平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します

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仏教 Q & A

仏教で言われる「自力」とは


質問:

 先日は、「他力」について教えていただき、他力を否定している私が、その実は、「他力本願」て゜あったと諭していただきました。

 或る方が「仏教で言う『他力と自力』とは違いますが」 と言われたのですが、それについて尋ねた返事が 帰ってきません。

 Q&Aの『他力の真実とは』の中に書かれてある自力以外で、「仏教で言う自力」なる考えがあるのでしょうか。
 それは、どの様な受け止め方をするのでしょうか。



返答

 仏教における『自力』と『他力』について説明するには、 ちょっと注意が必要になります。 といいますのは「自力と思っていたら究極的には他力」であったり 「他力と思っていたら実は自力」ということも多々あるからです。

ということで毎度説明が長くなってしまいますが,,

◆ 個人の努力

 仏教の根本は如来の菩提心と同一ですから、 究極として言えば、覚りにつながる行は全て『他力』になります。 しかしその過程において、行者の努力を促したり、 励ます言葉が『自力』に読み取れることもあるわけです。 仏教の覚りの内容そのものは純粋他力であることは全宗旨共通ですが、 正覚への誘い水としては一定の自力(自発的な奮闘努力)が必要となります。

 特に出家修行者にはそうした言葉が多く与えられていますので、 出家第一主義の道は、一見他力を否定しているように理解されることもあります。

このことを歴史的に見てみますと――

 釈尊が覚りを開かれるまでの努力は並大抵のものではありませんでした。 これは、古今東西釈尊ほど徹底した修行を行った者はいないだろう と自他共に認められているところです。
 また、単に個人の修行(苦行も含む)だけではなく、 「慈心も修した」と言われていますので、 広く大衆への慈悲を導き手として、 自らの目覚める道を修してみえたわけです。

 この道を目指したのは当然釈尊自身ですし、 修行の中身は他人が取って代われるものではありませんので、 ひたすら個人の努力ということが強調されます。

 アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ

[大パリニッバーナ経]

 こうした努力を近代合理主義の目で見ますと、 『自力』という判定になるのだと思います。 そして「『自力』こそ釈尊本来の道、仏教の本筋である、 『他力』は邪道、もしくは本来の仏教ではない」という理屈がまかり通り、 大乗仏教に「後につくられた仏教」というレッテルを貼る学者までいました。

◆ 硬直化した仏教を批判

では、本当に釈尊は自力で覚りを開かれたのでしょうか?

 修行という努力が必須であったことは確かですが、 覚りの内容をつぶさに読み味わってみますと、 釈尊に出家を促し、菩提心を起こさせ、 修行を存続させた『法』そのものの大きなはたらきが見えてきます。

 ただ、釈尊は私たちと違い、 先に覚りを開かれた先達が身近にいませんし、 言葉(経典)もありませんでしたので、 余程の努力と集中力と、それを支える智慧が必要でした。
 また釈尊の弟子たちも、またその後の仏教者たちも、 先達と言葉を得ていましたが、 それは釈尊という、たぐいまれな修行者の示した道でしたので、 それをなぞるには厳しい修行が必須となっていました。

 やがてその厳しい修行を支えるための言葉が硬直化してしまい、 釈尊を覚りに導いた普遍的なはたらきに目が向けられなくなってしまいました。 そこで硬直化した仏教を本来の仏教に戻すため、 また、教えを一般の人々にも説き明かすため、大乗仏教では、 法そのもののはたらき、つまり『他力・易行』を強調し、 硬直化した仏教を『自力・難行』として批判したのでした。

 やがて大乗仏教の中でも厳しい面が出て、それが硬直化してくると、 やはりそれを批判する人たちが現れ、 『他力』の本筋にたち帰り、『仏国土・浄土』という、 他力の中の他力、純他力のはたらきを強調されたのでした。 これは単に一般の人々に向けられた教えというだけではなく、 悪人の中の悪人(=自分自身)までにも菩提心を起こさせ、 人生の成就、往生に導くはたらきを明らかにされたのでした。

 以上のように、仏教でいう『自力』は本来、『他力』に促されたものであり、 一見、『自力』が頼みの厳しい修行も、 そうした『他力』に下支えされているからこそ可能となるのです。

 つまり『他力』は、限りない真実の願いが光明としてはたらいたものであり、 それは限りある『自力』をも包み込んで、願いを成就させていくのです。 他力を否定した自力や、自力の延長上にある境地は慢心に過ぎません。

(参照:{「他力本願」は、他人の力に依存すること?}


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