浄土の居心地

初めて往く浄土が懐かしいのはなぜか

【十界モニター】
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初めて往く極楽浄土がなぜ「魂の故郷」と表現されるのでしょう?


 阿弥陀仏の浄土(安楽国・極楽)は、仏性を宿す衆生(Q46参照)といえども、圧倒的多数にとっては未だ往ったことの無い未踏の世界です(正定聚の菩薩については時をあらためて書きます)。それなのにお説教ではよく「阿弥陀仏の浄土は、いわば私たちの魂の故郷です」と譬えられます。

 理論的に言えば、住んだことのない阿弥陀仏の浄土が故郷であるはずもないのですが、私自身、浄土について様々学ぶにつけ、この言葉は真実味をもって胸に迫ってくるのです。

 この思いをどう表現したらよいか、中々書くきっかけを得られませんでしたが、先日、久々にスタジオジブリの作品『おもひでぽろぽろ』(原作:岡本螢/脚本・監督:高畑勲)のDVDを見ていましたら、素晴らしい台詞に出遇い「これだ!」と感動しましたので、皆様にも紹介したいと思います。

タエ子 あーっ、やっぱりこれが田舎なのね。本物の田舎、蔵王はちがう。
トシオ: うーん、田舎かあ。
タエ子: あっ、ごめんなさい。田舎 田舎って。
トシオ: いや、それって大事なことなんですよ。
タエ子: え?
トシオ: うん、都会の人は森や林や水の流れなんか見で、すぐ自然だ自然だって、ありがたがるでしょう。でも、ま、山奥はともがぐ、田舎の景色ってやつは、みんな人間がつくったもんなんですよ
タエ子: 人間が?
トシオ: そう、百姓が。
タエ子: あの森も?
トシオ: そう。
タエ子: あの林も?
トシオ: そう。
タエ子: この小川も?
トシオ: そう。田んぼや畑だけじゃないんです。みんなちゃーんと歴史があってね、どこそこのヒイじいさんが植えたとか、ひらいたとか、大昔からタキギや落ち葉やキノコをとっていたとか。
タエ子: ああ、そっか。
トシオ: 人間が自然と闘ったり、自然からいろんなものをもらったりして暮らしているうぢに、うまいこと出来上がってきた景色なんですよ、これは。
タエ子: じゃ、人間がいなかったら、こんな景色にならなかった?
トシオ: うん、百姓は、たえず自然からもらい続けなきゃ 生きていかれないでしょう? うん、だから自然にもね、ずーっと生きててもらえるように、百姓の方もいろいろやって来たんです。まあ、自然と人間の、共同作業っていうかな。そんなのが多分 田舎なんですよ。
タエ子: そっか・・・それでなつかしいんだ。生まれて育ったわけでもないのに、どうしてここが ふるさとって気がするのか、ずーっと考えてたの。ああ・・・そうだったんだ。

『おもひでぽろぽろ』より

 トシオの台詞で、「山奥はともがぐ、田舎の景色ってやつは、みんな人間がつくったもんなんですよ」とあります。都会の人間が「本物の自然」と言っているものも、実はみんな人間の手で作ってきたものだったのです。
 それを聞いたタエ子の台詞がまたいいですね。「そっか・・・それでなつかしいんだ」と。自然そのものではない風景ということが解っても、決して残念がったりしません。むしろ、「生まれて育ったわけでもないのに、どうしてここが ふるさとって気がするのか」という謎が解けたことを喜んでいます。
 勘のいい方はすでにお気づきでしょう。このトシオとタエ子の台詞は、仏教でいう「浄土」の一端を表わしているのです。

