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【十界モニター】

「極楽の余り風」の本当の意味

― 熱風・暴風もそよ風に変えてしまう土徳 ―

逆風を追い風に転じる力

 酷暑に吹く涼風

「極楽の余り風」という表現がある。
 ちょうど今頃から後に迎える夏の暑い時期、山道など歩いて汗だくになった身に、ときおり清々しい涼風が木陰を抜けて吹いてくる。ああ、こんな嬉しい風はない!≠ニ感激すると、先の言葉が口をついて出る。
 私がこの表現を聞いたのは『夏の医者』という落語が最初だったと記憶している。父を助けるため息子が老医者を伴って帰る途中、山頂で一服している時に涼風が吹いてきたのを「ああ、極楽のあまり風じゃ」と喜ぶ。落語では、そう言った途端にうわばみに飲み込まれてしまうが、医者は冷静に構え、蛇の胃の中で下剤をまく……。このように荒唐無稽な仕掛けが盛りだくさんあり、笑いが絶えない話となっている。

 落語も名作だが、「極楽の余り風」とはご法義の盛んな関西地方ならではの表現だ。もちろん落語より先にそうした言い回しがあったのだろう。しかし最初にこう表現した人はどんな心境・境地をお持ちだったのだろう。単なる感覚的な表現なのか、それとも真実仏法を解した上での嘆文だったのか。
 想像してみると面白いのだが、極楽にはそよ風が吹いている≠ニ表現するいきさつを遡ると、浄土三部経典にまで至ることになる。

 経典に学ぶ真実の涼風

自然の徳風やうやく起りて微動す。その風、調和にして寒からず、暑からず。温涼柔軟にして、遅からず、疾からず。もろもろの羅網およびもろもろの宝樹を吹くに、無量微妙の法音を演発し、万種温雅の徳香を流布す。それ聞ぐことあるものは、塵労垢習、自然に起らず。風、その身に触るるに、みな快楽を得。たとへば比丘の滅尽三昧を得るがごとし。

『仏説無量寿経』20 巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳

▼意訳(現代語版より)
すぐれた徳をそなえた風がゆるやかに吹くのであるが、その風は暑からず寒からず、とてもやわらかくおだやかで、強すぎることも弱すぎることもない。それがさまざまな宝の網や宝の樹々を吹くと、尽きることなくすぐれた教えの声が流れ、実にさまざまな、優雅で徳をそなえた香りが広がる。その声を聞き香りをかいだものは、煩悩がおこることもなく、その風が身に触れると、ちょうど修行僧が滅尽三昧[めつじんざんまい]に入ったようにとても心地よくなるのである。
舎利弗、かの仏国土には微風吹いて、もろもろの宝行樹および宝羅網を動かすに、微妙の音を出す。たとへば百千種の楽を同時に倶になすがごとし。この音を聞くもの、みな自然に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずるの心を生ず。

『仏説阿弥陀経』3 正宗分 依正段

▼意訳(現代語版より)
 舎利弗よ、またその仏の国では宝の並木や宝の網飾りがそよ風に揺れ、美しい音楽が流れている。それは百千種もの楽器が同時に奏でられているようであり、その音色を聞くものは、だれでもおのずから仏を念じ、法を念じ、僧を念じる心を起すのである。

 こんなそよ風なら誰でも吹かれてみたいものだが、当然ながら極楽って本当にあるの?≠ニいう疑問が湧く。極楽の在り処を説明するのは少し時間がかかるが、特定の空間や場所を言うのではなく、<功徳の力により、その(清浄荘厳の)行いを原因としてもたらされたところ>を言う。いわば、覚りの境地がもたらす人生観・世界観であり、その観点が社会に展開し創造された人間育成環境を極楽浄土というのだ。
(参照:{地獄・極楽の食事風景「#極楽はどこにあるのか?」}

 経文を諸師の導きに随って読み解いてみるとどうなるだろう――
<すぐれた徳をそなえた風がゆるやかに吹くのであるが、その風は暑からず寒からず、とてもやわらかくおだやかで、強すぎることも弱すぎることもない>とある。しかし現実に吹く風はそよ風ばかりではない。熱風も寒風・暴風もある。しかし「心頭を滅却すれば火もまた涼し」。暑さ寒さが問題なのではなく、これを嫌悪する自分の心が問題なのであり、雑念を消せば嫌悪・苦悩も無くなる。
 ただし経典が問題としているのは人生である。ゆえに熱風も寒風・暴風も、空気を運ぶ風を言うのではない。人生に吹く風を言う。「無常の風」や「逆風」「心のすきま風」、それどころか「地獄の業風」が吹き荒れるのが人生だろう。
 経論には、娑婆の現実には――「業風の吹くに随ひて苦のなかに落つ」、「熱風に吹かるるに、利き刀の割くがごとし」、「悪風暴に吹きて、その身に交絡して、肉を焼き、骨を焦して、楚毒極まりなし」、「冷熱の風触るるに、大苦悩を受くること、牛を生剥ぎにして、墻壁に触れしむるがごとし」、「寒熱・飢渇・風雨ならびに至りて、種々の苦悩、その身に逼切す」等々、意訳するのが恐ろしいほどの有様、これが人生だろう。こうした苦悩に負けたり、罵倒され立ち上がれそうにない者も大勢いる。私もその一人だ。しかし同時に、「地獄の猛火風と変じて涼し」も真実で、恐ろしい人生顛倒の熱風・寒風・暴風が涼風に転じられてゆくことが可能なのも人生。これを名号・念仏の徳のはたらきと呼ぶのである。

