平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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浄土真宗の教えを聞いていくうちに、他力安心へ導く教えが真宗でも大きく二通りにわかれているような気がいたしております。
一つは、徹底して自己の煩悩や自己中心を問わしめる教え。これによって遂には、逃れようのない煩悩具足の凡夫であると心深く懺悔し、自我が相対化され、それと同時に、我が身を照らしてくださる如来の働きに目覚め歓喜に至る。歓喜地にある善智識の教えは、だいたいこのような事を説いてくださります。まさに、18願の唯除や観無量寿経のイダイケさんのお話などは、どこまでも深く自己のあさましさを問え、という風にいただけます。
ところで、同じ真宗の先生の中には、違ったところに力点を置いて法話をなされる方がいらっしゃいます。というのは、「おのずからしからしむ」という親鸞聖人の到達した結論、つまり真実の法を先に説かれるのです。(例えば、二葉憲香先生「親鸞 仏教無我伝承の実現」)わが身や心に起こることを含めて大自然の現象一切が、無常・無我であると。唯一真なるものは不可思議の働きであると。
一方は、自己を問わしめることによって自我を破り真実の働きに目覚めさせる。一方は、目覚めるべき法の世界を先に説く。どちらも矛盾はしないだろう、両者のお話をいただいていつかは信心獲得を、と思いつつも、両者のアプローチの仕方の違い対して少しばかり戸惑いがあるのも事実です。
このような教えをどのようにいただいてゆけばよいでしょうか。
「罪悪生死の凡夫」と「衆生摂受」の「二種深信」は表裏一体(機法一体)ですから、どちらが欠けても成立しません。欠けていながら理解したと思い込むのは間違いで、「罪悪生死の凡夫」だけだと人生に希望を見出せず、「衆生摂受」だけだと理屈だけの思い上がりとなります。もっと言いますと、どちらか一方だけを受け入れるということは、結局その一方も正しく受け取れていないのです。
私も含め、おそらく多くの方々は、何度も何度も仏法を聴聞させていただく中で、自分の人生と絡み合い、試行錯誤される中で、おのずと同時に二種が受けとれていくのだろうと思います。
そういう訳ですから「どちらが先か」という質問は、法を聞く機会の多い場においては意味を持たないようですが、本質的には重要な問題を含んでいます。また、実際に相手の機を見て法を説くという意味でも、常に意識しておいた方がよい問題でしょう。
二種深信について、親鸞聖人は善導大師の『散善義』(観経正宗分散善義 巻第四)を引用し明らかにされています。
〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 大信釈 引文 より
また同様のことを七深信に開いて明らかにされています。
「二つには深心、深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して〈自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし〉と深信す。二つには、決定して〈かの阿弥陀仏、四十八願をもつて衆生を摂受したまふ、疑なく慮りなく、かの願力に乗ずれば、さだんで往生を得〉と深信せよ」(同)となり。文
いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。
文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。
七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」(散善義・意)と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定してかの願力に乗じて深信する」(同・意)と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」(同・意)と、
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」(同・意)と、
第五には、「ただ仏語を信じ決定して行による」(同・意)と、
第六には、「この『経』(観経)によつて深信す」(同・意)と、
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」(同・意)
となり。
『愚禿鈔』 下 深心釈 より
さらに蓮如上人は『安心決定鈔』を皆に勧め、「機法一体の南無阿弥陀仏」と、さかんに述べてみえます。
そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。 されば一念帰命の信心決定せしめたらん人は、かならずみな報土に往生すべきこと、さらにもつてその疑あるべからず。
『御文章』 三帖 7 より
▼意訳 (蓮如の手紙/国書刊行会)このように二種深信は機法一体の理解となり、浄土真宗の教義に重要な役割を果してきました。
