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ご信心を味わう
『仏説無量寿経』44
【浄土真宗の教え】
仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 胎化得失3
◆ 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 44
また次に慈氏(弥勒)、他方仏国の諸大菩薩、発心して無量寿仏を見たてまつり、〔無量寿仏〕およびもろもろの菩薩・声聞の衆を恭敬し供養せんと欲はん。かの菩薩等、命終りて無量寿国に生ずることを得て、七宝の華のなかにおいて自然に化生せん。
弥勒まさに知るべし、かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑなり。その胎生のものはみな智慧なし。五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞の衆を見ず、仏を供養するに由なし。菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず。まさに知るべし、この人は宿世の時、智慧あることなくして疑惑せしが致すところなり」と。
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◆ 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より
仏説無量寿経 44
また弥勒よ、他の仏がたの国のさまざまなすぐれた菩薩たちも、さとりを得ようとして無量寿仏を見たてまつり、その仏をはじめとして菩薩や声聞たちに至るまで敬い供養したいと思うのである。これらの菩薩たちも、命を終えて後に無量寿仏の国に生れ、七つの宝でできた蓮の花におのずから化生するのである。
弥勒よ、よく知るがよい。化生のものは智慧がすぐれているが、胎生のものは智慧が劣っていて、五百年の間まったく無量寿仏を見たてまつらず、教えを聞かず、菩薩や声聞たちを見ず、また他の仏を供養することもできない。菩薩の自利利他の修行ができず、功徳を積むことができない。よく知るがよい。これらのものは、過去世において智慧がなく、仏の智慧を疑ったからにほかならない」
- 註釈版
- また次に慈氏(弥勒)、他方仏国[の諸大菩薩[、発心[して無量寿仏[を見たてまつり、〔無量寿仏〕およびもろもろの菩薩[・声聞[の衆を恭敬し供養せんと欲[はん。かの菩薩等、命終[りて無量寿国に生ずることを得て、七宝の華のなかにおいて自然[に化生[せん。
- 現代語版
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また弥勒よ、他の仏がたの国のさまざまなすぐれた菩薩たちも、さとりを得ようとして無量寿仏を見たてまつり、その仏をはじめとして菩薩や声聞たちに至るまで敬い供養したいと思うのである。これらの菩薩たちも、命を終えて後に無量寿仏の国に生れ、七つの宝でできた蓮の花におのずから化生するのである。
これは「往覲偈」({『仏説無量寿経』26}〜{『仏説無量寿経』27b})に説かれている内容を言っています。どのような時代でも、どんな場所や国や民族であっても、全ての人々が聞かねばならぬ法が『仏説無量寿経』であり、全ての生命から尊敬される存在が無量寿仏です。
「他方仏国[」とありますが、これは一切衆生ひとり一人に宿った諸仏の世界です。阿弥陀仏の方から私に成りきっていただいた三十六百千億の諸仏如来≠ェ我ならぬ我≠ニなってはたらき及ぼすまごころの世界が「他方仏国」なのです。
「諸大菩薩[」とは、ひとり一人に宿った諸仏如来≠フ催しによって人生成就を願う主体をいいます。この諸大菩薩は必ず無上菩提心を発[こし、無量寿仏を見たてまつることになります。なぜなら無量寿仏こそが全ての仏の根本であり本仏であるからです。
現代人、特に知識人は物事を理性的・対象的にとらえる癖がついていますので、多くの学者が法身が根本である≠ニ勝手に解釈していますが、現実と我が身をふりかえれば報身である無量寿仏こそが根本であり本仏であることは明々白々の事実でありましょう。この無量寿仏を褒め称え供養することが何より諸大菩薩の喜びであり、浄土の声聞や菩薩衆を同朋として敬うことが何より生きる力となるのです。
