平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

浄土真宗の基本

仏事の意味と教えの基本

質問:

浄土真宗の事、何も知らないので、基本的な最低限知っておくべき事を教えてください。
他の教との違いや、スローガンみたいなものを。

返答

<浄土真宗について、簡単に説明することができたら>ということは、常々考えていますので、いただいた問いは我が意を得た質問ということになります。しかし、学べば学ぶほど奥が深い教えであると感嘆し、また、単純化した説明や他の教えとの違いを強調することによって、いたずらに誤解を与えかねない事実を知り、その難しさを日々認識するようになりました。

 そうした懸念もありますが、浄土真宗の教章と、仏事や浄土真宗を学ぶ心得を先に示し、そうした上で基本的な教義についてご説明させいただきたいと思います。

◆ 浄土真宗の教章(きょうしょう)

「浄土真宗」もしくは「真宗」と呼ばれるものは宗旨であり、念仏を中心に親鸞聖人を宗祖と仰ぐ人々の宗門の総称です([宗名問題 「浄土真宗」と「真宗」について] 参照)。
 浄土真宗には主に十の組織があり、それぞれ影響を与え合いながらも独自の発展を遂げてきました([真宗教団各宗派の分れた理由] 参照)。

 真宗教団連合には、現在、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、真宗高田派、真宗佛光寺派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門派、真宗山元派が参加しています。

「基本的な最低限知っておくべき事」という問いですが、私どもは浄土真宗本願寺派の組織ですので、まず教章を紹介します。

宗名〔しゅうめい〕
浄土真宗本願寺派(西本願寺)

宗祖
見真大師 親鸞聖人〔けんしんだいし しんらんしょうにん〕(西暦1173−1262)

経典
浄土三部経
  • 仏説無量寿経〔ぶっせつむりょうじゅきょう〕(大経)
  • 仏説観無量寿経〔ぶっせつかんむりょうじゅきょう〕(観経)
  • 仏説阿弥陀経〔ぶっせつあみだきょう〕(小経)

教義
南無阿弥陀仏のみを教え信じ、必ず仏にならせていただく身のしあわせを喜び、つねに報恩のおもいから世のため人のために生きる。

宗風
宗門は同信の喜びに結ばれた人びとの同朋教団(どうぼうきょうだん)であって、信者はつねに言行をつつしみ、人道世法を守り、力を合わせて、ひろく世の中にまことのみ法をひろめるように努める。また、深く因縁の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない。

以上 昭和四十二年制定の「浄土真宗の教章」


※ 平成二十年四月十五日、新しい教章が制定されましたので追加掲載します。
浄土真宗の教章(私の歩む道)
宗名
浄土真宗
宗祖
親鸞聖人(ご開山)
ご誕生:承安[ジョウアン]三年四月一日(1173年5月21日)
ご往生:弘長[コウチョウ]二年十一月二十八日(1263年1月16日)
宗派
浄土真宗本願寺派
本山
龍谷山[リュウコクザン] 本願寺(西本願寺)
本尊
阿弥陀如来(南無阿弥陀仏[ナモアミダブツ]
聖典
・釈迦如来が説かれた「浄土三部経」
 『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』
・宗祖 親鸞聖人が著述された主な聖教
 『正信念仏偈』(『教行信証』行巻末の偈文)
 『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』
・中興の祖 蓮如上人のお手紙
 『御文章』
教義
阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。
生活
親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。
宗風
この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。それによって、自他ともに心豊かに生きることによってできる社会の実現に貢献する。

◆ 仏事について

 仏事は上記の教章など教えにもとづいて勤めます。浄土真宗は仏教の本道ですから、まずは私や一般社会の迷妄を打ち破ることを基本としています。そのため、一般で伝えられる「仏事の常識」とは食い違う点が多々あります。もっと言うと、一般作法とは正反対の場合もありますが、これは宗教的な動機が違うから起こることです。

