平成アーカイブス <旧コラムや本・映画の感想など>
以前 他サイトに掲載していた内容です
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平成21年12月15日、教学伝道研究センター「念仏者の生活実践の展開」に関する検討会 編集のもと、新「食事のことば」解説が発行されました
それによりますと<浄土真宗本願寺派>では、今後「食事のことば」を――
(食前のことば)
〔合掌〕
● 多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
同音: 深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
(食後のことば)
〔合掌〕
● 尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
同音: おかげで、ごちそうさまでした。
改編された理由については、以下のように述べてあります。
- 新「食事のことば」の制定について
- このたび宗門より、新しい「食事のことば」が制定されました。新しい「食事のことば」を提案する理由は、現代日本の食を取り巻く環境、ならびに食に関する意識を勘案したこと、また従来の「食事のことば」が現代人の感覚から誤解を招きそうな危惧があることなどによります。けれども従来の「食事のことば」は、すでに宗門内で定着しておりますし、決してそこに大きな問題があるわけではありません。そのため従来からの変更は最低限度にして、唱和部分は変わっていません。
- 「食事のことば」の意義
- 「食事のことば」をつねに自ら声に出すことによって、食事はただ漫然と食物を摂り、栄養を補給するものではなく、目の前の食事には、そこまでに至る大きなおかげとめぐみがあることに気付きます。そこのとによって、ものの本当の価値を見出す人間性が養われていくことになることでしょう。(以下略)
これに関連するかどうか解りませんが、以前縁あって『在家佛教』という月刊誌を読ませていただいたのですが、中で気になる文章がありました。(旧サイトで指摘)
本願寺派の「食事の言葉」に、現ご門主が以前ご不満を述べられたことがあります。その食前の言葉は、
み佛と皆様のお陰により、この御馳走を恵まれました。深く御恩を喜び、有難く頂きます。
と言います。これは、自分が食べられることへの感謝であって、食べることの出来ない飢えた人々への思いはありません。言わば自己中心です。
阿弥陀佛の四十八願の第二十三願は、
浄土の人々は、一食ごとに十方を供養する者と成らしめたい。
という内容ですから、自分の幸せを感謝するのみの言葉は、佛の願いに随順していないことになります。
禅宗の食前作法に、「最初ご飯粒若干を膳の縁に置き《衆生と共に》と言う心を示す」ということがあると学んだことがありますが、それが阿弥陀さまの心でしょう。
「カンボジアは、ポルポト政権によって何百万人もが虐殺され、子供たちは筆記具もなく、飢えている」
と聞かされた時、恵まれた日本が、ただ感謝のみでよいのか、愛山護法のみでよいのか、と問題提起された一端が、《食前の言葉》批判となったのでしょう。
『カンボジアとベトナム』波佐間正己/在家佛教 十二月号(2002) より
スタイルやコレステロール値や体脂肪率を気にしている私たちには誠に申し訳ない内容ですが、ご門主(前門主)の「食前の言葉批判」はこの時初めて知りました。問題となった食前・食後のことばを全て掲載してみると――
<浄土真宗本願寺派 2>
食事のことば
(食前のことば)
〔合掌〕
● み仏と、みなさまのおかげにより、このご馳走をめぐまれました。
同音: 深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。
(食後のことば)
〔合掌〕
● 尊いおめぐみにより、おいしくいただきました。
同音: おかげで、ご馳走さまでした。
となっていて、食後のことばにも十方供養はでてきません。
ところで、上記の「食事のことば」ができる以前は――
<浄土真宗本願寺派 3>
(食前のことば)
● われ今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵とにより、この美しき食を饗く[ウルワしきショクをウく]。
