる、浄土全体として何を願いどう報いているのか解るようになる、このことを「楼観」と一言で言い表しているのです。
 この「宮殿楼観」は総じて仏宝の様々な楽しみを象徴しているのですが、願生偈では、そうした仏宝の徳や楽しみと、世界中の学問や芸術や世俗のあらゆる分野の本質とが無碍の関係にあることを教えます。それゆえ、法に生きる者はあらゆる分野の本質と問題点を見抜く智慧が与えられるのであり、逆に言えば、世俗や他分野の問題とからみあわないような仏法は本物の仏法ではないということでもありましょう。先の「辺地の七宝の宮殿」はこのことを言っているのです。
(参照:{荘厳地功徳成就}

浴池[よくち]」は沐浴[もくよく]のための池で、鑑賞のための池ではありません。古代よりインド人は、聖なるガンジス川の水で沐浴すれば汚れや罪が払われる≠ニ考え、連綿と現代にも続く儀式となっています。日本では[みそぎ]に当たるでしょう。ただし釈尊はこの考え方に対し、「水によりては清浄ならず。何人も真実と法とだにあらば清浄なり」と批判的で、暑さ対策や身を洗うための沐浴に限定し、また水浴法を設けて放逸に流れないよう規制を設けていました。
 では浄土に浴池があるのは何のためかというと、たとえば禅宗寺院では入浴の際、「洗身身体 当願衆生 身心無垢 内外共浄」(旧華厳経巻十四)と唱えるように、沐浴によって直接的に清浄になるのではないが、沐浴を縁として自分や衆生が清浄になることを願い行じるのです。精神が汚れ、恩着せがましい根性が起こってくるのを、真実と法によって、真心の水で洗い流すことを念じるのです。さらには、広く法を学び論じて修行したり、仏宝の様々な楽しみを享受しているうちに熱くなってきた精神を冷静に保つ役割もあるでしょう。様々な宗教や思想が恐ろしいのは、教えを学び行じるうちに熱狂的に酔いしれてしまい、冷静さや客観性を失ってしまうところにあります。宗教的熱狂ほど傍迷惑[はためいわく]傲慢[ごうまん]で破壊的な行為はありません。浴池はこれを内外から冷ます役割も持っているのです。総じて言えば「浴池」は、精神の浄化装置であり冷却装置を象徴しているのでしょう。
 釈尊は形骸化[けいがいか]した宗教儀礼を廃したのですが、浄土経典は全ての形骸を拾い集めて洗い直し、そこに本来の宗教精神を復活させ、あらゆる宗教の功徳を[]み取り、全人類が新たな地平を目指して歩めるよう導いてゆくのです。

 以上のようにこの章に登場する講堂[こうどう]精舎[しょうじゃ]宮殿[くでん]楼閣[ろうかく]浴池[よくち]の内容が具体的に解りましたから、これらが実際にどう絡まり、どのように自分に関わってくるのかを明らかにしていきます。

また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳[しっぽうしょうごん]して自然[じねん]化成[けじょう]す。
(また、その国の講堂[こうどう]精舎[しょうじゃ]・宮殿・楼閣[ろうかく]などは、みな七つの宝で美しくできていて)

「講堂・精舎・宮殿・楼観」は先に解説した通りですが、略して言えば、浄土には、広く法を学び、論じ、修行する場があり、仏性の果報として様々な楽しみを得ることができる≠ニ読めます。ではこれらが「みな七宝荘厳[しっぽうしょうごん]して自然[じねん]化成[けじょう]す」とはどういう意味でしょう。
「七宝」は、七財(七聖財[シチショウザイ]・七法)や七菩提分[シチボダイブン]七覚分[シチカクブン]七覚支[シチカクシ])などの果報だと言われています。
「荘厳」は創造し飾ることをいいます。それも虚飾で飾るのではなく、また身や空間を飾る以上に人生荘厳が大事。人生を真心で飾ることを荘厳と言います。
「自然」とは「必然」ということであり、宝を持ち込んで飾ろうとする人がいるわけではないのに宝が生まれる。ものや物事を生かす智慧によって宝と成る。浄土の菩提心が個々の人間に至って信心となり、打ち出の小槌のように宝が生まれることをいいます
(参照:{弥陀果徳 十劫成道「#浄土の基本的な内容」})。