 どういうことか、具体的に述べてみましょう。

仏事は追善供養ではない
 仏事というのは、私が本当の私に出会い、本当に依りどころとなる心をいただき、厳しい人生を生き抜いていく力を得ることを、日常の習慣として行なうことを言います。
 具体的には、仏壇などを荘厳し読経することで、如来の願いや真実の心を学び、自身の生き方を反省し懺悔していくのです。
 ですから仏事は、先祖を追善供養(善徳の低い先祖に善を追加)するのではなく、先人たちのご苦労を思いやり、人生を生き切る力の根源を求めていくのです。
 また、ご先祖様方々を仏として仰ぐのが本当の先祖供養ですから、追善はもはや必要ありません。供養は尊敬する心が形になったものですが、「追善」は得てして自分が先祖より上に立つような思い上がりを生みますので、供養の本質から外れてしまう危険があるのです。もし今、私が一時でも善を行なうことができるのであるなら、それは「ご先祖様のお陰である」とも言えるでしょう。
 しかし、ご先祖様も、私たち同様、罪悪を繰り返し、迷いの人生を送られたのかも知れません。それでもご先祖様を仏としてたたえていけるのは、<あらゆるいのちとともに歩まれる仏>・<あらゆるいのちを決して見捨てない仏>・<あらゆるいのちを仏に導く仏>のお陰でしょう。そうした「お陰」が私にも注がれ続けている、ということに気付くと、あらゆる先人たちがご先祖様であり、あらゆるいのちが同朋であり、すべてのいのちの奥に、根源的な救いの光を仰いでいけるのです。
「南無阿弥陀仏」は、そうしたいのちの奥底から発せられる声であり、同時に私の生活とともに生きる仏そのものなのです。

仏壇は浄土(無量光明土)荘厳の雛型 ([仏壇の荘厳(飾り方)] 参照)
<私たちを目ざめさせ、必ず救う>というはたらきの正体は、元々は色や形を超えた普遍的・根源的なものですが、私たちが気付くようにあえて、「阿弥陀仏」とも、「尽十方無碍光如来」とも、「不可思議光如来」とも名を名のって下さるのです。この仏・如来を仏壇の中央に安置し、本尊とします。そして仏壇全体は、この仏・如来のはたらきが成就した姿を表現しているのです。
[釈尊と阿弥陀仏の関係(仏像のモデル)] 参照)
 阿弥陀如来の光明は無限ですから、浄土は無量光明土であり、仏壇も光明あまねく様子を表現するため金を多く用いるのです。また、浄土は芳しい香りが漂い、美しい音色が聞こえ、光輝く華で満たされ・・・という経典の表現をできる限り現わすのが仏壇であり仏事です。(もちろん経済事情に合わせて荘厳してくだされば結構です)
 具体的な仏壇の荘厳は、まず正面中央に御本尊(阿弥陀仏の絵像か木像か「南無阿弥陀仏」を安置し、向って右脇には宗祖親鸞聖人のご影か「帰命尽十方無碍光如来」の掛け軸、左脇には蓮如上人のご影か「南無不可思議光如来」の掛け軸を奉懸(ほうけん)します。
 仏飯は毎朝供え、昼前には引きます(引いた後は食べて下さい)。朝にお供えできなければ、炊いた時に供えて下さい。
 法要などの際の供物(くもつ)は作法上、餅、菓子、果物が重んじられています。また不殺生のお心をうかがい、肉魚などの生臭ものは一応は避けますが、お供えされる方があれば受け入れて下さい。
 水は華瓶(けびょう)と呼ぶ一対の容器(一見小型の花瓶に見えます)に入れ、樒(しきみ)をさして上卓(うわじょく)に供えます。お茶は供えません。
 前卓(まえじょく)には、右にロウソク、左に花瓶(かひん)、香炉(こうろ)は中央に供えます。ロウソクなどの灯明は電気式でも構いません。花はとげや毒やつるのあるものは避けて下さい。香炉に線香を供える際は、短く折って火をつけ、横にして供えます。途中で線香が消えてしまう場合は、抹香(刻んである香)を香炉の表面に薄く敷き詰めておくと線香が消えません。
[お香(線香)について] [ろうそくの色について] 参照)
 法要・法事等で焼香する場合は、種火(焼炭等)が香炉に入っていますので、香を1回だけつまんで焼香し、合掌・称名念仏(南無阿弥陀仏と数度となえる)・礼拝(身体を45度倒す)の順で行います。余程のことがなければ、なるべくゆっくり丁寧に行なって下さい。なお、香は本来自分で持参するものですから(実際には施主が用意するのですが)、額におしいただくことはしません。
 仏壇の中には、他宗派のお札やお守りは置きません。位牌も原則としては用いません(一部地域ではやむなく使用していますが)。故人の法名は過去帳に記入し、過去帳台に乗せて仏壇の下部に閉じて置き、命日には開いてお勤めします。なお、浄土に縄張りが無いのと同様、仏壇に置く過去帳には、姓が違ってたり、血縁の薄いご先祖様(血縁は全人類にある)の法名を書いても、全く問題はありません。

