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ご本願を味わう
『仏説無量寿経』11b
【浄土真宗の教え】
巻上 正宗分 弥陀果徳 光明無量 十二光
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 巻上
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【11】……。このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。……
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 巻上
……。このため無量寿仏を、無量光仏[・無辺光仏[・無碍光仏[・無対光仏[・焔王光仏[・清浄光仏[・歓喜光仏[・智慧光仏[・不断光仏[・難思光仏[・無称光仏[・超日月光仏[と名づけるのである。 ……
前回は「阿弥陀仏の光明無量の徳」を「十方恒沙の仏刹を照らす超越のはたらき」と「拡大して照らす内在のはらたき」に分けて内容を明らかにしましたが、ここでは同じく「阿弥陀仏の光明無量の徳」を、十二の特徴に分けてさらに内容を明らかにします。光明は「はたらき」ですから、「光明無量」を説くこの第十一節は、「阿弥陀仏の限りないはたらき」を明らかにする箇所です。その中でまず、光明を十二種の名に分けた理由から尋ね、次に一々について諸師の領解を味わってみたいと思います。
<このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・……>
まずは「無量寿仏」、これが漢訳されたアミダブツの本名です。なぜなら阿弥陀仏の主体を表すには「寿」をもってしなければ適わない、寿命は主体を現わし、光明はその働きを現わす≠ゥらです(参照:{寿命無量の願})。ちなみに康僧鎧訳のこの『仏説無量寿経』には「阿弥陀仏」の名は一切登場しません。これは完全な漢訳を目指された康僧鎧の深意と完成度の高みからくる特徴でしょう。
次に十二光全体の構造ですが、まず「はたらき」である光明を仏名で表現してある理由は、「諸仏はみな徳を名に施す」(大経義疏)ためであり、衆生にはとっては「名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし」(同)と利益をもたらし、それが「よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし」(同)と真実信心に成りきることができるからです。逆に、阿弥陀仏のはたらきは限りがない≠ニいうことだけを見て限りがないのだから有限の私には理解不可能だ≠ニ断念するのでは、徳光を名で表現してある経の精神に添うことはできません。
弥陀成仏の光徳
1, 無量光 | 「個性自覚」 |
| 相 | 別 (弥陀の躰相)
|
2, 無辺光 | 「身意柔軟」 |
| 性
|
3, 無碍光 | 「生活轉成」 | (生活転成) |
| 躰(体)
|
4, 無対光 | 「生活浄化」 |
| 観音 | 力
|
5, 焔王光 | 「智見開覚」 |
| 勢至
|
6, 清浄光 | 「業性浄化」 | ―― 至心 | 因 | 作
|
7, 歓喜光 | 「所与満足」 | ―― 信楽
|
8, 智慧光 | 「存在意義」 | ―― 欲生
|
9, 不断光 | 「聞法不退」 |
| 縁
|
10, 難思光 | 「浄土往生」 |
| 果
|
11, 無称光 | 「涅槃証得」 | (修徳成仏) | 報
|
12, 超日月光 | 「光徳無尽」 |
| 本末究竟等 |
| 惣(総)
|
十二光の義相を分別すれば、十二光惣じて弥陀成仏の光徳を顕はす。その中に二あり、本末究竟等は惣にして、超日月光仏を顕はす。他は別にして、相性躰力作、以て弥陀の躰相を示す。無量光は相徳、無辺光は性徳、無碍光は正しく弥陀の躰徳を顕はす。弥陀の力用に観音勢至の二徳あるが故に、無対光炎王光を放ち、弥陀の作徳は衆生往生の因果を成ずる外なければ、之を開きて因縁果報となす。而して衆生往生の因として、至心信楽欲生の三心を誓ふが故に、之に対応して清浄歓喜智慧の三光を顕はす。不断光を縁として、難思光を以て浄土往生の果を得しめ、無称光を以て成仏の報を証せしめらるるのである。
島田幸昭著『十二光の名義』十二光の義相 より
島田幸昭師の示された十二光全体の構造図には無理がなく完全であり、何より四十八願の生起本末の因縁果報の流れに適っています。この中の、「相・性・躰(体)・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」は「十如是」といって諸法実相の意義を現わすもので、天台教義に組織されるものです。
- 「相」は形相(外的相状)
- 「性」は特性(内的本体)
- 「体」は本体(相や性を属性とする主体的体質)
- 「力」は能力(体が具えている潜在的能力)
- 「作」は作用(力が顕現して動作となったもの)
- 「因」は原因(果をまねく直接原因)
- 「縁」は条件(因を助ける補助的原因)
- 「果」は結果(因から生じた結果)