化成[けじょう]」は、同じく{弥陀果徳 十劫成道}に、<またその国土には、須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし。また大海・小海・谿渠・井谷なし。仏神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず>とありますが、「見んと欲へばすなはち現ず」ということと同様の意味です。

自然に化城するということは、「化城」はあるかと思えばない、ないのかと思うと独りでに出てくるの、そういう御殿。ということは、何がいいたいのかといいますと、実はこんな宮殿があるんじゃないの、御殿があるんじゃない。ないんじゃが、お念仏が出てくると、こういうちゃんと日々が修行になるのです。講堂精舎。しかも、現在ただいまが、「ここは嫌いここは嫌い」と思うておったところが、今、現在私が置かれておる場所が「世界一の尊い場所でございました」と安住することができる。だから、自分のおる場所が、今まで私ほど不幸せ者はないと思うておったものが、今、現在おる所が私にとって一番ありがたい所と落ち着くことができる。だから、ちゃんとないかと思えば出てくるでしょうが。そういうことをいおうとしてから、自然に化城するんじゃと、こうおっしゃっておるのであろうと思うんであります。だから、実際にそういう御殿があるんじゃない。けれども、その御殿があると同じ徳が出てくるということをいいたいんだと思う。
<中略>
お念仏の中には無限の徳があって、ちゃんとこのように六講堂の徳も、精舎の徳も、宮殿の徳も、楼閣の徳もお念仏のあるところに独りでに出てくる。しかももそれがまごころです。まごころに裏付けられて飾られておるというのであります。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

 ただし、十劫成道の方は「須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし」が基本で「見んと欲へばすなはち現ず」が副次的なものとなっていますが、化成は「講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して」が基本で「化」は副次的な表現です。

また真珠[しんじゅ]明月摩尼[みょうがつまに]衆宝[しゅぼう]をもつて、もつて交露[きょうろ]としてその上に覆蓋[ふがい]せり。
(真珠や月光摩尼のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている)

 仏教では「真珠」はまごころにたとえられます。「明月摩尼」は前章{道樹楽音荘厳}の「月光摩尼[がっこうまに]」と同じで、心の如く、心のままに宝を生み出す宝玉です。月の光は、孤高の精神性の中で雑多な罪を消し、人々を許し抱きとめるはたらきをを感じせしめるものです。これは究極的には仏法僧の三宝や念仏を象徴していて、三宝を敬うところに人生のあらゆる宝が生み出されてきます。また念仏は、あらゆるものを宝にする宝の王であり、順境も逆境もどんな苦難も人生成就の宝に転じます。
交露[きょうろ]」は宝玉をつらねた幔幕[まんまく](式場・会場などに張りめぐらす幕)で、玉の光が露の光を交えたようになるため交露といいます。これが「講堂・精舎・宮殿・楼観」の上に「覆蓋[ふがい]」している、[おお]いかぶさるように張りめぐらされているのです。これは、諸仏・諸菩薩や有縁の人々が、大悲護念のまごころによって私や衆生見守っていて下さることを象徴しています。
(参照:{荘厳虚空功徳成就}

内外左右[ないげさう]にもろもろの浴池[よくち]あり。〔大きさ〕あるいは十由旬[ゆじゅん]、あるいは二十・三十、乃至[ないし]百千由旬なり。縦広深浅[じゅうこうじんせん]、おのおのみな一等[いっとう]なり。八功徳水[はっくどくすい]湛然[たんねん]として盈満[ようまん]せり。清浄香潔[しょうじょうこうけつ]にして、味はひ甘露[かんろ]のごとし。
(その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水は実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露のような味をしている)