迷信ではなく正信
 宗教は「私が何かを信じること」というとらえ方が一般的ですが、むしろ<信じるに値しないものを見抜き、捨て去る>というところから正しい信心が導かれるのです。
 ですから、六曜などの日柄を気にせず、方角に吉凶を当てはめず、仏壇や墓に関する世間の迷信などにこだわらず、人を差別したり権威を崇めたりする間違った教えを信じることなく、正しく万人に開かれた平等の法を求めていきましょう。正しい法は、破綻なく誰もが肯いていける道を示しています。
 ですから、<この法が果して現実に世界中の人びとに光明を与え得るのか>という視点を忘れず、また<私自身は本当にこの道で一生を貫き通せるのか>という問いを持って教えを学び続けてください。とことん疑った先にこそ、疑いようのない本物の道が開けてくるのです。
 仏教に一貫して流れている心は、真実の生き方を求める心・「菩提心」です。浄土真宗では信心を「大菩提心」と呼びますが、これは真実の側から私に呼びかけてくださる心だからです。またこれを「金剛心」とも呼びますが、これは絶対に壊れない心という意味です。「南無阿弥陀仏」はこの真実の心と私が一体となった(機法一体)名のりであり、私がお受けする言葉なのです。


◆ 基本的な心得

「もう少し教えについて詳しく勉強したい」ということでしたら、以下、その心得について述べてみます。

念仏は仏教そのもの
 浄土真宗は仏教における一つの宗旨ではありません。仏教の究極・本質が念仏(南無阿弥陀仏)として名のり出られた、その事実をありのままに受け入れたのが浄土真宗なのです。ですから、ご質問にありますような「他の教との違いや、スローガンみたいなもの」ということにこだわり、浄土真宗を一つの思想として固定すると、仏教の縄張りの単なる一区画に堕してしまいます(事実、こうした狭い教学も横行していますのでご注意を)。ですから、教えを学ぶ時はむしろ他の教えとの共通点に注目し、<その本質・究極がどこにあるのか>を探ることが重要です。そうすれば、まだ念仏が称えられていない経典でも、その奥に声として出る以前の念仏の精神が、マグマのように噴出す時を待っていることに気付くでしょう。もっと言いますと、念仏はあらゆる世界でその本質として存在しているのです。その究極・畢竟を浄土経典では<如来の本願が成就した果ての名のり>として「南無阿弥陀仏」と顕しているのです。これは本願力回向の心ともいいます。

念仏は生きることを解決する教え
 仏教は「生死出ずべき道」ということで、死の問題を含めて解決を目指すのですが、死の問題と四つに組んで思索したり修行したり学ぶのではありません。あくまで生きる問題を解決することが主眼であり、その結果として死の問題も自ずと解決するのです。逆に死の問題が解決しても、生の問題は解決しないことも多々あります。大乗仏教はその点を強調し、その極みである浄土真宗は、人類の歴史をふまえ、社会の責任を果す中で、いかに生き甲斐を見つけ、死んでも悔いの残らない人生を創造していけるか、を教えるのです。浄土真宗で最も重要な経典は『大無量寿経』ですが、この経典の異訳には『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏壇過度人道経』ともあり、『過度人道経』ですから、まさに人が苦の現実を乗り越えて生きていく道を説いた経典なのです。