「命終[りて無量寿国に生ずることを得て」とは、命が終わってから無量寿国に生ずる≠ニ常識的に読んではいけません。無量寿国には生きているうちに参らなければ意味がないからです。
浅原才市 同行も――
ありがたや
死んでまいる浄土じゃないよ
生きてまいるお浄土さまよ
南無阿弥陀仏につれられて
ごをんうれしや 南無阿弥陀仏
と味わってみえます。
しかし、宿業の重さや無明の深さを知れば、とても今の私は立派な浄土の住民です≠ニは言えません。そのため、せめて死ぬまでには一人前の浄土の住民になりたい≠ニ願い続けることになります。この願いの深さがせめて命を終えて後には浄土の住民になりたい≠ニいう言葉になるのです。浄土は本当に住みつく場所ではありません。私も浄土に生まれよう=A私も浄土の住民になろう≠ニ、衆生に願わしめることが無量寿国の存在意義なのです。まごころで発せられた言葉を理屈で受け止めてはいけません。無量寿国は浄土でありながら願土でもあるのです。
「七宝」は七財や七菩提分、もしくは無量宝の果報をいいます{『仏説無量寿経』14}。
「華」は、仏性の歴史的功徳が菩薩の座として成就したものをいいます。たとえば親には親の座があり、師には師の座があり、それぞれ名をともなった功徳があります。浄土の功徳が人間に及ぶ時は、まず蓮華座がはたらきます(参照:{言葉の重さと立場の徳})。人間は社会的責任を自覚してはじめて一人前の菩薩としての座を得るのです。
「自然[に化生[せん」というのは、先の蓮華座が莟[ではなく華が開いていることをいいます。そのため華の上に生まれた菩薩は浄土の座を観ることが適い、同時に穢土の泥田と浄土そのものを観ることが適うのです。
- 註釈版
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弥勒[まさに知るべし、かの化生[のものは智慧勝[れたるがゆゑなり。その胎生[のものはみな智慧なし。五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず、経法[を聞かず、菩薩[・もろもろの声聞[の衆[を見ず、仏を供養[するに由[なし。菩薩の法式[を知らず、功徳を修習[することを得ず。まさに知るべし、この人は宿世[の時、智慧あることなくして疑惑せしが致すところなり」と。
- 現代語版
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弥勒よ、よく知るがよい。化生のものは智慧がすぐれているが、胎生のものは智慧が劣っていて、五百年の間まったく無量寿仏を見たてまつらず、教えを聞かず、菩薩や声聞たちを見ず、また他の仏を供養することもできない。菩薩の自利利他の修行ができず、功徳を積むことができない。よく知るがよい。これらのものは、過去世において智慧がなく、仏の智慧を疑ったからにほかならない」
「かの化生[のものは智慧勝[れたるがゆゑなり。その胎生[のものはみな智慧なし」ということは、この章をはじめ「胎化得失」全体の主題ですが、さて何をもって「智慧なし」と言うのかを知りたいところです。
まず「五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず」とあります。なぜ五百歳かと申しますと、「五」は五劫思惟(参照:{『仏説無量寿経』6a})と同じで五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)の迷いの世界(参照:{『仏説無量寿経』28})を言い、「百歳」は人間一生の時間を譬えたのでしょう。せっかく浄土の功徳を得ていながら無明の闇に閉ざされ、無反省なまま五悪趣の一生を送ることをいいます。
「経法[を聞かず、菩薩[・もろもろの声聞[の衆[を見ず、仏を供養[するに由[なし」は、胎化得失でこれまで述べてきましたように、せっかく七宝の華に乗りながら莟[のまま朽ちてしまう、浄土の功徳を享受していながら浄土の功徳が解らない、それどころか獅子身中の虫のように仏法者自身が仏法を知らず蔑ろにして滅ぼすことをいいます。
