[index]    [top]

ご信心を味わう

『仏説無量寿経』34

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪1

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 34

 仏、弥勒に告げたまはく、「なんぢらよくこの世にして、心を端しくし意を正しくして衆悪をなさざれば、はなはだ至徳なりとす。十方世界にもつとも倫匹なけん。ゆゑはいかん。諸仏の国土の天・人の類は、自然に善をなして大きに悪をなさざれば、開化すべきこと易し。いまわれこの世間において仏になりて五悪・五痛・五焼のなかに処すること、もつとも劇苦なりとす。群生を教化して五悪を捨てしめ、五痛を去らしめ、五焼を離れしめ、その意を降化して五善を持たしめて、その福徳・度世・長寿・泥オンの道を獲しめん」と。仏のたまはく、「なんらか五悪、なんらか五痛、なんらか五焼なる。なんらか五悪を消化して五善を持たしめて、その福徳・度世・長寿・泥オンの道を獲しむる」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 34

 釈尊[しゃくそん]弥勒菩薩[みろくぼさつ]に仰せになる。
「そなたたちが、この世において心を正しくして、いろいろな悪を犯さなければ、それはきわめてすぐれた徳であり、すべての世界に類をみないことであろう。なぜなら、他の仏がたの国の天人や人々はおのずから善い行いができ、悪を犯すことがほとんどなく、さとりの世界に導き入れることがたやすいからである。今わたしがこの世界で仏となって、次に述べるような五悪[ごあく]と、五痛[ごつう]と、五焼[ごしょう]に満ちた世の中にいることは、たいへんな苦労なのである。しかしその中で人々を教え導いて、五悪をやめさせ、五痛を遠ざけ、五焼を離れさせ、そしてその悪い心を抑えて、五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させたいと思う」
 釈尊が続けて仰せになる。
「それでは、その五悪、五痛、五焼とは何であるか、また、五悪を除いて五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させるとはどういうことか、これから説き述べよう」


 苦悩の中にこそはたらく念仏

註釈版
 仏、弥勒[みろく]に告げたまはく、「なんぢらよくこの世にして、心を[ただ]しくし意を正しくして衆悪[しゅあく]をなさざれば、はなはだ至徳[しとく]なりとす。十方世界にもつとも倫匹[りんひつ]なけん。ゆゑはいかん。諸仏の国土の天・人の[るい]は、自然[じねん]に善をなして大きに悪をなさざれば、開化[かいけ]すべきこと[やす]し。いまわれこの世間において仏になりて五悪[ごあく]五痛[ごつう]五焼[ごしょう]のなかに[しょ]すること、もつとも劇苦[ぎゃくく]なりとす。群生[ぐんじょう]教化[きょうけ]して五悪を捨てしめ、五痛を去らしめ、五焼を離れしめ、その[こころ]降化[ごうけ]して五善を持たしめて、その福徳[ふくとく]度世[どせ]長寿[ちょうじゅ]泥オン[ないおん]の道を[]しめん」と。
現代語版

 釈尊[しゃくそん]弥勒菩薩[みろくぼさつ]に仰せになる。
「そなたたちが、この世において心を正しくして、いろいろな悪を犯さなければ、それはきわめてすぐれた徳であり、すべての世界に類をみないことであろう。なぜなら、他の仏がたの国の天人や人々はおのずから善い行いができ、悪を犯すことがほとんどなく、さとりの世界に導き入れることがたやすいからである。今わたしがこの世界で仏となって、次に述べるような五悪[ごあく]と、五痛[ごつう]と、五焼[ごしょう]に満ちた世の中にいることは、たいへんな苦労なのである。しかしその中で人々を教え導いて、五悪をやめさせ、五痛を遠ざけ、五焼を離れさせ、そしてその悪い心を抑えて、五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させたいと思う」

 仏は弥勒菩薩や人々にまず「心を[ただ]しくし意を正しくして衆悪[しゅあく]をなさざれ」と勧めます。この世において心を正しくして、いろいろな悪を犯さない≠ニは当たり前のことのようですが重要なことで、人によっては、[いびつ]な論理を用い浄土真宗は善を勧めない≠ネどという暴論を吐く人も居るので注意が必要です(参照:{浄土真宗には善の勧めはない?})。
 ただし、世間一般で用いる相対的な善≠ヘ仏法では全て悪となり、本願力回向のものさし≠ノ自分のものさし≠[たく]し、懺悔し、願いに生きること(参照:{弥勒領解2「#闇取引のものさし≠捨てる」})を善とします。本願の催しが私の願いとなって行じることを「心を[ただ]しくし意を正しくして」と勧めるのです。