『歎異抄』はひとまず閉じて『教行信証』を
 近年、親鸞聖人の思想を学ぶ機会の中で、よく用いられているのが『歎異抄』ですが、この書は説明が不充分で誤解を招きやすく、初心者が読むには適さない書です。勿論、この書によってご縁をいただいた方は大勢みえるのですが、この書は劇薬と同じで、処方を間違えたり、人によっては毒ともなります。恥を話すようですが、私自身もこのために教えを誤解し、長く聖人の真意を見誤ってしまいました。できましたら、『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を中心に教学を学んでいただきたいと思います。[本願寺出版社] では、現代語版が出版されていますので、少し長い書物ですが、急がば回れで、説明が丁寧ですので、ぜひこちらを中心に学んで下さい。

教えを鵜呑みにしない
『蓮如上人御一代記聞書』(79)には、「噛むとはしるとも、呑むとしらすな」という諺を引き、教えを噛みしめ味わうことの重要性を伝えています。教えを鵜呑みにすることは避けるべきだ、ということでしょう。これには別の解釈もありますが、教えのスローガン的なことも、既成事実として固定してしまうと、そこから抜け出せなくなります。たとえば、『二種深心』ということも、自身や人々を「罪悪生死の凡夫」と鵜呑みにして、それを実体化・固定化としてしまうと、人類の歴史も、現在の私も、未来も、単純化した闇黒に塗りつぶされ、努力は虚しく朽ち果て、思索は断絶してしまいます。これでは浄土真宗どころか仏教でさえありません。よくよく教えを噛み締めて真意を探り、私と仏法との深い因縁を喜ぶことが肝心でしょう。

 以上のようなことも含め、以下、梯實圓師の言葉を紹介させていただきます。

 真に人間を超えた不可思議なるものに触れた人は、自己のはからいを打ち砕かれながら、逆に限りなく思索を促され続けるものである。如来とは完全に思慮分別(虚妄分別)を超えた不可称・不可説・不可思議なるものに名づけた名であるが、それは不可称なるがゆえに無限に称讃し続けられるものであり、不可説なるがゆえに、無限に説き続けられるものであり不可思議なるがゆえに、無限の思議を信心の行者に促すのであった。不可思議なるものを思議し続ける勝れた教義書には著者の思いをも超えた真実が宿るものである。それゆえ個人を超えた普遍性と、歴史を超えた永遠性を獲得するのである。
<中略>
 しかし教義学は単なる聖典の解説に止まってはならないし、論理的整合性だけを求めるものであってはならないであろう。理性を無視するものであってはならないが、理性を正邪の判定者とするような単なる合理的な体系であってはならない。教義書がそうであったように教義学を律するものも信心の智慧なのである。また教義学は、過去の遺産を学ぶだけの学問ではない。仏祖の教えを学ぶことを通して与えられた智慧に導かれながら、私どもが現実に直面している歴史的・社会的なさまざまな問題と呼応し、実践的に応答していくような学問でなければならない。

梯實圓 著『教行信証の宗教構造』序文 より

 以下、教えの一端をご紹介しましょう。

◆ 現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)

 もし、「浄土真宗の教義を、ひとことで述べてみよ」と問われれば、『現生正定聚』を外すことはできません。
 親鸞聖人以前の日本における浄土教の立場では、臨終に浄土に往生するまでは、正定聚の益を得ることはないとされていました(当益)が、入念な経論の解釈と、聖人自らの証によりこれをくつがえし、現生の益、つまり、生きて信心をいただく者の益であることを明らかにされました(※↓資料1参照)

 つまり、念仏を喜ぶ者は、生きているうちに、すぐにでも大乗の正定聚の位に入ることができる――この真実の側・覚りの側からの道理を受け入れ、現実に私の中でその功徳が展開されることを味わっていくのが念仏者の営みです。そして、そうした正定聚の生活は、心は既に浄土に根が張っていますので、ふたたび元の迷いの道に戻ることはありませんから、「不退転の位」とも言います。勿論、私たちは日々罪悪と迷いの中で生活しているのですが、その罪悪を見抜く心の眼が育てられ、念仏によってひと時ひと時の懺悔となり、迷いが如来の徳に転じられていくことを味わえる。ゆえにそれは臨終においては滅度としてたたえられる道なのです。(※↓資料2参照)
 これは、梯実圓師もおっしゃるごとく、<本願を信じ、南無阿弥陀仏を身にいただいた信心の行者は、今生の「いのち」の尽きるまでは煩悩具足の凡夫であり続けるが、阿弥陀仏が悟り極められた無量の徳が与えられている>ための益なのです。
(参照:{正定聚・不退転の菩薩について}

