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ご信心を味わう

『仏説無量寿経』40

【浄土真宗の教え】

仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪7

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 40

 仏、弥勒に告げたまはく、「われなんぢらに語りしごとく、この世の五悪、勤苦かくのごとし。五痛・五焼、展転してあひ生ず。ただ衆悪をなして善本を修せざれば、みなことごとく自然にもろもろの悪趣に入る。あるいはそれ今世にまづ殃病を被りて、死を求むるに得ず。生を求むるに得ず。罪悪の招くところ衆に示してこれを見せしむ。身死して行に随うて三悪道に入りて、苦毒無量にしてみづからあひショウ燃す。その久しくして後に至りて〔再び人間界に生じ〕ともに怨結をなし、小微より起りてつひに大悪となる。みな財色に貪着して施恵することあたはざるによりてなり。痴欲に迫められて心に随うて思想す。煩悩結縛して解けやむことあることなし。おのれを厚くし利を諍ひて省録するところなし。富貴・栄華、時に当りて意を快くして忍辱することあたはず。つとめて善を修せざれば、威勢いくばくもなくして、随ひてもつて磨滅す。身坐まりて労苦す。久しくして後大きに劇し。天道、施張して自然に糺挙し、綱紀の羅網、上下相応す。煢々シュ々として、まさにそのなかに入るべし。古今にこれあり。痛ましきかな、傷むべし」と。 仏、弥勒に語りたまはく、「世間かくのごとし。仏みなこれを哀れみたまひて、威神力をもつて衆悪を摧滅してことごとく善に就かしめたまふ。所思を棄捐し、経戒を奉持し、道法を受行して違失するところなくは、つひに度世・泥オンの道を得ん」と。仏のたまはく、「なんぢいまの諸天・人民、および後世の人、仏の経語を得て、まさにつらつらこれを思ひて、よくそのなかにおいて心を端しくし行ひを正しくすべし。主上善をなして、その下を率化してうたたあひ勅令し、おのおのみづから端しく守り、聖〔者〕を尊び、善〔人〕を敬ひ、仁慈博愛にして、仏語の教誨あへて虧負することなかれ。まさに度世を求めて生死衆悪の本を抜断すべし。まさに三塗の無量の憂畏苦痛の道を離るべし。なんぢらここにおいて広く徳本を植ゑて、恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心・智慧をもつてうたたあひ教化し、徳をなし善を立てよ。心を正しくし意を正しくして、斎戒清浄なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり。ゆゑはいかん。かの仏国土は無為自然にして、みな衆善を積んで毛髪の悪もなければなり。ここにして善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏国土にして善をなすこと千歳するに勝れたり。ゆゑはいかん。他方の仏国は、善をなすものは多く悪をなすものは少なし。福徳自然にして造悪の地なければなり。ただこのあひだのみ悪多くして、自然なることあることなし。勤苦して欲を求め、うたたあひ欺紿し、心労し形困しみて、苦を飲み毒を食らふ。かくのごとく怱務して、いまだかつて寧息せず。われなんぢら天・人の類を哀れみて、ねんごろに誨喩し、教へて善を修せしむ。器に随ひて開導し、経法を授与するに承用せざることなし。意の所願にありてみな道を得しむ。 仏の遊履したまふところの国邑・丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清明なり。風雨時をもつてし、災レイ起らず、国豊かに民安くして、兵戈用ゐることなし。〔人民〕徳を崇め仁を興し、つとめて礼譲を修す」と。 仏のたまはく、「われなんぢら諸天・人民を哀愍すること、父母の子を念ふよりもはなはだし。いまわれこの世間において仏となり、五悪を降化し、五痛を消除し、五焼を絶滅して、善をもつて悪を攻め、生死の苦を抜いて五徳を獲しめ、無為の安きに昇らしむ。われ世を去りて後、経道やうやく滅し、人民諂偽にしてまた衆悪をなし、五痛・五焼還りて前の法のごとく、久しくして後にうたた劇しからんこと、ことごとく説くべからず。われただなんぢがために略してこれをいふのみ」と。仏、弥勒に語りたまはく、「なんぢらおのおのよくこれを思ひ、うたたあひ教誡し、仏の経法のごとくして犯すこと得ることなかれ」と。ここにおいて弥勒菩薩、合掌してまうさく、「仏の所説、はなはだねんごろなり。世人まことにしかなり。如来あまねく慈しみて哀愍し、ことごとく度脱せしめたまふ。仏の重誨を受けてあへて違失せじ」と。