しかしここで重要なことは、「罪悪生死の凡夫」や「衆生摂受」という深信は、私たちの努力(つまり自力)だけで果されるものではない、ということです。
少し前 [仏教は最終的に何を目指す宗教なのですか?] に書きましたが、仏教は<自分を深く見つめる>ことから始まり<本当の自分をみつける>ことを目指すのですが、始まりとしての自己観察と、如来に見出された私との関係は一直線ではありません。視点そのものが変わってくるのです。
ただし、根本的な変革も自己観察が無ければ機は熟しません。いわば誘い水となっているのです。これが第十九願と二十願に顕されていて、この試行錯誤が第十八願へと引き継がれていくのですが、衆生の側から先手で「罪悪生死の凡夫」と観たものは絶望でしかなく、如来のはたらきを仰ぐことが先でなければ本当の懺悔にはなりません。
つまり自力で真実の懺悔(上品の懺悔)をしたら眼や身体中から血が噴出してしまいます(『往生礼讃』日中讃 広懺 ・ 『顕浄土真実教行証文類』化身土文類六(本) 三経隠顕 等参照)。それに下品の懺悔でさえ順解脱分(さとりへと方向づけられた階位)ですから、信心決定後の懺悔であることが分かります。
また他人から詰問されたり裁きを受けている中では、反発心が起こりますので本当の懺悔はできません。もしこんな他律によって懺悔をしたら、人格が崩壊するだけで、自我を破ることにはなりません。
如来の慈悲に安んじて、許されている中で、初めて真の懺悔が自律として可能になるのです。
このあたりを第十八願・第十九願・第二十願の漢訳(書き下し文)・現代語訳・梵文和訳からご説明したいと思います。
この中で、第十九願は「さとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら」という条件、第二十願は「わたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら」という条件がついています。
しかし、第十八願には「心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して」というように衆生に勧められる具体的な行為としては念仏の相続だけで、他に難しい条件はありません。しかも真実信心(信楽)は「如来の大悲心」に他ならず、凡夫の為せる業ではない、ということから<如来の先手の救い>を親鸞聖人は詳説してみえるのです。
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。 一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。
『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈 より
▼意訳(現代語版より)ここに明らかなように、第十八願の心は、「如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで」と如来の側からすれば衆生の闇を観ることが先なのですが、衆生の懺悔が真実信心を招くということはあり得ないのです。如来は衆生の懺悔に頼ってはみえません。ひたすら衆生摂取のはたらきである光明を放ち続けてみえます。光明に照らされたところに安んじる中で、衆生の懺悔が導かれるのです。ですからその懺悔は喜びに満ち溢れたものになります。
また梵文では「きよく澄んだ心(信ずる心)」というのは「プラサーダ(prasada、prasannacita)」となっていますが、この表現はめったに無い特別の表現で、とても凡夫の起こせる信心ではない、ということが重ねて伺えます。
さらに一例をあげますと、例えば『唯信鈔文意』は、聖覚法印の作『唯信鈔』に引用された文等に、親鸞聖人が詳しい註釈を施されたものですが、法照禅師の『五会法事讃』の「回心」について以下のように述べてみえます。
彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
但使回心多念仏 能令瓦礫変成金
かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へに来らん。
貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、
多聞にして浄戒を持つを簡ばず、破戒にして罪根の深きをも簡ばず。
ただ心を回して多く念仏せば、よく瓦礫をして変じて金となさしめん。
『五会法事讃』 より
▼意訳
かの仏は因位のとき弘い誓いを立てられた 「名を聞いて我を念ずる者をすべて迎えとろう」と
貧富や貴賎をえらぶことなく、知識や才能の高下をえらばず
博学多聞の者も浄らかにに戒をたもつ者も、戒を破った者も 罪深い者もえらばず
ただ信を得てよく念仏すれば 瓦や小石のようなものも黄金とするのである
