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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』42

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 胎化得失1

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 42

 その時仏、阿難および慈氏菩薩(弥勒)に告げたまはく、「なんぢかの国を見るに、地より以上浄居天に至るまで、そのなかのあらゆる微妙厳浄なる自然の物、ことごとく見るとせんやいなや」と。阿難対へてまうさく、「やや、しかなり。すでに見たてまつれり」と。「なんぢむしろまた無量寿仏の大音、一切世界に宣布して、衆生を化したまふを聞くやいなや」と。阿難対へてまうさく、「やや、しかなり。すでに聞きたてまつれり」と。「かの国の人民、百千由旬の七宝の宮殿に乗じて障礙あることなく、あまねく十方に至りて諸仏を供養するを、なんぢまた見るやいなや」と。対へてまうさく、「すでに見たてまつれり」と。「かの国の人民に胎生のものあり。なんぢまた見るやいなや」と。対へてまうさく、「すでに見たてまつれり」と。「その胎生のものの処するところの宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにして、もろもろの快楽を受くることトウ利天上のごとくにして、またみな自然なり」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 42

 そこで釈尊は阿難と弥勒菩薩に仰せになった。
「そなたたちは、その国の大地から天空に至るまでの間にあるすべてのものが、実にすぐれて清らかなことをよく見ただろうか」
 阿難がお答えする。
「はい、その通りに見させていただきました」
「ではそなたは、無量寿仏が、すべての世界に響きわたる声で教えを説き述べて、人々を導いておられるのを聞いたか」
「はい、その通りに聞かせていただきました」
「では、その国の人々が、百千由旬[ひゃくせんゆじゅん]もある大きな七つの宝でできた宮殿にいながら、何のさまたげもなく、ひろくすべての世界へ行き、さまざまな仏がたを供養しているのを見たか」
「はい、見させていただきました」
「ではまた、その国の人々の中に胎生[たいしょう]のものがいるのを見たか」
「はい、それも見させていただきました」
釈尊が仰せになる。
「その胎生のもののいる宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬という大きさで、みなその中でトウ利天と同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである」


 {霊山現土}で「無量寿仏は、大光明を放ちてあまねく一切諸仏の世界を照らしたまふ」たため、四衆[ししゅ](出家の男女、在家の男女)全ての聴衆が無量寿仏の浄土を観たわけですが、釈尊は皆が正しく浄土を観ているかどうか確かめるため、その詳細について阿難と弥勒菩薩に質問します。そして胎生と化生の得失を判定し、仏智を信じて浄土に生れることを願うよう強く勧められます。

 浄土を観、弥陀の直説を聞く

註釈版
 その時仏、阿難[あなん]および慈氏菩薩[じしぼさつ](弥勒)に告げたまはく、「なんぢかの国を見るに、地より以上浄居天[じょうごてん]に至るまで、そのなかのあらゆる微妙厳浄[みみょうごんじょう]なる自然[じねん]の物、ことごとく見るとせんやいなや」と。阿難対へてまうさく、「やや、しかなり。すでに見たてまつれり」と。「なんぢむしろまた無量寿仏の大音[だいおん]、一切世界に宣布[せんぷ]して、衆生を[]したまふを聞くやいなや」と。阿難対へてまうさく、「やや、しかなり。すでに聞きたてまつれり」と。
現代語版
 そこで釈尊は阿難と弥勒菩薩に仰せになった。
「そなたたちは、その国の大地から天空に至るまでの間にあるすべてのものが、実にすぐれて清らかなことをよく見ただろうか」
 阿難がお答えする。
「はい、その通りに見させていただきました」
「ではそなたは、無量寿仏が、すべての世界に響きわたる声で教えを説き述べて、人々を導いておられるのを聞いたか」
「はい、その通りに聞かせていただきました」