◆ 平生業成(へいぜいごうじょう)

 前の現生正定聚とも重なりますが、真実浄土の業(行為)は、臨終ではなく平生(日常生活)において定まる(果される)、ということが教えの主旨です。一般常識で言われている<臨終において如来や菩薩のお迎えをたのみとして往生する>というのは「仮の教え」です。なぜこのような仮の教えがあるかというと、臨終まで真実仏法のご縁をいただく機会が無かった人のために、最期の勧めとして説かれるためです。普段から真実浄土の教えを聞き開き、教えを喜ぶ人には、このような儀式は必要ではありません。
『親鸞聖人御消息』1 有念無念の事(※↓資料3参照)には、「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」と顕されています。
「選択本願は浄土真宗なり」の「選択」とは、私の選択を超えた如来の選択によって、浄土の徳が私にふり向けられたことを言います。
「定散二善」の「定善」は、現代風に言えば、<集中力を高め、イメージトレーニングによって浄土往生を果す>ということです。
「散善」は、<私が善を行なった功徳によって往生を果す>ということです。
 これらはどちらも生きていく上において必要なことで、<集中力も善を行なう意志もない人生>というのは、実に空虚な一生と言わざるを得ません。定散二善による覚りは、その極限と継続において果されていくのですが、これを覚りの境地まで高めて実行するには、余程の好環境と、いかなる状況でも崩されない強い心が必須となります。この心は私が一人で起こせるものではありません。

 こうした定散二善は表面的な善で、実はその奥に善の本質が隠されています。ですから表面にとらわれ留まることなく、隠されている深い心に気付くことが大切で、これが<如来より選択されふり向けられた心>であり、この心に肯くことを「真実信心」と言います。私が無理に信じているのではありません。肯かざるを得ない深い心のありさまを知らせていただくのです。
 先の『親鸞聖人御消息』には、「信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり」とありまして、同じ心を複数の表現を用いて示して下さっています。どれも私の起こせる心ではないのに、いつの間にか私とともに歩まれている心、と味わうと、まさに「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」ということが肯けます。また定散二善は、信心が定まった後、如来の心の展開として学ぶことは大切だと思います。

◆ 機法一体(きほういったい)の南無阿弥陀仏

「南無阿弥陀仏」という名号・念仏は、便宜上「南無」と「阿弥陀仏」に分けて考えることができます。「南無」とは、私とともに苦難を背負って歩まれている仏で、「阿弥陀仏」とは、人類の普遍的永遠性の命題を背負って歩まれている仏です。この二つの仏は別々に存在しているのではなく、実際には一体なのです。
 なぜなら、南無の仏は阿弥陀の仏の普遍的永遠性の裏付けがあって真実のはたらきとなり、阿弥陀の仏は南無の仏あってこそ現実にはたらき場を見出せるのです。別の言い方をすれば、「南無」は「自灯明」であり、「阿弥陀仏」は「法灯明」でありましょう。
 また、「名号」とは、仏の側からの名のり・呼びかけとしての南無阿弥陀仏であり、いただいた南無阿弥陀仏を、私の側から称えた声を「念仏」と呼ぶのです。ですから、いずれも如来の先手であることが分かります。
 つまり、私が背負っている人生の問題は、すべてのいのちが背負う問題と密接な関係があり、<どんなことがあっても私は見捨てらることはない>という真実の声が南無阿弥陀仏なのです。そしてこの声とともに、全てのいのちを慈しむ心が喚起されるのですが、それは今まで私が無道にも無視してきた自他のいのちを、懺悔とともに尊く仰ぐ場でもあります。
 なお、[機(闇)と法(光明)どちらを先に観るべきか?] に書きましたが、そうした懺悔について、私の側から先手で「罪悪生死の凡夫」と観たものは絶望でしかなく、如来のはたらきを仰ぐことが先でなければ本当の懺悔にはなりません。どういうことか分からず、またどちらでも良いような気がされるかも知れませんが、非常に重要な点ですので、まずは頭の片隅にでも置いておいて下さい。