 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 40

 続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「今わたしがそなたたちに語ったように、世の人々はこの五悪のために苦しんでいるのであって、その五悪から次々に五痛・五焼の報いが生れるのである。いろいろな悪ばかりを犯して功徳を積まないなら、みなおのずからさまざまな苦しみの世界に生れる。あるものはこの世で難病をわずらい、死にたいと思っても死ぬことができず、生きたいと思っても生きることができないで、罪の報いを世の人々の前にさらすのである。そして命が終われば、その行いに応じて地獄や餓鬼や畜生の世界に沈み、はかり知れない苦しみにその身を焼き焦がして苦しむのである。
 長い時を経てふたたび人間界に生れても、また互いに憎みあって、小さな悪から始まりやがて大きな悪を犯すようになる。これはすべて、財欲や色欲をむさぼって人に恵みを施すことができないからである。人々は愚かな欲望に追い回されて、わがままな考えをいだき、いつまでも煩悩に縛られたままで、自分の利益ばかりを考えて他人と争い、悪い行いを反省してすすんで善い行いをしようとはしない。たまたま裕福になり繁栄しても、一時の快楽にふけり、耐え忍ぶことがなく、すすんで善い行いをしようとしないために、その勢いも長続きしないですぐに落ちぶれてしまう。身に受ける苦しみは尽きることなく、後の世になるほどその激しさを増すのである。
 因果の道理はちょうど網を広げたように世界中をおおい、一つの罪も見逃すことなく数えあげ、その張りめぐらされた網にすべてのものは捕えられて、逃れることができない。ただひとりおののきながら、その網にかかって報いを受けるのである。これは今も昔も変ることがない。まことに痛ましい限りではないか」
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「世の人々がこういうありさまであるから、仏がたはみなこれを哀れみ、すぐれた神通力によりさまざまな悪を砕き、すべてのものを善い行いに向かわせてくださるのである。誤った思いを捨てて仏の戒めを守り、教えを受けて修行し、途中で教えに背いたりやめたりしないなら、必ず迷いの世界を離れてさとりを得ることができるであろう」
 さらに釈尊が仰せになる。
「そなたをはじめとして、この世の天人や人々および後の世のものは、仏の教えを聞いてよく思いをめぐらし、この迷いの世界にあっても、心も行いも正しくするがよい。上に立つものは善い行いをして下のものを導き、次々と仏の戒めを伝えていくがよい。各自がその戒めを守って、聖者を尊び善人を敬い、ひろく人々に愛情をそそぎ慈悲の心を垂れて、決して仏の教えに背くことがあってはならない。そしてさとりの世界を求めて、迷いの世界にとどまる原因を断ち、さまざまな悪をその根本から抜き去り、地獄や餓鬼や畜生などのはかり知れない苦悩の世界から離れよ。
 そなたたちはこの世界でひろく功徳を積み、恵みを施し、仏の戒めを破ってはならない。よく耐え忍んで努め励み、心を静めて智慧をみがき、次々と互いに導きあって、すすんで徳を積み善い行いをするがよい。心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる。なぜなら、無量寿仏の国はさとりにかなった世界であって、だれでも多くの善い行いをすることができ、まったく悪のないところだからである。またこの世界で昼夜十日間善い行いに励んだなら、他のさまざまな仏がたの国で千年間善い行いに励むよりも、さらにまさっているといえる。なぜなら他の仏がたの国は、善い行いをするものが多く悪い行いをするものが少なく、功徳がおのずからそなわり、悪を犯すことのない世界だからである。ただこの娑婆世界だけが悪が多くて、功徳がおのずからそなわることなどなく、苦労して欲望を満たそうとし、互いに欺きあって身も心も疲れはて、苦を飲み毒を食らって暮しているようなありさまで、いつもあくせくとして、これまで少しの間も安らいだことがない。
 わたしは、そなたたち天人や人々を哀れみ、懇切丁寧に教え諭して功徳を積ませ、相手に応じた導き方で教えを授けるのであるから、これを信じて修めないものはない。すべてのものは願いのままにさとりを得るのである。
 仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである」
 釈尊が仰せになる。
「わたしがそなたたち天人や人々を哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。だからわたしは今この世界で仏となって、五悪を打ち負かし、五痛を取り除き、五焼をすべてなくして、善をもって悪を攻め滅ぼし、迷いの世界の苦しみを抜き去り、五徳を得させて、安らかなさとりの世界に至らせるのである。しかしわたしがこの世を去った後には、仏の教えがしだいに衰えて、人々は偽りが多くなり、ふたたびいろいろな悪を犯して、五痛と五焼の報いをもと通り受けるようになる。それは時を経るにしたがってますます激しくなるであろう。そのようすを一々詳しく説くことはできないが、今はただ、そなたたちのために簡単に述べたのである」
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「そなたたちはそれぞれにこのことをよく考え、互いに教えあい戒めあって、仏の教えを正しく守り、決してこれに背くようなことがあってはならない」
 そこで弥勒菩薩は合掌してうやうやしくお答えした。
「世尊はたいへん懇切丁寧にお説きくださいました。世の人々のありさまについては、実に仰せの通りであります。そのために如来は、これらの人々を慈しみ哀れんで、すべてのものをお救いくださるのです。わたしたちもまた、世尊の丁重な教えをいただいて、決して背くことはありません」


 六因五果四縁について

註釈版
 仏、弥勒[みろく]に告げたまはく、「われなんぢらに語りしごとく、この世の五悪、勤苦[ごんく]かくのごとし。五痛[ごつう]五焼[ごしょう]展転[てんでん]してあひ生ず。ただ衆悪[しゅあく]をなして善本[ぜんぽん][しゅ]せざれば、みなことごとく自然[じねん]にもろもろの悪趣[あくしゅ][]る。あるいはそれ今世[こんぜ]にまづ殃病[おうびょう][こうぶ]りて、死を求むるに得ず。生を求むるに得ず。罪悪の招くところ衆に示してこれを見せしむ。身死して行に[したご]うて三悪道[さんまくどう]に入りて、苦毒無量[くどくむりょう]にしてみづからあひショウ燃[しょうねん]す。その[ひさ]しくして後に至りて〔再び人間界に生じ〕ともに怨結[おんけつ]をなし、小微[しょうみ]より起りてつひに大悪となる。みな財色[ざいしき]貪着[とんじゃく]して施恵[せえ]することあたはざるによりてなり。痴欲[ちよく][]められて心に随うて思想す。煩悩結縛[ぼんのうけつばく]して解けやむことあることなし。おのれを[あつ]くし利を[あらそ]ひて省録[しょうろく]するところなし。富貴[ふき]・栄華、時に当りて意を快くして忍辱[にんにく]することあたはず。つとめて善を修せざれば、威勢[いせい]いくばくもなくして、随ひてもつて磨滅[まめつ]す。身坐[しんとど]まりて労苦[ろうく]す。久しくして後大[のちおお]きに[はげ]し。天道、施張[しちょう]して自然に糺挙[くこ]し、綱紀[こうき]羅網[らもう]上下相応[じょうげそうおう]す。煢々シュ々[けいげいしゅじゅ]として、まさにそのなかに入るべし。古今[ここん]にこれあり。痛ましきかな、[いた]むべし」と。
現代語版
 続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「今わたしがそなたたちに語ったように、世の人々はこの五悪のために苦しんでいるのであって、その五悪から次々に五痛・五焼の報いが生れるのである。いろいろな悪ばかりを犯して功徳を積まないなら、みなおのずからさまざまな苦しみの世界に生れる。あるものはこの世で難病をわずらい、死にたいと思っても死ぬことができず、生きたいと思っても生きることができないで、罪の報いを世の人々の前にさらすのである。そして命が終われば、その行いに応じて地獄や餓鬼や畜生の世界に沈み、はかり知れない苦しみにその身を焼き焦がして苦しむのである。
 長い時を経てふたたび人間界に生れても、また互いに憎みあって、小さな悪から始まりやがて大きな悪を犯すようになる。これはすべて、財欲や色欲をむさぼって人に恵みを施すことができないからである。人々は愚かな欲望に追い回されて、わがままな考えをいだき、いつまでも煩悩に縛られたままで、自分の利益ばかりを考えて他人と争い、悪い行いを反省してすすんで善い行いをしようとはしない。たまたま裕福になり繁栄しても、一時の快楽にふけり、耐え忍ぶことがなく、すすんで善い行いをしようとしないために、その勢いも長続きしないですぐに落ちぶれてしまう。身に受ける苦しみは尽きることなく、後の世になるほどその激しさを増すのである。
 因果の道理はちょうど網を広げたように世界中をおおい、一つの罪も見逃すことなく数えあげ、その張りめぐらされた網にすべてのものは捕えられて、逃れることができない。ただひとりおののきながら、その網にかかって報いを受けるのである。これは今も昔も変ることがない。まことに痛ましい限りではないか」

{浄穢欣厭}の三毒段から五善五悪の全体を通し、一貫して主題となっていますのが「善悪の道よく知るものなし」とも「天道、施張[しちょう]して自然に糺挙[くこ]し、綱紀[こうき]羅網[らもう]上下相応[じょうげそうおう]」とも説かれている「因果の道理」です。仏教は世の中すべての現象を因果関係によって理解し、因果の道理に基づいて修行し、智慧と徳を成就させる宗教なのでありますが、これこそが正しい世界観であり、確実に人生を成就させる道なのです。因果を離れた無為法といえども、それは有為と別にあるのではありません(このことは後に説明します)。

