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性善説と性悪説

善性ゆえに悪性を逐一報告

我ならぬ 清らの我の 我にありて 穢悪の我を 我に知らしむ
(池山栄吉)
【十界モニター】
 人間は本来、尊い仏なのですか? 罪悪深重の凡夫ですか?


 仏教の歴史のみならず、宗教全体、もしくは人類全体の歴史を通して問われ、論争になり続けてきた問題の一つに、「そもそも人間は清らかで尊い存在なのか、それとも罪深く卑しい存在なのか」という根本問題があります。
 人間は一面においては尊く、別の面においては卑しいものです。大願を貫いて社会的に活躍する人を見れば「人間は本来は素晴らしい尊い存在なのだ」と希望が湧きます。しかし、自分たちの利益のために民衆を犠牲にしたり、そうした暴君に隷属的に従う人たちを見れば「人間は罪深く卑しい存在だ」と望みを失いそうになります。

 一般的には、たまたま人間の尊い面を多く目にした者は「人間は本来尊い存在だ」と賛美し、たまたま人間の醜い面を多く目にした者は「人間は本来卑しい存在だ」と絶望してしまうことが多いでしょう。そうすると、結局はどちらが人間の本性なのか解らず、ただ個々の経験の上で語られ判断される事柄になってしまいます。では個々の経験を超えて歴史を貫く人間の本質を覚った人たち(諸仏)は人間をどのように見てみえるのでしょう。

 結論だけ先に申しますと――人間は本来、素晴らしい尊い存在なのです。人間だけではない、一切衆生(生きとし生けるもの全て)はことごとく仏性を持つ尊い存在です。そしてこの一切衆生が普遍として有つ仏性こそ、「途切れることもなくなることもなく、やがてはこの上ないさとりを得る」種となるものです。この種を育てる以外に覚りの道はありません。これが永遠の真理(法)なのです。だからこそ仏教ではできるかぎり殺生を慎み、特に殺人を誡めています。覚った人や真実信心を得た正定聚の菩薩は、皆この精神を信受・受持し、自他の命を敬愛し尊んでいるのです。
 この「一切衆生悉有仏性」を外した法は真実の教えではありません。一見仏法の仮面を被った教えでも、どんな名声を博した高僧の述べた説でも、「人間は本来、罪深く卑しい存在である」とか「皆さんは本来罪悪深重の凡夫なのですから、凡夫に成り切ればいいんです」などという邪説を吐くのは獅子身中の虫。真実の法に背く言葉ですから、信用してはなりません。
 たとえば唯識論でも様々な系統があり、「五姓各別」などという差別的な邪説を腹に持つ護法の「有相唯識」は批判されてしかるべきでしょう。特に五姓を固定化・実体化して捉える点は邪説の中の邪説。仏教が差別を裏づけ助長してしまった大きな要因です。
 本来は、天親菩薩の唯識を正統に継承した真諦の「無相唯識」を大乗仏教の基礎とすべきなのですが、日本で一般に言う唯識論は護法の「有相唯識」ですから、そもそも日本の仏教界は教学の基礎が腐っているのだ、ということに気づかねばなりません。

 さて、ここからが問題なのですが、人間は本来素晴らしい尊い存在であるのならば、今のありのままの私も尊いのでしょうか。「今の私はどのような有様か?」と自問すれば、正定聚の菩薩はどのように応えるでしょう。
 もし「全ての衆生には仏性があるのだから、私ももちろん素晴らしい尊い人間です」などという者がいれば、これもまた偏った本覚思想であり、獅子身中の虫。真心の言葉を理性(自力)で解釈する邪定聚に陥った人です。これは諸仏にも真実の自分にも出遇っていない人の言葉ですから、信用してはならないでしょう。
 正定聚の菩薩であれば、むしろ「卑しくお恥ずかしい私です」「罪悪深重の凡夫とは私のことです」と慚愧・懺悔するしかありません。これが覚った者の共通認識(機)なのです。

 つまり、法においては「仏性を有する尊い私」、機においては「罪悪深重の凡夫」なのです。

 そして、さらにここからも問題なのですが、以上の真反対とも思える「法」と「機」の内容は、全く別世界のことなのでしょうか。
 これも結論だけ先に言いますと、実はただ一つの真実の内容を、裏と表、別方向から顕わしているだけなのです。
・ 生きとし生けるものみな尊し――これが「一切衆生悉有仏性」ということ。
・ しかし私は目の前の人々の尊さが本気で拝めない――これが「罪悪深重の凡夫」であるという認識。
 以下この一見矛盾する内容が一体であるということを聖典を引用し詳説させていただきます。

 存在論・本質論では「一切衆生悉有仏性」(法の真実/随自意説)

