平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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質問:
何故本派だけが浄土真宗で、その他九派は「真宗」なのですか?
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以下関係者から入手した資料をまとめまして、 宗名問題に関する情報を列挙いたします。雑然とした回答になってしまいますが、ご勘弁ください。
なお、あらかじめお断りしますと、「他派と差をつけるため」という理由は、
どの時点であったのか、またなかったのか、という詳細はわかりません。
◆ 文献に見る「浄土真宗」の名称
ご存知のように「浄土真宗」という名称は、
経典や法然上人までの書には見受けられませんが、
親鸞聖人の書かれた文章やお言葉に見ることができます。
例えば――
大無量寿経 真実の教 浄土真宗
[『顕浄土真実教行証文類』 教文類一 標挙]
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。[『同上』 教文類一 真宗大綱]
まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。[『同上』 化身土文類六(本) 聖道釈 二門通塞]
ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。[『同上』 化身土文類六(末) 後序]
論家(天親)・宗師(善導)、浄土真宗を開きて、濁世、邪偽を導かんとなり。[『浄土文類聚鈔』 問答分]
智慧光のちからより 本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ[『高僧和讃』 源空讃 (九九)]
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし[『正像末和讃』 悲歎述懐 (九四)]
浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。『一念多念文意』
真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。『唯信鈔文意』
浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。[『親鸞聖人御消息』(末灯鈔) 有念無念の事]
「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。[『歎異抄』 (15)]
以上『親鸞聖人御消息』や『高僧和讃』等にありますように、親鸞聖人は御自身で一宗旨を開こうとする意志がお有りになられたかは判別できませんし、「浄土真宗」という名称も法然上人の「浄土宗」が「真」であることを指していて、「仮」というのは聖道門の浄土宗を指しているようです。
さらには『浄土文類聚鈔』の文は、その名称が天親菩薩の活動にまで遡って含め、大乗仏教の歴史の本道として「浄土真宗」があることを述べてみえます。つまり浄土真宗の宗名は、組織名ではなく仏の本意が受け取られた証しの名、ということでしょう。
◆ 宗名をめぐる歴史
その後、親鸞聖人の教えを慕う人々の間で、 宗教的な面での浄土真宗は息づいていましたが、 宗名の問題はあやふやなままでした。 特に本願寺は蓮如上人以前は比叡山延暦寺の末寺として扱われてきましたので、 とても一宗旨として独立した形にはなっていませんでした。
蓮如上人の時代に本願寺は大発展を遂げますが、
この時も「浄土真宗」という宗名は認知されていません。
この点について、上人は――
問うていはく、当流をみな世間に流布して、一向宗となづけ候ふは、いかやうなる子細にて候ふやらん、不審におぼえ候ふ。
答へていはく、あながちにわが流を一向宗となのることは、別して祖師(親鸞)も定められず、おほよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、みな人の申しなすゆゑなり。しかりといへども、経文(大経・下)に「一向専念無量寿仏」と説きたまふゆゑに、一向に無量寿仏を念ぜよといへるこころなるときは、一向宗と申したるも子細なし。さりながら開山(親鸞)はこの宗をば浄土真宗とこ そ定めたまへり。されば一向宗といふ名言は、さらに本宗より申さぬなりとしるべし。されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。[『御文章』 一帖 15 宗名章]
【意訳】(蓮如の手紙/国書刊行会より )
お尋ねします。
わが浄土真宗のことを、世間ではみなが「一向宗」と名づけています。これはいったいどういうわけなのか、疑問に思うのですが。お答えします。
わが宗を一向宗と名乗ることは、とくに祖師親鸞聖人もお定めになっていません。たぶん、わたくしどもが阿弥陀仏にひたすらにお従いしているために、人びとがみなそのようにいうのでしょう。
とはいうものの『大無量寿経』には「一向専念無量寿仏」と説かれていますが、これが「一向(ひたすら)に無量寿仏(阿弥陀仏)を念じなさい」という意味ですから、この経文によっていうのならば、一向宗と申してもさしつかえはありません。
しかしながら、開山親鸞聖人は、この宗を浄土真宗とお定めになっています。ですから、一向宗という名前は、決してわたくしどものほうから申すべきではないと知らねばなりません。
ところで、法然上人の流れを汲む浄土宗のうち、浄土真宗以外の諸派では、雑行を真実の浄土に往生する行として認めています。しかし、わが親鸞聖人はそのような雑行を選び捨てられました。このゆえに、阿弥陀如来のまします真実の浄土へ往生することができます。こういうわけで親鸞聖人はとくに“真”の字を入れて、浄土真宗と仰せられたのです。
というように憂慮され、世間では一遍の時衆と混同されていた様子が伺えます。
また「一向宗」の他に「本願寺宗」「門徒宗」「無礙光宗」とも呼ばれていて、
「開山はこの宗をば浄土真宗とこそ定めたまへり」という思いは、
江戸時代になっても中々実りませんでした。
そんな折り、安永3年(西暦1774年)に紀州藩では「浄土真宗」の呼称が公認されます。 そこで「浄土真宗」の宗名を公文書に記述できるように、 東西本願寺が協調して幕府へ願い出ましたが、 浄土宗(増上寺)側の反対に会い(宗名事件)、決裁を見ませんでした。
この時の反対の理由は、表面上は、
「浄土真宗の名称は善導の『観経疏』にあり、これはもとより浄土宗のことだ」
ということでしたが、これは全くの誤謬で、
「真宗」の名はあっても「浄土真宗」の名称はどこにもありません。
しかし一旦、老中田沼意次が増上寺の請を受け入れる場面があったり、
江戸増上寺や鎌倉光明寺等の浄土宗の寺が勝手に「浄土真宗」の額を掲げたり、
札を立てたりして、宗名問題はますます紛糾します。
この争いは前後16年間継続しますが、幕府は結論を出すことができず、
政務多忙の理由から訴えを取り下げるように命じます。
(なお、宗門改帳には、各々、「浄土宗」「浄土真宗」の名を使っていた)
その後明治時代になって――
明治4年(西暦1871年)、政府は一旦「一向宗」と定めますが、
翌5年「真宗」を公的な名称として認可します。
明治9年(1876年)、興正派が本願寺から独立し、
翌10年に各派が別立するに際し、西本願寺は浄土真宗本願寺派と称します。
明治14年(1881年)、西本願寺派を「真宗本願寺派」、東本願寺派を「真宗大谷派」と称するようになります。
昭和21年(1946年)、西が「浄土真宗本願寺派」と呼称するようになり、本願寺派以外は「真宗〇〇派」と称することになる。
以上のように、「浄土真宗」や「真宗」という宗旨名は、 最初から用いられたわけではありませんでしたし、 それを認可せしめるためには、強い主張と大変な努力を要したわけです。
ただその中において、宗門内外に大変な混乱を招いてしまったことは否めず、 またその名称も、「他派と差をつけるため」に「浄土真宗」としたのであれば、 教えと矛盾することにもつながります。
しかし「浄土真宗」が宗祖において発揮された名称であることを思うと、 それを大切に受け止めさせていただく心が決した結果とも言えましょう。
なお、[ 真宗教団各宗派の分れた理由 ]に、分派の経緯が書かれていますので参考にして下さい。