観世音菩薩・大勢至菩薩は具体的には誰なのですか?
前回も少し触れましたが、観世音菩薩と大勢至菩薩の具体的な特徴を追うことで、阿弥陀仏とは何か、浄土とは何か、ということがより明確になりますので、引き続いて学んでみたいと思います。
観世音菩薩と大勢至菩薩は、一般的には阿弥陀仏の慈悲面と智慧面を現わしていると言われ、また日と月を象徴しているともいわれていますが、それだけではまだ視点がぼやけたままであり、厳密に言えば誤謬が含まれています。
どういうことかと申しますと、観世音菩薩と大勢至菩薩は、もともと浄土にみえたのではなく現実の娑婆にみえたのです。もし阿弥陀仏の慈悲と智慧を現わしているとすれば、阿弥陀成仏の時点で既に浄土にみえなければなりませんが、『仏説無量寿経』(巻下 正宗分 衆生往生果)には、「このふたりの菩薩は、この国土において菩薩の行を修して、命終りて転化してかの仏国に生れたまへり」とあります。では、観世音菩薩と大勢至菩薩はもともとこの国土(現実社会)では誰だったのでしょう。
これは観世音菩薩と大勢至菩薩の違いを観れば明らかです。
『仏説観無量寿経』(正宗分 定善 観音観)には、観世音菩薩は、「八十億の光明ありて、もつて瓔珞とす」とか「その光柔軟にしてあまねく一切を照らし、この宝手をもつて衆生を接引したまふ」とあります。柔軟の光によって衆生を導くというのは、具体的には母性・母の徳を現わしているといってよいでしょう。
一方、勢至菩薩は、『仏説観無量寿経』(正宗分 定善 勢至観)に、「無辺光」とか「この菩薩行きたまふとき、十方世界は一切震動す」などとあります。これは具体的には父性・父の徳を現わしているといってよいでしょう。
観世音菩薩と大勢至菩薩はほとんど同じ姿で微細が違っているという説明からも、一対の存在であり、なおかつ他の菩薩にすぐれていることから見ても親の徳を象徴していることは明らかでしょう。島田幸昭師は両菩薩を「真実の母・真実の父」と言われました。
そうすると阿弥陀仏は、母性と父性に先立つ存在であり、仏性そのものの海、無上菩提心とか求道心とか金剛心と呼ばれる「まごころ」そのものの歴史でありましょう。仏と浄土は不二であり、阿弥陀仏は浄土に成りきってみえます。そして母性や父性が現実の娑婆で試され、行為を通じて徳の成就を計り、まごころの願いによって安楽国に生まれたわけです。
このことがよりはっきり解るのがこの後の、「無量塵数の分身の無量寿仏、分身の観世音・大勢至、みなことごとく極楽国土に雲集す。空中に側塞して蓮華座に坐し、妙法を演説して苦の衆生を度す」という箇所です。
「無量塵数の分身の無量寿仏」は、「南無」となった阿弥陀仏(無量寿仏)、つまり念仏者一人ひとりに真実信心と成り切った阿弥陀仏であることも示しています。具体的に私の信心と成って下さった阿弥陀仏が、一切衆生を済度する願いを背負い十劫の昔に仏となった阿弥陀仏の立場と呼応して、一人ひとりの問題が、一切衆生と歴史の問題となって開かれてゆくのです。
すると「分身の観世音・大勢至」とは、母性・父性の具体例、つまり現実の世界に居る無数の母や父であることが解るでしょう。そして「みなことごとく極楽国土に雲集す。空中に側塞して蓮華座に坐し」とは、現実の母親・父親が子どもの反逆にあい、かえって本来の母親・父親としての自覚を得、「親でありながら名ばかりの親だった」と懺悔し、「親の座に恥じない親に成りたい」と願い、人としての法を説いて「苦の衆生を度す」のです。つまり、「蓮華座」に込められた「親」という「場の徳」に育てられ、親が本来の親と成って浄土の徳を現わしてゆくのです。
これらは、『観無量寿経』の出発点が親子の断絶をテーマにしていることから見ても明らかでしょう。浄土は仏のいのちそのものですが、名ばかりの親が本当の親に成りたいという願いをもったときは、子にとっては最尊第一であり、広がって三千大千世界を照らす存在であると仰ぐことができるのです。
『仏説観無量寿経』(正宗分 定善 普観)には、こうした徳によって心の眼が開くと、「仏や菩薩が大空一面に満ちわたっておられるようすを見る」ことができると述べてあります。すると、仏の言葉だけでなく「水の流れも鳥のさえずりも樹々の間のさざめき」でさえ尊い教えであり、こうした浄土の功徳によって現われた世界は、あらゆる経典に記されている内容と合致していることが覚れるのです。