信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり

『浄土和讃』94 諸経讃

真実信心うるゆゑに すなはち定聚にいりぬれば
補処の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり

『正像末和讃』28 三時讃

 親鸞聖人は周囲の人々を、<如来とひとし><補処の弥勒におなじ>と褒めてみえましたが、これは、第十地の法雲地満位であり、五十一段の等正覚者であり、釈迦の跡継ぎである一生補処の菩薩であり、還相の菩薩であるということです({正定聚・不退転の菩薩について}参照)。
 なお聖人は自分勝手に人々を褒めたのではありません。人間は本来素晴らしい尊い存在なのである、ということは諸仏共通の覚りであり、諸菩薩もこれを信受し続けているのです。多くの経典を読み解けば、覚りの功徳によってこのような生命讃歌を聞くことができるのです。

 次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。

『仏説観無量寿経』16 正宗分 定善 像観 より

意訳▼(現代語版 より)
次に仏を想い描くがよい。
 なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入り満ちてくださっているからである。このため、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相・八十随形好はちじゅうずいぎょうこうの仏のすがたであり、その心が仏になるということになり、そして、この心がそのまま仏なのである。
 まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心にしたがって現れてくださるのである。だからそなたたちはひたすら阿弥陀仏に思いをかけてはっきりと想い描くがよい。

善男子、畢竟に二種あり。一つには荘厳畢竟、二つには究竟畢竟なり。一つには世間畢竟、二つには出世畢竟なり。荘厳畢竟は六波羅蜜なり。究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗は名づけて仏性とす。この義をもつてのゆゑに、われ一切衆生悉有仏性と説くなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず。

『涅槃経』師子吼品 より
(『顕浄土真実教行証文類』行文類二 87一乗海釈 に引用)

意訳▼(現代語版 より)
善良なものよ、畢竟[ひっきょう]に二種類ある。一つは荘厳畢竟[しょうごんひっきょう]、もう一つは究竟畢竟[くきょうひっきょう]である。これをそれぞれ世間畢竟[せけんひっきょう]とも出世畢竟[せけんひっきょう]ともいう。荘厳畢竟とは六波羅蜜[ろっぱらみつ]であり、究竟畢竟とは一切衆生が得る一乗の道である。この一乗の道を仏性という。このようなわけで、わたしは<すべての衆生にことごとく仏性がある>と説くのである。すべての衆生は、ことごとく一乗の道を得ることができる。ただ煩悩におおわれているから、これを見ることができないのである。

仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、

『唯信鈔文意』4 より

意訳▼(現代語版 より)
仏性はすなはち如来である。この如来は、数限りない世界のすみずみまで満ちわたっておられる。すなわちすべての命あるものの心なのである。この心に誓願を信じるのであるから、この信心はすなわち仏性であり・・・

 他にも『涅槃経』梵行品には、<まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり>とあり、『大パリニッバーナ経』梵本には、<この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ>とあります({ブッダ最後の旅3} 参照)。さらに<天上天下唯我独尊>という言葉も、釈尊ひとり尊いということではなく、衆生の命そのものの尊さ、一人一人が何ものにも代え難い存在であることの顕れなのです。

 ちなみに、本願において「一切衆生悉有仏性」が最も具体的に顕わされた願いは{声聞無量の願} {眷属長寿の願} で、仏性の種は聞法精神であり、仏性の軸は願心・菩提心です。これが「国中の人・天、寿命よく限量なからん」と歴史を貫く法蔵精神によって願われ見出されている。これこそが阿弥陀仏の浄土が広大会である証しであり、無量寿が衆生に展開する現実の姿なのです。

 認識論・実践論では「罪悪深重の凡夫・無根の信」(機の真実/随他意説)

 上記のように存在論・本質論では「一切衆生悉有仏性」であり、人間は尊い存在であることが解りました。では本来的に尊い存在であるならば、人間はそのまま何もせずにいれば良いのでしょうか。尊い存在に成るための努力など、下手にしない方が良いのでしょうか。
 実はそうではありません。「本来的に尊い」ということの内容が、逆に現実の生活においては、「私は尊い」とは胸を張れない私を認識することになる、つまり「罪悪深重の凡夫」という認識になるのです。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。如来、いま未来世の一切衆生の、煩悩の賊のために害せらるるもののために、清浄の業を説かん。善いかな韋提希、快くこの事を問へり。阿難、なんぢまさに受持して、広く多衆のために仏語を宣説すべし。如来、いま韋提希および未来世の一切衆生を教へて西方極楽世界を観ぜしむ。仏力をもつてのゆゑに、まさにかの清浄の国土を見ること、明鏡を執りてみづから面像を見るがごとくなるを得べし。かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん」と。仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

