平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

釈尊と阿弥陀仏の関係2

― 覚った人と覚りの内容 ―

質問:

浄土真宗では釈尊はどのような扱いになっているのでしょうか。日蓮は釈尊を尊敬しないで阿弥陀仏を頼むのは父を頼らず伯父を頼っているようだと言っています。

返答

 これはよくある質問なのですが、阿弥陀仏の内容が解れば疑問は雲散霧消すると思います。
 以前にも、{釈尊と阿弥陀仏の関係(仏像のモデル)}{ふたたび本尊について#畢竟の尊像} などに、本尊としての考察を掲載しておきましたので、教学としてはそちらを参考にして下さい。

 阿弥陀仏の本質

 釈尊と阿弥陀仏の関係は、いわば波と海の関係にたとえることができるでしょう。

 海の持っている偉大さは、たとえば巨大な波で表現することができます。波がなければ海の偉大さは現わせないのです。釈尊は数百年に一度現われるか現われないかの偉大な波で、歴史に燦然と輝く波でありましょう。人は偉大な波に出会ってはじめて海の偉大さに気づくのです。そういう意味では、私たちにとって釈尊は、いのちの本質や人生の謎を解く鍵となる方ですから、当然、尊敬させていただくのです。

 しかし、いくら偉大な波といっても、海がなければ波は起りません。阿弥陀仏は「本願海」と称えられるように「仏のいのちの海そのもの」であり、逆に言えば、仏のいのちの無限性を「無量寿仏・阿弥陀仏」と表現したのです。釈尊は、仏の無限のいのちそのものを体得し、生き方や言葉として現された方であり、その境地、覚りの内容が「南無阿弥陀仏」なのです。南無は人と成った仏で、阿弥陀仏は人を人たらしめる仏のいのちそのものであり、この仏と仏が一体である(合体ではない)ことが南無阿弥陀仏の内容なのです。

 私たちは釈尊や親鸞聖人はじめ多くの偉大な波から生き方を学び、自らの波を浄め、偉大な波として人生を荘厳してゆくのです。そして輝かしい人生を創造し、歴史社会を創造してゆくのです。「釈尊と同じように偉大な波に成りたい」、「親鸞聖人の求められた信心の覚りを得ていきたい」、こうした願いを抱き我が身をふり返れば、願いを完全に成就することは永遠の彼方として感じられるでしょう。経典に「寿終りてののちに」とあるのは、こうした真心がはたらいているためなのです。
 しかし同時に、願いそのものが真実となれば、願う行為の中に成就がある、ということも解るでしょう。曇鸞大師は「木の火ばしをもって、草木を焼き尽くそうとするのに、その草木がまだ焼けきらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである」と喩えてみえます。浄土や名号は、私の願いを真実の願いに純化する一心のはたらきとして現実に現われるのです。こうして願いが真実純化してゆくには、直接の指導は善知識である人間を通しますが、依りどころとなるのは海そのもの、仏のいのちそのものである阿弥陀仏でなければなりません。

 ですから、阿弥陀一仏を拝む中に、釈尊や諸仏を拝むことも成就されているのです。ただしこれは、「私の信心と成り切って下さった阿弥陀仏」という意味であり、法蔵の精神である「本願力」が要めなのです。阿弥陀仏の海は、単に一切衆生のいのちの海というだけではなく、無上菩提心に随順せしめ無上菩提心の障害となるものを取り除く清浄・荘厳のはたらきを持った海であり、無限に正定聚・不退転の菩薩を生み出す「本願の海」なのです。この無上菩提心や菩薩を生み出す働きこそ阿弥陀仏独自の寿命なのであり、この寿命が無量であることが報身如来としての面目が躍如した姿であり、諸仏に褒め称えられる理由なのです。

 さらに言えば、釈尊や諸仏を尊敬することなく阿弥陀仏を拝むことは、観念として拝んでいるだけですから、真実の礼拝とはならないわけです。波を無視して海の実相を知ることはできず、波によって海の内容がわかるのです。
 そこで、仏像としては釈尊の姿を用い、覚りの内容は蓮華座や手の印によって南無阿弥陀仏を表現しているのです。決して釈尊をないがしろにしているわけではありません。

大小の聖人・善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもつては大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。

『唯信鈔文意』2 より

意訳▼(現代語版 より)
大乗・小乗の聖人も、善人・悪人すべての凡夫も、みな自力の智慧では大いなるさとりに至ることがなく、無碍光仏のおすがたは智慧の光でいらっしゃるから、この仏の智慧からおこった本願の海に入ることをお勧めになるのである。無碍光仏はすべての仏がたの智慧を集めたおすがたなのである。その光明は智慧であると心得なさいというのである。

 歴代の仏

 さらに歴史的事実として知っておいて頂きたいことがあります。それは、釈尊一人が経典を説かれたわけではない、ということです。{経典結集の歴史} にも書きましたように、釈尊は諸仏の一人であり、釈尊以前にも、釈尊以後にも仏が出現されていて、覚った人が説き編纂したものを「経」と言うのです。ちなみに菩薩の書いたものは「論」であり、大師の書いたものは「釈」といいます。
「大師」は仏に出会っているがまだ覚りそのものの内容が解っていない人(親鸞聖人は引用に「云」を使用)、「菩薩」は仏や浄土の内容が解る智慧が開けているがまだ徳が身についていない人(聖人は引用に「曰」を使用)、「仏」は覚りの内容が解り実際の行為を通じて徳が身についた人(聖人は引用に「言」を使用)のことをいいます。こうした仏は、釈尊以前も以後も多く出世されていて、特に経典によって様々な覚りの内容が明らかになっているのです。

 しかし中国において「全ての経典は釈尊一人の教説」というひどい誤解が起き、この誤解のために仏教がいびつな姿になってしまいました。つまり、「釈尊一人の教えなのに、どうして経典ごとにこんな違いがあるのだろう」という疑問が起ったのです。この矛盾解消のために無理やり様々な解釈を施し、施した無理な解釈に仏教徒はずっと縛られてきたのです。そしてこの誤解はそのまま日本に持ち込まれてしまいました。

 親鸞聖人もそうした誤解の中で仏教を学ばれた訳ですが、どうもこの誤謬に気づいてみえたふしもあり、「釈尊・釈迦」と書くべきところを「経家」と記してみえるところが5個所もあるのです。釈尊一人なら「家」とは言いません。「経家」とわざわざ難しい用語を用いられたのは、「釈尊ではなく歴代の仏の一人が説かれた」ということを察知されてみえたからではないでしょうか。そういう意味では、『仏説無量寿経』を編纂された仏こそ父であり、阿弥陀仏は諸仏の覚りを生み一切衆生に功徳を与える本仏である、ということが言えると思います。

『華厳経』や『大無量寿経』が釈尊滅後数百年経ってから編纂されたものだと知ることは、実は素晴らしく心躍ることなのです。これは先にも申しましたように、釈尊以外にも覚った仏が多く出世されてみえたことの証明であり、「正しく修すれば誰でも仏になることができる」という理論が現実に証明されたことになるのです。もし釈尊以外に覚った人がいないとなれば、私たちは覚りを得ることに半ば絶望しなければならなかったでしょう。そうすれば、釈尊の教説が私たちとは少し縁遠いものになってしまうわけですが、事実が解ったおかげで、より心強い気持ちで聞法できるわけです。


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