次に「菩薩の法式[を知らず」とあります。「法式」は一般的に「制度・規則・作法・儀式」を言いますが、この経典は「浄土の菩薩の法式」ですから、一時的な法要作法などを指すものではありません。一日中、生活全般、それも一生をかけた菩薩の日課や生活様式をいいます。これを現代語版では「菩薩の自利利他の修行」と訳していますが、具体的に何をするのかと申しますと、「懺悔[・恭敬供養[・転法輪[」、これが基本的な菩薩の法式です。
「懺悔[」は、一般的には「悔い改める」意味で理解されますが、本当は悔い改めることができぬほど深くして底の知れない罪悪≠懺悔するのです。
悔い改めるということは、仏教では慚愧[と言います。慚愧には多くの解釈がありますが、一般的には、「慚」は「自らの罪を自ら恥じ、今後は罪をつくらないようこと」、「愧」は「自らの罪を他人に告白したり、他人の罪を自ら顧みて恥じ、今後は罪をつくらないようこと」もしくは「他に教えて罪をつくらせないようにすること」と解釈されています。いずれにしても「自他において今までの罪を恥じ、今後は罪をつくらないようにする」ということです。
しかし本当に自分は今後、罪をつくらずに生きていけるのか≠ニ問えば、とても堂々と胸を張って大丈夫と言えない自分の姿に気づくのではないでしょうか。いくら悔い改めようと願っても、願いを裏切り続けるものが我が奥底に居座っているのです。これを例えば「無始以来[、輪転六道[の妄業[」(浄土真要鈔 3)とも、「無始以来[つくりとつくる悪業煩悩[」(御文章 5-5)とも言うのですが、こうした罪悪は、悔い改めたくても改められないもの、絶対に改めます≠ニは言い切れぬものです。
親鸞聖人はこれを「一切の群生海[、無始[よりこのかた乃至今日今時[に至るまで、穢悪汚染[にして清浄の心なし、虚仮諂偽[にして真実の心なし」(信文類三 21)と顕され、ご自身についても「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(正像末和讃 94)と懺悔されました。つまり懺悔[とは、慚愧[できぬ自分、「無慚無愧[のこの身」を直視し認め、正直に阿弥陀仏の前にさらけ出すこと。「まことのこころなし」と正直に十方諸仏の前で告げることを言います。
菩薩の法式[の二つ目は、{供養諸仏の願}に催された「恭敬供養[」で、世界中の諸仏を供養します。
これは三十六百千億の諸仏如来≠ニあるように、どんな悪辣[に見える相手にも仏は宿っていて、それぞれの宿業を背負い辛苦してみえるのですから、出会う相手ごとに手を合わせ、尊敬して相手を心から褒めるのです。これは『仏説阿弥陀経』には――
「その国の衆生、つねに清旦[をもつて、おのおの衣コクをもつて、もろもろの妙華[を盛れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる」と説かれ、『仏説無量寿経』28#3にも――
「「かの国の菩薩は、仏の威神[〔力[〕を承[けて、一食[のあひだに十方無量[の世界に往詣[して、諸仏世尊[を恭敬[し供養[したてまつらん」と説かれている通りです。
なお、供養は供養でとどまらせず、道心を起こして相手から人生を聞く、道を聞くことが肝心です。「讃仏偈」には、「たとひ仏ましまして、百千億万の無量の大聖、数恒沙のごとくならんに、一切のこれらの諸仏を供養せんよりは、道を求めて、堅正にして却かざらんにはしかじ」とありますように、供養が供養だけで終わっては自分の人生成就には役立ちません。頭を下げて皆から聞いた智慧の内容を自分の人生成就のための要素としなければならないのです。どこまでも道心あっての供養です。
菩薩の法式[の三つ目は転法輪[であります。仏が法の輪を転ずるように、浄土の菩薩は世の中に法を広め説くということです。これはたとえば{説一切智の願}の催しですが、菩薩自身が法を説くと同時に、あらゆる人々や物事が法を説いていると見抜くことも大切です。たとえば『仏説阿弥陀経』には――
このもろもろの鳥、昼夜六時[に和雅[の音[を出す。その音、五根・五力・七菩提分[・八聖道分[、かくのごときらの法を演暢[す
等と説かれています。
さらには、積極的に説法を請い、一生をかけて築き上げた相手の功徳を聞かせていただくということも必要でしょう。聞法の態度や質問ひとつで説法の内容は変ってしまいます。普段から聞法精神・求道精神が盛んで、真面目な態度で聞けば相手は自らの人生観の奥の奥まで説いてくれますが、そうでなければ通り一遍の話しか聞けません。