 まず「地より以上浄居天[じょうごてん]に至るまで、そのなかのあらゆる微妙厳浄[みみょうごんじょう]なる自然[じねん]の物、ことごとく見るとせんやいなや」ということですが、「浄居天[じょうごてん]」とは色界第四禅(参照:{『仏説無量寿経』19「#天王と浄土の菩薩・声聞」})のうち不還果を証した聖者の生ずべきところであり、五浄居天(無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天)ともいいます。「不還果」とは小乗における修行階位、或る境地に向かって修行していく段階(向)とそれによって到達した境地(果)とに分けて説いた四向四果の一つで、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果の八つのうちの第六段階に当ります。
 そのなかのあらゆるものが、「微妙厳浄[みみょうごんじょう]なる自然[じねん]の物」であるというのですが、これはどういう内容を言わんとしているのでしょうか。
 これは、現実と全く異なる浄土がどこかにあってその世界が素晴らしい内容であることを言うのではありません。現実は、穢土[えど]と浄土が表裏一体となって成り立っているのです。[おもて]を見ればこの世界は実におぞましい穢れた内容なのですが、穢土が穢土であると示し、人々に厭離穢土[おんりえど]を願わしめ、「微妙厳浄[みみょうごんじょう]」なるはたらきにより、清浄・荘厳なる歴史を創造する浄土が裏打ちされているのであります。ですから、仏のまごころが解ればそれが仏を観るということなのであり、これを覚った全ての聴衆は浄土を観ることが適ったのであり、まごころの広がりも浄土として確認できるのです。なお「自然[じねん]の物」とは天然自然を言うのではなく、願力自然[がんりきじねん]を言います(参照:{「自然法爾」とはどういう意味ですか?})。

 続いて、「無量寿仏の大音[だいおん]、一切世界に宣布[せんぷ]して、衆生を[]したまふ」とありますが、皆さんは無量寿仏の声(弥陀の直説)を聞いたことはあるでしょうか。これは特別の人間だけが聞ける声ではありません。誰もが腹の底で聞いている声でありながら、耳に慣れてしまったため忘れている声です。この身近すぎて忘れてしまったまごころの声≠今一度思い出し、新鮮な感動をもって聞くために教えが説かれているのです。
 無量寿仏の声は、たとえば『仏説阿弥陀経』には「その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ」とあり、その具体例として――

かの国にはつねに種々奇妙[しゅじゅきみょう]なる雑色[ざっしき]の鳥あり。白鵠[びゃっこう]孔雀[くじゃく]鸚鵡[おうむ]舎利[しゃり]迦陵頻伽[かりょうびんが]共命[ぐみょう]の鳥なり。このもろもろの鳥、昼夜六時[ちゅうやろくじ]和雅[わげ][こえ]を出す。その音、五根[ごこん]五力[ごりき]七菩提分[しちぼだいぶん]八聖道分[はっしょうどうぶん]、かくのごときらの法を演暢[えんちょう]
とあります。これは基本的にあらゆる生命活動が弥陀の直説であることを示しています。
 弥陀の直説を聞くために一番重要となるのが恭敬供養[くぎょうくよう]です。これは相手の人生観を尊びそこに法を見出すということに他ならず、これがそのまま無量寿仏の直説として聞こえるのです。
 具体的に言えば、釈尊が説いても無量寿仏の直説であり、親鸞聖人や蓮如上人が仰られても弥陀の直説です。それどことか、周囲の人たち、たまたま出会った人たち、子どもからお年寄りまで、真剣に人生を問えば相手はちゃんと応えてくれます。応えていただいた内容がそのままが弥陀の直説です。たとえ言われた言葉自体には間違いがあっても、内容が不充分であっても、問う側の諸仏供養が成就していれば、仰られた一言ひとことの奥に無量寿仏の直説の響きが聞こえてくるのです。
 弥陀の直説が聞こえないのは、相手の言う言葉の一々にひっかかったり、その時その時の悪感情に執着してしまうからでしょう
(参照:{『仏説無量寿経』29}