「但使回心多念仏」といふは、「但使回心」はひとへに回心せしめよといふことばなり。「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。実報土に生るるひとはかならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」と申すなり。「多」は大のこころなり、勝のこころなり、増上のこころなり。大はおほきなり、勝はすぐれたり、よろづの善にまされるとなり、増上はよろづのことにすぐれたるなり。これすなはち他力本願無上のゆゑなり。
『唯信鈔文意』 より
▼意訳
「但使回心多念仏」というのは、「但使回心」というのは、ひたすら回心しなさいという言葉です。「回心」というのは自力の心をひるがえして、捨てることをいうのです。阿弥陀如来の願に報いた浄土に生れる人は必ず金剛の信心がおこるのを、「多念仏」というのです。「多」は大の心です、勝の心です、増上の心です。大は大いなるという如来のはたらきのこと、勝は比べるもののない程勝れている、諸々の善に勝るということです、増上は何にもまして往生の強い力となる心です、これはすなはち他力本願がこの上なく勝れていることによるのです。
単なる「改心」であれば凡夫の努力でもできます(ただしこれも如来のはからいの内と信後に知れます)が、「回心」できるのは「他力本願無上のゆゑ」であって、如来の先手であることがここでも肯けるのではないでしょうか。
つまり「戒を破った者も 罪深い者もえらばず」と呼びかけられてみえる以上、「懺悔をしたら信心を得さしめる」という条件は付けられていません。もちろん仏法を学んでいない人でも懺悔をされる方がみえるかも知れませんが、非常にまれですし、仏法に出遭うまでは苦しい状態が続きますので、ある意味危険です。
また、他律的な圧力によって懺悔されている場合は、自己のはからいが投げ出された先に他人がいたり、言葉にとらわれてしまうことになります。こうなると権威の奴隷になり、「善知識だのみ」や法執が生れます。
ところで、直前に述べましたが、見逃してはならないのが、善知識の存在の大きさです。
菩薩の初めの十段を「信位」というのは、自己を信じて、自己を人間として成就してゆこうと、人生に希望を持って、願いに生きる位であるからです。信とは愛とか希望とか、真実とか徳とか願いのことといわれています。信に十段を分けるのは、自覚の程度に浅い深いがあるからです。たとえば初めから自分は尊いものであると、対自的自覚にはなりません。初めは尊敬することのできる人に遇うて、私もあの人のようにないたいという形で、仏性に火がつくのです。りっぱな人間になりたいという願いの中には、無意識ではあっても、即自的に自分を信じているのです。自分はだめだと思ったら、願いは発こって見ようがないでしょう。その信心のことを菩提心といい、この心の発った人を菩薩というのです。
島田幸昭 著『仏教開眼 四十八願』より
私と法との関係において、最初の出遭いで決定的な役割を果たすのが善知識です。身近に善知識と仰げる人がいれば幸いでしょう。生身と生身の出遭いがかない、直接話を聞いて、こと細かに指導を仰げます。親鸞聖人においては法然上人との直接の出遭いが信心を決定づけました。
しかしこうした面授がかなわない人でも、書物や手紙でのご縁があれば、それも「善知識との出遭い」でしょう。法然上人は善導大師の書物と出遭って信が開かれました。経典などの聖教を床に直接置かない理由は、書物であってもそうした善知識としてのいのちを内容として宿しているからです。
そうして見ると、生活の現場においては、「機と法のどちらを先に聞くか」という問い以前に、「この人の話なら聞こう」という出遭いが重要なのです。法を説く人自身が仏法にお育ていただいてこそ法が生きるのです。幸い、私は多くの善知識とのご縁がありましたので、ありがたいことだと喜ばせていただいております。
しかし、そうした善知識との縁の無い(信後においては全ての衆生が善知識と受けとれますが、それが受け取れない)中では、仏法を聞く機会が熟してきません。また、たとえ仏法を聞いたとしても、単なる学問に過ぎなくなります。勿論学問は大切なのですが、学問が生きてこないのです。そういう意味で善知識との出遭いが果す役割は非常に大きいと言えるでしょう。
そしてさらに、善知識との関係も、上下ではなく同朋としての人間関係に成熟していく中で、家庭や社会の環境が問われ、そこに根源的に阿弥陀如来の本願が既にはたらいてみえることが身に証していけるのです。
ですから、法を説く人も、余程の迷信的な理解でなければ同行の法の味わいを否定するのは避けるべきで、共に拝みあえる関係として法を広めていくべきでしょう。
ですから最悪は、――法を施す側が相手の機(罪悪生死)をあげつらい、懺悔を強い、そこに無理やり法を信じ込ませ、その人なりの法の味わいを否定して、自分の味わいを押し付ける、という説き方でしょう。
本当は、私の心の底の底に本願がはたらき、身に満ちてゆく様を味わい、摂取の光明を喜び受け入れ、おのずと懺悔がほとばしり、多種多様な法の味わいを聞き開き、共に念仏を称えさせていただく、とよいと思います。
もちろん時として順を変えざるを得ない場面もあるでしょうが、基本的には法の喜びの溢れるお説教を聞かせていただきたいと思います。