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【十界モニター】

蓮莟[レンガン]を模す」の間違い

疑へばすなはち華開けず

 寺院や仏壇は浄土の徳が顕現された姿と聞くが、形一つひとつについても「いわれを聞き開くことが肝心」ということを教えられる。所謂[いわゆる]「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」(顕浄土真実教行証文類・信文類三65)は教学だけではないということだ。
 ところがそうした中でも、時には道理に合わない説を聞かされることがある。経典等で語られている内容とどうしても矛盾したり誤解を受けやすい解釈が横行している事実があるのだ。これではいずれ仏意を損ねてしまうだろう。そこで混乱を避けるため、これから「仏教モニター」のシリーズを設け、あえて苦言を呈してゆこうと思う。

 仏飯器は何を模しているか

 仏飯器に盛った仏飯は浄土の何を表しているのだろう。問いをもって数々尋ねる中で最も道理に適ったのは「蓮の実を模している」という解釈であった。本願寺派は蓮の実一つ、大谷派は蓮の実全体を模している、との領解には大いに勉強させていただいた。
 泥田に咲く蓮の華のように、現実社会の中で、煩悩即菩提と報いた浄土の徳が、仏菩薩の座を開かせ、座の徳と智慧によって座に化生した人間を育てる。社会的責任と実績のある座が名をともなって私を育てるのである。その信一念のところに既に十念の果となる実が顕現することが蓮の実に象徴されているのであろう。まことに正定聚を明らかにする見事な荘厳である。
 ところが古い書物の中には、本願寺派の仏飯は蓮のつぼみを模している、という説明もあった。わざわざ「蓮莟[レンガン]を模す」と記してある書まである。私は開いた口が塞がらなかった。

 お聖教を一度でも読んだことがある人なら、「蓮莟」が不定聚・邪定聚につながる譬えであることは誰でも知っている。『十住毘婆沙論』易行品11弥陀章に、<もし人善根を種うるも、疑へばすなはち華開けず。信心清浄なれば、華開けてすなはち仏を見たてまつる>等とある通りだ。
 親鸞聖人も――

本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる
『正像末和讃』69誡疑讃

と詠まれ、含花未出[ガンケミシュツ]には「はなにふくまるるなり」(異本左訓)と蓮華の花につつまれて出られないこと≠いましめてみえる。すると、「蓮実」は正定聚、「蓮莟」は不定聚・邪定聚とすれば、「蓮莟」を尊前に供えるなどあり得ない解釈だと思うがいかがだろう。

 おそらくかつては仏飯によって「蓮実」を表すことは荘厳の共通認識だったのではないか。ところが形が似ていることから、誰かが「蓮莟」と間違った解釈をし、伝言ゲームのようにそのまま伝わってしまったのだと推測する。間違いを正すとともに、正定聚の真の意味をあらためて解していきたい。
 (参照:{正定聚・不退転の菩薩について}

[Shinsui]

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