 正定聚の菩薩は十方諸仏を供養する

註釈版
「かの国の人民、百千由旬[ひゃくせんゆじゅん]の七宝の宮殿[くでん]に乗じて障礙[しょうげ]あることなく、あまねく十方に至りて諸仏を供養するを、なんぢまた見るやいなや」と。対へてまうさく、「すでに見たてまつれり」と。
現代語版
「では、その国の人々が、百千由旬[ひゃくせんゆじゅん]もある大きな七つの宝でできた宮殿にいながら、何のさまたげもなく、ひろくすべての世界へ行き、さまざまな仏がたを供養しているのを見たか」
「はい、見させていただきました」

『仏説無量寿経』上巻16には「また講堂[こうどう]精舎[しょうじゃ]宮殿[くでん]楼観[ろうかん]、みな七宝荘厳[しっぽうしょうごん]して自然に化成[けじょう]」とありまして、「宮殿」の内容も解説に示した通りですが、再録しますと――
宮殿[くでん]」は浄土の果報[かほう]として居場所や落ち着き場所が与えられることを言います。これは、たとえば与謝野晶子が「劫初[ごうしょ]よりつくりいとなむ殿堂[でんどう]に われも黄金[こがね]の釘一つ打つ」と歌っていますが、この「殿堂」が「宮殿」です。具体的には人々の生活環境や文化文明や人生観の果報ですが、浄土の宮殿ですから、物体としての果報ではなく、「仏性」や「信心」といわれる真心の果報を言います。ただし「かの辺地[へんじ]の七宝の宮殿に生れて、五百歳のうちにもろもろの[わざわい]を受くることを得ることなかれ」(『仏説無量寿経』33巻下 正宗分 釈迦指勧 弥勒領解)と警告されているように、浄土の果報を誇って安逸[あんいつ][むさぼ]ことは災厄につながる、ということは肝に銘じておかねばなりません。

 この宮殿の存在意義を本当に覚った人間は、宮殿に居ながら「障礙[しょうげ]あることなく、あまねく十方に至りて諸仏を供養する」ことが適います。これは、浄土の功徳を享受しながら、無量寿仏の願いを自分の願いとして胸に抱き、諸仏として自分の国を創造してゆく、「よりて無上心[むじょうしん][おこ]して、わが国もまたしからんと願ず>(菩薩はこの上ないさとりを求める心を起し、自分の国もこのようにありたいと願う)ためであります(参照:{『仏説無量寿経』27a「#我が国も安楽国のようにありたいと願う」})。

 胎生も化生も境遇には違いはない

註釈版
「かの国の人民に胎生[たいしょう]のものあり。なんぢまた見るやいなや」と。対へてまうさく、「すでに見たてまつれり」と。「その胎生のものの[しょ]するところの宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにして、もろもろの快楽[けらく]を受くることトウ利天上のごとくにして、またみな自然なり」と。
現代語版
「ではまた、その国の人々の中に胎生[たいしょう]のものがいるのを見たか」
「はい、それも見させていただきました」
釈尊が仰せになる。
「その胎生のもののいる宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬という大きさで、みなその中でトウ利天と同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである」

 前節は正定聚[しょうじょうじゅ]の菩薩のありさまですが、ここから四章にわたって不定聚[ふじょうじゅ]邪定聚[じゃじょうじゅ]の菩薩の劣ったありさまを説き、そうならないよう警告が与えられます。

 なお「胎化得失[たいけとくしつ]」というのは、胎生[たいしょう]」と「化生[けしょう]」を比べ、前者には失うものが多く、後者には得るものが多いことを言います。良い機会ですから、正定聚[しょうじょうじゅ]不退転[ふたいてん]の表現と、不定聚[ふじょうじゅ]邪定聚[じゃじょうじゅ]の表現をここに列挙してみましょう。  