また、菩薩自身が法を説く場合は、言葉として法を説くだけではなく、日々の生活そのものも説法になっていかねばなりません。言葉で表現できる内容は実はほんの少しであり、ごまかしや虚飾の可能性もありますが、生き様には嘘がありません。特に身近に居る人々にとっては、言葉以上に表情や行動や身体そのものから発せられるものが法であり、ここにおいて菩薩の智慧と徳がしのばれるのです。
こうした菩薩の法式や功徳が修せない胎生のものがいる理由として「この人は宿世[の時、智慧あることなくして疑惑せしが致すところなり」とあります。宿世は過去の世において≠ニ訳されていますが、これは個人的な問題ではなく、人類全体の宿業の問題を言っているのです。それゆえ、誰にでも胎生に留まってしまう可能性がある≠ニいうことだけは肝に銘じておかねばなりません。
「三毒段」では、深く因果を信ずると書いてある「深信因果」という。『観無量寿経』にも全部皆、深く因果を信じよと。因果とは、「善いことをすれば善い報いが来るぞ。悪いことをすれば悪い報いが来るぞ」と、こういうことを皆、『観無量寿経』にも書いてある。
だから、一つにはお経を読むこと、二つには因果を信ずる、三つには大乗を読むとかこういうことで、因果を信ずるというのはどこにも出てくる。「五悪段」でも「三毒段」でも、今まで説いてきたでしょう。
ところが、ここまで来ると、これが邪魔になるのです。「善いことをすれば善い報いが来る。悪いことをすれば悪い報いが来る」と、お念仏は大善大功徳だからお念仏によって助かるという根性がそこにある。だから、自力では駄目で、他力によって参る。他力というものを、ちゃんと自分がつかんでおる。それが疑い。それが解らないの。そこに問題が出てくる。
だから、法然上人は「私の方から仏に向かって廻向するのではない。不廻向」といいましょう。それを親鸞聖人は「仏の方から私に向かって働きかける」。全然方向が違ってきた。それほど親鸞聖人は、はっきりとものが見えてきたのです。法然上人は、ものがまだ薄ぼんやりとしか見えないのです。だから、そこに問題がたくさんあるわけです。
そうすると、「了因」とはどういうものか。了因とはさとるということ。仏智をさとらずと、同じさとりにこれを書いてある。「経は五つの智慧をさとる」といいましょう。「不了仏智」という。親鸞聖人の御和讃の中にも「不了仏智」と出ておりますが、さとるという字。これは終了証書だから、「終わる」とか「さとる」とかこういうことにこの字を書くのです。
<中略>
無始よりこのかたの宿業が見えるということは、仏の智慧が生まれてこなかったならば見えない。もう既に、この時にこれが見えるためには、ちゃんと仏の智慧が生まれるのです。それが、お浄土に生まれたならば、一番先に菩薩の法式が出てくる、懺悔が出てくる。いいですか。
ということは何かといいますと、あなたに出遇えばあなたの「一切衆生、悉有仏性」でしょう。どんな人をも尊敬する。人間として尊敬すると同時に、その人はその人でなければならないその人だけの宿業がある。宿業を理解する。理解するというと、その宿業がそのまま今度は功徳に転ずるのです。この人はこの人でなければ、辛苦をした人は辛苦をしただけのよさがある。お金ちに育った人はお金持ちに育っただけのよさがあるのです。それに照らされると、何と私はお恥ずかしい者だなあとこう、自分のああしたこうしたが浅ましいのではないのです。私の存在そのものが性格、そういう宿業が見える。それをどの人に向かっても、何とお恥ずかしい私だろうかとこう自分の頭が下がると同時に相手を尊敬しましょう。
そうすると相手から、あなたの尊いものを私に教えてくださいとこう説法を請う、教えを請う。そういうことが菩薩の法式というのです。だから、子どもに出遇えば遇うた子どもから教えてもらうのです。嫁に行けば、こんな鬼婆のところへ来るのではなかったというても、因縁があって来れば、その人を尊敬しその人からまた教えてもらうのです。これが菩薩の法式というのです。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より
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