◆ 本願他力・他力本願

 念仏は、自分で考え出した浅知恵と違い、普遍性・永遠性を持った真実の法の名のりですから、いのちの根本の願い、つまり本願がそのはたらき場を見出す法でもあります。先の浅知恵から発する行動を「自力」と呼び、それに対して、いのちの根本の願いから発するはたらきを「他力」と呼びます。
 ただし、[仏教で言われる「自力」とは] に書きましたが、仏教でいう「自力」は、本来「他力」に根ざしているものです。「他力」は、限りない真実の願いが光明としてはたらいたものであり、それは限りある「自力」をも包み込んで、願いを成就させていくのです。「自力」も元を正せば「他力」であり、釈尊も本願他力のはたらきにより成仏された訳です。
 ただ、教えや修行法が硬直化したり教条主義に陥ってしまうと「自力」から抜け出せなくなります。普遍的で、しなやかな心を持って当らねばならないはずの宗教ですが、人や組織は容易に固定化・実体化の罠にかかってしまいます。浄土真宗も他力を標榜しながら、他力を固定化・実体化してしまえばすぐにでも自力に堕してしまいます。
 その結果が、現在、一般社会で誤解・誤用されている「他力本願」でしょう。「他力」には本来<他人のふんどしで相撲を取る>ような意味合いは全くありません。ライバルチームが負けて転がり込んだ優勝を「他力」と呼ぶのは誤用以外の何ものでもありません。
「他力」は「金剛力」であり、決して壊れない求道心をいいます。もっと言えば、崩されれば崩されるほど、自力の踏ん張りが破れ、他力の本道が明らかになってゆくのです。

 他力の誤解は、マスコミ等に甘えとして広がっている宗教や歴史に対する無知が原因です。しかも何度指摘しても「言葉は生きものだから」という日本語に対する無責任ぶりと啓蒙を放棄した姿を見せ付けられます。こうした現状には辟易させられますが、誤解を許してしまった以上、浄土真宗の僧侶・信徒自身にも、先のような<自力に堕したような「何か」原因があるはずだ>と猛反省すべきかも知れません。
(参照:{「他力本願」は、他人の力に依存すること?}

◆ 自然法爾(じねんほうに)

 如来のはたらきが、私に、そして社会に展開されることについては、上記のように本願他力のはたらきですから、「私たちの努力で法が広がるのではない」という領解(りょうげ)・味わいを持つべきです。
 親鸞聖人は『自然法爾の事』(※↓資料4参照)の中で、「行者のはからひにあらず」と何度も述べられ、「如来のはからい」・「法のひとり歩き」であることを明らかにされてみえます。
 ただし、「人の側のはからいではありません」とか、「義の捨てられていることが義である」とか、「元来そのようにさせる」と言いましても、「私がそのままでよい」ということの意味を取り違えると、法が固定化して干からびてしまいます。

ちがうことは言うじゃない
このままとはちがいます
言葉はよいが胸に自力の根がのこる
はやくご縁にあいなさい

(浅原才市)

 自然[じねん]なのは、如来の願いの自然なる活動をいいます。本能のまま振る舞ったり、何の慚愧もしないそのままの姿が自然なのではありません。「つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし」との注意は忘れてはならないでしょう。
 法は人によって広まります。人の努力は必須なのです。如来の願いに順じてゆく努力は大変な苦労を伴います。ただ、その苦労を本願力自然の活動と見抜くところに他力の味わいがあります。
 これによって、思い上がる心や努力を誇る心を反省し、我執が打ち砕かれてゆく。すると、法の純粋な展開が期待できるのです。
(参照:{「自然法爾」とはどういう意味ですか?}

その他、参考ページ――

※ 「基本的な最低限知っておくべき事」という範囲を超えてしまっているかも知れず、また誤解を避けるあまり難しい表現があるかも知れませんが、機会を見つけて、もっと入門者向けのページも増やす予定をしています。