『仏説観無量寿経』8 序分 発起序 定善示観縁 より

意訳▼(現代語版 より)
 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。 「そなたたちはわたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。わたしは今、煩悩に苦しめられる未来のすべての人々のために、清らかな行いを説き示そう。
 韋提希よ、よくこのことを尋ねた。
 阿難よ、そなたはこれからわたしが説く教えを忘れずに心にとどめ、多くの人々に説きひろめるがよい。わたしは今、韋提希と未来のすべての人々が西方の極楽世界を想い描くことのできるようにしよう。仏の力によって、ちょうどくもりのない鏡に自分の顔かたちを映し出すように、その清らかな国土を見ることができるのである。そしてその国土のきわめてすぐれたすがたを見て、心は喜びに満ちあふれ、そこでただちに無生法忍を得るであろう」
 さらに釈尊は韋提希に仰せになった。
そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである」
 そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。
「世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか」

 ここに登場する韋提希夫人いだいけぶにんはマガダ国の女王ですが、宗教的にはひとまず、社会的な責任を背負いながら苦悩している私たちの代弁者、と理解下さい(凡夫とも如来の化身とも様々な領解があります)。ここでは韋提希(つまり私たち)に向かって、<なんぢはこれ凡夫なり>とあります。凡夫とは、無明に閉ざされ煩悩に束縛されている者という意味です。つまり、「あなたは無明・煩悩に迷う凡夫である」と釈尊は言われるのです。
 さらに<心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず>とあります。
「天眼」とは{令得天眼の願} にありますように、「一切衆生悉有仏性」であることを見通すことで、これがなかなか難しいのです。私たちには生命の本来の尊さを具体的に覚ることがほとんどできないのです。覚ることができなければ、仏性は有って無きがごとし。蔵に隠された宝も、一生扉を開けなければ宝は元々無かったのと同様です。まずは聞見・眼見することが肝心なのです。
 {※資料1▼ 参照}
 そこで、<諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ>。<仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができる>というのです。有って無きがごとしであった本来の仏性が、如来のはたらきによってやっと見ることができるようになったわけです。
 そして私たちの代表者であった韋提希ですから、釈尊に直接指導を受けることの無い未来の私たちに向かって、<特別な手だて>を「普遍的な方法」に開いて示して下さったのです。
 なお『仏説観無量寿経』ではこの後、定善・散善を示しますが、親鸞聖人は『仏説無量寿経』にある四十八願の歴史的経過を聞くことを基本とし、<衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり>(『顕浄土真実教行証文類』信文類三(末)65 信一念釈)と示されました。

 いずれにせよ、現在私たちの「有って無きがごとしの仏性」が本来的な活動をし始めるのは、如来の手だてに遇う、つまり本来的な願いの歴史展開を聞き開くことが肝心であることが解ります。

 さらに『涅槃経』には、<無根の信>という言葉が出てきます。これは「私たちの側には信の根は一切無い」という意味です。信こそあらゆる仏法の基礎ですから、極論すれば「私たちには仏法の根本は一切無い」と言ってみえるわけです。
 (参考: {聞法ノート 第二集 5 『無根の信』}(釈勝榮さん著)

〈世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。世尊、われもし如来世尊に遇はずは、まさに無量阿僧祇劫において、大地獄にありて無量の苦を受くべし。われいま仏を見たてまつる。ここをもつて仏の得たまふところの功徳を見たてまつり、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ〉と。仏ののたまはく、〈大王、善いかな善いかな、われいまなんぢかならずよく衆生の悪心を破壊することを知れり〉と。〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉と。そのときに摩伽陀国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもつてのゆゑに、阿闍世王所有の重罪すなはち微薄なることを得しむ。王および夫人、後宮、采女、ことごとくみな同じく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。そのときに阿闍世王、耆婆に語りていはまく、〈耆婆、われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり。命短きを捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ〉と。 より

『涅槃経』梵行品 より
(『顕浄土真実教行証文類』信文類三(末)116 逆謗摂取釈 に引用)

意訳▼(現代語版 より)
 阿闍世[あじゃせ]が申し上げた。<世尊、世間では、伊蘭[いらん][たね]からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香[ほうこう]を放つ栴檀[せんだん]の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心に起こった無根[むこん]の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、それを無根というのであります。世尊、わたしは、もし世尊にお遇いしなかったなら、はかり知れない長い間地獄に堕ちて、限りない苦しみを受けなければならなかったでしょう。わたしは今、仏を見たてまつりました。そこで仏が得られた功徳を見たてまつって、衆生の煩悩を断ち悪い心を打ち破りたいと思います> と。
 釈尊が仰せになる。<王よ、よいことである。わたしは今、そなたが必ず衆生の悪い心を破ることを知っている>と。
 阿闍世が申しあげる。<世尊、もしわたしが、間違いなく衆生のさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは常に無間地獄[むけんじごく]にあって、はからしれない長い間、あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはいたしません>と。
 そのとき、摩伽陀国[まかだこく]の数限りない人々は、ことごとく無上菩提心[むじょうぼだいしん]をおこした。このような多くの人々が無上菩提心をおこしたので、阿闍世の重い罪も軽くなった。そして阿闍世とともに韋提希夫人[いだいけぶにん]や妃や女官たちも、ことごとくみな無上菩提心をおこしたのである。
 そのとき、阿闍世が耆婆[ぎば]にいった。<耆婆[ぎば]よ、わたしは命終わることなくすでに清らかな身となることができた。短い命を捨てて長い命を得、無常の身を捨てて不滅の身を得た。そしてまた、多くの人々に無上菩提心をおこさせたのである>と。