浴池[よくち]」は先ほども説明しましたが、精神が汚れ、恩着せがましい根性が起こってくるのを、真実と法によって、真心の水で洗い流す。さらには、広く法を学び論じて修行したり、仏宝の様々な楽しみを享受しているうちに熱くなってきた精神を冷静に保つ≠ニいう浄土の徳をあらわしたものです。これが内外左右[ないげさう]にあるということは、内面も外面もどんな状況でも、精神を浄化し冷静さを保つ念仏の徳に恵まれていることを示しています。

 この浴池の大きさが、十由旬から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまであるというのはどういう意味でしょう。
 まず「由旬[ゆじゅん]」とは梵語「ヨージャナ」の音写で、一由旬は「帝王一日の行軍の距離」、または「牛車の一日の旅程」とされています。実際の距離はというと、約14.4km、約30km、約60kmなど諸説ありますが、いずれにしろ「十由旬」でさえ最低でも約144kmですから実に巨大で、百千由旬ともなると地球上に収まらないほどの大きさになります。これは浄土の浴池は個人的な池ではなく、地域や国や世界中の人々全てが、共に浄土の功徳に[よく]することが適う池であることを示しています。
 次に「縦広深浅[じゅうこうじんせん]、おのおのみな一等[いっとう]なり」は具体的に何を示そうとしたのでしょうか。
「現代語版」では「その縦横の長さは等しく深さは一定である」と訳しています。確かに「一等」には「一様平等。差別の心なく、の意。無別・無異と同様」という解釈もありますから、この意を汲めば、世界中の人々がみな差別なく浄土の功徳に浴することができる≠ニ解釈できるでしょう。
 ただし「一等」は「一定」という意味だけではなく、文字通りの一等、「最上・最高」という意味もあり、むしろこちらの解釈が一般的です。この意を汲めば―― 浴池の縦横の長さや深さ浅さは最も勝れている=Aつまり浴池のこの長さが丁度良い、この深さが丁度良い≠ニ訳せます。さらにもっと具体的に言えば―― 浄土では世界中の人々がみな今のこの状況に不平不満を持たず、自分は世界一の果報者である≠ニ喜んでいる。浄土の功徳を身一杯に満たし、ひがみ根性や、恩着せがましい根性を真心の水で洗い流すことができ、さらには熱狂的法執を冷静に保つことができる。こうした今現在自分の境遇に感謝し、さらには、衆生ひとり一人が皆知らぬうちにそうした場に立っている≠ニ、こうしたことが見抜かれているのでしょう。

 次に八功徳水[はっくどくすい]についてですが、これは八正道の功徳を水にたとえているのですが、具体的には、日常生活がみな仏道修行に変わってゆくことを言います。先にも申しましたように「講堂・精舎・宮殿・楼観」は仏性展開の果報であり、水はこの殿堂を生み出し清らかに関わってゆく心根を表していますが、これが仏道の基本である八正道の功徳で満ちているのです。浄土では、行動を起こす時の感情や心根が、結果として生み出されたモノとよく調和し、願いと浄土が寸分も違わず相応し、人々は満足しています。また「清浄香潔[しょうじょうこうけつ]にして、味はひ甘露[かんろ]のごとし」と称えられる心根が、七宝(七財・七法もしくは七菩提分)に飾られた「講堂・精舎・宮殿・楼観」に寄り添い流れています。

甘露[かんろ]」は不老不死の水のことですが、これは肉体が死なないようになるのではありません。諸行は無常ですから死はまぬがれません。しかし、生死に迷わないようになることは可能です。今、今、今、「今こそ永遠」と新たに充実し切って生きることはできます。今生きる自分自身の内に、無限に生きる内容を持っていること、これを甘露にたとえたのです。先師は「春秋に富む」とも「日々永遠に新たないのち。それを無量寿というんだ」とも領解されてみえます。
(参照:{「八功徳水」の源流はどこにあるのですか? }