 浄土は、永遠普遍の真理(全宇宙の生成・発展・破壊全てを貫く形の無い法)や無為自然(山奥の自然・人間の手垢のついていない自然の法則等)を言うのではありません。また、単なる真如の具現や表現(方便法身)でもありません。永遠普遍の真如が形を表わし姿を示し、肉体を持った生命となり、生命の本質である仏性が血の叫びとなって誓いと願いを建て、気の遠くなるような時間をかけて努力し進化し、身に報い、名に報い、歴史に報い、そして世間に報いて如来世間となった足元の環境のことを言うのです。

「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無礙光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す。誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すは、たねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無礙の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無礙光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、無明の闇をはらひ悪業にさへられず、このゆゑに無礙光と申すなり。無礙はさはりなしと申す。しかれば、阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。

『唯信鈔文意』4 より(浄土真宗聖典・第二版709〜710頁)

意訳▼(現代語版 より)
「涅槃」のことを滅度といい、無為といい、安楽といい、常楽といい、実相といふ、法身といい、法性といい、真如といい、一如といい、仏性という。仏性はすなはち如来である。
 この如来は、数限りない世界のすみずみまで満ちわたっておられる。すなわちすべての命あるものの心なのである。この心に誓願を信じるのであるから、この信心はすなわち仏性であり、仏性はすなわち法性であり、法性はすなわち法身である。法身は色もなく、形もない。だから、心にも思うことができないし、言葉にも表すことができない。この一如の世界から形をあらわして方便法身というおすがたを示し、法蔵比丘と名乗られて、思いはかることのできない大いなる誓願をおこされたのである。
このようにしてあらわれてくださったおすがたのことを、世親菩薩は「尽十方無碍光如来」とお名づけになったのである。この如来を報身といい、誓願という因に報い如来となられたのであるから、報身如来と申しあげるのである。「報」というのは、因が結果としてあらわれるということである。
この報身から応身・化身などの数限りない仏身をあらわして、数限りない世界のすみずみにまで、何ものにもさまたげられない智慧の光を放ってくださるから、「尽十方無碍光如来」といわれる光であって、形もなく色もないのである。この光は無明の闇を破り、罪悪にさまたげられることもないので、「無碍光」というのである。「無碍」とは、さわりがないといことである。このようなわけで、阿弥陀仏は光明であり、その光明は智慧のすがたであると知らなければならない。

詳細は{法身と報身の違い} 参照

 浄土は元からあった世界ではありません。浄土の人々はみな応法の妙服を着ています(参照:{衣服随念の願}。つまり西洋で言う「エデンの園」のように、裸のままでも恥じることのない神から与えられた無為自然の世界、では断じてないのです。元からあった無為自然全てを飲み込み、そこから人間が智慧と手足を使って創造し続けた歴史ある報土が浄土です。真心の努力が報いてできた社会環境なのです。トシオの台詞でいえば、<人間が自然と闘ったり、自然からいろんなものをもらったりして暮らしているうぢに、うまいこと出来上がってきた景色>であり<自然と人間の、共同作業>でできた環境です。(参照:{自然と社会と仏教の関係}
 また都会暮らしといえども生命に宿る仏性は消えはしません。一切衆生は悉く仏性を有しています。私たちの心身には浄土と娑婆を創造してきた血の歴史を宿しているのであり、新たに浄土をつくる創造力に満ち溢れているのです。それゆえ都会育ちのタエ子も、田舎に行くと、生まれ育ったわけでもないのに故郷に帰ってきた心持ちがするのでしょう。
 しかし、真心を離れ、欲望が暴走し、理屈や言葉でがんじがらめになった社会は、そうした本来の成り立ちから逸脱してしまうので、浄土は姿を隠し、たとえ生まれ育った場所でも故郷という心持ちがしないのです。

 真心のあるところ、必ず浄土が出現します。それゆえ浄土は無数にあります。この田舎の景色もひとつの浄土でしょう。人間には純粋な真心の宝が眠っているので、浄土を見聞きすれば、意識的な記憶にはなくても「懐かしい」という感情がこみ上げてくるのです。