 以上のように認識論・実践論では、私は「罪悪深重の凡夫」であり、如来を信じる心でさえも「無根の信」であり、「仏心は私の中には全く存在しない心であった」という認識になるのです。そして<わたしは今、仏を見たてまつりました>と、今初めて仏に遇うことができた喜びを述べています。これを機の真実といいます。

 如来と私が拝みあう場では「如来回向の無上菩提心」(機法一体の真実/随自他意説)

葉かげ ふかく うもれている 実があった

(山頭火)

 以上のように、「法」と「機」が一見真逆の内容を言うのは何故でしょうか。それは「随自意説」と「随他意説」の違いで、覚った仏が覚りの立場で仏法の本質を直接説く時は「随自意説」を用い、目の前の相手や迷いの衆生の立場に立って導く時は相手の機に応じて説くので「随他意説」を用います。
 立場が違えば言葉も変わる、これは当然のことでしょう。随自意説と随他意説が時として真逆なのは、衆生を信じ敬愛しつつも、今現在の私が本来の尊さを見失っていることを歎き、指導においては罪悪深重の業を重要視するのです。

 実はこの本質論の「随自意説」と実践論の「随他意説」が時として混同されてしまうため、仏教は誤解され、如来の働きが現実に展開されないのです。この混同は仏教史最大の汚点といってもいい問題でしょう。
 具体的には、「あなたは本来罪悪深重の凡夫なのですよ。骨の髄まで凡夫なのです。それが解らんうちは何も始まりません」と高みに立って相手を罵倒(殺生)したり、逆に「私は仏性を有った尊い仏ですから、この本来のままで私は如来に救われるのです」というように思い上がったり(驕慢)することです。前者は実践論の「随他意説」で語られた内容を本質論であると誤解してしまったのであり、後者は本質論の「随自意説」で語られた内容を実践論に誤用してしまった例です。
 このように、書いてある文字に執われて、どの立場で誰に対して説いているのか思惟せず、また教えの内容が現状と合っているのかどうか検証する気の無い人が、現実には何の根拠もない論を皆に押し付けて仏教を汚しているのです。
 歴史と自らに照らし合わせて経典をじっくり読めばこうした誤解は解けますし、聖人自身もこのことを懇切丁寧に諭してくださっているのに、自分勝手な解釈をする人も多く、実に情けなく思います。

わが所説の十二部経のごとし。あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説なり。
乃至 善男子、わが所説のごとき、十住の菩薩少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。なにをもつてのゆゑに少見と名づくるや。十住の菩薩は首楞厳等の三昧、三千の法門を得たり。このゆゑに了々としてみづから阿耨多羅三藐三菩提を得べきことを知るも、一切衆生さだめて阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず。このゆゑにわれ十住の菩薩、少分仏性を見ると説くなり。
善男子、つねに一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。
一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆へるがゆゑに見ることを得ることあたはずと。わが説かくのごとし、なんぢが説またしかなりと。これを随自他意説と名づく。善男子、如来あるときは一法のためのゆゑに無量の法を説く

『涅槃経』(迦葉品) より
(『顕浄土真実教行証文類』真仏土文類五 20 真仏土釈 に引用)

意訳▼(現代語版 より)
 私が説いた十二部経は、あるいは仏自らの意にしたがって説いた教えがあり、相手の意にしたがって説いた教えがあり、あるいは自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えがある。(中略)
 善良なものよ、わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くが、このように説くのを相手の意にしたがって説いた教えというのである。なぜ少ししか見ないと説くのか。第十地の菩薩は首楞厳などの三昧を得、すべての教えに通じている。そのため、明かに自分がこの上ないさとりを得るということは知っているが、すべての衆生がこの上ないさとりを得るということは知らない。このようなわけで、わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くのである。
善良なものよ、わたしは常にすべての衆生にはことごとく仏性があると説く、これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。すべての衆生は、仏性が途切れることもなくなることもなく、やがてはこの上ないさとりを得る。これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。すべての衆生は、仏性が途切れることもなくなくなることもなく、やがてはこの上ないさとりを得る。これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。
すべての衆生にはことごとく仏性があるが、煩悩におおわれているから見ることができないのである。このように説くのは、わたし自らの意にも、そなたたちの意にもかなっている。これを自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えというのである。善良なものよ、如来は一つのことを明らかにするために数限りない教えを説くことがある