「そよ風」とは、私たちから言えば台風です。それも心の台風。不幸や災難に遇うと、肝っ玉がひっくり返るほど心が動転する、そのことです。それを「そよ風」といったのは、業の風が念仏においてそよ風に転ぜられるからでしょう。親鸞聖人は『現世利益和讃』に、「一切の功徳にすぐれたる、南無阿弥陀仏をとなうれば、三世の重障みなながら、かならず転じて軽微なり」といわれるように、念仏には「重い禍いを軽く受ける」ことのできる徳があるとか、「煩悩を断ぜずして、涅槃を得る」とか、西田幾多郎博士が、「吾が心深き底あり、喜びも憂いの波も届かじと思う」とか、また前にも申しましたように、お釈迦さまが座禅していると、そこを通りかかった悪童が、「くそ坊主」といって石を投げた。石はお釈迦さまの肩に当った。すると肩から美しい蓮の華が散ったと説かれています。これは第三者が見れば、肩から真っ紅な血が流れたに違いない。お釈迦さまは石を投げられたことを、菩提心のまごころをもって、供養の華として受け取られたことを表しているのです。

島田幸昭著『阿弥陀経探訪』 より

 同じ境遇にありながら、阿弥陀仏と極楽浄土の徳のはたらきで、猛火風も徳風・微風に転じられてゆく。そして――<それがさまざまな宝の網や宝の樹々を吹くと、尽きることなくすぐれた教えの声が流れ、実にさまざまな、優雅で徳をそなえた香りが広がる> <宝の並木や宝の網飾りがそよ風に揺れ、美しい音楽が流れている。それは百千種もの楽器が同時に奏でられているようであり>云々。
……つまり、人間は業風の苦難に襲われつつも、仏法に出遇うと、先祖や縁ある人々の優しさに心動かされ、不平不満の声が転じて仏徳讃嘆の念仏の声が出、生活の全てが念仏の香り高い優しさと強さに満たされ、この苦難を乗り越えた幸せが周囲にも広がってゆく。

<その声を聞き香りをかいだものは、煩悩がおこることもなく、その風が身に触れると、ちょうど修行僧が滅尽三昧[めつじんざんまい]に入ったようにとても心地よくなるのである> <その音色を聞くものは、だれでもおのずから仏を念じ、法を念じ、僧を念じる心を起すのである>
……すると自分のみならず周囲の人々まで影響を与え、各自が心身を苦しめる煩悩を滅し、仏を念じ、法を念じ、僧を念ずる心が起こされる。欲望を中心に回っていた価値観が、自らの主体を取り戻し、無上菩提心を中心にした価値観に転じられてゆくのである。

 こうした極楽浄土の功徳により、地獄の業風や逆風さえも、人生成就を後押しして下さる順風に転じてしまう。それほど回向された無上菩提心(卒業のない求道心)は素晴らしいのである。

 なぜ「余り風」か

 さて、それならばそれでまだ問題は残る。
 これほど素晴らしい極楽の徳風に吹かれながら、どうして「余り風」程度なのか。親鸞聖人は真実信心の行者は浄土の土徳を「身に満てり」と嘆じてみえるではないか。こういう疑問が湧いて当然だろう。

 これは自らの胸に手を当てて考えればよく解る。浄土の徳面から言えば猛火風も徳風・微風に転じられてゆく、これはもう疑いの無い確かな事実だ。しかし、回向された信心が私の中で徹底しない、回向された性根が根付かない、これこそが私自身の業の深さなのである。
 ゆえに私は真実信心を得たから、どんな困難にも笑って耐えていけます≠ニ言うのは嘘八百だろう。無常の風も恐ろしくない≠ニいうのも理屈だけで、死を目の前にして平常心でいられる保証はない。むしろ、死を恐れ、人から罵倒されれば怒り、褒められれば図に乗る。不利益を被れば落ち込み、失敗したことに執着し、友を恨み、親兄弟に泣き言を言う。口には出さないが、心の中は不平不満と道理に外れた念で一杯だ。「業風の吹くに随ひて苦のなかに落つ」状態から一歩も前に踏み出せないのが私の現状だろう。

 ところが、そんな私でも浄土往生を願えば、願う中に極楽の風が吹く。地獄の業風の隙間から浄土の風が漂ってくる。そしてさらに力強いのは、浄土往生を願う中に、諸仏や正定聚・不退転の菩薩衆が現実に生きてみえたこと、生きてみえることが証明されることだ。この信頼感は何よりも私を奮い立たせてくれ、私の人生成就の追い風となってくれる。
 これが真実「極楽の余り風」と表現された領解内容ではないだろうか。

[Shinsui]

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浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)