 真心の複雑で華麗な道程

註釈版
黄金[おうごん]の池には、底に白銀[びゃくごん][いさご]あり。白銀の池には、底に黄金の沙あり。水精[すいしょう]の池には、底に瑠璃[るり]の沙あり。瑠璃の池には、底に水精の沙あり。珊瑚[さんご]の池には、底に琥珀[こはく]の沙あり。琥珀の池には、底に珊瑚の沙あり。シャコの池には、底に碼碯[めのう]の沙あり。碼碯の池には、底にシャコの沙あり。白玉[びゃくごく]の池には、底に紫金[しこん]の沙あり。紫金の池には、底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝、乃至七宝、うたたともに合成[ごうじょう]せり。その池の岸の上に栴檀樹[せんだんじゅ]あり。華葉[けよう][][]きて、香気[こうけ]あまねく[くん]ず。天の優鉢羅華[うはらけ]鉢曇摩華[はどんまけ]拘物頭華[くもずけ]分陀利華[ふんだりけ]雑色光茂[ざっしきこうも]にして、[ひろ]く水の上に[おお]へり。
現代語版
金の池には底に銀の砂があり、銀の池には底に金の砂がある。 水晶の池には底に瑠璃[るり]の砂があり、瑠璃の池には底に水晶の砂がある。 珊瑚[さんご]の池には底に琥珀[こはく]の砂があり、琥珀の池には底に珊瑚の砂がある。 シャコの池には底に瑪瑙[めのう]の砂があり、瑪瑙の池には底にシャコの砂がある。 白玉[はくぎょく]の池には底に紫金[しこん]の砂があり、紫金の池には底に白玉の砂がある。 また、二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある。池の岸には栴檀[せんだん]の樹々があって、花や葉を垂れてよい香りをあたり一面に漂わせ、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている。

 様々な宝の池のたとえが出ています。ここは({弥陀果徳 宝樹荘厳「#七宝のコラボレーション」})と表現が似ているのですが重要な点が違っています。それは、先のは一つの宝だけででいた樹≠烽りますが、池は必ず二つ以上の宝で表現されています。また先のは一つの樹が一人の求道全体の内容、もしくは一つの樹が一つの集い≠ニ解釈することができましたが、池は精神を浄化し冷却する浄土の功徳をたとえています。

 黄金の池や白銀の池は、仏道の基本である八正道の功徳で満ちていて、衆生を清浄冷静ならしめるはたらきがあり、特に柔軟心によって素直な心で仏道に楽しみ励むことが適ってきます。ところがこの素直な心≠ヘ決して単純な心を言うのではありません。浄土は、命令通り動けば良いという世界ではないのです。「黄金[おうごん]の池には、底に白銀[びゃくごん][いさご]あり」で、表は黄金であっても腹底には白銀がある。こうした複雑さが顕現[けんげん]する世界が浄土です。
 さらには、表に現れた言葉や行動も美しいが、美しい表面を支える金剛の腹底もまた宝であることも重要です。「外面似菩薩[げめんじぼさつ] 内面如夜叉[ないめんにょやしゃ]」というように、建前は良いが本音が悪い、と逆転するような表現がありますが、浄土では腹底に必ず宝を発見することができます。美しく柔軟な言動の腹底にさらに深い金剛心の宝があることが垣間見られる。さらには「二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある」と、真心の複雑で華麗な道程を見わけることができるのも念仏の功徳です。これは浄土の果報なのですが、娑婆においては、表面の言動に違和感や異論をおぼえても、念仏の功徳により、相手の腹底に宝を見出すことが適うのです。