<十二部経>とは、諸仏が覚った真実の内容を、時機に応じ、また表現方法変えて、十二種類の説き方で説くことをいいます。
 そこで、「どんな凡夫も一闡提(仏性が無いといわれる人)も、真実を言えば、生れた最初から最後まで仏性があるのであって、一瞬でさえ途切れることなく、この仏性の種が華開いて、やがて覚りを得て仏に成ることができる」という意を説く、これが、真実全てを見ている諸仏が、見えているままを語ってみえる教えです(随自意説)。
 こうした説き方をしていれば、覚った者だけがこれを読むのなら良いのですが、そうでない人間が読むと誤解を与えてしまいます。つまり「あなたにも仏性がずっとあるよ」と言っても、言われた本人自身に仏性とは何かが見えないのですから、変に誤解を与えて自堕落になってしまいます。たとえば幼稚園児でしたら、「今のわがままな私のままで仏性があるからこのままでいいんだ」と誤解してしまうでしょう。仏性は対象としてとらえられるものではないのです。
 また自分に仏性があると解っても、一切衆生にあるとは解らない。これは「眼見」と「聞見」の違いで説明されていますが、世間的に言えば、「あんな凶悪犯にも仏性があると言うのか!」と反発されてしまうでしょう。さらに、「私には仏性があるし、それは絶対に途切れないのなら、どんな犯罪を犯してもいいじゃないか」という誤解も生むでしょう。

 そうした誤解を避けるために「随他意説」を用いるのですが、これは一般衆生の心情に合わせて説いてありますので、一番解り易い箇所です。初期の経論釈はほとんどがこの部類に入っていて、「よく解るから随自意説よりいい」という評判が立つわけです。また浄土の経論釈でも、自らの体験と重なることが多いので、「ここの箇所はよくわかる」と言われているのは大抵「随他意説」の部分です。
 たとえば、「第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ない」とあるのは、第十地の菩薩というのは最高位の菩薩ですから、こうした菩薩でさえ仏性を少ししか見ない(眼見)、まして一般人は眼見はできないから聞見しなさい、というわけです。聞見は、「自分では見ることができないのだから、とにかくよく教えを聞いて、聞いた通りを信じてみなさい」というのです。見ることが智慧であり仏性ですから、結局「あなたには仏性など無いのだから、自分など信じず、懺悔して如来から仏性をもらいなさい。仏様の慈悲を信じてごらんなさい、仏性・信心がいただけるから」と説くわけです。こうしていただく信を「無根の信」といいますが、確かにこうした道を辿ることが、結果的には真実信心に至る道となります。
 仏の本音で言えば、無根の信など有り得ないのですが、相手の心情にあわせて説くと、「とても有り得ないような真実信心がいただけた」とか「私の持っていなかった仏性・信心が仏よりいただけた」という経験をするので、相手の経験に添って説かれるのです。

 たとえば、幼稚園児が大人になるためには、あれを学びこれを学び、外側から色々な経験を与えられて成長するわけですから、体験的に言えば幼稚園児の中には大人的な要素はなく、多くのものが与えられて大人になったという体験をします。しかし、幼稚園児が「私は将来、大人になりたい」と言えば、大人は「大人になるのは当たり前じゃないか。もともと大人に成るようにできているんだから」と笑って言うでしょう。大人に成ってしまえば、子どもがいずれ大人に成ることは当たり前であることは解るのです。

『般若経』にのたまはく、「一切有情はみな如来蔵なり。普賢菩薩の自体、遍せるがゆゑに」と。
<中略>
煩悩・菩提、体これ一なりといへども、時・用異なるがゆゑに染・浄不同なり。 水と氷とのごとく、また種と菓とのごとし。 その体これ一なれども、時に随ひて用異なるなり。 これによりて、道を修するものは本有の仏性を顕せども、道を修せざるものはつひに理を顕すことなし
『涅槃経』の三十二にのたまふがごとし。
「善男子、もし人ありて問はく、〈この種子のなかに果ありや、果なきや〉と。さだめて答へていふべし、〈またはあり、またはなし〉と。なにをもつてのゆゑに。子を離れてほかに果を生ずることあたはず。このゆゑに〈あり〉と名づく。子いまだ芽を出さず。このゆゑに〈なし〉と名づく。この義をもつてのゆゑに、〈またはあり、またはなし〉と。所以はいかん。時節は異なることあれども、その体はこれ一なり。衆生の仏性もまたかくのごとし。もし衆生のなかに、別に仏性ありといはば、この義しからず。なにをもつてのゆゑに。衆生すなはち仏性なり、仏性すなはち衆生なり。ただ時の異なるをもつて、浄・不浄あり。善男子、もしあるが問ひていはく、〈この子はよく果をなすやいなや、この果はよく子をなすやいなや〉と。 さだめて答へていふべし、〈または生じ、生ぜず〉」と。