- 「報」は果報(因縁果に報われた報果)
- 「本末究竟等」は総合(本体と現象)が究極して平等一如。相から報までがおちつく処で、帰趣するところは結局同一の実相にほかならない。
なおこの「十如是」は、『大智度論』に見える「九種法」(体・法・力・因・縁・果・性・限礙・開通方便)を鳩摩羅什が『法華経』翻訳の際に転用したものだと推定されています。つまり、仏・菩薩等を覚る手順として、『大智度論』では「九種法」を、『法華経』では「十如是」を、『仏説無量寿経』では「十二光」を用い開いて領解するわけです。
『仏説無量寿経』は一切経を土台にしつつ、新たに歴史的現実に立って、みずからと歴史を創造し続ける新たな人間を生み出す経典であります(参照:{経典結集の歴史})。ですからこの経典の解釈には諸経に説かれる基本的な教学を学ぶ必要があるのであり、特に『涅槃経』『法華経』『華厳経』に説かれる内容は一通り心得ておかねばならないでしょう。その上で、『仏説無量寿経』はどんな視点で再編成されたのか、諸経の何を不足として編纂されたのか、ということを明らかにしなければなりません。
親鸞聖人もこうした立場で『教行信証』を著されたため諸経の引用が多いのです。ゆえに御同行として拝みあう立場の私たちも、「如来の真実義を解したてまつらん」との願いの中で、師の求めんとしたものを求めていかねばならないのでしょう。
十二光それぞれの内容ですが、古来より諸菩薩・諸師が懇切丁寧に解釈されてみえますので、ひとまず説明は抑え、心ひそかにその導きを味わってみたいと思います。
ただし一つだけ、十二光の味わい方として知っておいてほしいことがあります。それは、阿弥陀仏のはたらきを本当に理解するためには、自分自身と歴史的現実のありさまの中に、法蔵菩薩が四十八願を建立せしめた理由があり、その果報として光明無量の十二光徳を成就せしめた理由がある≠ニいうことです。
阿弥陀仏の光明は決して山の彼方や宇宙の果てを照らすものではありません。全くこの歴史的現実、日々私たちが生活している現場現場を照らすのであり、同時に新たな道程を創造する根源となり、死を悔やまず、生き甲斐を得るはたらきを回向し続けている、これが阿弥陀仏の光明無量のありさまなのです。
無量光 無辺光 無碍光 無対光 焔王光 清浄光 歓喜光 智慧光 不断光 難思光 無称光 超日月光
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 智慧光明不可量 故仏又号無量光
有量諸相蒙光暁 是故稽首真実明
智慧の光明量るべからず。ゆゑに仏をまた無量光と号けたてまつる。
有量の諸相光暁を蒙る。このゆゑに真実明を稽首したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 無量光といふは、『経』(観経)にのたまはく、「無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好まします。一々の好にまた八万四千の光明まします。一々の光明あまねく十方世界を照らしたまふ。念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず」といへり。恵心院の僧都(源信)、このひかりを勘へてのたまはく(往生要集・中意九五三)、「一々の相におのおの七百五倶胝六百万の光明あり、熾然赫奕たり」といへり。一相より出づるところの光明かくのごとし。いはんや八万四千の相より出でんひかりのおほきことをおしはかりたまふべし。この光明の数のおほきによりて、無量光と申すなり。
- 『述文賛』(憬興)
- 無量光仏 [算数にあらざるがゆゑに。]
<無量光仏>とあるのは、はかり知ることができないからである。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「無量光仏」といふは利益の長遠なることをあらはす、過現未来にわたりてその限量なし、数としてさらにひとしき数なきがゆゑなり。
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 即ち無量光は、智慧の光明もって有量の諸相を悉く光暁して、衆生各々をしてその個性を自覚せしめ、
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 解脱光輪無限斉 故仏又号無辺光
蒙光触者離有無 是故稽首平等覚
解脱の光輪限斉なし。ゆゑに仏をまた無辺光と号けたてまつる。
光触を蒙るもの有無を離る。このゆゑに平等覚を稽首したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 解脱の光輪きはもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 無辺光といふは、かくのごとく無量のひかり十方を照らすこと、きはほとりなきによりて、無辺光と申すなり。
- 『述文賛』(憬興)
- 無辺光仏 [縁として照らさざることなきがゆゑに。]