一同: つつしみて食の来由を尋ねて味の膿淡を問わじ[ショクのライユをタズねてアジのノウタンをトわじ]。
つつしみて食の功徳を念じて品の多少を選ばじ。「戴きます」
(食後のことば)
● われ今、この美わしき食を終りて、心ゆたかにちから身に充つ。
一同: 願わくは、この心身を捧げておのが業にいそしみ、誓って四恩にむくい奉らん。「御馳走さま」
ととなえ、昭和時代の得度習礼等では主にこちらを使用していました。
しかし、意味を考えれば「味の濃淡」と「品の多少」は本来逆で――
つつしみて食の功徳を念じて味の膿淡を問わじであるべきでしょう。
つつしみて食の来由を尋ねて品の多少を選ばじ。
ちなみに天台宗の食事のことばは――
<天台宗>
(食前のことば)
われ今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵によって、この清き食を受く。 つつしんで食の来由[らいゆ]をたずねて、味の濃淡を問わず、その功徳を念じて、品の多少をえらばじ。 いただきます。
(食後のことば)
われ今、この清き食を終りて、心ゆたかに力身に充つ。 願わくは、この身心を捧げて己が業にいそしみ、誓って四恩に報い奉らん。 ごちそうさま。
となっていますが、本願寺の間違った言葉が訂正されずそのまま他宗門にまで感染してしまっているのは残念なことです。
いずれにしても「一食ごとに十方を供養する」ほどの内容とはなっていませんが、「四恩にむくい奉らん」の中に衆生も入っていますので(四恩:父母・国王・衆生・三宝の恩『大乗本生心地観経』)、まだ以前の方が仏願に随順していたということになります。
気になったので他の宗旨についても調べてみると、浄土宗では――
<浄土宗>
(食前のことば)
われここに食をうく、つつしみて、天地の恵みを思い、その労を謝し奉る。(または「みひかりのもと、今、この浄き食を受く。つつしみて、天地の恵みに感謝いたします」)南無阿弥陀仏(十念)いただきます。
(食後のことば)
われ食を終りて、心豊かに、力身に満つ。おのがつとめにいそしみて、誓って、御恩にむくい奉らん。南無阿弥陀仏(十念)ごちそうさま。
となっていて、「御恩にむくい奉らん」と入っていました。その他の宗旨宗派を見ても、大抵「報恩」の意は入っているようです。
そういう意味では、「十方を供養する」や「御恩に報いる」が全く入っていない現在の本願寺派の「食事のことば」は、やはり言葉足らずというほかありません。
もちろん第二十三願における「一食」が、単純に「食事の時間」を示すものではないようですが({供養諸仏の願} 参照)、「日常生活の中で全人類を念じる」ということを顕す願であることは確かなようです。そして文字通り、食事の際に食べることのできない人々を思うことは、本願に随順する念仏者としては勤めとしたい習慣です。
ところで、先の「禅宗の食前作法」ですが、詳しく調べてみると、確かに<生飯七粒を膳の脇に供へる>という作法がありましたが、「形の食よりも法の上の食」ということが本意のようです。
<禅宗等> (宗旨宗派の違いによって多少作法が異なるが、おおむね以下の通り)
(食前: 先ず始めに般若心経を読み、続いて「十佛名」を読む)
(註:臨済宗では十佛名だが、曹洞宗では十一佛名の場合もある。また『禪林象器箋』には「西方無量寿佛」と「大智勢至菩薩」の二句が加わって十二句となっている)
(和訳:粥[かゆ]に十利[じゅうり]有り、行人[ぎょうにん]を饒益[にょうやく]す。果報[かほう]は無辺[むへん]なり、究竟[くきょう]じて常に楽なり)
なお、「粥是大良薬[しゅくぜだいりゃうやく] 能除饑渇消[のうじょきかつしゃう] 施受獲清凉[せじゅぎゃくしょうりょう] 共成無上道[ぐじゃうむじゃうだう]」と唱えることもある。
(和訳:三徳六味あり、佛及び僧と、法界の有情とに施して、普[あま]ねく同じく供養せよ)
なお、「施者受者[せしゃじゅしゃ] 倶獲五常[くぎゃくごじゃう] 色力命安[しきりきめうあん] 得無碍辨[とくむげべん]」と唱えることもある。
(和訳:汝等[なんじら]鬼神衆[きじんしゅう]、我れ今、汝に供[く]を施す、此[こ]の食[じき]、十方に偏[へん]じて 一切の鬼神に供へよ)
(この偈は、「散飯[さんば]の偈」・「出生[しゅっせい]の偈」・「佛勅[ぶっちょく]の偈」ともいう)