 しかし中には、「善いことをしたのに全く善い結果が現れなかった」とか「悪いことをした奴等も処罰されなかったり、莫大な利益を得て大きな顔をしているではないか」と反論される方もあるでしょう。「因果の道理はちょうど網を広げたように世界中をおおい、一つの罪も見逃すことなく数えあげ、その張りめぐらされた網にすべてのものは捕えられて、逃れることができない」というほど因果の道理は世界中を網羅しているのでしょうか。

 実は仏教における因果の道理は「善いことをすれば善い結果が現れる。悪いことをすれば悪い結果が現れる」というだけの単純な認識ではありません。「六因[ろくいん]五果[ごか]四縁[しえん]」としてまとめられ、人生における全ての因果関係を分類しているのです。これは仏教を学ぶ上で基本となりますので、簡単におさえておきたいと思います。

◎ 六因(倶舎宗で説く六因)
因は、結果(果)を引き起こすための直接の内的原因。倶舎宗では、能作因[のうさいん]倶有因[くういん]相応因[そうおういん]同類因[どうるいいん]遍行因[へんぎょういん]異熟因[いじゅくいん]の六因を説く。
能作因[のうさいん]
果たる法以外の一切の有為法[ういほう]は、その法を生ずるために或いは積極的に力を与え(有力能作因)、或いは消極的にその法を生ずるのにさまたげをしないから(無力能作因)、すべてその法に対する因(能作因)と考えられる。これは広義における因(因縁)である。
【編集註:「能」は「主体・行じるもの自身」で、「所」は「客体・行じる目的や対象」。「法」や「ダルマ」は「ある性質や本性をもった一切の存在」をいう。また「有為法」は、因縁和合によって造作された現象的存在であり、無常であって常に転じ移り変わる(有為転変[ういてんぺん])。「有為法」は因果的関係によって成り立っていて、因(事)より生じるため「有事」といい、必ず果を有しているため「有果」ともいう。有為法は最後には捨離されて涅槃に至るべきもので、これを「有離」という。「有為法」に対し「無為法」は生滅変化を離れた永久不変、常住絶対の法である】
倶有因[くういん]
二個以上の法が同時に依存しあって存在する時、それらの所法は相互に倶有因であるという。これに同一果(同じく果を一にする)と相為果(互いに果となる)との二つの解釈がある。
【※編集註:二つ以上のものごとの関係(因果関係等)が極めて密接ということ】
相応因[そうおういん]
倶有因の中で、特に心と心所(心のはたらき)との間の関係を相互に相応因であるという。
【※編集註:二つ以上のものごとの関係(因果関係等)が相互にあい和し(和合)離れないこと】
同類因[どうるいいん]
同類の法が連続して生ずる時、先の法を後の法の同類因という。時間的に先のものと後のものとが因果の関係をもって結ばれていて、しかも二つが同じ性質をもっているとき、先のものを同類因もしくは遍行因といい、後のものを等流果という。
遍行因[へんぎょういん]
同類因の中で、特に力の強い煩悩即ち遍行惑について別立したもの。すべてに通じる因。特に遍行の煩悩とよばれる強力な煩悩が、同類の煩悩や煩悩に類する法をひき起こす場合に、その原因を遍行因、結果を等流果とよぶ。
異熟因[いじゅくいん]
不善業と有漏[うろ]の善業とが因となって無記[むき]の果を引く時、これを異熟因という。
【※編集註:一般的にいう善悪の因(善にも煩悩が含まれている)がそのまま善悪の果とならず、無記(善でも悪でもない)の結果(たとえば苦や楽)をうみ出すこと】

◎ 五果
因 即ち原因によって生じた結果をいう。有部宗や唯識宗では、等流果[とうるか]異熟果[いじゅくか]士用果[じゆうか]増上果[ぞうじょうか]離繋果[りげか]の五果に分類する。 六因五果
等流果[とうるか]
善因から生じた善果、悪因から生じた悪果のように、因と同じ性質(等しき流類)の果で、六因中では同類因と遍行因から生じた果。また習果ともいう。
【※編集註:時間的に先のものと後のものとが因果の関係をもって結ばれていて、しかも二つが同じ性質をもっているとき、先のものを同類因もしくは遍行因といい、後のものを等流果という。またあるものがその性質をかえないで等しい種類のものとして持続することを、等流相続という】
異熟果[いじゅくか]
善・不善の業因(異熟因)から生じた無記(非善非不善)の果。因と性質が異なって成熟した果の意。また報果ともいう。天台宗では習果と報果を合わせて二果ともいう。
【※編集註:たとえば、善業を行うことが原因で、心が晴れて楽しくなるという結果を得たり、皆から褒められるという結果を生むこと。楽しいことや褒められることは善でも悪でもない】
士用果[じゆうか]
倶有因・相応因の果であり、因の強い勢力を男子(士夫[じぶ])の動作([ゆう])に喩えて士用といい、士用ある因によって生じた果の意。同時の因果である。
【※編集註:ある行動を積極的に起こす際、類は友を呼ぶように、他の様々な要因をともなって展開し結果があらわれること】
増上果[ぞうじょうか]
それみずからを除いた他のすべての有為法[ういほう]を能作因といい、この能作因に対する果である。果に対して力を与えて強くする因の力によって生じた果という意。主因を助ける助因を増上縁といい、これによる結果を増上果という。業を助ける付随的・補助的な力(増上力)によって生じた結果のこと。すなわち業の余勢によって現われた結果のこと。たとえば、眼根に対して眼識はその増上果である。
以上四つの果は有為法であるから有為果[ういか]という。これに対して離繋果は無為法[むいほう]である。
離繋果[りげか]
離繋とは、煩悩[ぼんのう]の束縛を離れたことで、離繋果とは択滅[ちゃくめつ]すなわち涅槃[ねはん]のさとりを指す。択滅は無為法[むいほう]であって因をもたないから、不生不滅である。従って離繋果は道の因によって生じた果ではないが、道は択滅をうるための得(離繋得)を生じる因となり、同時に択滅は道によって証されるから、択滅を離繋界という。これをまた果果ともいう。修行の果である菩提によって涅槃を証るからである。
◎ 九果
以上の五果に以下の四果を加えて九果という。
安立果[あんりゅうか]
他に依止して建立された果。ある基礎の上に安立された果をいう。たとえば家屋・草木・人畜などを大地の安立果という。
加行果[かぎょうか]
行の実践によって得られた果。
和合果[わごうか]
諸因の和合によって生じた果。
修習果[しゅじゅうか]
聖道の修習によって生じた果。四静慮を修習して変化心を得るような場合がこれに当る。
なお、仏の十力・四無所畏[しむしょい]十八不共法[じゅうはちふぐうほう]・自在神力などは修行の成果としての仏力であるから果力と呼ばれる。大乗における仏果、小乗における阿羅漢果[あらかんか]は究極の果であるから極果[ごくか]という。 六因四縁