 次に、栴檀樹[せんだんじゅ]が浴池の岸の上に咲いて、花や葉を[]れてよい香りをあたり一面に漂わせている、とあります。栴檀については、「栴檀は双葉より[かんば]し」という[ことわざ]があるほど香木として名高く、芽を出すだけで周辺の伊蘭[いらん](臭木)の林の臭気を消してしまうと言われています。また高熱や風腫などの病に利く薬としても有名です。これももちろん人生のたとえで、煩悩の臭気紛々[しゅうきふんぷん]ただよう私たちの日暮しから、念仏の[かぐわ]しい香りによって臭気を消し去り、煩悩の病に冒された衆生の身心を浄土の徳によって治していただくのです。

優鉢羅華[うはらけ]」は、青蓮華[しょうれんげ]のことで、たとえば{法蔵修行}には「口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし」と、菩薩の功徳を香りに譬えて表現しています。また「鉢曇摩華[はどんまけ]」は紅蓮華[ぐれんげ]のこと、「拘物頭華[くもずけ]」は黄蓮華[おうれんげ]分陀利華[ふんだりけ]白蓮華[びゃくれんげ]を言います。これらが雑色光茂[ざっしきこうも]、(青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている)ということですが、『仏説阿弥陀経』には「池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔[みみょうこうけつ]なり」(現代語版:また池の中には車輪のように大きな蓮の花があって、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかである)とあるのと同じです。

 蓮華は泥田の中に咲く美しい華ですがこの様子に[たと]え、経典では、泥田によって五濁悪世[ごじょくあくせ]穢土[えど]娑婆[しゃば])を象徴し、蓮華によって浄土を象徴するのです。そして色とりどりの蓮華は、穢土に生きながら穢土の泥に埋没せず、個性豊かな仏性の華を咲かせる功徳を表しています。
 浄土教は、まず「主体性の確立」を第一とし、次に「正しい人生観」をもって「自らの人生と環境を創造」してゆくことを教えますが、ここに個性の発揮があるのだと島田幸昭師は仰いました。私は、蓮華が登場する際は常にこのことを思い出し味わいを深くしています。
(参照:{荘厳水功徳成就}