つまり阿弥陀の浄土は、「一切のものを本来的な座に立たしめて、全てを生かし切る」という具体的な歴史を通した功徳を持っているのです。
仏、阿難に告げたまはく、「かの国の菩薩は、みなまさに一生補処を究竟すべし。その本願、衆生のためのゆゑに、弘誓の功徳をもつて、みづから荘厳してあまねく一切衆生を度脱せんと欲ふをば除く。阿難、かの仏国のなかのもろもろの声聞衆の身光は一尋なり。菩薩の光明は百由旬を照らす。ふたりの菩薩ありて最尊第一なり。威神の光明はあまねく三千大千世界を照らす」と。阿難、仏にまうさく、「かのふたりの菩薩、その号いかん」と。仏のたまはく、「ひとりをば観世音と名づけ、ふたりをば大勢至と名づく。このふたりの菩薩は、この国土において菩薩の行を修して、命終りて転化してかの仏国に生れたまへり。阿難、それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく三十二相を具足す。智慧成満して深く諸法に入り、要妙を究暢し、神通無碍にして諸根明利なり。その鈍根のものは二忍を成就し、その利根のものは不可計の無生法忍を得。またかの菩薩、乃至、成仏まで悪趣に更らず。神通自在にしてつねに宿命を識る。他方の五濁悪世に生じて示現してかれに同ずること、わが国のごとくなるをば除く」と。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生果28
【意訳】(現代語版/本願寺より)
釈尊が阿難に仰せになった。
「その国の菩薩たちは、みな一生補処の位に至ることができる。ただし、その菩薩の願によっては、人々のために尊い誓願の功徳を身にそなえて、その位につかないでひろくすべての人々を救うこともできる。
阿難よ、その国の声聞たちが身から放つ光は一尋であるが、菩薩の放つ光は百由旬を照らす。中でもふたりの菩薩がもっともすぐれていて、その神々しい光はひろく世界中を照らすのである」
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「そのふたりの菩薩は何というお名前なのでしょうか」
釈尊が仰せになる。
「ひとりを観世音といい、ひとりを大勢至という。このふたりの菩薩は、かつてこの娑婆世界で菩薩の修行をし、命を終えた後、無量寿仏の国に生れたのである。
阿難よ、だれでもその国に生れたものは、みな仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえて、智慧に満ちあふれ、すべてのものの本性をさとって教えのかなめをきわめ尽し、自由自在な神通力を得て、すべてを明らかに知ることができる。そして、資質に応じてあるものは音響忍や柔順忍を得、あるものは尊い無生法忍を得るのである。またその菩薩たちは、仏になるまで二度と迷いの世界に帰ることがなく、自由自在な神通力で常に過去世のことを知り尽くしている。ただし、わたしがこの国に出てきたように、菩薩自身の願によって、他の五濁に満ちた悪い世界に生れ、そこの人々と同じ姿を現すことも自由である」
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「無量寿仏を見たてまつること、了々分明なること已りて、次にまたまさに観世音菩薩を観ずべし。この菩薩、身の長八十万億那由他由旬なり。身は紫金色なり。頂に肉髻あり。項に円光あり。面おのおの百千由旬なり。その円光のなかに五百の化仏ましまして、釈迦牟尼仏のごとし。一々の化仏に五百の化菩薩と無量の諸天ありて、もつて侍者たり。挙身の光のなかに五道の衆生の一切の色相、みななかにおいて現ず。頂上に毘楞伽摩尼宝あり、もつて天冠とす。その天冠のなかに、ひとりの立化仏まします。高さ二十五由旬なり。観世音菩薩の面は、閻浮檀金色のごとし。眉間の毫相に七宝の色を備へ、八万四千種の光明を流出す。一々の光明に無量無数百千の化仏まします。一々の化仏は、無数の化菩薩をもつて侍者とす。変現自在にして十方世界に満てり。たとへば紅蓮華色のごとし。八十億の光明ありて、もつて瓔珞とす。その瓔珞のなかにあまねく一切のもろもろの荘厳の事を現ず。手掌に五百億の雑蓮華色をなす。手の十指の端、一々の指の端に八万四千の画あり。なほ印文のごとし。