◎ 四縁
狭義では、結果(果)を引き起こすための直接的原因を因(内因)というのに対して、これを外から助ける間接的原因を縁(外縁[げえん])というが、広義では両方合わせて因とも縁ともいう。広義の縁は四縁(因縁・等無間縁[とうむけんねん]・所縁縁・増上縁)に分類される。心と心所(個別的な心のはたらき)とが対境に向かってはたらき、そのすがた(相)を取ることを「縁ずる」(縁慮、攀縁[はんえん]の義)という。心識はよく縁ずるものであるから能縁といわれ、対境は心識によって縁ぜられるものであるから所縁という。
【※編集註:主観が能縁、客観が所縁】
因縁[いんねん]
因なる縁。因すなわち縁の意。果を生む直接的内的な原因。狭義における因、広義における因縁の意となり、一切有為法が因縁とよばれる。何らかの意味でつながりのある一切のものをいう。六因のうち能作因[のうさいん]を除いた他の五因をひっくるめていう。
等無間縁[とうむけんねん]
前の刹那[せつな]の心・心所[しんじょ]が後の刹那の心・心所の生ずるための原因(場所をあけて導き入れる。即ち開避と引導)となるのをいう。連続せる心において、後の心・心作用は、先の心・心作用を継承するとともに、自らもまた因となって、さらに次の心・心作用を生起させる。その場合には前の瞬間の心・心作用が善であって、次の瞬間のそれが悪であるということもありうる。この場合に、原因となっているものを等無間縁とよび、結果たるものを増上果という。等無間とは間をおかぬ、直後という意。したがって、等無間縁とは直後に生ずるダルマのために縁となること。直後の縁。すでに生じた心・心作用がしりぞいて、直後の心・心作用を生じさせる際、前の心と後の心との間に隔てるものがなく、既に生じたダルマが直ちに次に続くダルマの生ずる縁となること。また次第縁ともいう。
所縁縁[しょえんねん](縁縁)
所縁すなわち外境が心の生ずるための縁となるのをいう。対象としての縁。所縁とは、心・心作用の対象をいう。心・心作用の対象が原因となって、心・心作用という結果が生ずる場合に、心・心作用の対象を所縁縁、心・心作用を増上果という。唯識宗ではこれを疎所縁縁(所縁の相分を引き起こす本質[ほんぜつ]が、同時に見分の所縁となるのをいう)と親所縁縁(所縁を縁ずる見分と離れない相分をいう)とに分ける。
増上縁[ぞうじょうえん]
勝れた強い力を増上力といい、他のもののはたらきを増勝にする縁を増上縁という。一切の法が果である一法に対してすべて縁となるのをいう。これは六因中の能作因に同じ。力すぐれた縁。ありとあらゆるものは他のものが生ずることに対して助力し(有力)、または少なくともその生ずることをさまたげない(無力)。それゆえ、あらゆるものはその一つのものの生ずることに影響、支配を及ぼしているから、いかなるものも増上縁となる。すべての現象が果である一つの法に対して縁(間接原因)となることで、他の法の生ずることを妨害しない縁をも含めていう。たとえば、米粒を稲にするものとしての業・水・土・暖かさなど。また浄土教では阿弥陀仏の本願は凡夫が浄土に往生するための増上縁となるという。この場合の増上縁は果に対してはたらく強い力の意。
(参考資料:法蔵館『総合佛教大辞典』、東京書籍『佛教語大辞典』)

 このように仏教では人生上の現象を六因五果四縁で分析し網羅しているのですが、私たちに特に関わりの深い因果の道理は「等流[とうる]の因果」、「士用[しゆう]の因果」、「異熟[いじゅく]の因果」、「増上[ぞうじょう]の因果」、そして「無因の離繋果[りげか]」でありましょう。

等流[とうる]の因果」はいわゆる「善因善果、悪因悪果」で、善いことをすれば善い心を引き起こし、悪いことをすれば悪い心を引き起こすという因果関係です。善はさらなる善をよんで善行がしやすくなり、悪はさらなる悪をよんで毒を食らわば皿まで≠ニ悪行が留まりません。すると時間が経過すればするほど善悪の差が開き、人生を本当に謳歌できる人と、どんどん閉塞[へいそく]的な生き方になってしまう人に分かれていきます。このように等流は因果の基調であり根本ですが、人生はこうした因果関係のみで成り立っているわけではありません。

士用[しゆう]の因果」は、強い積極的な因が起きると類は友を呼ぶように他の要因が集まってくることをいいます。実際に善を為そうとすればそのために計画を練らねばならず、その際に次々と善い考えが出てきますし、悪を為そうとすれば悪知恵が次々とわき、嘘をつき通そうとすればさらに嘘を考え出さねばならなくなるようなものです。

異熟[いじゅく]の因果」は「善因楽果、悪因苦果」で、因と異なった果が熟すことを言います。ただ、異なって熟すといっても、善を為せば気持ちが晴れて楽しくなりますので次も善を為そう≠ニいう心が生まれやすくなりますし、悪を為せば気持ちが暗くなり苦痛を感じますので次は悪を為すまい≠ニの心が生まれたり、かえって悪を為す快感を得たりします。さらには、善を為し続けていれば態度も穏やかになり顔つきも善人顔になりますが、悪を為し続けていれば態度は粗暴になり顔つきも嫌味が出てきます。これも異熟の因果と言えるでしょう。私たちは、見聞きし、考え、話し、行動したこと全てが、時に直接に、時に別の形となって実を結んでゆくのです。

増上[ぞうじょう]の因果」は少し解りづらいのですが、原因から見てというより結果から見て≠ニ考えれば理解しやすいでしょう。ある結果が出たとき、考えてみれば様々な要因がからんでこの結果を生んでくれたんだなあ≠ニ思い起こすわけです。すると、たとえば善果を得たら善因はもちろんありますが、善を為す時間があった、体力があった、意志が強かった、粘り強かった、金銭的にも余裕があった、友人が助けてくれた等々、様々なの助力がはたらいていたり(有力)、忙しかったが何とか時間を見つけて行えた、病気になったが大病ではなかったからできた、意志は弱かったが何とか奮い起こすことができた、飽きやすい性格だったが何とか続けられた、金銭的に余裕はなかったが何とか工面できた、友人は助けてくれなかったが邪魔はしなかった等々、様々な悪条件も結果を妨げるほどのものではなかった(無力)、という様々な因(能作因[のうさいん])によって結果を生む、これを「増上[ぞうじょう]の因果」というのです。この因果の際に縁となるのは、等無間縁[とうむけんねん](前の心が連続して直後の心を生む)、所縁縁[しょえんねん](周囲の影響で心を生む)、増上縁[ぞうじょうえん](他の物事が結果的に助力、もしくは妨げなかった)の三縁で、因縁果でまとめると、「能作因」→「増上縁・等無間縁・所縁縁」→「増上果」という流れになります。