正定聚[しょうじょうじゅ]不退転[ふたいてん]不定聚[ふじょうじゅ]邪定聚[じゃじょうじゅ]
化生[けしょう]
選択本願[せんじゃくほんがん]正因[しょういん]」・「如来願力回向[にょらいがんりきえこう]の心」・「願力回向[がんりきえこう]信楽[しんぎょう]」・「横超[おうちょう]大菩提心[だいぼだいしん]」・「横超の金剛心[こんごうしん]」・「横超他力[とうちょうたりき]」 により 「真実報土[しんじつほうど]」・「無量光明土[むりょうこうみょうど]」・「諸智土[しょちど]」・「安楽浄土[あんらくじょうど]」・「威徳広大清浄仏土[いとくこうだいしょうじょうぶつど]」・「清浄報土[しょうじょうほうど]」・「真仏土[しんぶつど]」に 「化生[けしょう]」・「即得往生[そくとくおうじょう]」・「必得往生[ひっとくおうじょう]」・「難思議往生[なんじぎおうじょう]」・「必定[ひつじょう]」する。
胎生[たいしょう]
三業修善不真実[さんごうしゅぜんふしんじつ]の心」・「迂回[うえ]の善」・「歴劫迂回[りゃくこううえ]菩提心[ぼだいしn]」・「自力の金剛心[こんごうしん]・「菩薩[ぼさつ]大心[だいしん]」・「自力の菩提心」・「聖道自力[しょうどうじりき]」 により 「化土[けど]」・「疑城胎宮[ぎじょうたいぐう]」・「辺地[へんじ]」・「懈慢辺地[けまんへんじ]」・「懈慢界[けまんがい]」・「胎宮[たいぐ]」・「胎生辺地[たいしょうへんじ]」・「七宝[しっぽう][ごく]」・「辺地七宝[へんじしっぽう]宮殿[くでん]」・「方便化土[ほうべんけど]」に 「胎生[たいしょう]」・「双樹林下往生[そうじゅりんげおうじょう]」・「難思往生[なんじおうじょう]」する。
濁世能化[じょくせのうけ]釈迦善逝[しゃかぜんぜい]至心信楽[ししんしんぎょう]願心[がんしん]宣説[せんぜつ]したまふ。報土[ほうど]真因[しんいん]信楽[しんぎょう][しょう]とするがゆゑなり」(化身土文類 33) 「ただ阿弥陀如来の選択本願[せんじゃくほんがん][のぞ]きて以外の、大小・権実[ごんじつ]顕密[けんみつ]諸教[しょきょう]は、みなこれ難行道[なんぎょうどう]聖道門[しょうどうもん]なり。また易行道[いぎょうどう]浄土門[じょうどもん]の教は、これを浄土回向発願自力方便[じょうどえこうほつがんじりきほうべん]仮門[けもん]といふなりと、知るべし」(愚禿鈔 7)
「その真実の行の願は、諸仏称名[しょぶつしょうみょう]の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽[ししんしんぎょう]の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願[せんじゃくほんがん]行信[ぎょうしん]なり。その[]はすなはち一切善悪大小凡愚[いっさいぜんあくだいしょうぼんぐ]なり。往生はすなはち難思議往生[なんじぎおうじょう]なり。仏土[ぶつど]はすなはち報仏[ほうぶつ]報土[ほうど]なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海[せいがんふかしぎいちじつしんにょかい]なり」(行文類 101) 「もし衆生ありて、疑悔[ぎけ][したが]ひて善根[ぜんごん]積集[しゃくじゅう]して、仏智[ぶっち]普遍智[ふへんち]不思議智[ふしぎち]無等智[むとうち]威徳智[いとくち]広大智[こうだいち]希求[けぐ]せん。みづからの善根[ぜんこん]において信を生ずることあたはず。この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん」(化身土文類 8)
七宝[しっぽう][はな]のなかにおいて自然[じねん]化生[けしょう]せん」(大経 44) 「かの宮殿に生れて、寿五百歳[いのちごひゃくさい]、つねに仏を見たてまつらず」(大経 43)