<無辺光仏>とあるのは、照らさないところがないからである。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「無辺光仏」といふは、照用の広大なる徳をあらはす、十方世界を尽してさらに辺際なし、縁として照らさずといふことなきがゆゑなり。
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 無辺光は、解脱の光輪きはもなく、衆生の身に光触して有無を離れしむ。これ内に平等感情を成就し、外に身意柔軟を得るからである。
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 光雲無礙如虚空 故仏又号無礙光
一切有礙蒙光沢 是故頂礼難思議
光雲無礙にして虚空のごとし。ゆゑに仏をまた無礙光と号けたてまつる。
一切の有礙光沢を蒙る。このゆゑに難思議を頂礼したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 光雲無礙如虚空
一切の有礙にさはりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議を帰命せよ
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 無礙光といふは、この日月のひかりは、ものをへだてつれば、そのひかりかよはず。この弥陀の御ひかりは、ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無礙光仏と申すなり。有情の煩悩悪業のこころにさへられずましますによりて、無礙光仏と申すなり。無礙光の徳ましまさざらましかば、いかがし候はまし。かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだに、十万億の三千大千世界をへだてたりと説けり。その一々の三千大千世界におのおの四重の鉄囲山あり。高さ須弥山とひとし。つぎに小千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ第六天にいたる。つぎに中千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ色界の初禅にいたる。つぎに大千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ第二禅にいたれり。しかればすなはち、もし無礙光仏にてましまさずは一世界をすらとほるべからず。いかにいはんや十万億の世界をや。かの無礙光仏の光明、かかる不可思議の山を徹照して、この念仏衆生を摂取したまふにさはることましまさぬゆゑに、無礙光と申すなり。
阿弥陀仏は智慧のひかりにておはしますなり。このひかりを無礙光仏と申すなり。無礙光と申すゆゑは、十方一切有情の悪業煩悩のこころにさへられずへだてなきゆゑに、無礙とは申すなり。弥陀の光の不可思議にましますことをあらはししらせんとて、帰命尽十方無礙光如来とは申すなり。無礙光仏をつねにこころにかけ、となへたてまつれば、十方一切諸仏の徳をひとつに具したまふによりて、弥陀を称すれば功徳善根きはまりましまさぬゆゑに、龍樹菩薩は、「我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水」(十二礼六八一)とをしへたまへり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたり。不可思議光仏のゆゑに「尽十方無礙光仏と申す」と、世親菩薩(天親)は『往生論』(浄土論)にあらはせり。阿弥陀仏に十二のひかりの名まし……
……『浄土論』にあらはしたまへり。いふ、諸仏咨嗟の願(第十七願)に大行あり。大行といふは、無礙光仏の御名を称するなり。この行あまねく一切の行を摂す。極速円満せり。かるがゆゑに大行となづく。このゆゑによく衆生の一切の無明を破す。また煩悩を具足せるわれら、無礙光仏の御ちかひをふたごころなく信ずるゆゑに、無量光明土にいたるなり。光明土にいたれば、自然に無量の徳を得しめ、広大のひかりを具足す。広大の光を得るゆゑに、さまざまのさとりをひらくなり。
- 『述文賛』(憬興)
- 無礙光仏 [人法としてよく障ふることあることなきがゆゑに。]
<無礙光仏>とあるのは、何ものにもさえぎられることがないからである。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「無碍光仏」といふは、神光の障碍なき相をあらはす、人法としてよくさふることなきがゆゑなり。碍において内外の二障あり。外障といふは、山河大地・雲霧煙霞等なり。内障といふは、貪・瞋・痴・慢等なり。「光雲無碍如虚空」(讃阿弥陀仏偈)の徳あれば、よろづの外障にさへられず、「諸邪業繋無能碍者」(定善義)のちからあれば、もろもろの内障にさへられず。かるがゆゑに天親菩薩は「尽十方無碍光如来」(浄土論)とほめたまへり。
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 無碍光は、光雲無碍なること虚空の如く、一切の有碍に碍りなからしむ。これその光澤によりて、内に柔軟心を成就し、外に生活を轉成(転成)せしむるが故である。