『往生要集』 巻上39 より

意訳▼(意訳聖典 より)
≪大般若経≫に説かれている。
 すべての生あるものは、みな如来蔵である。普賢菩薩の自体が遍満しているから。
<中略>
煩悩と菩提とは、[ものがら]は同一であるけれども、時と[はたらき]が異なっているから、汚れたものと浄らかなものとの不同がある(同じではない)。水と氷のようなものであり、また種子と果実とのようである。その体は同一であるけれども、時にしたがって、その[はたらき]が異なるのである。こういうわけで、道を修める者は、本来もっている仏性を顕わすけれども、仏道を修めないものは、ついにこの道理を顕わすことはないのである。
≪涅槃経≫の第三十二巻に説かれているとおりである。
 善男子よ、もし人あって「この種子の中には、果実があるのか、果実がないのか」と問うならば、「あるともいえるし、ないともいえる」とはっきり答えるがよい。なぜかというと、種子を離れてその[ほか]に果実を生ずることはできないから、それゆえ「ある」という。しかし種子がまだ芽を出さないから、それゆえ「ない」という。こういうわけであるから、「あるともいえるし、ないともいえる」というのである。どういうわけかというと、時節は異なるけれども、その[ものがら]は一つだからである。衆生の仏性も、またこのとおりである。もし、衆生の中に、別に仏性があるというならば、この義はそうではない。なぜかというと、衆生すなわち仏性であり、仏性はすなわち衆生である。ただ時節が異なるをもって、浄と不浄との別があるからである。善男子よ、もし、「この種子はよく果実を生ずるかどうか。この果実はよく種子を生ずるかどうか」と問うものがあるなら、あきらかに答えて「生ずるのであり、生じないのでもある」というべきである。

 具体的にいいますと、蓮如上人の書かれた『御文章』はひたすら「随他意説」で説かれ、文字も読むことができない多くの信徒たちの心情に添って、「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは」と誤解を与えないように呼びかけられ、仏性については一言の言及もありません。そして「随自意説」の「一切衆生悉有仏性」の領解は、よく理解できている人たちのみに語って(於「真宗相伝叢書」等)、信徒に慢心を与えないように注意されたのでした。

 しかし先にも書きましたように、どうも歴史的に仏教教学は、「随自意説」と「随他意説」を混同してきた経緯があり、「随自意説」をもとに「認識論」や「実践論」を展開したり、「随他意説」を引用して「存在論」や「本質論」とするような愚かな説が後を絶ちません。
 もし「随自意説」で「認識論」や「実践論」を展開すれば極端な本覚思想になってしまい、「本来仏である私は修行しなくてもそのまま仏である」と自己を誇り堕落してしまいます。
 逆に「随他意説」で「存在論」や「本質論」を展開すれば、衆生に宿る仏性が見出せません。そうすると極端な話、「人間は尊い存在とは言えない」とか「人間にはもともと仏性なんてものは無いんだ」というような、仏教の根本精神を失いかねない教えになってしまいます。実はこれは笑い話ではなく、浄土真宗の僧侶の中にもこんな誤解をしている人もいるので油断ができません。早く「随自意説」と「随他意説」の混乱を直さなくてはならないと思います。

 以上のような機と法の内容を総合的に顕したものが「随自他意説」です。ここでは<すべての衆生にはことごとく仏性があるが、煩悩におおわれているから見ることができないのである>とありますが、これが「本質論」としても「実践論」としても適う教えで、これを具体的にいいますと――「何と性根の無い私だろう」と懺悔する、自分の中に深くして底なしの罪悪が見える、この懺悔や、罪悪を見抜く眼そのものが仏性なのです。「肉眼は見ている対象は見えるが見ている眼そのものは見えない、しかし心の眼は対象と同時に見ている眼そのものを見ることができる」といいます。懺悔して悔い改めることで救われるというのは他者との取引ですが、仏教は「即」なのです。懺悔そのものが仏性であり、罪悪深重の凡夫と見抜く眼が仏性で、こうした智慧が人を餓鬼性・畜生性から脱皮させ、やがて地獄という社会悪・環境悪を克服させる起点となるのです。そして、この智慧が行為を通すことで徳となり、智慧と徳を具えた仏になる道筋がここに見えるわけです。