 願い通り身心が浄まり快楽を得る

註釈版
かの諸菩薩[しょぼさつ]および声聞衆[しょうもんしゅ]、もし宝池[ほうち]に入りて、[こころ]に水をして足を[ひた]さしめんと[おも]へば、水すなはち足を没す。[ひざ]に至らしめんと欲へば、すなはち膝に至る。腰に至らしめんと欲へば、水すなはち腰に至る。[くび]に至らしめんと欲へば、水すなはち頸に至る。身に[そそ]がしめんと欲へば、自然[じねん]に身に灌ぐ。還復[げんぷく]せしめんと欲へば、水すなはち還復す。冷煖[りょうなん]調和[じょうわ]するに、自然に意に[したが]ふ。〔水浴せば〕[たましい]を開き、体を[よろこ]ばしめて、心垢[しんく]蕩除[とうじょ]す。〔水は〕清明澄潔[しょうみょうちょうけつ]にして、[きよ]きこと形なきがごとし。〔池底の〕宝沙[ほうしゃ]映徹[ようてつ]して、深きをも照らさざることなし。微瀾回流[みらんえる]してうたたあひ灌注[かんちゅう]す。安詳[あんじょう]としてやうやく[]きて、遅からず、[]からず。波[]りて無量なり。自然の妙声[みょうしょう]、その所応[しょおう]に随ひて聞えざるものなし。あるいは仏声[ぶっしょう]を聞き、あるいは法声[ほうしょう]を聞き、あるいは僧声[そうしょう]を聞く。あるいは寂静[じゃくじょう]の声、空無我の声、大慈悲の声、波羅蜜[はらみつ]の声、あるいは十力・無畏[むい]不共法[ふぐほう]の声、もろもろの通慧[つうえ]の声、無所作[むしょさ]の声、不起滅[ふきめつ]の声、無生忍[むしょうにん]の声、乃至[ないし]甘露灌頂[かんろかんじょう]、もろもろの妙法[みょうほう]の声、かくのごときらの声、その聞くところに[かな]ひて、歓喜すること無量なり。〔聞くひとは〕清浄[しょうじょう]離欲[りよく]寂滅[じゃくめつ]・真実の義に随順[ずいじゅん]し、三宝・〔十〕力・無所畏[むしょい]不共[ふぐ]の法に随順し、通慧[つうえ]、菩薩・声聞の所行[しょぎょう]の道に随順す。三塗苦難[さんずくなん]の名あることなく、ただ自然快楽[じねんけらく]の音のみあり。このゆゑに、その国を名づけて安楽[あんらく]といふ。
現代語版
 もしその国の菩薩や声聞たちが宝の池に入り、足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし、[ひざ]までつかりたいと思えば膝までその水かさを増し、腰までと思えば腰まで、さらに首までと思えば首まで増してくる。身にそそぎたいと思えばおのずから身にそそがれ、水をもとにもどそうと思えばたちまちもと通りになる。その冷たさ暖かさはよく調和して望みにかない、身も心もさわやかになって心の汚れも除かれる。その水は清く澄みきって、あるのかどうか分からないほどであり、底にある宝の砂の輝きは、どれほど水が深くても透きとおって見える。水はさざ波を立て、めぐり流れてそそぎあい、ゆったりとして遅すぎることも速すぎることもない。
 その数限りないさざ波は美しくすぐれた音を出し、聞くものの望みのままにどのような調べをも奏でてくれる。あるいは仏・法・僧の三宝を説く声を聞き、あるいは寂静[じゃくじょう]の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜[はらみつ]の声、あるいは十力[じゅうりき]無畏[むい]不共法[ふぐほう]の声、さまざまな神通智慧[じんずうちえ]の声、無所作[むしょさ]の声、不起滅[ふきめつ]の声、さらに無生法忍[むしょうぽうにん]の声から甘露灌頂[かんろかんじょう]の声というふうに、さまざまなすばらしい教えを説く声を聞くのである。そしてこれらの声は、聞くものの望みに応じてはかり知れない喜びを与える。つまりそれらの声を聞けば、清浄[しょうじょう]離欲[りよく]寂滅[じゃくめつ]・真実の義にかない、仏・法・僧の三宝や十力・無畏・不共法の徳にかない、神通智慧や菩薩・声聞の修行の道にかなってはずれることがないのである。
 このように苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえなく、ただ美しく快い音だけがあるから、その国の名を安楽というのである。

「足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし……身にそそぎたいと思えばおのずから身にそそがれ」ということですが、先に申しましたように浴池[よくち]は、精神の浄化装置であり冷却装置≠ニいう面と浄土建設の心根≠ニいう面を持っています。こうしたことを総合的に鑑み真実義を解したてまつらん≠ニの思いで、これを大まかに意訳してみますと――

 浄土建設の心根に触れ、精神を浄化し冷静さを取り戻そうと願う者は全て、願いに応じて(足から全身まで)その真心の精神に触れることができ、触れた者は心身がさわやかで清らかになる。この真心は澄みきって押し付けがましくなく、その底には深い仏宝の輝きを宿している。この真心は自然に念仏の声となって響き渡り、あらゆる苦難の叫び声が念仏の声に呼応し、生命讃歌の響きとなって聞こえてくる。これらはあらゆる仏法の教えと相応した響きであり、この響きを聞くと皆歓喜にわき、皆大乗の教えに喜び随うこととなる。そこには地獄・餓鬼・畜生の三悪道は名前さえなく、ただ道を求める法の快楽を聞くのみである。それゆえ阿弥陀仏の浄土を「安楽国」というのである。
と、まずはこのように領解できるかと思います。以下は文字解釈と気になる点を述べてみます。