 そしてこのようにこの世において心を正しくして、いろいろな悪を犯さない$l々を、「はなはだ至徳[しとく]なりとす。十方世界にもつとも倫匹[りんひつ]なけん」(それはきわめてすぐれた徳であり、すべての世界に類をみないことであろう)と褒めるのですが、褒める理由は環境の影響を考慮したものであることが説かれます。
 つまり「諸仏の国土の天・人の[るい]は、自然[じねん]に善をなして大きに悪をなさざれば、開化[かいけ]すべきこと[やす]」で、諸仏世界の善い環境に居れば、環境の功徳(土徳)によって善を行じることは容易[たやす]く、悪を行じることは難しいので、人々をさとりの世界に導き入れやすいのです。
 比べて「いまわれこの世間において」、悪環境の中で仏と成り、人々を教化してさとりの世界に導くことは非常に困難なのです。しかし困難だからこそ「なんぢらよくこの世にして、心を[ただ]しくし意を正しくして衆悪[しゅあく]をなさざれ」という言葉が重みをもつのです。
 このことは後にこの経においても「心を正しくし意を正しくして、斎戒清浄[さいかいしょうじょう]なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり」と出てきますし、『仏説阿弥陀経』には「われ五濁悪世[ごじょくあくせ]においてこの難事[なんじ]を行じて、阿耨多羅三藐三菩提[あのくたらさんみゃくさんぼだい]を得て、一切世間のために、この難信[なんしん]の法を説く。これを甚難[じんなん]とす」とあり、ご自身の苦労を隠すことなく伝えてみえます。さらに遡ってみれば、『ジャータカ』にも「人里離れた森に住みついて、戒めをたもって生活することは、大変やさしい。しかし、人びとの住む村の中で、村人の誘惑に堪える人は、森の修行者であるあなたよりもはるかに尊い」とあり、古い経典においても悪環境でこそ修行の成果が試される≠ニ説かれています。
 つまり、浄土で安穏に暮らすことが浄土建立の目的ではなく、五悪[ごあく]五痛[ごつう]五焼[ごしょう]の苦悩の真っ只中[ただなか]にこそはたらく念仏であると、こうなってはじめて浄土が本領を発揮するのです。無量寿仏の浄土は、死後の救いや、宇宙と一体となった心地よい精神≠もたらすために創られたのではありません。副次的にそうしたことがあったとしても、それは真の目的ではないということはよくよく心得ておかねばならないでしょう。

 五悪を除き功徳を得る

註釈版
仏のたまはく、「なんらか五悪、なんらか五痛、なんらか五焼なる。なんらか五悪を消化して五善を持たしめて、その福徳[ふくとく]度世[どせ]長寿[ちょうじゅ]泥オン[ないおん]の道を獲しむる」と。
現代語版

 釈尊が続けて仰せになる。
「それでは、その五悪、五痛、五焼とは何であるか、また、五悪を除いて五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させるとはどういうことか、これから説き述べよう」

五悪」とは「不殺生戒[ふせっしょうかい](生きののを殺さない)・不偸盗戒[ふちゅうとうかい](盗みをしない)・不邪婬戒[ふじゃいんかい](よこしまな性の交わりをしない)・不妄語戒[ふもうごかい](うそをいわない)・不飲酒戒[ふおんじゅかい](酒を飲まない)の五戒に背くこと」(『浄土真宗聖典 註釈版』巻末註)とあり、また「五痛」は「五悪を犯すことにより、現世において受ける果報。現世の益たる福徳に対する語」、「五焼」は「五悪をなすことにより、来世において受ける果報。来世の益たる度世・長寿・泥オンに対する語」をいいます。
「五悪」はまた、儒教の「仁・義・礼・智・信」の五常[ごじょう]」(人の守るべき五つの常道)の対語、社会に対する義務違反としても認識されていますが、五戒と五常は同定ではなく比定(同質のものがない場合、他の類似のものとくらべて認定)されているに過ぎませんから注意が必要です。
 さらに「五悪」は「貪欲蓋[とんよくがい](むさぼり)・瞋恚蓋[しんにがい](いかり)・コン沈睡眠蓋[こんじんすいみんがい](心くらく身を重からしめる/眠りこんだような無知蒙昧)[コンは立心偏に昏]・掉挙悪作蓋[じょうこあくさがい](心をざわざわさせる掉と心を悩ませる悔/躁鬱[そううつ])・疑蓋[ぎがい](ためらう/うたがい)という「五蓋[ごがい]」(心を覆う五種の煩悩。心を覆って善を生じしめないもの )とされる場合もありますが、この経の意とは異なるようです。

