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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』43
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 胎化得失2
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 43
その時に、慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見ず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。
もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華のなかにおいて自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 43
そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。
「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。
これに対して、無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じてさまざまな功徳を積み、まごころからその功徳をもってこの国に生れようとするものは、ただちに七つの宝でできた蓮の花に座しておのずから生れる。これを化生といい、たちまちその姿を光明や智慧や功徳などを、他の菩薩たちと同じように、欠けることなく身にそなえるのである。
- 註釈版
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その時に、慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見ず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。
- 現代語版
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そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。
「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。
日本の仏教界においては、親鸞聖人以前は、〝どうしたら浄土に往生できるか〟ということにのみに関心が集まっていました。その中で法然上人は信疑決判を注視し当時の人々を驚かせたのです。
親鸞聖人はこのことを『正信偈』に――
生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。
と記されていますので、〝そう法然上人より承った〟ということでありましょう。〝信ずれば速やかにお浄土参り、疑えばいつまでも六道に迷う〟、それゆえ〝疑うな〟と。本願を疑い自力を頼みとする(疑情)ことで迷いの世界に流転し続けるのである、と。
では、それが『仏説無量寿経』の意に添うているかと申しますと、必ずしも同じとは言えないのです。経には、「疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れん」と願うものや「悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願う」もの、こうした自力の行者であっても〝浄土に生まれたい〟と願えば、浄土に生まれることだけは保証されているのです。浄土は取引をする場ではありませんから、来る者を決して拒みません。浄土の門はいつでも大きく開いているのです。
では経は何を問題としたかと申しますと、浄土に生まれんと願うその動機であります。何のために衆生は浄土に生まれようと願うのか、その動機が本願成就のいわれに適っているかどうかを問題にしているのです。
たとえば、ある偉人が学問普及のために立派な学校を建て、入学したいと願う者は全て受け入れたとします。ここに学問探究の盛んな人たちが入学すれば、建学の精神と学生の願いが合致し、大いに成果が上がり、とても満足な結果となります。しかし中には、校舎の立派さや、待遇の良さや、学校の評判、偉人の名声のみにひかれ、学問に対する探求心など微塵もいまま入学する者もいるでしょう。すると、惰眠を貪る学生ばかりとなり、せっかくの良い環境も宝の持ち腐れとなってしまいます。
これと同じ状態が浄土における胎生であります。無量寿仏の立場に立って考えてみれば、これがどれほど本願を損ねることか解るでしょう。そこで親鸞聖人は、「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり」(信文類65)と、ひたすら本願成就の歴史(本願が建てられた理由と歴史的展開と自分に至り届いている事実)を聞き開くことを勧められたのです。そして心得違いの念仏者に対しては、<仏法者のやぶるにたとへたるには、「獅子の身中の虫の獅子をくらふがごとし」と候へば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ候ふなり>(親鸞聖人御消息 28)と、仏法者自身が仏法を滅ぼすことを譬えてみえます。