〔水浴せば〕[たましい]を開き、体を[よろこ]ばしめて、心垢[しんく]蕩除[とうじょ]
[たましい]霊魂[れいこん]のことではなく、人間の性根[しょうね]のことです。浄土は性根の無い私の性根となってはたらきます。この性根がどうはたらくかと言いますと、まず「体を[よろこ]ばしめ」る。生き生きと、若々しく、体中に快楽を得、次に「心垢[しんく]蕩除[とうじょ]す」。心の汚れも除かれるのです。

〔水は〕清明澄潔[しょうみょうちょうけつ]にして、[きよ]きこと形なきがごとし。
「清明澄潔」は、浴池の水が清く[]みきって清潔なことで、その[きよ]き様子は「形なきがごとし」というのですが、これは現代語版では「あるのかどうか分からないほど」と訳されています。これは、浄土の功徳は形に残して誇るような恩着せがましさがないことを言います。日本的に言えば、真実功徳は深夜に降り積もる雪のように静かである≠ニいう表現が当てはまるかもしれません。

〔池底の〕宝沙[ほうしゃ]映徹[ようてつ]して、深きをも照らさざることなし。
現代語版は「底にある宝の砂の輝きは、どれほど水が深くても透きとおって見える」と訳してあります。これは前節で申しましたように人間の真心そのものの内容で、表の内容を通して腹底に持っている深い内容を宝沙[ほうしゃ]と見抜いたのです。上はさらさらと「形なきがごとし」ですが、腹底には金剛の宝の砂が敷いてある。これ見よがしの功徳ではないが、性根の座った、真心のこもった腹底が輝いているのを見ることができる、これが念仏のはたらきなのです。

微瀾回流[みらんえる]してうたたあひ灌注[かんちゅう]す。安詳[あんじょう]としてやうやく[]きて、遅からず、[]からず。波[]りて無量なり。自然の妙声[みょうしょう]、その所応[しょおう]に随ひて聞えざるものなし。
現代語版は「水はさざ波を立て、めぐり流れてそそぎあい、ゆったりとして遅すぎることも速すぎることもない。その数限りないさざ波は美しくすぐれた音を出し、聞くものの望みのままにどのような調べをも奏でてくれる」と訳してあります。
微瀾[みらん]」はさざなみ≠ナすが、これは私たちの苦悩と浄土の功徳が出会うことによって起こるさざ波です。ただし浄土ではさざ波ですが、穢土では大波であり濁流です。このさざ波と濁流こそ仏教そのものなのです。つまり仏教は寺院の奥深くに積みあがっているものではなく、苦悩の現場において浄土の功徳が障りなく当たり、私に生きる力を与えてくれる。このさり気なくも力強い「さざ波」の一つひとつ、回向された功徳の一つひとつの波紋[はもん]が仏教となるのですから、仏教は無限に創造されるものであるとも言えましょう。さらには、「あるいは仏声[ぶっしょう]を聞き〜通慧[つうえ]、菩薩・声聞の所行[しょぎょう]の道に随順す」までは仏書や辞書に書いてある通りなのですが、書物に記されてあることと、念仏を通して自分の人生そのものから聞こえた「さざ波の」内容が一致している、という素晴らしさが述べられているのです。