「無因の離繋果[りげか]」というのは、離繋果は煩悩の束縛を離れた涅槃のさとりでありますが、何かを為したから離繋果を得る≠ニいうものではありません。因なくして果があるのです。因果関係によって成り立っている法は有為法[ういほう]といい、無常であり、常に転じ移り変わる(有為転変[ういてんぺん])恐れがありますので、いずれ有為法を離れて涅槃に至るべきであると仏教は説きます。たとえば、善を為そうしても、等無間縁で心変りがあってあっという間に悪心を生じたり、所縁縁で悪い仲間や悪思想に染まって悪心を生じたり、増上縁が悪縁となる場合もあるのです。人間は善も悪も徹底することができず、様々な要因が煩悩に反応して恩ある人たちに仇なしたり、最後は自分自身さえ裏切ってしまうこともあるのです。ですから因縁に左右されない無為法(生滅変化を離れた永久不変、常住絶対の法)を依りどころとして生きることを勧めるのです。
 ところで、有為法と無為法の関係ですが、有為法と全く別に無為法が存在しているのではありません。有為法を有為法であると覚らしめることが無為法なのであり、無為法のはたらき場所も有為法をおいて他にはありません。有為転変で自分の因果はどう転ぶか解らない≠ニ覚り、覚らしめた無為法を依りどころとし、この法をまた有為法において実践させていただくのです。この『仏説無量寿経』で言えば、仏願の生起本末の因果こそ有為転変の私たちに常住絶対の無為法のはたらきとその主体が示されたものであり、これを聞いて疑いなく受領することを聞法とも信心とも言うのです。本願が私の因を待たず私にふり向けられたものですから「本願力回向の信心」とも「本願他力の信心」ともいうのです。
 ところで離繋果を得るのは菩提心[ぼだいしん]によりますから必ず菩提心を発こすことが必要なのですが、浄土真宗では、これも私の因を待たず私にふり向けられたものですから「他力の菩提心」とも「横超の菩提心」ともいい、仏と同じ発菩提心を尊ぶのです。(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?}

 他力本願の陥りやすい弊害を戒めて

註釈版
仏、弥勒に語りたまはく、「世間かくのごとし。仏みなこれを哀れみたまひて、威神力[いじんりき]をもつて衆悪を摧滅[さいめつ]してことごとく善に[]かしめたまふ。所思[しょし]棄捐[きえん]し、経戒[きょうかい]奉持[ぶじ]し、道法[どうほう]受行[じゅぎょう]して違失[いしつ]するところなくは、つひに度世[どせ]泥オン[ないおん][どう]を得ん」と。仏のたまはく、「なんぢいまの諸天・人民[にんみん]、および後世[ごせ]の人、仏の経語[きょうご]を得て、まさにつらつらこれを思ひて、よくそのなかにおいて心を[ただ]しくし行ひを正しくすべし。主上[しゅじょう]善をなして、その[しも]率化[そつげ]してうたたあひ勅令[ちょくりょう]し、おのおのみづから[ただ]しく守り、聖〔者〕を尊び、善〔人〕を敬ひ、仁慈博愛[にんじはくあい]にして、仏語の教誨[きょうけ]あへて虧負[きぶ]することなかれ。まさに度世[どせ]を求めて生死衆悪[しょうじしゅあく][もと]抜断[ばつだん]すべし。まさに三塗[さんず]の無量の憂畏苦痛[ういくつう][どう]を離るべし。なんぢらここにおいて広く徳本[とくほん]を植ゑて、恩を[][]を施して、道禁[どうきん]を犯すことなかれ。忍辱[にんにく]精進[しょうじん]・一心・智慧[ちえ]をもつてうたたあひ教化し、徳をなし善を立てよ。心を正しくし意を正しくして、斎戒清浄[さいかいしょうじょう]なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり。ゆゑはいかん。かの仏国土は無為自然[むいじねん]にして、みな衆善[しゅぜん]を積んで毛髪[もうはつ]の悪もなければなり。ここにして善を修すること十日十夜[じゅうにちじゅうや]すれば、他方の諸仏国土[しょぶつこくど]にして善をなすこと千歳[せんざい]するに[すぐ]れたり。ゆゑはいかん。他方の仏国は、善をなすものは多く悪をなすものは少なし。福徳自然[ふくとくじねん]にして造悪[ぞうあく][ところ]なければなり。ただこのあひだのみ悪多くして、自然なることあることなし。勤苦[ごんく]して欲を求め、うたたあひ欺紿[ごだい]し、心労[しんろう]し形[くる]しみて、苦を飲み毒を食らふ。かくのごとく怱務[そうむ]して、いまだかつて寧息[にょうそく]せず。われなんぢら天・人の[るい][あわ]れみて、ねんごろに誨喩[けゆ]し、教へて善を修せしむ。[うつわ]に随ひて開導[かいどう]し、経法[きょうぼう]授与[じゅよ]するに承用[じょうよう]せざることなし。[こころ]所願[しょがん]にありてみな道を得しむ。
現代語版
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「世の人々がこういうありさまであるから、仏がたはみなこれを哀れみ、すぐれた神通力によりさまざまな悪を砕き、すべてのものを善い行いに向かわせてくださるのである。誤った思いを捨てて仏の戒めを守り、教えを受けて修行し、途中で教えに背いたりやめたりしないなら、必ず迷いの世界を離れてさとりを得ることができるであろう」
 さらに釈尊が仰せになる。
「そなたをはじめとして、この世の天人や人々および後の世のものは、仏の教えを聞いてよく思いをめぐらし、この迷いの世界にあっても、心も行いも正しくするがよい。上に立つものは善い行いをして下のものを導き、次々と仏の戒めを伝えていくがよい。各自がその戒めを守って、聖者を尊び善人を敬い、ひろく人々に愛情をそそぎ慈悲の心を垂れて、決して仏の教えに背くことがあってはならない。そしてさとりの世界を求めて、迷いの世界にとどまる原因を断ち、さまざまな悪をその根本から抜き去り、地獄や餓鬼や畜生などのはかり知れない苦悩の世界から離れよ。
 そなたたちはこの世界でひろく功徳を積み、恵みを施し、仏の戒めを破ってはならない。よく耐え忍んで努め励み、心を静めて智慧をみがき、次々と互いに導きあって、すすんで徳を積み善い行いをするがよい。心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる。なぜなら、無量寿仏の国はさとりにかなった世界であって、だれでも多くの善い行いをすることができ、まったく悪のないところだからである。またこの世界で昼夜十日間善い行いに励んだなら、他のさまざまな仏がたの国で千年間善い行いに励むよりも、さらにまさっているといえる。なぜなら他の仏がたの国は、善い行いをするものが多く悪い行いをするものが少なく、功徳がおのずからそなわり、悪を犯すことのない世界だからである。ただこの娑婆世界だけが悪が多くて、功徳がおのずからそなわることなどなく、苦労して欲望を満たそうとし、互いに欺きあって身も心も疲れはて、苦を飲み毒を食らって暮しているようなありさまで、いつもあくせくとして、これまで少しの間も安らいだことがない。
 わたしは、そなたたち天人や人々を哀れみ、懇切丁寧に教え諭して功徳を積ませ、相手に応じた導き方で教えを授けるのであるから、これを信じて修めないものはない。すべてのものは願いのままにさとりを得るのである。