 するとこの経で述べられた「五悪」は「五戒に背くこと」であり、念仏者には五戒を保つよう勧めているのかと申しますと、基本はそれで良いのですが、そういい切れる程単純な内容ではないようです。
 島田幸昭師は「五悪段」について――
私らは自分の根性に任せておったら、身の破滅になるのです。そのことをちゃんと、第一悪、第二悪、第三悪で、人間の単調さに飽きるのです。そうでしょう。私らはこうやって見れば、人のことではないのです。自分自身を見てください。朝から晩まで同じことをしておってみなさいね。何か変わったことをしたくなってきます。だから、人間の悪の方の本当の行き着くところまで行ったら、どこまでも、でたらめが出てくるのです。だから、昔の人間の大王さんを見なさい、ほとんどがみんな乱暴な大名が出てきておるでしょう。見んでも、そこまで。
 だから、私たちはこういうことで、自分の心に任されている心をせんよ。仏法は心のつまるものかと思ったら、信心御慰められ候で、本当は心の手綱を引き詰めていく手綱が大事なのです。これは何かというと、自分の手綱ではどうにもならんものがあるのです。それが、親鸞聖人は日本始まって初めて、私を本当に超えた「おいおい、これがお前の根性ぞ。これがお前の日暮らし」と、私を超えた。超えたといって、世捨て人と世間を出たのではないのです。本当のご先祖の胸を貫いてきた本当のまごころ、そういう真実。そういうものから出てくる本当の行く道があった
<中略>
大体仏教は生死解脱と言いますが、生死解脱でもそうであって、大体が今までは死なない仏になると、こう思うた。煩悩を断ち切って煩悩を断ち切る、これは実行することです。だから、腹を立ててはならん欲を起こしてはならんと、煩悩を断ち切って、妻を捨て子を捨て山に入っていく、それが実行でしょう。だから、実行すること。
 ところが、それは小乗仏教で、大乗仏教はすることよりも見えることが大事なこと。智慧の宗教。煩悩を断ち切るという宗教から、今度は見えるか見えないかという智慧の宗教に変わったのであります。それが、日本の仏教者に解っておらない。そこに問題があるわけ。まあ、そういうことです。
 そうすると、戒律を保つということは、そういうように殺生をしないこととか、嘘を言わないことではないの。これは鏡になること。だから、蓮如さまのものでも「もろもろ雑行・雑修・自力の心を振り捨てて」と言いましょう。これは、「安心(あんじん)の手鏡」と言いましょう。手鏡というのは鏡でしょう。これは、安心の手鏡ということを今の言葉で言うならば、これも言いましょうか、安心の信心のことを、蓮如さまは安心と言った。大体が、禅宗あたりが、「安心立命」と言いますから安心という言葉が出てきたのでしょうけども。大体親鸞聖人は安心ということはあまり使われません。そういうことを、「安心の手鏡」でありますが。
 そうすると、これはどういうことかというと、心の鏡でしょう。だから、私は「安心の手鏡」と言いますが、これは蓮如上人の「もろもろ雑行・雑修・自力の心を振り捨てて」という、あれはあの当時の五百年前の戦国時代のあの時代には、あれでよかったの。ところが、本当の安心の手鏡、心の鏡は、それでは間に合わない。だから、私は「もろもろ雑行・雑修・自力の心を振り捨てて」というのは嫌いでかなわん。そうでしょう。もろもろ雑行・雑修・自力のことを「振り捨てる」という。振り捨てるのでしょうか。捨てるのではない、すたるのです。蓮如さまらは、それを振り捨てるのでしょう。だから、全然違いましょう。
 だから、「我が身は悪しきいたずら者、思い詰めて」と言いましょう。思い詰めるのではない、見つめるのではない。見えるのだから。人あり、西に向かって行かんとするに、忽然として足のもとに火の河水の河が見える。見つめるのと見えるのでは違うではありませんか。だから、今日までこういう間違いをおこしたわけ。だから、見つめるのは自力でしょう。見えるのは自然でしょう。まあ、そういうことです。
 そうすると、私は今では心の鏡というのはご本尊。ご本尊が、南無阿弥陀仏とはこういうものだぞということで、あのご本尊とはあの木像。木像そのものが、絵像・木像が心の鏡。私の日暮らしを照らすもの。照らすことは、裏から言うならすることではないの、見えることでしょう。今まで、自分の顔がどんなのか、墨が付いておるか教えが固まっておるか解らなかったものが、鏡を見ることで見えるのでしょう。見えたから、今度それを墨を消すのでしょう。消すのは手でしょう。だから、まず見ることが大事なことでしょう。これがこういうことであります。
 そうすると、自戒ということは何かと言いますと、しないことではない。殺生をしないことではない。これは鏡になって「なんと私たちは牛を殺し、魚を殺して魚を食うことは当たり前よ」と思うておった。それが鏡になって「同じ魚を食べても、一休さんみたいな立派な人に食べられる魚は幸せかしれないけれども、私らような役に立たない者に食べられる魚はかわいそうなものだ、気の毒なものだ」とこう、食べないのではない、鏡になって浅ましい心を知らされるの。
 だから、懺悔の心。だから、お経にははっきりしておりましょう。「懺悔の心があれば、すなわち親あり子あり兄弟ありと名付ける。懺悔の心がなければこれを畜生となす。これを人となさず」。はっきり言うておりましょう。それを、いつの間にか五戒を保てるというならば、そういう殺生をしないこと、盗まないこと、邪淫をしないことと、こう受け取ったのでしょう。そうでないの。照らされて「なんと私は浅ましい者だな」と鏡に照らされること、気が付くこと。心の懺悔だから。これで解るでしょう。まあ、これぐらいで。
 そのことを書いておられるのだと。そういうふうに日本人が受け取り間違いをしたのだと思う。
 そうすると、もとに戻りますと、五戒というのは仏になる道ではない。人間としての道だから、何もシナでは五倫五常(仁義礼智信)というものを、人の道として考えたのでありますけれども。インドでは、ちゃんとこれが人間の道で、人間としての道を書いてあるのです。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