一々の画に八万四千色あり。一々の色に八万四千の光あり。その光柔軟にしてあまねく一切を照らし、この宝手をもつて衆生を接引したまふ。足を挙ぐるとき、足の下に千輻輪の相あり、自然に化して五百億の光明の台と成る。足を下ろすとき、金剛摩尼の華あり、一切に布散して弥満せずといふことなし。その余の身相・衆好、具足せること仏のごとくして異なし。ただ頂上の肉髻および無見頂の相、世尊に及ばず。これを観世音菩薩の真実色身を観ずる想とし、第十の観と名づく」と。仏、阿難に告げたまはく、「もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらんものは、まさにこの観をなすべし。この観をなすものはもろもろの禍に遇はず、業障を浄除し、無数劫の生死の罪を除く。かくのごときの菩薩は、ただその名を聞くだに無量の福を獲。いかにいはんやあきらかに観ぜんをや。もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらんものは、まづ頂上の肉髻を観じ、次に天冠を観ぜよ。その余の衆相、また次第にこれを観じて、また明了なること、掌のうちを観るがごとくならしめよ。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば名づけて邪観とす。
『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 観音観18
【意訳】(現代語版/本願寺より)
釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「さて、無量寿仏をはっきりと想い描きおわったなら、次に観世音菩薩を想い描くがよい。
この菩薩は、高さ八十万億那由他由旬であり、そのお体は金色に輝いて、頭には肉髻があり、その後ろには縦横がともに百千由旬の円光がある。その円光の中にはわたしと同じようなすがたの五百の化身の仏がおいでになる。その化身の仏にはそれぞれ五百の化身の菩薩と数限りない天人がつきそっている。
また全身から放たれる光明は、迷いの世界にいる人々すべてを照らし、そのすがたがそこに現れている。頭には宝玉でできた立派な冠をつけていて、その中には高さ二十五由旬の化身の仏が立っておいでになる。
この菩薩の顔は金色に光り輝き、眉間の白毫は七つの宝の色をそなえ、その白毫から八万四千の光明が放たれている。その光明の一つ一つには数限りない多くの化身の仏がおいでになり、そのそれぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそい、それらの化身の仏と菩薩が、自由自在にさまざまなすがたをとって、すべての世界に満ちておいでになる。そのようすはたとえていえば紅の蓮の花の色のようである。
またこの菩薩は八十億の光明でできた胸飾りをつけていて、その中に極楽世界のうるわしいようすをすべてみな映し出している。また手のひらには五百億ものさまざまな蓮の花の色があり、十本の指先のそれぞれには印を押したような八万四千の絵模様がある。そのそれぞれの絵模様には八万四千の色がそなわり、それぞれの色はまた八万四千の光を放っている。その光明はやわらかで、ひろくすべての人々を照らしている。菩薩はこのすばらしい手をさしのべて人人をお導きになるのである。
またこの菩薩が足をおあげになるときには、足の裏にある千輻輪の相がおのずから五百億の光明でできた台座となり、足をおろされるときには、宝玉でできた花があたり一面に散り、行きわたらないところがない。
その他、さまざまな特徴をその身にすべてそなえておられるのは仏と同じであり、ほとんど異なることがない。ただ、頭の肉髻と無見頂の相とが仏に及ばないだけである。このように想い描くのを観世音菩薩の真のおすがたを想い描く想といい、第十の観と名づける」
また釈尊は阿難に仰せになった。
「もし観世音菩薩を想い描こうとするなら、この観を行うがよい。この観を行うなら、さまざまなわざわいにあわず、これまでの悪い行いもさまたげとはならず、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる。この菩薩は、ただその名を聞くだけでもはかり知れない功徳が得られるのである。ましてそのおすがたをはっきりと想い描くなら、それ以上の功徳が得られることはいうまでもない。