迦葉菩薩まうさく、〈世尊、仏性は常なり、なほ虚空のごとし。なんがゆゑぞ如来説きて未来とのたまふやと。如来、もし一闡提の輩、善法なしとのたまはば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あにまさに愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜば、これ善にあらずや〉と。
仏ののたまはく、〈善いかな善いかな、善男子、快くこの問を発せり。仏性はなほ虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いはゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足して、仏性を見ることを得ん。このゆゑにわれ仏性未来といへり。善男子、あるいは衆生のために、あるときは因を説きて果とす、あるときは果を説きて因とす。このゆゑに『経』のなかに命を説きて食とす、色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆゑに仏性と説く〉と。
〈世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごときのもの、なんがゆゑぞ説きて一切衆生悉有仏性とのたまへるや〉と。
〈善男子、衆生の仏性は現在に無なりといへども、無といふべからず。虚空のごとし。性は無なりといへども、現在に無といふことを得ず。一切衆生また無常なりといへども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆゑにわれこの『経』のなかにおいて、《衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし》と説く。非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。内外は虚空なれども、名づけて一とし、常とせず。また一切処有といふことを得ず。虚空はまた非内非外なりといへども、しかれどももろもろの衆生ことごとくみなこれあり。衆生の仏性もまたまたかくのごとし。なんぢいふところの一闡提の輩のごとし、もし身業・口業・意業・取業・求業・施業・解業、かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。なにをもつてのゆゑに、因果を求めざるがゆゑなり。善男子、訶梨勒の果、根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたまたかくのごとし〉

『涅槃経』迦葉品 より
(『顕浄土真実教行証文類』真仏土文類五 16 真仏土釈 引文 に引用)

意訳▼(現代語版 より)
迦葉菩薩が、<世尊、仏性が常住であって、虚空のようであるのなら、どうして仏性を未来のこととして説かれるのですか。また一闡提のものは、友達や師匠や父母や妻子に対して、愛する心がおこらないのでしょうか。もし愛する心がおこるのなら、それは善ではないでしょうか>と申し上げた。
 仏が、<よろしい、善良なものよ、それはよい問いである。仏性は虚空のように常住であって、過去でもなく未来でもなく現在でもない。しかし、すべての衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、仏性を見ることができるであろう。だから、わたしは仏性を未来のことといったのである。善良なものよ、仏は衆生のために、あるときは因のことを果で説き、あるときは果のことを因で説く。だから、経には、命は食をとった結果であるが、命という結果を食において説き、また物質は感覚によって認知された結果であるが、物質という結果を感覚において説く。そのように衆生も未来にはその身が清浄であるから、仏性と説くのである>と仰せになった。
 そこで迦葉菩薩は、<世尊、お説きになられた通りであります。そうであるなら、すべての衆生にはことごとく仏性があると、どうして説かれるのですか>と申しあげた。
 釈尊が次のように仰せになった。<善良なものよ、衆生の仏性は、現在には見ることはできないけれども、ないということはできない。虚空のようである。その本性はとらえることができないけれども、現在になりとはいえない。すべての衆生は、また無常であるけれども、仏性は常住であって変らない。だから、わたしはこの経に、≪衆生の仏性は、内にあるのでも外にあるのでもなく、それは虚空のようである≫と説くのである。内にあるのでも外にあるのでもなく、虚空のように存在するのである。内とか外とかいうのなら、虚空のようだといっても、一であるとも常住であるともいうことができず、すべてのところに存在するということもできない。虚空は、また内にあるのでも外にあるのでもないけれども、すべての衆生にことごとくある。衆生の仏性もまた同じである。
 そなたのいう一闡提のものなどは、その身心におこすすべてのはたらきも行いも、それらはことごくよこしまなものである。なえなら、因果の道理を信じようとしないからである。善良なものよ、訶梨勒は根も茎も枝も葉も華も実もすべて苦いようなものである。一闡提のものの行いもまたその通りである>

 仏性は、「私にはこんな善いところがある、あんな智慧も功徳もある」と自分を対象として慢心するところにはないので、「衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし」(涅槃経)と説きます。大悲は大非なのです。
 しかしまた「叱られるよりも ほめられたほうが 深く反省するものです」(荒了寛)という素晴らしい言葉にもあるように、真心の初心に戻ったり、歴史的・社会的な場を自覚した信心獲得者の境地からみれば、師や他者から褒められることはとても大切な機会となります。
 東井義雄師はその著で<拝まない者も おがまれている 拝まないときも おがまれている>と信の境地を述べてみえます。仏にさえ拝まれている私たち。とてもとても尊い存在である私たち。このことをふと忘れがちの私たちに、命の尊さを常に知らしめていくことが仏法のはたらきの要めなのでしょう。
 そして<我以外 皆我師也>(吉川英治)。自分以外はみな私の師。一般の衆生は社会的な環境が余りにも悪くなると、褒められれば褒められるほど謙虚さを無くし、下手をすれば思い上がった人間になってしまいます。しかし、仏仏想念で、敬虔な気持ちで、褒めて下さる方を拝ませていただくのです。