(文義)より: 抑[そもそ]も是れ等の悪鬼邪神が正道を障碍[しょうげ]し、佛法を破壊するのは、正道を知らないからである。有り難い佛法の道理を知らないからである。即ち食に餓[う]えたるが如く、法にも餓えて居るのであるから、ここに食を施与すると云ふて、その内面には法門を施与すると云ふ意味がある。即ち我れ今、汝等に此の供養を施すと云ふて、形の上では僅[わず]かに七粒の生飯を供養するのであるけれども、その心は法門の上の食である。故に此の食は十方に偏じて、一切の鬼神に供養すと云はれたのである。即ち、形の食よりも法の上の食へと云ふ意味がある。
漢文:
一計功多少量彼來處
二忖己徳行全欠應供
三防心離過貪等為宗
四正事良藥為療形枯
五為成道業應受此食
意訳:
一には、農民の非常な苦心を思い、どうしてこの米が出来たか、その依って来るところをよく考え量らなければならない。
二には、自己の徳行が完全か欠けているか反省し、受けるに足る自分であることをはかって供養に応じよう。
三には、悪心を防ぎ、貪欲[とんよく]など三毒のあやまちを離れることが肝要である。
四には、正に良薬として食物をいただき、肉体の衰えを防ぐために栄養をとるのである。
五には、仏道を成就し人格を完成させるために、まさに今この食事を受けよう。
出典:
『釋氏要覧[しゃくしようらん]』にあるが、他に『四分律行事鈔[しぶんりつぎょうじしょう]』『禪林象器箋』『日用規範』にもほぼ同様の文がある。
(和訳: 一口には、一切の悪を断ぜんが為めなり、二口には、一切の善を修せんが為めなり、三口には、諸[もろもろ]の衆生を度し、皆と共に佛道を成ぜんが為めなり)
(食後)
(和訳: 我が此[こ]の洗鉢[せんばつ]の水は、天の甘露味[かんろみ]の如[ごと]し、鬼神衆[きじんしゅう]に施與[せよ]して、悉[ことごとく]く飽満[ほうまん]を得[え]せしめん。オン 摩休羅細 娑婆詞
(和訳: 若[も]し粥[かゆ]を喫[きっ]し已[おわ]らば、當[まさ]に願うべし、衆生、所作[しょさ]みな辨[べん]じ、諸[もろもろ]の佛法を具[ぐ]す。
(和訳: 飯食[ぼんじき]を訖已[おわ]って色力[しきりき]充[み]つ 威[い]を十方[じっぽう]三世[さんぜ]に振[ふる]ふて雄[いさ]む、因を回[めぐ]らし果[か]に轉[てん]じて、念に在[あ]らず、一切衆生神通[じんづう]を獲[え]ん
『禪宗聖典講義』伊藤古鑑 著/森江書店 より
食事の前後にこれだけの作法があるのですから、とても在家の者には実行できませんし、禅僧に聞いても「修行してる間だけですよ」という話ですから、驚くほどのことではありませんが、「念仏はあらゆる善・功徳をそなえている」とお示しがあるのですから、禅宗において説かれるこうした内容も含まれていることを忘れてはならないでしょう。
浄土真宗の教団としては、少しでも如来の願意を反映させ、短いながらも諸仏供養を現わす形や言葉を模索すべきではないでしょうか。
▼ 参考資料
<真宗興正派>
(食前のことば)
一粒一滴みなご恩 不足を言ってはもったいない 感謝でおいしくいただきましょう いただきます
(食後のことば)
今尊い食を終わって 心豊かに力身に満ちる この心身をもって おのが業に励みましょう ごちそうさまでした
<真宗仏光寺派>
(食前のことば)
わたくしたちは、今この食膳に向かって衆恩の恵みに深く感謝します。 味と品の善悪を問いません。 いただきます。
(食後のことば)
わたくしたちは、この美しい食を終わって、大いなる力を得ました。 この力を報恩の行業にささげます。 ごちそうさま。
<真言宗>
(食事合掌)
一滴の水にも天地の恵みがこもり 一粒の米にも万人の苦労がかけられています
一つ 私達は天地自然や あらゆる人々の恩恵によって生かされていることを感謝いたします
二つ この食事をいただくに値するよう 人の為め世のため良い行いをしているか反省します
三つ 過ちや不幸の根元である 貧りや 瞋や 愚痴を捨てます
四つ 心身の飢渇をいやし 生命を保つ良薬と思い 食物の不平を言いません
五つ 仏の道に精進し 円満な人格を作ります
いただきます
(食後合掌)
今有難き食を受く 心身をいたづらに浪費することなく 世の為め人の為め活動せん ごちそうさま
食事略作法(正座合掌)
(食前のことば)
一粒の米にも万人の苦労を思い 一滴の水にも天地の恩徳を感謝し有り難くいただきます
(食後のことば)
今すでに有り難き食を受け力身に満つ 願わくば身を養い心を修め報恩の道にいそしみます ごちそうさまでした
[Shinsui]