そこでこの菩薩を想い描こうとするなら、まずその頭の肉髻を想い描き、次に宝冠を想い描くがよい。こうして順々に他のいろいろな特徴へと及んでいって、それらのようすもまた、まるで自分の手の中にあるもののように、きわめてはっきりと見えるようにするのである。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。
次にまた大勢至菩薩を観ずべし。この菩薩の身量の大小は、また観世音のごとし。円光の面は、おのおの百二十五由旬なり。二百五十由旬を照らす。挙身の光明は十方国を照らし、紫金色をなす。有縁の衆生は、みなことごとく見ることを得。ただこの菩薩の一毛孔の光を見れば、すなはち十方無量の諸仏の浄妙の光明を見る。このゆゑにこの菩薩を号けて無辺光と名づく。智慧の光をもつてあまねく一切を照らして、三塗を離れしむるに無上力を得たり。このゆゑにこの菩薩を号けて大勢至と名づく。この菩薩の天冠に五百の宝華あり。一々の宝華に五百の宝台あり。一々の台のうちに十方諸仏の浄妙の国土の広長の相、みななかにおいて現ず。頂上の肉髻は鉢頭摩華のごとし。肉髻の上において一つの宝瓶あり。もろもろの光明を盛れて、あまねく仏事を現ず。余のもろもろの身相は、観世音のごとく、等しくして異あることなし。この菩薩行きたまふとき、十方世界は一切震動す。地の動く処に当りて五百億の宝華あり。一々の宝華の荘厳、高く顕れて極楽世界のごとし。この菩薩、坐したまふとき、七宝の国土一時に動揺し、下方の金光仏の刹より乃至上方の光明王仏の刹まで〔及び〕、その中間において無量塵数の分身の無量寿仏、分身の観世音・大勢至、みなことごとく極楽国土に雲集す。空中に側塞して蓮華座に坐し、妙法を演説して苦の衆生を度す。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば、名づけて邪観とす。大勢至菩薩を見る。これを大勢至の色身を観ずる想とし、第十一の観と名づく。この菩薩を観ずるものは、無数劫阿僧祇の生死の罪を除く。この観をなすものは胞胎に処せず、つねに諸仏の浄妙の国土に遊ぶ。この観成じをはるをば、名づけて具足して観世音・大勢至を観ずとす。
『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 勢至観19
【意訳】(現代語版/本願寺より)
次にまた大勢至菩薩を想い描くがよい。
この菩薩のお体の大きさは、前の観世音菩薩と同じである。しかしその円光は縦横がともに百二十五由旬で、二百五十由旬を照らしている。そして全身から放たれる光明は、ひろくすべての国々を照らして金色に輝き、縁のある人々はみな拝することができる。また、この菩薩のわずか一つの毛穴から放たれる光明を見るだけで、すべての仏がたの清らかな光明を見ることができるのである。そのためこの菩薩を無辺光と名づける。またこの菩薩は智慧の光でひろくすべてを照らし、地獄や餓鬼や畜生の世界の苦しみから人々を救うのに、この上なくすぐれた力を持っておいでになる。そのためこの菩薩を大勢至と名づけるのである。
この菩薩の宝冠には五百の宝の花があり、その一つ一つの花にはそれぞれ五百の宝の台があって、その一つ一つの台の中にはすべての仏がたの清らかな国土の広大なすぐれた光景がみな映し出されている。またこの菩薩の頭の肉髻は紅の蓮の花のようである。その肉髻の上には一つの宝の瓶があって、さまざまな光明に満ち、ひろく仏のはたらきが現れる。その他の姿かたちはすべて観世音菩薩と同じで少しも異なるところがない。
この菩薩が歩まれるときにはすべての世界が揺れ動く、その揺れ動くところには五百億の宝の花が咲き、それぞれの花のうるわしさはちょうど極楽世界のように気高くすぐれている。この菩薩が座られるときには七つの宝でできた極楽世界の大地がいっせいに揺れ動き、下方は金光仏の国土から上方は光明王仏の国土まで、その大地もまた揺れ動く。そしてそのすべての世界におられる数限りない無量寿仏の分身と観世音・大勢至の分身とが、みな極楽世界に集まり、大空一面に満ちあふれて蓮の花の台座に座り、尊い教えを説き示して苦しみ悩む人々をお救いになるのである。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。こうして大勢至菩薩を見たてまつるのを、大勢至菩薩のおすがたを想い描く想といい、第十一の観と名づける。