 この節の要めは「心を正しくし意を正しくして、斎戒清浄[さいかいしょうじょう]なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり」(心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる)にあります。これは念仏者にとってよくよく考えねばならぬ重要な示唆でありましょう。

 念仏者はややもすると、五濁悪世において善は為しにくいから、浄土において純粋なる善を為そう≠ニ考えがちなのですが、これは経典の真意に反していることがわかります。確かに無量寿仏の国はさとりにかなった世界で、まったく悪のない、だれでも多くの善い行いをすることができるのですが、そうした努力の要らない善を百年間励むよりも、欲望や嘘や苦毒に満ちた善を為しにくいこの娑婆で、たった一昼夜でいいから心を正しくして仏の戒めを清らかにたもつなら、後者の方が勝っているというのです。その理由として「かの仏国土は無為自然[むいじねん]にして、みな衆善[しゅぜん]を積んで毛髪[もうはつ]の悪もなければなり」(無量寿仏の国はさとりにかなった世界であって、だれでも多くの善い行いをすることができ、まったく悪のないところだからである)と、善行が容易に行えることを挙げています。

 誤解があってはなりませんが、自然に善い行いができる環境というのは、歴史的な土徳としてはもちろん尊いわけです。限りない功徳が満ち足りた国というのは、その国の評判を聞き、国の名を聞いて[たた]えただけで、称えた身に功徳がふり向けられます。まして阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願うことは本当に菩提心を得るということであり、娑婆の毒に染まっていることに比べたら限りなく尊いのです。
 しかし、極楽浄土に往生し切って善を為すことは浄土建立の本意ではなく、善を為しにくいこの娑婆世界でこそ善を為してほしい、五濁悪世においてこそ菩提心を発して励んでほしい、というところに経の本意があるのです。

 このことはたとえば『仏説阿弥陀経』においても、釈尊は「舎利弗[しゃりほつ]まさに知るべし、われ五濁悪世[ごじょくあくせ]においてこの難事[なんじ]を行じて、阿耨多羅三藐三菩提[あのくたらさんみゃくさんぼだい]を得て、一切世間のために、この難信の法を説く。これを甚難[じんなん]とす」と語り、釈尊ほどの方でも五濁悪世において善を為すのは難かしい事であり、難しいからこそ娑婆で菩提心を得て法を説く意味があったことを述懐してみえます。

 このことを島田幸昭師は、もう少し日常的なことに即して内容を明かにしてみえます。

例えば、ある人が毎朝、道路を掃除する。そうすると、初めの間は気恥ずかしくてなかなかできにくかった。けれども毎日のように自分と闘いながら、人が見ておろうが、見ておろまいが、自分の家の前の道路を掃除しておった。そうすると、やはり努力が要る。そういう努力をすることが功徳である。だから、善そのものが功徳である場合と、努力することが功徳であるという場合の二通りがあるわけであります。
 そういうことを思うと、私が思い出すことは、いつでも良寛さんが「自分には嫌いなものが三つある」といって、「詩人の詩 書家の書 包人の調食」、こう言っておられるのであります。<中略>舌には、味はいいかもしれませんけれども、料理屋から取った料理というものにはもう一つ欠けたものがある。一体何だろうか。親切が足らないのだろうか。何か知りませんけれども、何かちょっと足らないものがあるようであります。
 今度、書家が書いた書というものは上手に違いない。上手に違いないけれども、何か型にはまったようで味がない。やっぱりそこに、下手くそでも構わない、自分で力一杯書いた字。そういう個性のこもったような字は何か味があると、こういうことを感ずるのであります。
<中略>
「立て板に水」という事がありますけれども、どうもそういうことで、これはある布教師から聞いたのでありますけれども、「自分は布教は誰にも負けぬ」と思うのだけれども、どうも自分の説教に参詣がだんだんと減ってくると。それで、たくさんの人が参る説教を聞きに行ったところが、下手くそで聞いておれんと言う。聞いておれんけれども、そのほうにたくさん参ってくる。一体どういうわけだろうかと自分で考えてみたら、やっぱり立て板に水よりも、自分で詰まり詰まり考え考え話していく。そういう所に、かえって相手の人に通じるものがあるのだろうと、こういうことを言っておりましたけれども、何かそこに、やはりまごころというものがこもっているということではないかと思うのであります。
 そんなことで、ここに出てくる善は、この世で一日一夜努めて善いことをすることは、阿弥陀の国に行って百日百夜善いことをするよりも優れておる。この世で十日十夜善根することは、諸仏の国において千日千夜善根するよりも優れておると。なぜかといえば、阿弥陀の国は兎の毛で突いたほども悪がないから。諸仏の世界では悪をすることが難しくて、善をすることがたやすい。反対にこの世界では、ほっておけばひとりでに悪に流れてくる。それが、善いことをしようと思えば、なかなか努力しなければならないということで、努力をする善というものが尊いのだということを言っておられるのであります。
 そういうことで、私はいつも思うのでありますけれども、着物でもそうです。お裁縫を仕事にしておられる先生に縫ってもらった着物は確かに上手に縫うておるに違いないけれども、やはり下手くそでも、運針が八の字になっても、やはり母の縫うてくれた着物というものは何か違った感じがするというところに一つ問題があるのだと思うのであります。
 そこで、もう一つ申しますと、反対で申しますならば、お浄土は善ばかりの世界であると。<中略>人間の世界には悪と善とが半分半分である。しかも、それが半分半分といいましても、ほっておけば悪のほうに傾いてくる、その傾向が強い。そういう中にあって、無理をしてまでも善いことをすれば、善いことをすること、だから、努力すること自体に価値があるのだということを言おうとしておられるのだと思うのであります。
 そこらあたりに、一体善とは何かということが問題になりますけれども、だから、このお経では、ここでそういうことをおっしゃっておられることは、私らがもう一遍真宗の現在の在り方というものを反省してみなければならないと思いますことは、もうすべて真宗では自分たちのすることは自力は駄目だと言って、一切が仏さまのおはからいであるということを言っておることが、私はこれが何か型にはまった、ただ単に概念化と言いましょうか、死んだ言葉になっておる。そういう自分が努めて日々の、きょう一日きょう一日を自分で力一杯生きていこうという、痛切な本当に生きておることのありがたさ、生きていることの喜びというものが、何か私は欠けておるように思うのであります。
 そういうことで、ここに説いておられる一日一夜の善根とか、十日十夜の善根が優れておるということを説いておられるところに、私は『大無量寿経』という他力の教えの陥りやすい、そういうことを、ここで念を入れてもう一遍、我々は努めて善いことをするようにしなければならないと、こういうことを言っておられるのだろうと思うのであります。
 ということは、もう一つ結論だけ申しますと、ひとりでにできる善というものはどうしてもそこに形式といいましょうか、何かまごころが抜ける。まごころが抜けたものというのは本当の善ということができない。だから、そこでは善とか悪とかいうことを超えた、そういう一つのいわゆる善悪を超えるということを言いますけれども、仏教では非常に「善悪を超える」という。特に明治時代は善悪超越ということを言っておりますけれども、一体善悪超越とはどういうことを言っておるのか。こういうことで、私は善悪を超えるということはまごころよりほかにないのだと。だから、まごころでするということが大事なことだと思うのであります。
 そういう点で、この三毒段・五悪段が、今までのインドのお経になかったもの。それがシナに来たってこれだけ付け加えられたということは、ただ単にいらんことを付け加えたのではなしに、この三毒段や五悪段を付け加えられた人は、どなたかわかりませんよ。翻訳した人に違いないのでありますけれども、どなたか分からないが、この三毒段・五悪段を付け加えられた人は本当の『大無量寿経』の御精神を受け取って、現実に日常生活の中に、一体これをどう受け取ったらいいのかということを思われて、そこで、その陥りやすい弊害というものを戒めて説かれたのではないだろうか。
『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

