平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
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平成18年7月26日
そう嘆く人たちが大勢いるのではないか。またそう嘆いてほしいと願う。
昨今、重要な立場にある者の言葉が余りにも軽い。たとえば6月22日の福井日銀総裁の「ど素人」発言。口座に1473万円という「たいした額ではない」分配金が振り込まれたことを指摘されての開き直り発言だった。生え抜きの銀行マンが「ど素人」のはずはない。しかし、言い逃れのためとはいえ「ど素人」と自らを評したのなら、日銀総裁の座は降りてもらわなければ困る。ど素人にこの要職は勤まらないからだ。発言は衆院財務金融委員会という公式な場で行われた。「冗談だ」との言い訳は通用しない。
さらに、こうした公的な要職ではないが、「茨城ゴールデンゴールズ」監督の萩本欽一の発言も気になった。やはり軽すぎるのだ。
ご存知の通り、7月16日の深夜、チームメンバーの一人が17歳の少女に暴行をはたらいた容疑で事情聴取され、吉本興業は即解雇を決定。この決定を知って萩本欽一は事態の大きさに驚き、19日、「チームを解散します」と宣言してしまった。その後、存続を求める声が相次ぎ、22日、ファンの声援に応える形であっさり解散を撤回した。詳細が解らぬまま解散を決定し、決定の撤回理由を「みんながやれっていうからやるよ」とファンに責任転嫁した姿勢は実に見苦しかった。
以前、{千と千尋の神隠し}という映画に関して、宮崎駿監督は「言葉は力であることは、今も真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ」と、言葉の重要性が失われつつある事態を嘆いている。発言は容易には撤回できないのがこの社会であるはずだ。またそれを示すことが大人としての教育的な勤めであろう。
言葉の重さにも関連するが、「立場の徳」も重要だ。 社会に生きる者、みな立場を持つ。宗教でいえば、この社会的立場を重要視するか否かで道が分かれる。
「社会的立場に執われず、座を離れた自分とは一体何者であるか」と問い、「何ものでもない私」を発見し、ここを基点として本当の自分を覚る道が「聖道門」である。その覚りは「霊性的自覚」と言われているが、いわゆる「自分探し」と言われるものもこれに当たるだろう。
この「聖道門」や「霊性的自覚」を特殊な覚りと批判し、社会的な覚りを重要視する道が「浄土門」である。この覚りを「場所的自覚」という。蓮華の華の
日銀総裁なら総裁の座がその立場にある人を育てる。笑いの大御所ならばその座が人を育てる。親という座、役職としての座、職業の座。みな社会的・家庭的な座の徳に恥じぬように生きようとすることで「お育て」にあずかることができるのだ。
こうした座の徳を自覚しなければ、座の華は閉じ、自らの場が見えず、自らの言動を省みて懺悔することも適わない。
(参照:{「蓮莟を模す」の間違い})
ところが現実には、この立場の徳に無自覚な大人が多すぎる。大人が無自覚であれば、子どもはなおさら無自覚になる。
本当は、座は名に集約され、その名の徳を褒め称えることが重要なのである。称名念仏ならば、仏の名をほめることは仏の徳をほめることであり、それはその徳のはたらきが回向されたことに他ならないのだ。
「浄土門」に生きる私は、この「場所的自覚」に自らの言動を映し、深く懺悔し、座の徳の回向を謹んで引き受け生きていこうと願っている。