◆ 資料

 ※資料1

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 現生十益

▼意訳(現代語版より)
金剛の信心を得たなら、他力によって速やかに五悪趣・八難処という迷いの世界をめぐり続ける世間の道を超え出て、この世において、必ず十種の利益を得させていただくのである。十種とは何かといえば、
一つには、眼に見えない方々にいつも護られるという利益、
二つには、名号にこめられたこの上ない尊い徳が身にそなわるという利益、
三つには、罪悪が転じて善となるという利益、
四つには、仏がたに護られるという利益、
五つには、仏がたにほめたたえられるという利益、
六つには、阿弥陀仏の光明に摂め取られて常に護られるという利益、
七つには、心によろこびが多いという利益、
八つには、如来の恩を知りその徳に報謝するという利益、
九つには、常に如来の大いなる慈悲を広めるという利益、
十には、正定聚に入るという利益である。

 ※資料2

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。

『顕浄土真実教行証文類』 証文類四 大証釈 果体出願 証果徳相

▼現代語訳:
つつしんで、真実の証を顕せば、それは他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、この上ないさとりという果である。この証は必至滅度の願(第十一願)より出てきたものである。この願をまた証大涅槃の願とも名つけることができる。
 さて、煩悩にまみれ、迷いの罪に汚れた衆生が、仏より回向された信と行とを得ると、たちどころに大乗の正定聚の位に入るのである。正定聚の位にあるから、浄土に生れて必ずさとりに至る。必ずさとりに至るということは、常楽我浄という徳をそなえることである。この常楽我浄の徳をそなえるということは煩悩を滅し尽くした境地、すなわち畢竟寂滅に住することである。この寂滅はこの上ないさとり、無上涅槃である。この無上涅槃は生滅変化を超えた真実そのもの、すなわち無為法身である。この無為法身はすべてのものの真実のすがた、すなわち実相である。この実相はすべてのものの変ることのない本性、すなわち法性である。この法性はすべてのものの絶対究極のあり方、すなわち真如である。この真如は相を超えた絶対の一、すなわち一如である。そして阿弥陀仏は、この一如よりかたちを現して、報身・応身・化身などのさまざまなすがたを示してくださるのである。

 ※資料3

 有念無念の事
 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
 正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、かならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ、この一心を金剛心といふ、この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。

 また正念といふにつきて二つあり。一つには定心の行人の正念、二つには散心の行人の正念あるべし。この二つの正念は他力のなかの自力の正念なり。定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。
 選択本願は有念にあらず、無念にあらず。有念はすなはち色形をおもふにつきていふことなり。無念といふは、形をこころにかけず、色をこころにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
 浄土宗にまた有念あり、無念あり。有念は散善の義、無念は定善の義なり。浄土の無念は聖道の無念には似ず、またこの聖道の無念のなかにまた有念あり、よくよくとふべし。
 浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。方便仮門のなかにまた大小・権実の教あり。釈迦如来の御善知識は一百一十人なり、『華厳経』にみえたり。
 南無阿弥陀仏
 建長三歳辛亥閏九月二十日
                   愚禿親鸞七十九歳

『親鸞聖人御消息』(1) 

▼意訳(日本の名著6 親鸞/中央公論社 より)
 有念無念ということ。
 いまわのきわに浄土からのお迎えがあるということは、さまざまな善行を積んで浄土に生まれようとする人のためにあるのであって、それは、その人が自力をたのむ人だからです。また臨終を待つということもさまざまな善行を手だてとして浄土に生まれようとする人にあてはまることで、それは、その人がまだ真実の信心をえていないからです。またそれは、十悪や五逆の罪を犯した人が臨終にはじめて正しい友(善知識)の導きに遇って、念仏を勧められる場合にいう言葉です。真実の信心をえた人は阿弥陀如来のお心に救い取られて捨てられませんから、浄土に生まれる(正定聚)身となっているのです。ですから臨終を待つ必要はなく、お迎えをたのむこともいりません。信心の定まるとき、浄土に生まれることも定まるのですから、お迎えの儀式を要しません。
 正念といいのは、広大な誓いを信ずる心の定まることをいいます。そしてこの信心がえられることによって、かならずこの上ない仏のさとりに至ることができます。ですからこの信心を一心といい、この一心を金剛不壊の心といい、この金剛不壊の心を仏に与えられたさとりの心といいます。これこそはすなわち他力のなかの他力であります。