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 清浄光明無有対 故仏又号無対光
遇斯光者業繋除 是故稽首畢竟依
清浄の光明対ぶものあることなし。ゆゑに仏をまた無対光と号けたてまつる。
この光に遇ふもの業繋除こる。このゆゑに畢竟依を稽首したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 清浄光明ならびなし
遇斯光のゆゑなれば
一切の業繋ものぞこりぬ
畢竟依を帰命せよ
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 無対光といふは、弥陀のひかりにひとしきひかりましまさぬゆゑに、無対と申すなり。
- 『述文賛』(憬興)
- 無対光仏 [もろもろの菩薩の及ぶところにあらざるがゆゑに。]
<無対光仏>とあるのは、どのような菩薩も及ぶことができないからである。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「無対光仏」といふは、ひかりとしてこれに相対すべきものなし、もろもろの菩薩のおよぶところにあらざるがゆゑなり。
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 無対光は、対びなき清浄の光明をもって一切の業繋を除く。これ生活を浄化するものである。
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 仏光照曜最第一 故仏又号光炎王
三塗黒闇蒙光啓 是故頂礼大応供
仏光照曜すること最第一なり。ゆゑに仏をまた光炎王と号けたてまつる。
三塗の黒闇光啓を蒙る。このゆゑに大応供を頂礼したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 炎王光と申すは、ひかりのさかりにして、火のさかりにもえたるにたとへまゐらするなり。火の炎の煙なきがさかりなるがごとしとなり。
- 『述文賛』(憬興)
- 光炎王仏 [光明自在にしてさらに上となすことなきがゆゑに。]
<光炎王仏>とあるのは、光明の自由自在なはたらきはこれを超えるものがないからである。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「炎王光仏」といふは、または光炎王仏と号す。光明自在にして無上なるがゆゑなり。『大経』(下)に「猶如火王 焼滅一切 煩悩薪故」と説けるは、このひかりの徳を嘆ずるなり。火をもつて薪を焼くに、尽さずといふことなきがごとく、光明の智火をもつて煩悩の薪を焼くに、さらに滅せずといふことなし。三途黒闇の衆生も光照をかうぶり解脱を得るは、このひかりの益なり。
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 炎王光は、最第一の佛光して照曜して三塗の黒闇を啓かしむ。これ衆生の智見を開覚することに依りてである。
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 道光明朗色超絶 故仏又号清浄光
一蒙光照罪垢除 皆得解脱故頂礼
道光明朗にして、色超絶したまへり。ゆゑに仏をまた清浄光と号けたてまつる。
一たび光照を蒙れば、罪垢除こりてみな解脱を得。ゆゑに頂礼したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 道光明朗超絶せり
清浄光仏とまうすなり
ひとたび光照かぶるもの
業垢をのぞき解脱をう
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 清浄光と申すは、法蔵菩薩、貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。貪欲といふに二つあり。一つには婬貪、二つには財貪なり。この二つの貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。よろづの有情の汚穢不浄を除かんための御ひかりなり。婬欲・財欲の罪を除きはらはんがためなり。このゆゑに清浄光と申すなり。
- 『述文賛』(憬興)
- 清浄光仏 [無貪の善根よりして現ずるがゆゑに、また衆生の貪濁の心を除くなり。貪濁の心なきがゆゑに清浄といふ。]
<清浄光仏>とあるのは、貪りを離れた善根より現れるからであり、また衆生の汚れた貪りの心を除くのであり、汚れた貪りの心がないから清浄という。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「清浄光仏」といふは、無貪の善根より生ず。かるがゆゑにこのひかりをもつて衆生の貪欲を治するなり。
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 清浄光は、明朗超絶せる道光もて衆生の業垢を除き解脱を得しむ。これ無始久遠の業性を浄化することに依りてである。
