戦前は浄土真宗の教学の要としてあった「真俗二諦論」だが、現在の宗法には一切登場してこない。まるで腫れ物に触るような扱いである。理由は戦争協力の問題が大きく関わっていることは周知の事実だが、確かに世俗の法律と教学を完全に分離してしまった戦前の「真俗二諦論」は、教団の翼賛体制を助長してしまう結果をもたらしたと言えるだろう。
しかし、だからといって「このまま真俗二諦という言葉自体を抹殺すべきだ」という論にもならない。なぜならこの言葉は仏教教学の要の一つであり、特に念仏者の実生活と浄土との関係を問うている言葉だからである。
梯實圓氏による「真俗二諦」は、歴史を通じてこの言葉がどのような受け止め方がなされ、どこに問題があるのか、そして今後、新たな活動の源泉たるべく様々な提言がなされている。
◆ 日本の特殊事情
まず、おさえておかなければならないのは、日本以外の国で『真俗二諦』というのは、言葉に現し得ない「第一義諦」と、言葉に展開された「世俗諦」という「諸仏の法の説き方を表したものである」ということである。これは経論を読むときには気を付けておかなければならないだろう。
もともと仏教で一般的に真俗二諦というときには、龍樹菩薩の『中論』に「諸仏は二諦の依って法を説く」といわれたような用い方をしたものです。この場合の真諦とは、第一義諦ともいい、空の立場をあらわし、俗諦とは、世俗諦ともいい、有の立場をあらわしています。つまり悟りの境地そのものは、空、不可得であって、ことばで分別的に表現できるものではございません。あえていえば、空とか、不可得とか、無所得という否定的な表現をするしかありませんが、このような説き方を真諦というのです。それに対して、迷いと悟りの因果関係を分別的に説きあらわしていく教説を俗諦というわけでございます。
[真俗二諦説と王法・仏法輪翼説]
こうした諸外国の用法に対して、日本の特殊事情というべき論の展開があることを紹介している。
わが国の平安時代から鎌倉時代ごろにかけて仏法を真諦とよび、王法を俗諦とよぶという特殊な用法が現われてまいりました。いま真宗で真俗二諦というのは、この用法に準じたものです。
<中略>
もっとも、王法とか仏法ということばは、経論のなかにしばしば用いられていました。しかしそこでは、王法とは、国王の行う政治とか、あるいは刑罰を意味していたし、仏法とは、仏陀の教法ということで大乗、小乗の教えのことで、両者は別物でしたが、日本では切りはなすことのできない一雙のものととらえられ、上に述べたような非常に特殊な意味内容をもつようになったのです。[真俗二諦説と王法・仏法輪翼説]
またこの仏法輪翼説は、教義的な追求というより、多分に政治的・経済的な問題がからんでいたことも記されている。
◆ 親鸞聖人から蓮如上人まで
こうした日本の特殊事情だが、親鸞聖人の著にも顕れている以上、そうした歴史を受け継ぐ浄土真宗の教団としては、その真意を汲み取って教学を展開する必要がある。この本では「徹底した仏法自立主義」というべき姿勢を認めている。
親鸞聖人がこれを「化身土文類」に引用されたのは、承久の法難において、自分をふくめて法然教団が破戒、無戒の故をもって弾圧されたことの不当性を証明しようとされたわけです。その背後には、僧尼は、政治権力の支配のなかに包摂しつくされるものではなくて、自らの信仰によって自立するものであり、仏教教団は、政治の権力機構とはちがった成立地盤をもつ、信仰共同体であるという信念があったようです。
<中略>
つまり親鸞聖人によれば、真諦と俗諦、すなわち仏法と王法は、それぞれ成立の地盤を異にし、仏法は、仏の本願を基盤として、一切の衆生を生死の苦海から救うて涅槃の境地に導びくものであり、王法は、政治的な方法をもって人びとの世俗の生活を豊かにしていく責任をもったものである。
<中略>
それなのに王法が仏法を弾圧するということは許せない越権行為であると批判するために『末法灯明記』を引用されたのでしょう。[親鸞聖人の二諦論]
こうした確固とした「信心念仏によって自立する仏法」は親鸞聖人の「チャレンジャー」としての姿勢が反映されたものであり、「思想のラディカリズムというのも生まれてくる」のであるが、後の存覚上人などは、教団とその信徒に市民権を得さしめる立場から、旧仏教勢力や俗信・習俗とも妥協していくのである。
また蓮如上人は「真諦・俗諦」ではなく、「仏法・王法」ということばを用い、一向一揆等に対する「高度な政治的判断と戦略的な意味さえ持たせて」乱世の指導者の役割を果たされる。そこには「信心を内心に深くたくわえて、外相にはその色も見せない」ように書かれ、時の権力と妥協する姿勢がかいま見られる。
しかし真意は仏法中心であり、その主客を外すことはない。
仏法を中心に生きる。そして世間のさまざまなことは、時宣に応じて処理していけといわれているわけです。
<中略>
王法を守るのは、仏法を立てるためであって、決して王法を中心にし、それを目的としちゃいけない。それなのにこのごろは世間を中心にし、王法を主とするように心得ちがいをしているものが多いが、まことにけしからんことであるというのです。[蓮如上人の王法・仏法論]