この菩薩を想い描くなら、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる。この観を行うなら迷いの世界に生れるようなことは二度となく、常に仏がたの清らかな国にいることができる。この観が成就しおわることを、余すところなく観世音・大勢至の二菩薩を想い描いたというのである。
この事を見るとき、まさに自心を起して西方極楽世界に生じて、蓮華のなかにして結跏趺坐し、蓮華の合する想をなし、蓮華の開く想をなすべし。蓮華の開くとき、五百色の光あり。来りて身を照らし、〔心の〕眼目開くと想へ。仏・菩薩の虚空のなかに満てるを見ると想へ。水・鳥・樹林、および諸仏の所出の音声、みな妙法を演ぶ〔と想へ〕。十二部経と合して、出定のとき〔想を〕憶持して失はざれ。この事を見をはるを無量寿仏の極楽世界を見ると名づく。これを普観想とし、第十二の観と名づく。無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至とともに、つねにこの行人の所に来至す」と。
『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 普観20
【意訳】(現代語版/本願寺より)
以上の観を行ったなら、次には自分が往生するという想いを起すがよい。
まず西方極楽世界に生れて、蓮の花の中で両足を組んで座り、その蓮の花に包まれているありさまを想い描き、次にその蓮の花が開くありさまを想い描くのである。そしてその蓮の花が開くときには五百の色の光が放たれ、自分を照らすのを想い描くがよい。また自分の目が開くのを想い描くがよい。そこで仏や菩薩が大空一面に満ちわたっておられるようすを見るのである。さらにまた水の流れも鳥のさえずりも樹々の間のさざめきも、そして仏がたの声もまた、みな尊い教えを説き述べており、それは経典に説いてあることと合致している。この観を終えてからも、その教えをよく心にとどめて忘れないようにするのである。この観が終わったなら、無量寿仏の極楽世界を見たといえる。このように想い描くのを普観想といい、第十二の観と名づける。
無量寿仏は数限りない化身を現して、観世音・大勢至の二菩薩とともに、このような観を修めるもののもとにおいでになり、常にその身を守られるのである」
「観音勢至自来迎」といふは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して憶念すれば観音・勢至はかならずかげのかたちにそへるがごとくなり。この無碍光仏は観音とあらはれ勢至としめす。ある経には、観音を宝応声菩薩となづけて日天子としめす、これは無明の黒闇をはらはしむ、勢至を宝吉祥菩薩となづけて月天子とあらはる、生死の長夜を照らして智慧をひらかしめんとなり。「自来迎」といふは、「自」はみづからといふなり、弥陀無数の化仏・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆゑに、みづからと申すなり。
『唯信鈔文意』2 より
【意訳】(現代語版/本願寺より)
「観音勢至自来迎」というのは、南無阿弥陀仏は如来の智慧のはたらきとしての名号であるから、この不可思議光仏の名号を疑いなく信じ心にたもつとき、観音菩薩と勢至菩薩は、必ず影がその姿に付き添うように離れないでいてくださるのである。この無碍光仏は、観音菩薩としてあらわれ、勢至菩薩として姿を示してくださる。ある経典には、観音菩薩を宝応声菩薩と名づけ、日天子と示している。この菩薩は無明の闇を払ってくださるという。また、勢至菩薩を宝吉祥菩薩と名づけ、月天子とあらわしている。この菩薩は迷いの長い夜を照らして智慧を開いてくださるというのである。
「自来迎」というのは、「自」は「みずから」ということである。阿弥陀仏の化身である化仏や観音・勢至の化菩薩など、数限りない聖者がたが、自ら常にどのような時も嫌ったりすることなく、どのような所も避けたりせず、真実の信心を得た人に付き添われお護りになるから「みずから」というのである。