巻上 正宗分 法蔵発願 思惟摂取
【六】仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはりて、仏(世自在王仏)にまうしてまうさく、〈やや、しかなり。世尊、われ無上正覚の心を発せり。願はくは仏、わがために広く経法を宣べたまへ。われまさに修行して仏国を摂取して、清浄に無量の妙土を荘厳すべし。われをして世においてすみやかに正覚を成りて、もろもろの生死勤苦の本を抜かしめたまへ〉」と。仏、阿難に語りたまはく、「ときに世饒王仏、法蔵比丘に告げたまはく、〈修行せんところのごときの荘厳の仏土、なんぢみづからまさに知るべし〉と。比丘、仏にまうさく、〈この義、弘深にしてわが境界にあらず。やや、願はくは世尊、広くために諸仏如来の浄土の行を敷演したまへ。われこれを聞きをはりて、まさに説のごとく修行して、所願を成満すべし〉と。そのときに世自在王仏、その高明の志願の深広なるを知ろしめして、すなはち法蔵比丘のために、しかも経を説きてのたまはく、〈たとへば大海を一人升量せんに、劫数を経歴せば、なほ底を窮めてその妙宝を得べきがごとし。人、至心に精進して道を求めて止まざることあらば、みなまさに剋果すべし。いづれの願か得ざらん〉と。ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。ときにかの比丘、仏の所説を聞きて、厳浄の国土みなことごとく覩見して無上殊勝の願を超発せり。その心寂静にして志、所着なし。一切の世間によく及ぶものなけん。五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す」と。阿難、仏にまうさく、「かの仏国土の〔世自在王仏の〕寿量いくばくぞや」と。仏のたまはく、「その仏の寿命は四十二劫なりき。ときに法蔵比丘、二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取しき。かくのごとく修しをはりて、かの仏の所に詣でて、稽首し足を礼して、仏を繞ること三ゾウして、合掌して住して、仏にまうしてまうさく、〈世尊、われすでに仏土を荘厳すべき清浄の行を摂取しつ〉と。仏、比丘に告げたまはく、〈なんぢ、いま説くべし。よろしく知るべし、これ時なり。一切の大衆を発起し悦可せしめよ。菩薩聞きをはりて、この法を修行し縁として、無量の大願を満足することを致さん〉と。
比丘、仏にまうさく、〈やや聴察を垂れたまへ。わが所願のごとくまさにつぶさにこれを説くべし。
仏説無量寿経 巻上【六】釈尊が阿難に仰せになった。
「法蔵菩薩は、このように述べおわってから、世自在王仏に、
<この通りです。世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起しました。どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説きください。わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください>と申しあげた」
釈尊はさらに言葉をお続けになる。
「そのとき世自在王仏は法蔵菩薩に対して、<どのような修行をして国土を清らかにととのえるかは、そなた自身で知るべきであろう>といわれた。すると法蔵菩薩は、<いいえ、それは広く深く、とてもわたしなどの知ることができるものではありません。世尊、どうぞわたしのために、ひろくさまざまな仏がたの浄土の成り立ちをお説きください。わたしはそれを承った上で、お説きになった通りに修行して、自分の願を満たしたいと思います>と申しあげた。
そこで世自在王仏は、法蔵菩薩の志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、この菩薩のために教えを説いて、<たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう>と仰せになった。そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。
そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。そして五劫の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである」
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「ところで世自在王仏の国土での寿命は、いったいどれほどなのですか」
釈尊が仰せになった。
「その仏の寿命は、四十二劫であった。さて法蔵菩薩は、こうして二百一十億のさまざまな仏がたが浄土をととのえるために修めた清らかな行を選び取ったのである。このようにして願と行を選び取りおえて、世自在王仏のおそばへ行き、仏足をおしいただいて、三度その仏のまわりをめぐり、合掌してひざまずき、<世尊、わたしはすでに、浄土をうるわしくととのえる清らかな行を選び取りました>と申しあげた。世自在王仏は法蔵菩薩に対して、<そなたはその願をここで述べるがよい。今はそれを説くのにちょうどよい時である。すべての人々にそれを聞かせてさとりを求める心を起させ、喜びを与えるがよい。それを聞いた菩薩たちは、この教えを修行し、それによってはかり知れない大いなる願を満たすことができるであろう>と仰せになった。そこで法蔵菩薩は、世自在王仏に向かって、<では、どうぞお聞きください。わたしの願を詳しく申し述べます>といって、次のような願を述べたのである」