三塗苦難[さんずくなん]の名あることなく、ただ自然快楽[じねんけらく]の音のみあり。このゆゑに、その国を名づけて安楽[あんらく]といふ。
現代語版は「このように苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえなく、ただ美しく快い音だけがあるから、その国の名を安楽というのである」と訳してあります。
三塗苦難[さんずくなん]」は{無三悪趣の願}に<たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄[じごく]餓鬼[がき]畜生[ちくしょう]あらば、正覚[しょうがく]を取らじ>と願われているように、人生で最も警戒しなくてはならないものが我執[がしゅうビ](餓鬼)と無明[むみょう](畜生)であり、その結果としての「地獄」ですが、これらの苦難が浄土には無いということです。
「我執」は、自分の欲望や主義・思想に固執して自己変革を起こさないこと。「無明」は、世の道理に暗く、愚かで無自覚。それによって奴隷根性が染み着いてしまったこと。「地獄」は、「我執」と「無明」が原因となってできた「環境悪」や「社会悪」のことです。一説には、猛火に焼かれる「火塗[かず]」・刀杖で責められる「刀塗[とうず]」・互いに食いあう「血塗[けつず]」を三塗とし、火塗を地獄、刀塗を餓鬼、血塗を畜生にあてる解釈もありますが、浄土経典は国土成就を課題とするのですから、ここでは「環境悪」や「社会悪」を地獄とする先の解釈を勝義とすべきでしょう。
 浄土ではこうした三途苦難の「名」さえない。ということは、{離諸不善の願}にもありますように、不善の名が無くなるほど内容が良い、ということでもありますし、名によって不善が誘発されるのを防ぐ意味もあるでしょう。
自然快楽[じねんけらく]の音のみあり」ということですが、快楽には、外楽[げらく](五官の快楽)・内楽[ないらく](心の快楽)、法楽楽[ほうがくらく](人生成就・求道の快楽)の三種があります。浄土はもちろん法楽楽に満ちているのですが、阿弥陀仏の浄土は法楽楽を主としながらも、同時に外楽と内楽の毒を浄めて生かす功徳もありますので、丸ごと全部の快楽を有している浄土で、後に「無量寿仏国に生れて快楽極まりなし」との記述さえあります。こうでなければ一切衆生の済度は適うはずがありません。
(参照:{荘厳無諸難功徳成就}
「このゆゑに、その国を名づけて安楽[あんらく]といふ」と結んでいますが、「安楽」という国土名が初めて出るのは{十劫成道}で、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」とあります。仏教では「浄土」は諸仏も用いる普通名詞であり、「安楽」や「極楽」は阿弥陀仏のみ用いる固有名詞です。
 ちなみにこれは『維摩経義疏』に詳説されているのですが、仏はもともと自分の国を持っていないのです。ではどこに仏の国を造るのかといいますと、衆生の荒れ果てた国土を摂取し、耕し、清浄なる各種の荘厳によって麗しい仏の国を造るのです。仏の教化対象として「衆生の国土」を「仏国土・仏土」と呼びますから、仏国土と言っても、浄と穢に通じて存在しているので注意が必要です。つまり「仏国土」や「仏土」は、仏性によって開拓した浄土面と未開拓の穢土面が矛盾的に混在しているのですが、「浄土」は、清浄なる各種の荘厳によって麗しい国土となった世界を言います。
 阿弥陀仏の浄土はこの他、経に――「安楽国」「安楽国土」「安養国」「無量寿仏国」「極楽」「極楽世界」「極楽国土」「極楽国地」等とあり、論釋には――「安楽浄土」「安楽仏土」「安楽仏国」「安楽仏国土」「安楽世界」「安楽浄刹」「安楽土」「安楽世界」「安楽宝土」「安楽刹」「極楽国」「極楽宝国」「極楽浄土」「極楽宝荘厳国」「極楽荘厳安養国」「極楽界」「安養浄刹」「安養界」「安養浄土」「安養世界」「西方国」「西方阿弥陀国」「西方浄土」「西方世界」「無量寿国」「阿弥陀仏国」等の名で顕されていますが、大まかに分けますと「安楽[あんらく]」「極楽[ごくらく]」「安養[あんにょう]」「西方[さいほう]」の名で阿弥陀仏の浄土の特徴を表しています。またその名で表す理由もこの「三塗苦難[さんずくなん]の名あることなく、ただ自然快楽[じねんけらく]の音のみあり」からきているのです。快楽が人生成就にいかに大事な要素かが解るでしょう。

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