本書にはないが、こうした態度は現代流に言えば「政教分離」という評価も成り立つであろう。
◆ 江戸時代以後の展開
江戸時代、宗学者たちによって真俗二諦論は展開されたが、特に幕末に出た性海の『真俗二諦十五門』は、後の明治維新体制に順応していく教学の礎となっていった。
ところでこの真俗二諦説というのは、教団が幕末から明治にかけての動乱期を乗り切っていくのに大変都合のいい学説だったと思います。というのは、これはある意味では、ずいぶんしたたかな学説だと思うんです。つまり政治権力がどう変ろうと、真宗そのものは変わりなく存続できるようになっているわけです。
<中略>
だから俗諦の内容において、随順すべきものが徳川将軍であれ、天皇であれ、民主主義の憲法であれ、別に問題にならないわけです。それはある意味では、おそろしくしたたかな、まるで昔の大阪の船場の商人のような生き方ですね。もっともその時その時の有力な政治体制に順応するということは、社会の変動の少ない時代ですとあまり問題もないのですが、変動期には、よほどうまく時流を先どりしないと、乗りおくれたり、オポチュニストと批判され、節操が問われて、かえってガタガタになるという可能性もあるでしょう。[明治以後の二諦説]
これは結果として可能性ではなく、現実の過去を踏まえて書かれていることは勿論である。
明治から戦前までの日本は天皇を中心としたピラミッド型の支配体制で、欧米からアジアを解放させる目的からかえて植民地支配体制を拡大強化していってしまう。こうした「侵略」というレッテルが貼られる政策も「俗諦」として認めている以上、教団はそれに協力せざるを得ない。そして果ては軍部の圧力によって「教育勅語が俗諦とはけしからん」と、軒下を貸して母屋取られるような改訂が加えられようとしたことも紹介されている。
そして敗戦から後、今度は民主主義が「俗諦」になっていく。
旧宗制の俗諦の規定のなかにある「王法を遵守する」という王法とは、帝国憲法をさし、また「教育勅語」をさしていたというべきでしょう。したがって「人道を履行し」というときの人道も、「教育勅語」が指示している徳目を意味していたとみていいでしょうから、憲法が改訂され「教育勅語」が失効になりますと、旧宗制における俗諦の基本もくずれたことになります。そして昭和二十二年五月三日に新しい民主憲法が施行され、民主主義体制ができあがりますと、民主主義的な政治と倫理を俗諦の内容にし、それを真宗の教義で正当化していくというふうなことになってくるわけでございましょう。その辺に独自の俗諦をもたなかった従来の真宗学者、あるいは真宗教徒のあまりにも自主性のなさが問題になるのでございます。
[明治以後の二諦説]
日本の近代化の中で「真俗二諦説」は、ある一定の役割を果たしてきたと言えるだろう。しかしそれを宗教者自らが成り立たせていくためには、よほど時代を的確に捉える感性が必要となってくる。戦争協力の問題はそうした負の可能性が表出する結果となったのである。
◆ 新たな提言
このように従来の真俗二諦論では、真諦を不動のものとし俗諦だけを論議していたが、むしろそこに問題が生じてくる(もしくは閉塞状況を生んでいる)のであって、今後は真諦そのものを俗諦から問いかけることを本書では提唱している。
浄土真宗という教法、すなわち真諦は、人びとにどのような世界観を与え、どのような生命観をもたしめ、どのように生存の意義と方向性を規定していくのかが根源的に問われなければなりません。・・・真宗学というものは、真諦から世俗を問い、世俗から真諦を問うという、真俗両面からのきびしい問題ととりくんでいく学問でなければならないのじゃないでしょうか。
<中略>
罪悪性を自身のうちによびさまされた機の深信と、そこから出てくる悪への拒絶性、それに法の深信による本願の真実性へのめざめを通しての真実への指向性ということがあります。要するに本願の信に裏づけられた自律的な生活の誡めとしての戒の精神の復活と、菩薩道への尊崇の念が念仏者の生活をささえていくのではないでしょうか。
<中略>
念仏によびさまされて、世俗をこえた真実の世界を仰ぎ、世俗を仏法化していく非俗の面をもたねばなりません。[真俗二諦論のあり方]
その他、「国家と教団」の関係においては、教団の自律を通し真の意味で協調していく方向性を示し、「平和への提言」として「戦争の芽をつみとって」いく活動や「新しい生命倫理の提唱」を、真俗二諦論の今日的課題のひとつとして掲げている。
阿弥陀如来の本願が信心として我が生活に受け取られるとき、私自身や現実社会がどう方向づけられ、どう変えられていくのか。そして私の信心の生活や社会の変動によって阿弥陀如来の本願がどう見直されてくるのか。今後、活動体としての浄土真宗の展望は、この2点に明確で柔軟性のある回答を与え得るかどうかにかかっていると言えるだろう。
本書は短いながら要点を的確に捉え、歴史的事実を紹介し、今後の展望を示している。
また続いて『浄土真宗の本尊論』では阿弥陀如来の本尊の問題についてまとめられており、【Q & A】の中の「阿弥陀如来像(仏像・絵像)は偶像か?」において参考にさせて頂いた。