【大無量寿経点睛】
国王の願いを明らかに
経意
法蔵比丘は発願の歌を説き終わって、「唯世尊よ、私は無上正覚の心を発こしました。どうか私の為に法をお説きください。私は修行して仏国を摂取し、無量の妙土を清浄にし荘厳しようと思います。私にこの世において速やかに覚りを開き、諸の迷いと苦しみの本を抜かせて下さい。」と。
世饒王仏は法蔵比丘に「自分で造りたいという仏土はあなた自身で考えたらどうですか」
「この問題は弘く深く私の境界ではありません。どうかお願いです。私の為に広く諸仏如来が浄土を造ったやり方を詳しくお説きください、私はそれに順って修行して願いを成就致します」
その時世自在王仏はその高くしかも確かな志願の深く広いことを知って、「たとえば果てしもない大きな海があって、その底に妙なる宝が沈んでいるとする。唯一人小さな枡を以て何年かかってもその水を汲み干そうとすれば、いつかはその宝を取ることができるように、人あって至心に精進して道を求めて止まなかったならば、必ず果たし遂げることができるであろう。何の願いが成就せぬことがあろうか」と励まして、世自在王仏は広く二百一十億の諸仏の刹土、そこに住んでいる人々の善し悪しと国土の粗末なものも立派なものも、法蔵比丘の心の願いに応じて悉く現して見せられた。時に比丘はぶつの説く所の厳浄の国土を悉く見て、無上殊勝の願を超発した。
【科分】 法蔵比丘は世自在王仏の人格に触れて国王としてあるべき願いに眼覚めたが、全ての住民が悉く幸せである国とはどんな国であろうか、それを師仏に教えを請う段です。
【無上殊勝の願】とは、どんな願いであろうか。初めに国王が世自在王仏の説法を聞いた時には「無上正真道の意を発こした」といっているのは、法蔵比丘本人ではなく、第三者の「我」と名告るこの経の著者が説明しているのです。それは法蔵比丘本人には即自的でまだ漠然として自覚になっていないからでしょう。それが「発願の歌」を述べ終わって初めて法蔵自身の自覚になったのでしょう。「我無上正覚の心を発した」と言わせています。
そのことは初めには「正真道の意」といい、後には「正覚の心」といっているのは、「正真道の意」は真の道を求める心が発こったことですが、意は思い立った心で、その時点では眼が師仏に付いていてまだ自分の心が見えていません。「正覚の心」は正しく自覚になったことで、心は理性が破れて深層意識の仏性が自覚になり、憶念の心となって、相続することです。この二つは共に国王としての在るべき願いです。
その次に二百一十億の諸仏の国を見て「無上殊勝の願を超発した」というのは著者の説明ですが、さらに五劫の思惟によって選んだ「四十八願」は、法蔵比丘本人に表白させています。この無上殊勝願と四十八願の二つは、明らかに王も住民も共に満足できる理想の国の在るべき願いですが、無上殊勝の願はその総願であり、四十八願はその具体的な実践綱目です。
【修行して仏国を摂取する】とは、どういうことであろうか。『維摩経』の「仏国品」には「仏と菩薩にはもと国がない。あるのは衆生の国だけ。もし仏や菩薩が国が欲しければ空中に建てることはできぬ。現に有る衆生の国を取る外はない。仏や菩薩は衆生のある所至らざる所なく自分の国とした。衆生の類これ菩薩の仏土である」といい、『法華経』には「三界は我が有なり、一切衆生は皆我が子なり」といっています。しかし『大経』の法蔵菩薩は初めから国王である。昔の国王は皆武力や権力を以て国を取っているが、法蔵は「修行して」といっている。この謎を解くのに私はどれだけ時間を掛けたことか。それを解く鍵は「摂取」に有りました。
摂も取もどちらもとることですが、摂は手偏に耳が三つ、手は手当てで慈悲現し、耳が三つは誰の言うことも聞き取ること。それによって相手がその人を尊敬し懐[なつ]き親しむことで、相手の心をとること。取は耳偏に手ですが、耳を手でもぎ取ること。昔中国では敵の捕虜の耳をもぎ取って奴隷にしていたという。摂取はその人に心から懐[なつ]いて、その人のためなら身を粉にしてもと、相手が自分を尊敬し心服することです。「仏国」は土地のことではなく「衆生の類これ菩薩の仏土」で、人が懐いて多く集まれば集まるだけ、国が広くなる。それを「浄土は人が多く生まれれば生まれるほど広くなる」というのです。
【無量の妙土を清浄にし荘厳する】 無量の妙土とは、『華厳経』では人間が信心開発、心の眼を開けば、自分が誕生すると同時に自分には国があることが見えると説く。法蔵菩薩の国は一切衆生の国を内含していること。「妙土」とは衆生の国は法蔵比丘の現時点では穢土とも浄土とも、迷いの世界とも覚りの世界ともいえぬから、妙土といったのでしょう。
「清浄にする」とはクリーニングで、煩悩に汚れているからそれを無くすること。「荘厳する」とはさらに功徳を以て厳[かざ]ること。たとえば環境を綺麗にする時、吸い殻を捨てぬようにとか、捨てているあき缶を拾うとかは清浄にすること。その上緑化運動とか花植え運動は荘厳すること。女性が美しいとは昔は垢抜けした顔とか、鴨川の水で顔を洗ったようなとは清浄。今はお黄いやらお青いで満艦飾、それが荘厳。仏教学者は皆浄土は煩悩がなくなった清らかな世界といっているが、それは涅槃や真如と浄土を混同しているからです。
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