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 慈光遐被施安楽 故仏又号歓喜光
光所至処得法喜 稽首頂礼大安慰
慈光はるかに被らしめ、安楽を施したまふ。ゆゑに仏をまた歓喜光と号けたてまつる。
光の至るところの処法喜を得。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 慈光はるかにかぶらしめ
ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまふ
大安慰を帰命せよ
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 歓喜光といふは、無瞋の善根をもつて得たまへるひかりなり。無瞋といふは、おもてにいかりはらだつかたちもなく、心のうちにそねみねたむこころもなきを無瞋といふなり。このこころをもつて得たまへるひかりにて、よろづの有情の瞋恚・憎嫉の罪を除きはらはんために得たまへるひかりなるがゆゑに、歓喜光と申すなり。
- 『述文賛』(憬興)
- 歓喜光仏 [無瞋の善根よりして生ずるがゆゑに、よく衆生の瞋恚盛心を除くがゆゑに。]
<歓喜光仏>とあるのは、怒りを離れた善根より生じるから、また衆生の怒りに満ちた心を除くからである。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「歓喜光仏」といふは、無瞋の善根より生ず、かるがゆゑにこのひかりをもつて衆生の瞋恚を滅するなり。
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 歓喜光は、慈光はるかに蒙らしめ、光の至る所に法喜を得しむ。これ宿業に休んじ所与の境遇に満足を見出さしむるが故である。
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 仏光能破無明闇 故仏又号智恵光
一切諸仏三乗衆 咸共歎誉故稽首
仏光よく無明の闇を破す。ゆゑに仏をまた智慧光と号けたてまつる。
一切諸仏・三乗衆、ことごとくともに歎誉したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 無明の闇を破するゆゑ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏・三乗衆
ともに嘆誉したまへり
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 智慧光と申すは、これは無痴の善根をもつて得たまへるひかりなり。無痴の善根といふは、一切有情、智慧をならひ学びて無上菩提にいたらんとおもふこころをおこさしめんがために得たまへるなり。念仏を信ずるこころを得しむるなり。念仏を信ずるは、すなはちすでに智慧を得て仏に成るべき身となるは、これを愚痴をはなるることとしるべきなり。このゆゑに智慧光仏と申すなり。
- 『述文賛』(憬興)
- 智慧光仏 [無痴の善根の心より起れり。また衆生の無明品心を除くがゆゑに。]
<智慧光仏>とあるのは、愚かさを離れた善根よりおこるのであり、また衆生の愚かな迷いの心を除くからである。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「智慧光仏」といふは、無痴の善根より生ず、かるがゆゑにこのひかりをもつて無明の闇を破するなり。
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 智慧光は、佛光能く無明の闇を破して、存在の意義を明らかならしめ、以て生活に光あらしむる。
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 光明一切時普照 故仏又号不断光
聞光力故心不断 皆得往生故頂礼
光明一切の時にあまねく照らす。ゆゑに仏をまた不断光と号けたてまつる。
光力を聞くがゆゑに、心断えずしてみな往生を得。ゆゑに頂礼したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 光明てらしてたえざれば
不断光仏となづけたり
聞光力のゆゑなれば
心不断にて往生す
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- つぎに不断光と申すは、この光のときとしてたえずやまず照らし……
- 『述文賛』(憬興)
- 不断光仏 [仏の常光つねに照益をなすがゆゑに。]
<不断光仏>とあるのは、常に絶えることなく衆生を照らし導くからである。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「不断光仏」といふは、一切のときに、ときとして照らさずといふことなし。三世常恒にして照益をなすがゆゑなり。
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 不断光は、断えざる光明の照育もて、聞法不退ならしめる。
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 其光除仏莫能測 故仏又号難思議