 また正念ということについて二つの正念があります。一つには心静かな三昧にはいっている人の正念、二つには三昧にはいってない人の正念であります。これら二つの正念は他力のなかの自力の正念であります。すなわちこの三昧にはいって行なう善と三昧にはいらないで行なう善とは、さまざまな善によって浄土に生れようとするものにほかならないのです。ですからこの善は他力のなかの自力の善であります。この自分の能力をたのみとしている人はお迎えをまたないでは、浄土の辺地や胎生、あるいは浄土にほど遠い懈慢界にすら生まれることができません。ですから、弥陀は第十九のお誓いに、さまざまな善行を浄土に生まれるために回らしさし向けて、そこに生れようと願う人の臨終には、わたしが姿を現わして浄土に迎えよう、とお誓いになったのです。臨終を待つこととお迎えによって浄土に生まれることとは、この三昧にはいって善を行なう人と三昧にはいらないで善を行なう人のいうことであります。
 弥陀が選びぬかれた本願の念仏は、有念のものでも無念のものでもありません。有念とはすなわち色や形を心におもうことであり、無念というのは形を心にかけず、色を心におもわず、念ということさえないことをいいます。これらはまったく聖道の教えであります。聖道というのは、すでに仏となられた人がわたしたちの心を勧め導くためにひらかれた仏心宗・真言宗・天台宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教えであります。ここで仏心宗というのは、いま世にひろまっている禅宗がこれであります。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教や小乗などの教えもそれで、これらはみな聖道に導く教えであります。権教というのは、すなわちすでに仏となられた仏や菩薩が仮にさまざまお形を現わしてお勧めになるので、権教というのです。
 浄土宗にもまた有念・無念の二つがあります。有念は三昧にはいっていないという意、無念は三昧にはいっているという意であります。しかし浄土の教えでいう無念は、聖道でいう無念とは違います。またこの聖道でいう無念のなかにも有念のものがあります。これらはよくよくその道の人に尋ねてください。
 浄土宗の教えに、真実のものと、仮のものとがあります。真実のものというのは選びぬかれた本願であり、仮のものというのは三昧にはいることと三昧に入らないで行なう善との二つであります。そしてこの選びぬかれた本願は浄土の真実の教えであり、三昧にはいることと三昧にはいらないで行なう善との二つは方便の仮の教えであります。浄土の真実の教えは大乗のなかの至極であります。方便の仮の教えのなかに大乗と小乗、権教と実教とがあります。最後に釈迦如来が教えをうけられた師は百十人であります。『華厳経』にみえています。
 南無阿弥陀仏
 建長三歳辛亥閏九月二十日
                   愚禿親鸞七十九歳

 ※資料4

自然法爾の事
 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。
 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。
 弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
  正嘉二年十二月十四日 愚禿親鸞八十六歳

『親鸞聖人御消息』(14) 

▼意訳(日本の名著6 親鸞/中央公論社 より)
自然法爾ということ
 自然の自はおのずからということであります。人の側のはからいではありません。然とはそのようにさせるということであります。そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせるということをそのまま法爾というのであります。また法爾である如来のお誓いの徳につつまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせるといいます。これがわかってはじめて、すべての人ははからわなくなるのであります。ですから義の捨てられていることが義である、と知らねばならないといわれます。
 言葉をかえていいますと、自然というのは、元来そのようにさせるという言葉であります。阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と、仏をたのみたてまつるとき、これを迎えいれようとおはからいになったのですから、人がみずからのはからいを捨てて、善いとも悪いともはからわないことを自然というのである、と聞いています。
 如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。形がおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申しあげる、と聞き習っています。
 阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります。この道理がわかれば、この自然のことを常にとやかくいう必要はありません。いつも自然ということをとやかくいうならば、義の捨てられていることが義であるということさえが、なおはからいとなるでしょう。これは如来の智慧が人の智慧のとどかないものであることを示すものです。



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