 人事と自然

註釈版
仏の遊履[ゆり]したまふところの国邑[こくおう]丘聚[くじゅ][][こうぶ]らざるはなし。天下和順[てんげわじゅん]日月清明[にちがつしょうみょう]なり。風雨時[ふうう とき]をもつてし、災レイ[さいれい]起らず、国豊[くにゆた]かに民安[たみやす]くして、兵戈[ひょうが]用ゐることなし。〔人民〕徳を[あが][にん][おこ]し、つとめて礼譲[らいじょう][しゅ]す」と。
現代語版
 仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである」

 これは仏徳の現れの一つなのですが、現代人から見るとすぐに納得できる箇所とできない箇所があると思います。たとえば「仏の遊履[ゆり]したまふところの国邑[こくおう]丘聚[くじゅ][][こうぶ]らざるはなし」は納得できると思います。仏が歩み行かれれば皆がその教化にあずかるということは事実としても道理としても合致しています。
 またその教化のおかげで、「天下和順[てんげわじゅん]」ということも納得できるでしょうし、「国豊[くにゆた]かに民安[たみやす]くして、兵戈[ひょうが]用ゐることなし。〔人民〕徳を[あが][にん][おこ]し、つとめて礼譲[らいじょう][しゅ]」ということも想像できると思います。「国豊[くにゆた]かに」ということは、精神が豊かになったおかげで多方面にわたって豊かさを獲得するできるのであり、「民安[たみやす]くして、兵戈[ひょうが]用ゐることなし」云々ということも精神の豊かさあればこその果報でしょう。念仏者としては、仏の功徳の一つとして兵戈無用[ひょうがむよう]はぜひ実現せねばならん願い≠ニして認識しているわけです。

 ところが「日月清明[にちがつしょうみょう]なり。風雨時[ふうう とき]をもつてし、災レイ[さいれい]起らず」という文言は、現代人から見ると少し納得し難い、下手をすれば迷信と思われてしまう箇所です。いくら仏が歩まれても、その地域の太陽や月が明るく輝いたり、風がほどよく吹いたり、雨がほどよく降ったり、災害や疫病などがおこらない、ということがあるのでしょうか。

 これは時代性や地域性を考慮しなくては理解できないでしょう。現代人は人事と自然を全く別ものとして分けて考えるのですが、経典編纂当時のインド、東洋のみならず、その時代の人類のほとんどは、人間と社会と自然は全体としてつながりがあるものと考えていた、個人と集団、社会と自然との間にあえて線引きを行わなかったのです。
 これは当時の人々の方が大地に根ざした、大地から生え抜いたような生活をしていたことから起こった感覚、ものの見方でしょう。ですから、これを固定的実体として法則化すれば迷信になってしまいますが、人間の認識としてとらえなおせば理解できると思います。

 たとえば「日月清明[にちがつしょうみょう]なり」ということも、人々の心に希望がわいている≠ニいうことに他なりません。逆に以前、讃仏偈では「日月・摩尼珠光[まにしゅこう]焔耀[えんよう]も、みなことごとく隠蔽[おんぺい]せられて、なほ聚墨[じゅもく]のごとし」と法蔵の暗澹[あんたん]たる心境が述べられていましたが、日月清明も皆悉隠蔽も、人間の心境が自然にまで反映していることで譬えているのでしょう。

 こうした人間と自然との密接なつながりは現代人はやや忘れかけているのですが、全く失ってしまったのかというと、たとえば『千の風になって』という歌が皆の共感を得たように、どこか心の奥ではそうしたつながりを確認しているのではないでしょうか

 五戒を遵守する意味をあらためて考える

註釈版
仏のたまはく、「われなんぢら諸天・人民[にんみん]哀愍[あいみん]すること、父母[ぶも]の子を[おも]ふよりもはなはだし。いまわれこの世間において仏となり、五悪を降化[ごうけ]し、五痛[ごつう]消除[しょうじょ]し、五焼[ごしょう]絶滅[ぜつめつ]して、善をもつて悪を攻め、生死の苦を抜いて五徳を[]しめ、無為[むい]の安きに[のぼ]らしむ。われ世を去りて後、経道[きょうどう]やうやく滅し、人民諂偽[にんみんてんぎ]にしてまた衆悪をなし、五痛・五焼[かえ]りて[さき]の法のごとく、久しくして後にうたた[はげ]しからんこと、ことごとく説くべからず。われただなんぢがために[りゃく]してこれをいふのみ」と。仏、弥勒[みろく]に語りたまはく、「なんぢらおのおのよくこれを思ひ、うたたあひ教誡[きょうかい]し、仏の経法のごとくして犯すこと得ることなかれ」と。ここにおいて弥勒菩薩、合掌してまうさく、「仏の所説[しょせつ]、はなはだねんごろなり。世人[せにん]まことにしかなり。如来あまねく[いつく]しみて哀愍[あいみん]し、ことごとく度脱[どだつ]せしめたまふ。仏の重誨[じゅうけ]を受けてあへて違失[いしつ]せじ」と。
現代語版
 釈尊が仰せになる。
「わたしがそなたたち天人や人々を哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。だからわたしは今この世界で仏となって、五悪を打ち負かし、五痛を取り除き、五焼をすべてなくして、善をもって悪を攻め滅ぼし、迷いの世界の苦しみを抜き去り、五徳を得させて、安らかなさとりの世界に至らせるのである。しかしわたしがこの世を去った後には、仏の教えがしだいに衰えて、人々は偽りが多くなり、ふたたびいろいろな悪を犯して、五痛と五焼の報いをもと通り受けるようになる。それは時を経るにしたがってますます激しくなるであろう。そのようすを一々詳しく説くことはできないが、今はただ、そなたたちのために簡単に述べたのである」
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「そなたたちはそれぞれにこのことをよく考え、互いに教えあい戒めあって、仏の教えを正しく守り、決してこれに背くようなことがあってはならない」
 そこで弥勒菩薩は合掌してうやうやしくお答えした。
「世尊はたいへん懇切丁寧にお説きくださいました。世の人々のありさまについては、実に仰せの通りであります。そのために如来は、これらの人々を慈しみ哀れんで、すべてのものをお救いくださるのです。わたしたちもまた、世尊の丁重な教えをいただいて、決して背くことはありません」