十方諸仏歎往生 称其功徳故稽首
その光仏を除きてはよく測るものなし。ゆゑに仏をまた難思議と号けたてまつる。
十方諸仏往生を歎じ、その功徳を称したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 仏光測量なきゆゑに
難思光仏となづけたり
諸仏は往生嘆じつつ
弥陀の功徳を称せしむ
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり。
- 『述文賛』(憬興)
- 難思光仏 [もろもろの二乗の測度するところにあらざるがゆゑに。]
<難思光仏>とあるのは、声聞や縁覚には推しはかることができないからである。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「難思光仏」といふは、神光の相をはなれてなづくべきところなし、はるかに言語の境界にこえたるがゆゑなり。こころをもつてはかるべからざれば「難思光仏」といひ、……難思光仏をば「不可思議光」となづけ
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 難思光は、測量なき佛光もて、無有出縁の衆生を浄土に往生せしめ、
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 神光離相不可名 故仏又号無称光
因光成仏光赫然 諸仏所歎故頂礼
神光、相を離れたれば、名づくべからず。ゆゑに仏をまた無称光と号けたてまつる。
光によりて成仏したまへば、光赫然たり。諸仏の歎じたまふところなり。ゆゑに頂礼したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 神光の離相をとかざれば
無称光仏となづけたり
因光成仏のひかりをば
諸仏の嘆ずるところなり
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 無称光と申すは、これも、「この不可思議光仏の功徳は説き尽しがたし」と釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば、曇鸞和尚の『讃阿弥陀仏の偈』には、難思光仏と無称光仏とを合して、「南無不可思議光仏」とのたまへり。この不可思議光仏のあらはれたまふべきところを、かねて世親菩薩(天親)の……
- 『述文賛』(憬興)
- 無称光仏 [また余乗等説くこと堪ふるところにあらざるがゆゑに。]
<無称光仏>とあるのは、仏を除いては説くことができないからである。
- 『正信偈大意』(蓮如)
- はるかに言語の境界にこえたるがゆゑなり。こころをもつてはかるべからざれば「難思光仏」といひ、ことばをもつて説くべからざれば「無称光仏」と号す。『無量寿如来会』(上)には難思光仏をば「不可思議光」となづけ、無称光仏をば「不可称量光」といへり。
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 無称光は、離相の神光もて、無上涅槃を証得せしめ普賢の徳を修せしめらるる。
- 『讃阿弥陀仏偈』(曇鸞)
- 光明照曜過日月 故仏号超日月光
釈迦仏歎尚不尽 故我稽首無等等
光明照曜すること日月に過ぎたり。ゆゑに仏を超日月光と号けたてまつる。
釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず。ゆゑにわれ無等等を稽首したてまつる。
- 『讃阿弥陀仏偈和讃』(親鸞)
- 光明月日に勝過して
超日月光となづけたり
釈迦嘆じてなほつきず
無等等を帰命せよ
- 『弥陀如来名号徳』(親鸞)
- 超といふは、この弥陀の光明は、日月の光にすぐれたまふゆゑに、超と申すなり。超は余のひかりにすぐれこえたまへりとしらせんとて、超日月光と申すなり。十二光のやう、おろおろ書きしるして候ふなり。くはしく申し尽しがたく、書きあらはしがたし。
- 『述文賛』(憬興)
- 超日月光仏 [日応じてつねに照らすこと周からず、娑婆一耀の光なるがゆゑに。]みなこれ光触を身に蒙るものは身心柔軟の願(第三十三願)の致すところなり
<超日月光仏>とあるのは、日夜常にすべてを照らし、この世界の日や月と異なるからである。
この光明に照らされるものはみな、身も心も和らぐという願の利益を受けるのである」
- 『正信偈大意』(蓮如)
- 「超日月光仏」といふは、日月はただ四天下を照らして、かみ上天におよばず、しも地獄にいたらず。仏光はあまねく八方上下を照らして障碍するところなし、かるがゆゑに日月に超えたり。さればこの十二光を放ちて十方微塵世界を照らして衆生を利益したまふなり
- 『十二光の名義』(島田幸昭)
- 超日月光は、日月の光に勝過せることを以て、光徳の無尽を嘆ぜらるるのである。
この十二光の徳用の領解は、本願の成就として、如何に吾等に四十八願を想起せしむることであらう。而もそれは全四十八願の根幹を成すものを惣括せるものである。
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