実るほど頭を垂れる稲穂かな

 このように、自己を誇ったところには仏性は無いが、自らの姿を懺悔する主体こそが即ち仏性であり、自己ではなく如来を尊ぶところに仏性の顕現があるのです。
 そしてこの仏性の歴史全てを含んでいるものが「真実信心」とよばれる「信楽」であり、これを法蔵菩薩の修行として象徴的に顕したものが『仏説無量寿経』なのです。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈 より

意訳▼(現代語版 より)
 次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじわることがない。それで、これを信楽というのである。 すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。
 ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことに信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
 すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
 この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

お釈迦さまはどんな人をも拝んでおられたから、どんな人からも拝まれたのです。仏仏相念の念仏とはそういう世界です。
(島田幸昭)
(参照: {至心信楽の願} {仏教とキリスト教の違い}

 聖典等資料

資料1

「〈一切覚者を名づけて仏性とす。十住の菩薩は名づけて一切覚とすることを得ざるがゆゑに、このゆゑに見るといへども明了ならず。善男子、見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。諸仏世尊は眼に仏性を見そなはす、掌のうちにおいて阿摩勒菓を観ずるがごとし。十住の菩薩、仏性を聞見すれども、ことさらに了々ならず。十住の菩薩、ただよくみづからさだめて阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知りて、一切衆生はことごとく仏性ありと知ることあたはず。善男子、また眼見あり。諸仏如来なり。十住の菩薩は、仏性を眼見し、また聞見することあり。一切衆生乃至九地までに、仏性を聞見す。菩薩、もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜざれば、聞見と名づけず〉と。乃至 師子吼菩薩摩訶薩まうさく、〈世尊、一切衆生は如来の心相を知ることを得ることあたはず。まさにいかんが観じて知ることを得べきや〉と。〈善男子、一切衆生は実に如来の心相を知ることあたはず。もし観察して知ることを得んと欲はば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり。もし如来、所有の身業を見たてまつらんは、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来、所有の口業を観ぜん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし色貌を見たてまつること、一切衆生のともに等しきものなけん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし音声微妙最勝なるを聞かん、衆生所有の音声には同じからじ、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし如来、所作の神通を見たてまつらんに、衆生のためとやせん、利養のためとやせん。もし衆生のためにして利養のためにせず、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来を観ずるに、他心智をもつて衆生を観そなはすとき、利養のために説き、衆生のために説かん。もし衆生のためにして利養のためにせざらん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく〉」と。略出

『涅槃経』師子吼品 より
『顕浄土真実教行証文類』真仏土文類五 21 真仏土釈 引文 に引用

意訳▼(現代語版 より)
 「<すべてをさとったものを仏性という。第十地の菩薩はすべてをさとったものとはいえないから、仏性を見るといっても明らかに見るのではない。善良なるものよ。見るということに二種ある。一つには眼見[げんけん]、二つには聞見[もんけん]である。仏がたは手のひらに置いた阿摩勒菓[あまろくか]を見るように、はっきりと仏性をご覧になる。第十地の菩薩は仏性を聞見するけれども、それほど明らかに見るのではない。第十地の菩薩は、ただ自分が間違いなくこの上ないさとりを得ると知ることができるが、すべての衆生にみな仏性があると知ることはできないのである。善良なものよ、仏性を眼見するするものは、仏がたである。第十地の菩薩は、少しは眼見もするが聞見もする。すべての衆生は、第九地の菩薩にいたるまで、みな仏性を聞見する。ただし菩薩が、すべての衆生にみな仏性があると聞いても、それを信じなければ、聞見とはいわないのである>(中略)
 師子吼菩薩[ししくぼさつ]が申しあげる。<世尊、すべての衆生は如来のお心を知ることができません。どのように観察してそのお心を知ることができるのでしょうか>と。
 <善良なものよ、すべての衆生は本当に如来の心を知ることはできない。もし観察して知りたいと思うなら、二つの方法がある。一つには眼見、二つには聞見である。如来の身業を見たてまつり、これが如来であると知ることとを眼見という。如来の口業を観察して、これが如来であると知ることを聞見という。如来のおすがたを見たてまつると、そのおすがたはすべての衆生に超えすぐれている。そこでこれが如来であると知る。これを眼見という。如来の声を聞くと、この上なくすぐれており、衆生の声とは異なっている。そこでこれが如来であると知る。これを聞見という。如来の不可思議なはたらきを見たてまつり、それが衆生のためなのか、如来ご自身のためなのかというと、それは衆生のためであってご自身のためではない。そこでこれが如来であると知る。これを眼見という。如来を観察すると、如来が他心通により衆生のありさまを知られて教えを説かれている。それは如来ご自身のためなのか、衆生のためなのかというと、衆生のためであってご自身のためではない。そこでこれが如来であると知る。これを聞見という>」


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