また聖人は『尊号真像銘文』に生の詳細を示し、「六道・四生・二十五有・十二類生」にとどまることを疑の失、本願力回向の信心により実報土に入ることを信の得と示されます。
「以疑為所止」といふは、大願業力の不思議を疑ふこころをもつて、六道・四生・二十五有・十二類生 [類生といふは、一に卵生、二に胎生、三に湿生、四に化生、五に有色生、六に無色生、七に有相生、八に無相生、九に非有色生、十に非無色生、十一に非有相生、十二に非無相生] にとどまるとなり。いまにひさしく世に迷ふとしるべしとなり。
『尊号真像銘文』15 より
ここで「六道・四生・二十五有・十二類生」とありますのは、「生れ方や生存状態により、それぞれ六種・四種・二十五種・十二種に分類したもの」なのですが、全ては「衆生が流転する迷いの世界」に属するもので、苦楽に多少の違いはありますが、ここに留まっている限りいずれも「疑の失」に過ぎません。
「六道」は、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」の六つの界(その人の業が原因で趣いたり保たれる境界・境地)をいいます。
この中で「地獄」は、「人間悪とか社会悪を象徴的に言い現したもの」であり、この地獄を造り出す原因が我執(餓鬼)と無明(畜生)であります(参照:{無三悪趣の願})。
「修羅」は、驕慢で猜疑心や嫉妬心が強い生存の境地で、闘争を止めることができない人たちです。
「人」は、五戒を保つことで得られた生存の境地ですが、まだ正しい法を聞くことなく、道を求めていないため、苦と楽が半ばする状態をいいます(参照:{『仏説無量寿経』34})。
「天」は、六欲天の福に満足している人や、四禅天・四無色天の存在を言います。苦なく楽のみを受ける境地で、六道の中では最高最勝な生存ですが、迷いの世界であることは同じで、天に住む条件が満たされなくなれば五衰(天人の五衰)があらわれ、地獄以上の苦を味わうことになります(参照:{荘厳妙色功徳成就」#2 }・{『仏説無量寿経』19(#2)})。
「四生」は、「衆生が迷界に生まれる四つの形態」をいい、鳥や魚などのように卵から生まれる「卵生」、人や獣などのように母胎から生まれる「胎生」、ぼうふらや虫など湿気から生まれる「湿生」、過去の自分の業の力によってつくり出された存在でよりどころなく忽然と生まれる「化生」(天人や地獄の衆生や餓鬼の一部や中有の存在)に分けられています。現代科学から見れば、ぼうふらや虫などは湿生ではなく卵生でありますが、前近代の科学では解明されていませんでしたから湿生の類を設ける必要があったのでしょう。
「二十五有」は、「有とは迷いの境界のことで、衆生の流転する迷いの世界(三界)を二十五種に分けたもの」をいいます。詳細を言いますと――
「三界」は欲界・色界・無色界に分けることができます。
「欲界」は四悪趣・四洲・六欲天の十四有に分けることができます。
「四悪趣」は「地獄・餓鬼・畜生・修羅」、「四洲」は「東勝身洲・南贍部洲・西牛貨洲・北倶盧洲」、「六欲天」は「四王天・トウ利天(三十三天)・夜魔天・兜率天・化楽天・他化自在天」があります。
「色界」には、四善天(初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天)と無想天・浄居天・大梵天の七有があります。
「無色界」には四空処天(空無辺処天・識無辺処天・無所有処天・非想非非想処天)の四有があり、全て合わさせて二十五有となります。
「十二類生」は、銘文に「一に卵生、二に胎生、三に湿生、四に化生、五に有色生、六に無色生、七に有相生、八に無相生、九に非有色生、十に非無色生、十一に非有相生、十二に非無相生」と註がありますように、「受生の相異によって衆生を種々に分類する」ものの一つです。十二類生のうち初めの四つ(卵生・胎生・湿生・化生)は四生と同じ内容です。
それではなぜ「六道・四生・二十五有・十二類生」が「迷界」に生まれる形態であるかと申しますと、この世に生まれてきた衆生は、生まれたままでは無明性・煩悩性が多く、未熟なため仏となることができないからです。生まれたままの根性で勝手気ままに暮らしていては、人生が成就しないどころか破滅してしまいます。これは以前、{『仏説無量寿経』34}から{『仏説無量寿経』40}にかけての「五善五悪」、さらに言えば{『仏説無量寿経』31}からの「三毒段」も含めて懇切丁寧に諭していただきました。仏教は〝生まれたままの赤ん坊に帰れ〟と呆ける宗教ではありません。〝自分はまだ未熟である〟と自覚し、未熟さの原因である我執性と無明性を破り、智慧と功徳を得て真の大人に成ってゆく宗教であります。
ちなみに、浄土に生まれる意味の胎生・化生は、四生にある胎生・化生とはひとまず分けて考えた後、象徴的・便宜的に胎生・化生の語を用いていることを確認すべきでしょう。