と述べてみえますが、五戒を鏡としてみれば、自分自身の浅ましい根性が見えてきます。この浅ましい根性に身を委ねてしまえば、私は形は人間であっても中身は人間ではありません。このことに気づかせてくれるのが五戒であり、さらに破戒を核とした五悪段の内容でしょう。

なんらか五悪を消化して五善を持たしめて」とありますのは、五悪を取り除き、五善(五戒)を保持しさせることをいいます。そしてこの果報は、「福徳[ふくとく]度世[どせ]長寿[ちょうじゅ]泥オン[ないおん]の道を獲しむる」とあります。
福徳[ふくとく]」は、「福」は恵み豊かなこと、「徳」は素直な本性に基づく行いで人格が立派なことをいいます。
度世[どせ]」は、「度」は「無常と苦の此岸[しがん]から常住であり楽である彼岸[ひがん]へ渡すこと。まよいの此岸からさとりの彼岸に渡し救うこと。さとりの世界、仏の世界へ導き入れること」、「世」は「世間。世界」もしくは「世俗的なこと」をいいます。
長寿[ちょうじゅ]」は「長生き」のことですが、単に高齢まで生きるだけではなく、釈尊や親鸞聖人のように、一生を生き切られたその内容が滅後も長く輝きを保つ人生となる、という意味もあるでしょう。特に阿弥陀仏の寿命は、
{弥陀果徳 寿命無量 }に「無量寿仏は寿命長久にして称計すべからず」と説かれています。
泥オン[ないおん]」(オンは三水偏に亘)は「涅槃[ねはん]」の異名であり、「燃え盛る煩悩の火を滅尽して、さとりの智慧である菩提を完成した境地」でありますが、大乗の涅槃ですから特に「常・楽・我・浄の四徳をもつ無為涅槃」(参照:{「唯だ一たびのこの命」という厳粛さを「#常楽我浄の四顛倒」}{必至滅度の願})でありましょう。

 資料

舎利弗はこのように語った。
「尊師たちよ、悪とはいかなるものであり、悪の根源とはいかなるものであり、善とはいかなるものであり、善の根源とはいかなるものであろうか。
 尊師たちよ、生物を害すること、与えられていないものを取ること、男女の邪な交わりにふけること、うそ、二枚舌、悪口、おべっか、物惜しみ、怒り、邪な見解、これらが悪であるといわれる。
 尊師たちよ、悪の根源とはいかなるものであろうか。貪りと怒りと迷妄と、これらが悪の根源であるといわれる。
 尊師たちよ、善とはいかなるものであろうか。生物を害することから離れること、与えられていないものを取らないこと、男女の邪な交わりにふけらないこと、うそをつくことを離れること、二枚舌を使わないこと、悪口をいうことから離れること、おべっかを使わないこと、物惜しみをしないこと、怒らないこと、正しい見解、これらが善であるといわれる。
 尊師たちよ、善の根源とはいかなるものであろうか。貪らないこと、怒らないこと、迷妄でないこと、これらが善の根源であるといわれる」
『マッジカ・ニカーヤ』より

[←back] [next→]

[Shinsui]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)