 {浄穢欣厭}からここまで続いてきました所謂「三毒段・五悪段」ですが、『仏説無量寿経』の整った体裁をわざわざ崩してまで漢訳されたのは、ひとえに仏の「諸天・人民[にんみん]哀愍[あいみん]する慈悲心が反映された結果でありました。弥勒菩薩もそのことを深く心にとどめ、「あへて違失[いしつ]せじ」と皆を代表して戒めを保つことを誓うのです。

 ご存知のように、三毒は貪欲[とんよく](むさぼり)・瞋恚[しんに](いかり)・愚癡[ぐち](おろか)の根本煩悩であり(参照:{百八煩悩})、「五悪」は、「不殺生戒[ふせっしょうかい](生きののを殺さない)・不偸盗戒[ふちゅうとうかい](盗みをしない)・不邪婬戒[ふじゃいんかい](よこしまな性の交わりをしない)・不妄語戒[ふもうごかい](うそをいわない)・不飲酒戒[ふおんじゅかい](酒を飲まない)の五戒に背くこと(参照:{戒律について})」(『浄土真宗聖典 註釈版』巻末註)であり、また「五痛」は「五悪を犯すことにより、現世において受ける果報。現世の益たる福徳に対する語」、「五焼」は「五悪をなすことにより、来世において受ける果報。来世の益たる度世・長寿・泥オンに対する語」をいいます。

 ところで「五戒を保つ」というと、浄土真宗では得てしてそんなものは自力だ≠ニ[そし]る傾向もあります。また、五戒は小乗仏教で説くもので、大乗の戒律とは違う≠ニ、はなから五戒を保つことを馬鹿にし拒否する人さえいます。
 しかしこれはとんでもない思い違いで、蓮如上人も「しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり」(『御文章』2-7)とその功徳を称えてみえます。
 もちろんすぐ後に「これおほきにまれなることぞかし」と、持戒が[まれ]なことであり、破戒者も捨てないことが阿弥陀の名の由来であることはふまえてみえるのですが、捨てることを勧めているのではありません。むしろみずから励んで十善五戒を行じ、十悪五逆を犯さないように勤めることを勧めるのであって、そこには戒を行じてこそ人間としての本当の暮らしではないか≠ニいう意図が込められています。

 また、戒を保つことは自分の行為を選びとる基本の指針を示したもの≠ナあって、戒を保ったことを条件として人間界に生まれた≠ニいうわけではありません。つまり「これおほきにまれなることぞかし」であってもなくても、簡単だろうが難しいかろうが、戒を保つよう努力することこそ人間として生きる基本であり、念仏者も出家者もその他の宗教もふくめ、人類共通の生活指針であることには変りありません。

 さらには、五戒は小乗戒か大乗戒か≠ニ問う人もいるようですが、本当は戒律自体に大乗戒・小乗戒の区別があるわけではありません。「戒に大小無し。受者[じゅしゃ]心期[しんご]に由る」(『摩訶止観輔行伝弘決』4-1)とありますように、その戒を受ける者がどう自覚するかで、大乗の戒となったり、小乗の戒となったりする≠フです。するとこの荊渓湛然の言葉を浄土教にまで展開すれば、五戒を念仏者として自覚したものが三毒五悪段であり、これを浄土真宗の戒律の基本理念として定めるべきだと思うのですがいかがでしょう。
 こう申しますのは、以前、梯實圓師が――

罪悪性を自身のうちによびさまされた機の深信と、そこから出てくる悪への拒絶性、それに法の深信による本願の真実性へのめざめを通しての真実への指向性ということがあります。要するに本願の信に裏づけられた自律的な生活の誡めとしての戒の精神の復活と、菩薩道への尊崇の念が念仏者の生活をささえていくのではないでしょうか。
{真俗二諦「#新たな提言」}(本願寺出版社/教学シリーズ No.2)
と提言されていて、本来なら恥ずべき浄土真宗は無戒である≠ニいうことを、まるで誇りにしているような現在の教団の悪癖に苦言を呈されていたことが思い起こされるからです。

 以上をふまえ、浄土真宗としての戒を具体的に提言すると――
殺生[せっしょう]によって供養[くよう]を失い、偸盗[ちゅうとう]によって至誠[しせい]を失い、邪婬[じゃいん]によって慈愛[じあい]を失い、妄語[もうご]によって信用を失い、飲酒[おんじゅ]によって自己そのものを失っていた五悪の人生をつねに懺悔[さんげ]し、真実信心の催しによって五戒を行じ、「不殺生戒[ふせっしょうかい](生きののを殺さない)を尊ぶことで供養[くよう]に転じ、不偸盗戒[ふちゅうとうかい](盗みをしない)を尊ぶことで至誠[しせい]に転じ、不邪婬戒[ふじゃいんかい](よこしまな性の交わりをしない)を尊ぶことで慈愛[じあい]に転じ、不妄語戒[ふもうごかい](うそをいわない)を尊ぶことで信用を得、不飲酒戒[ふおんじゅかい](酒を飲まない)を尊ぶことで自己を取り戻し自主的・主体的な人生に転じる、ということになると思います。戒を尊ぶというのは、戒の精神を人生選択の指針として尊び、戒を保ち切ることはできなくても、自らを恥じ、懺悔によって戒の精神を生かすのです。

 以上のように「三毒五悪段」では、三毒煩悩を野放しにさせず五戒を保つことを、具体的な例を挙げて勧めているのですが、これはひとえに「我がままを正す」ために説かれているのです。生まれたままの自分は未熟であり、物事の真実が解らず、すぐに悪い癖に染まってしまいますから、真実からの呼びかけに心をひるがえし、悪い癖を離れる必要があるのです。
 しかし、意識的に三毒煩悩を抑え五戒を保とうとすると、どうしても力が入り過ぎ、法に固執してしまいがち(自力)です。そこで浄土真宗では、本願成就の歴史を聞き開き、仏の功徳を信受し忘れないようにさせていただき、浄土に生まれることを願う%ケを勧めるのです。そしてこの他力一つで仏道を成就させていただくのであり、この本願一乗海[ほんがんいちじょうかい]のうちに五戒を行じる功徳も宿っているわけです。
 そういう意味で言えば「三毒五悪段」は正定聚の菩薩にとっては余分であり、梵語経典では省略もみられるのですが、自らの行く末を鑑みつつ煩悩と破戒の恐ろしさを再認識させていただく段となりますから、私のように鈍感で道心の足らない人間にとっては必要不可欠の導きとなっているわけです。

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