では、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願はん」とはどういう内容かと申しますと、浄土に胎生するというのは十二類生のような「迷界」に生まれる形態ではありませんが、せっかく浄土に生まれたといっても、浄土建立の精神と歴史を学ぼうとせず、仏のまごころを疑いながらも、〝地獄に堕ちるのは嫌だし、安逸を貪ることができそうだから〟と功利的に考えて浄土に生まれることを願った、そうした生まれ方をした人たちを胎生の衆生というのです。
ではなぜ胎生というかというと、母胎に包まれて周りが見えない状態に譬え、浄土に生まれても「つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見ず」という状態が五百年も続くことを表しているのです。
ところで、胎生の衆生が「疑惑の心」を捨てられないのは何故なのでしょう。それは「仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らず」して、この「諸智において疑惑して信ぜず」とあります。五種の智慧のうち「仏智」は総名であり、後の四智は別名であります。いずれも無量寿仏のすぐれた智慧をたたえたものですが、この五智を「了らず」、また「疑惑して信ぜず」ということを問題にしています。
他宗教と違い仏教における信はつねに解あっての信でありますから、たとえば『涅槃経』には、「信あって解なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信と解とまどかにそなわってこそ行のもととなる」とあります。五智を「了らず」ということは「解がない」ということであり、無明を増長してしまいますし、「疑惑して信ぜず」はもちろん「信がない」ということであり、邪見を増長してしまいます。無量寿仏の智慧も「信解円通してまさに行の本となる」、これこそが真の念仏行でありましょう。
では仏智に照らされた私は、五智をどのように了り、どのように疑惑を破って信ずることができるのでしょう。具体的な領解は個人の問題ではありますが、あえて基本的な姿勢だけでも示すことにしましょう。
まず「不思議智」でありますが、一般的には「凡夫の思議の及ばない智慧」という説明で終わってしまっています。これでは、自分の思議そのものを否定してしまいがちですが、本当はどこまでも思議を深めていくことを勧めている言葉なのです。〝自分は仏智を思議できない〟のではなく、〝思議しても思議しても、思議し尽くしたということはない〟という無限の深みを言うのです。どんな智慧も思議した分だけが自からの分となるのですが、仏智は〝ここまで思議すれば全て理解できた〟という限界がありませんから「不思議智」とも「不可思議智」とも言うのです。この「不思議智」に照らされると、〝思議浅く、常に自ら限界を作って生悟りしている自分〟を見ますので、深く懺悔し、思議の殻を破いて物事を直視する智慧を如来より回向されるのです。
「不可称智」も同様に、「称えられない智慧」ではなく〝称えても称えても称え尽くせないほど素晴らしい智慧〟と解することができるでしょう。「称える」ということは、智慧の内容が解ってはじめて褒め称えることができます。なぜなら解っていない分まで称えることは不可能だからです。しかし中には、〝よく解らないが、立派そうだからとりあえず称えておこう〟という人もいるのですが、こうした褒め言葉がいかに虚しいか解るでしょう。この虚しい称名が胎生の衆生の業なのです。同時に、〝今自分の理解した分にのみ得がある〟と早とちりし、仏智のさらなる深みを忘れてしまってはいけないので「不可称智」と、自らの限界を懺悔し、つねに自力称名の殻を破く智慧が如来より回向されるのです。
また「大乗広智」は、仏智の大乗広大なる智慧に照らされることで、自分の小乗なる性根が懺悔されるのです。人間は生まれた当初から大乗広大なる智慧を得ている人はいません。仏智に照らされることで小乗なる性根が破られ、身びいきや差別のない大乗広大なる智慧が回向されるのです。
最後の「無等無倫最上勝智」は〝何ものにも比べることのできない智慧〟ということですが、この仏智に照らされることによって〝常に他と比較して優劣をつけたがる我が浅ましき根性〟が露呈されてきます。そこでこれを深く懺悔し、あらゆるものに〝何ものにも代えがたい尊い価値〟を見出す、そうした智慧を如来よりいただくのです。
このように仏智に照らされることで私の無明が破られ、仏智が私の智慧となり、本願成就のいわれに適ったお念仏となる、このことが〝五智を了り、疑惑を破って信ずることができる〟ということでありましょう。
もちろん、以上の説明が全てでは決してありませんが、〝どうせ仏智は凡夫に解るはずはないのだから、仏の言葉を鵜呑みに信じて念仏しなさい〟とか、〝地獄・極楽の差を考えれば、理屈は解らなくても、とにかく善を為し、念仏の功徳を積んで極楽に生まれるように願いなさい〟などという信は、真実信心ではないということだけは確認できると思います。これが「しかるになほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生れんと願ふ」(それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願う)という態度でありましょう。