 さらにこうした浄土を無限に生み出す諸仏・諸菩薩の故郷を「安楽国」とも「極楽」ともいいます。それというのも、無数にある浄土にはそれぞれ特徴があり、また限界もあるからです。

その時に、世自在王仏、その高明の志願の深広なるを知ろしめして、すなはち法蔵比丘のために、しかも経を説きてのたまはく、〈たとへば大海を一人升量せんに、劫数を経歴せば、なほ底を窮めてその妙宝を得べきがごとし。人、至心に精進して道を求めて止まざることあらば、みなまさに剋果すべし。いづれの願をか得ざらん〉と。ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天・人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。時にかの比丘、仏の所説を聞きて、厳浄の国土みなことごとく覩見して無上殊勝の願を超発せり。その心寂静にして志、所着なし。一切の世間によく及ぶものなけん。五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す。
<中略>
時に法蔵比丘、二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取しき。かくのごとく修しをはりて、かの仏の所に詣で、稽首し足を礼し、仏を繞ること三匝し、合掌して住して、仏にまうしてまうさく、〈世尊、われすでに仏土を荘厳すべき清浄の行を摂取しつ〉と。

『仏説無量寿経』6(巻上) より(浄土真宗聖典・第二版14〜15頁)

意訳▼(現代語版 より)
そこで世自在王仏は、法蔵菩薩の志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、この菩薩のために教えを説いて、<たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう>と仰せになった。
そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。
そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。
その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。
そして五劫の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである」
<中略>
さて法蔵菩薩は、こうして二百一十億のさまざまな仏がたが浄土をととのえるために修めた清らかな行を選び取ったのである。 このようにして願と行を選び取りおえて、世自在王仏のおそばへ行き、仏足をおしいただいて、三度その仏のまわりをめぐり、合掌してひざまずき、<世尊、わたしはすでに、浄土をうるわしくととのえる清らかな行を選び取りました>と申しあげた。

 一時代・一地域に限定され続けていては、いくらその場が浄土であってもいつしか辺地となり、生き生きとした菩提心が固まってしまう懸念があります。そこで数限りない諸仏は本仏である阿弥陀仏を褒め、各国の菩薩たちに阿弥陀仏の浄土を視察させ(往相)、それぞれの国に戻って阿弥陀仏の浄土の功徳を反映する浄土を建設するよう薦める(還相)のです。

 仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神極まりなし。十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称歎したまはざることなし。東方恒沙仏国の無量無数の諸菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養したてまつり、もろもろの菩薩・声聞の大衆に及ぼさん。経法を聴受し、道化を宣布す。南西北方・四維・上下〔の菩薩衆〕、またまたかくのごとし」と。

『仏説無量寿経』26(巻下) より(浄土真宗聖典・第二版43頁)

意訳▼(現代語版 より)
 釈尊が阿難に仰せになった。
「無量寿仏の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる。 そのため、ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏がたの国々から、数限りない菩薩たちがみな無量寿仏のおそばへ往き、その仏を敬って供養するのであって、その供養は菩薩や声聞などの聖者たちにまで及んでいる。 そうして教えをお聞きして、人々にその教えを説きひろめるのである。 南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々の菩薩たちも、また同様である」

 このことを受けて、『唯信鈔文意』2には、阿弥陀仏の姿(無礙光仏の御かたち)は「一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり」とあり、『御文章』二帖9には「すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり」とあります。
 諸仏と阿弥陀仏は波と海のような関係であり、無数にある浄土と阿弥陀仏の浄土の関係性も同様です。そして正定聚の菩薩はもちろん、浄土を知らぬ不定聚・邪定聚の衆生にとってさえ、その名(南無阿弥陀仏)のいわれ(歴史)を聞き、褒め称えれば、自ずと名に込められた万善万徳が働き、衆生の身に満ち溢れ、「生まれて育ったわけでもないのに、どうしてここ(浄土)が ふるさとって気がするのか……」という懐かしい気持ちが湧き上がってくるのです。


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