「かの化生のものは智慧勝れたる」(大経 44) 「その胎生のものはみな智慧なし」(大経 44)
「無量寿仏の[みもと]往詣[おうげい]して恭敬[くぎょう]し供養したてまつることを得」(大経 45) 「たとへば転輪聖王[てんりんじょうおう]のごとき、別に七宝の宮室[くしつ]ありて、種々に荘厳[しょうごん]床帳[じょうちょう]張設[ちょうせつ]し、もろもろのゾウ幡[ぞうばん][]く」(大経 45)
「それかの仏の名号[みょうごう]を聞くことを得て、歓喜踊躍[かんぎゆやく]して乃至一念[ないしいちねん]せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利[だいり][]とす」(大経 47) 「それ菩薩ありて疑惑[ぎわく]を生ずるものは、大利[だいり][しっ]すとす」(大経 45)
如来浄華[にょらいじょうけ]聖衆[しょうじゅ]は 正覚[しょうがく]のはなより化生[けしょう]して 衆生の願楽[がんぎょう]ことごとく すみやかにとく満足す」(高僧和讃 14) 本願疑惑[ほんがんぎわく]の行者には 含花未出[がんけみしゅつ]のひともあり 或生辺地[わくしょうへんじ]ときらひつつ 或堕宮胎[わくだくたい]とすてらるる」(含花未出=はなにふくまるるなり)(正像末法和讃 69)
仏智不思議[ぶっちふしぎ]を信ずれば 正定聚[しょうじょうじゅ]にこそ[じゅう]しけれ 化生[けしょう]のひとは智慧すぐれ 無上覚[むじょうかく]をぞさとりける」(正像末法和讃 47) 仏智[ぶっち]の不思議をうたがひて 自力の称念[しょうねん]このむゆゑ 辺地懈慢[へんじけまん]にとどまりて 仏恩報[ぶっとん ほう]ずるこころなし」(正像末法和讃 61)
「不思議の仏智[ぶっち]を信ずるを 報土[ほうど]の因としたまへり 信心の正因[しょういん]うることは かたきがなかになほかたし」(正像末法和讃 48) 罪福[ざいふく]信ずる行者[ぎょうじゃ]は 仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮[ぎじょうたいぐ]にとどまれば 三宝[さんぽう]にはなれたてまつる」(正像末法和讃 62)
信心清浄[しんじんしょうじょう]なるものは、華開けてすなはち仏を見たてまつる」(易行品 6) 「もし人善根[ぜんこん][]ゑて疑へば、すなはち華開[はなひら]けず」(易行品 6)
即往生[そくおうじょう]とはすなはちこれ報土化生[ほうどけしょう]なり」(化身土文類 33) 便往生[べんおうじょう]とはすなはちこれ胎生辺地[たいしょうへんじ]双樹林下[そうじゅりんげ]の往生なり」(化身土文類 33)

 

 ただし、経に説かれていますように、正定聚[しょうじょうじゅ]不退転[ふたいてん]の菩薩も、不定聚[ふじょうじゅ]邪定聚[じゃじょうじゅ]の菩薩も、浄土の功徳が報いた環境に住むことができる≠ニいう意味においては同じであることが解ります。では胎生と化生の違いはどんなところにあるのでしょう。次章から詳しく見てみたいと思います。

かかるあさましきわれら、願力[がんりき]白道[びゃくどう]一分二分[いちぶんにぶん]やうやうづつあゆみゆけば、無礙光仏[むげこうぶつ]のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土[あんらくじょうど]へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚[しょうがく][はな]化生[けしょう]して大般涅槃[だいはつねはん]のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生[ちしぼんぶねんそくしょう]」と申すなり。
『一念多念証文』20

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