このように、領解のないあやふやな信心で安楽国に生まれることを願っても、それは本願のいわれに適わない願いですから、せっかく安楽国に生まれても「このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見ず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ」という不利益を招くことは必至です。
またこうした胎生の衆生について、曇鸞大師はさらに厳しく――
王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。
『往生論註』105 より
王舎城において説かれた《無量寿経》のうえを考えてみると、往生を願う上・中・下の三類の人の中で、その修行には優劣があるけれども、いずれもみな、無上菩提心すなわち他力の信心をおこさないものはない。この無上の大信心は自分が仏になろうと願う心であり、この自分が仏になろうと願う心は、そのまま衆生を済度しようとする心である。衆生を済度しようとする心とは、衆生を摂めて仏のまします浄土に生まれさせる心である。こういうわけであるから、彼の安楽浄土の往生を願う人は、かならず無上菩提心すなわち信心を起こさねばならぬ。もし人が、この信心をおこさずに、ただかの浄土の楽しみを受けることが絶えまのないということを聞いて、楽しみを貪るために往生を願うような者は、また往生はできぬのである。
と弾じ、〝実質的に、胎生は往生とは言えない〟と批判しています。
- 註釈版
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もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華のなかにおいて自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。
- 現代語版
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これに対して、無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じてさまざまな功徳を積み、まごころからその功徳をもってこの国に生れようとするものは、ただちに七つの宝でできた蓮の花に座しておのずから生れる。これを化生といい、たちまちその姿を光明や智慧や功徳などを、他の菩薩たちと同じように、欠けることなく身にそなえるのである。
前節では胎生の不利益が説かれましたが、対してここでは化生の利益が説かれます。「あきらかに仏智乃至勝智を信じ」とは、先の「仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智」を了り、「この諸智」において疑惑せず、信じ、ということです。
次に「もろもろの功徳をなして信心回向すれば」とあります。文面を常識的に読むと〝私が様々な功徳を積んだことによって信心がふり向けられれば〟と受けとめられがちですが、この功徳は、〝仏智のはたらきによって私の我執・無明が破かれた〟という名号に込められた仏の功徳でありますから、〝私が何かを為した功徳〟ではありません。念仏も仏の名号徳の発露であり、信心も仏徳の果報。称えせしむる念仏であり、信じせしむる信心であります。
私たちはそれをわけも解らず信じるのではありません。私の我執・無明が如来の智慧によって暴かれ、懺悔され、打ち破られ、仏智が自分の智慧となって下さる体験によって領解され、信心がふり向けられるのです。これが先の『涅槃経』にある「信と解とまどかにそなわってこそ行のもととなる」という内容でしょう。「信解円通」は自力の信心を破って真の行を成就する根本です。
続いて「このもろもろの衆生、七宝の華のなかにおいて自然に化生し」とあります。これは前章に「かの国の人民、百千由旬の七宝の宮殿に乗じて障礙あることなく、あまねく十方に至りて諸仏を供養する」とあるのと同じ内容なのですが、「七宝の宮殿」はあえて省かれ「七宝の華」と表現されています。これは前節の「かの宮殿に生れて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず」と同じ印象になるのを避けるために宮殿を省いて華に譬えたのか、もしくは、宮殿の中に居ながら「あまねく十方に至りて諸仏を供養する」ということが想像しにくいのではないか、との心配りなのでしょう。
ちなみに、「宮殿」は浄土の果報として居場所や落ち着き場所が与えられることを言います。与謝野晶子が「劫初よりつくりいとなむ殿堂に われも黄金の釘一つ打つ」と歌った「殿堂」が「宮殿」です。具体的には人々の生活環境や文化文明や人生観の果報ですが、浄土の宮殿ですから、物体としての果報ではなく、「仏性」や「信心」といわれる真心の果報を言います。
この果報の内容が解るということが「七宝の華のなかにおいて自然に化生し」ということなのです。ちなみに化生であれば七宝の華は開いていますが、胎生の場合はこの華は閉じています(参照:{「蓮莟を模す」の間違い})。これは、浄土の果報を誇って安逸を貪る愚を嗜めているのです。
では「跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん」とあるのはどういう意味でしょう。
「跏趺」は、「跏」は足の裏、「趺」は足の甲のことで、足の甲を左右のももの上に置く坐相であり、結跏趺坐・蓮華坐とも言います。
なぜ跏趺して坐しているかというと、これは如来や禅定修行の坐相だからです。これが次の「須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん」につながるのですが、「須臾」は「しばらく、しばしの間、暫時」ということですから、ほんの少しの時間に、「身相・光明・智慧・功徳」が正定聚の菩薩と同じように成就する、つまり心身や人間関係さえも一人前の菩薩として完成するというのです。
これはとても驚くべきことなのですが、なぜこのようなことが適うのかと申しますと、「七宝の華」のもつ功徳、つまり「場の徳」によって人間が速やかに育つからです。
身近な例で言えば、親の立場に目覚めれば、親というものの功徳、親という名の尊さによって、半人前の親が一人前の親に育つのであります。「親」という名を社会的な立場や責任に置き換えても解るでしょう(参照:{言葉の重さと立場の徳})。
私たちは時に「社会は共同幻想だ」などと嘯く思想に毒され、せっかく七宝の華に乗りながら莟のまま朽ちてしまう懸念があります(参照:{四コマ哲学教室})。そこで、「もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん」と発せられた願いを踏みにじることなく、仏願が私の願いと成っていただいたことを尊み、速やかに願いの成就を念じるべきでありましょう。この要めこそが阿弥陀仏の五劫思惟の本願と兆載永劫の修行の末に回向された信心なのです。
(参照:{『仏説無量寿経』16})
胎生・化生の問題だといいますが、胎生・化生の問題はなぜこうなってきたかというと、実はこれは、今まではみんな阿弥陀さまのお慈悲の中に包まれておったのです。それは、子どもですよ。子どもというものは、ちゃんと母親と体は身二つになっておりましょう。ちゃんとお母さんはお母さん、子どもは子どもでしょう。けれども、精神離乳ができておらんといいましょう。まだ、本当に心がお母ちゃんがおらないといけないのだから。「お母ちゃんおらん、お母ちゃんおらん。お母ちゃん、どこ行ったか」という。学校から戻って「ただいま」。お母ちゃんが、「よう戻ったね」といわなければ安心できないでしょう。精神離乳ができておらないでしょう。
<中略>
今ちょっといいましたように、今まではどうかというと、この世は仮の世界、親も借りもので肉体も借りもので魂が大事なという。みんな、仏とは色もない形もない法身ではないですか。ちゃんと色もない形もないものだという。
ところが、報身ならば、親鸞聖人は色もない形もない一如の世界から、法身とか法性といいますが、色を現し形を示して名前を法蔵菩薩と名告って、今度不可思議の四十八の大誓願を発こして、永劫の間修行して、初めて十劫のお浄土ができた、本願によって報われてできたのではないか。形があるではありませんか。「青色青光、白色白光」という。これだけ違うのです。
だからちゃんと言葉は皆学者が知っておる。言葉は知っておるのだけれども、本気ではないの。考えないから本気ではない。それは、ちょっと考えてもすぐ解るではない。皆、法身ではありませんか。
<中略>
「どういう因縁があって華が開いたのとつぼんだのがあるのですか」というと、「お浄土に生まれる以前に、業によって違うんだ」と、いうことをいっておられるわけであります。
ということは、しかもその業が何かというと、これは疑いがあるという。疑惑といいますが、その疑いがある。ところが、同じ疑惑、疑いといいましても、親鸞聖人は『疑惑和讃』とありますけれども、私たちがいう疑いと、このお経のいう疑い、親鸞聖人のおっしゃる疑いは違うのであります。疑い、けたが違うの。
というのは、何かといいますと、いつも申しますように、私たちが疑うてはいけないというのは言葉に引っかかっておるの。みんなそういう言葉でしょう。これは、西洋の教育が災いしておるのです。皆、知識教育だから。そうすると、同じ疑いでも、頭の疑いと胸の疑いと、大体心は頭にある胸にあると二ついっております。今ごろこんなことをいうたら、子どもが笑いますけれども。これは、もちろん心は頭にあるに違いないのです。あるのだが、頭にあるといわずにおれない心と胸にあるといわずにおれない心と二つあるの。だから、頭にあるのは知識といいます。胸にあるのはまごころいいましょう。だから、ハートは心臓を表すのでありますが、そういうハートという言葉でも皆、胸を象徴するのですから、まごころのこと。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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