平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

「他力本願」は、他人の力に依存すること?

― 自立と言えどおかげなりけり ―

質問:

最近、テレビやネットで、他人の力をあてにしたり依存することを「他力本願」と言っているのを何回も見聞きして納得がいかないのですが、「他力本願」にはそのような意味があるのでしょうか。

返答

 他力と他律の違い

 ご指摘いただいた通りマスコミや普段の会話で見聞きする「他力本願」は大抵負のイメージで、特にスポーツなど勝負ごとに関しては、相手が負けて優勝を決める時にはいつもこの言葉が使われます。もちろん、仏教で言う本当の他力本願の意味はこれとは違います。
 他力本願とは、自力のモチベーションを無限に創出し、混乱時にも方向を見失わない羅針盤の役割を果たすものです。

{はからいを捨てることは求道心も捨てること?} にも書きましたが、社会の場に伏流する本来的な尊い性質を仏性とも菩提心ともいい、本来的な願いを本願といいます。これらの真心が私に成り切って身に満ちることを信心といいます。ところがみなこの本来を忘れ、表層に執着しているので、自覚を促す啓蒙としてあえてこの信心を「他力」というのです。そして本来的な願いである本願が言葉となったものが四十八願なのです。
 比べて「自力」は、このような本来的な力を引き受けて活動している「表層」をいいます。現代の言葉で言えば、知性や意志や感情のことでしょうか。これらはもちろん必要ではありますが、身に満ちる真心よりも先行してしまうと道に迷うのです。 (参照:{三大宗教の存在に矛盾は無いのでしょうか?#理性の役割と限界}

 また自力に執われる人は表層にこだわり、深い道理が解らないため、自分の努力のみで成功したと誤解し、失敗は他人のせいにし、驕慢な態度がに陥りがちです。「俺は自分一人の力でこの栄光をつかんだんだ」と云う人に、果たして自分を成り立たせている場や歴史的背景が見えているのでしょうか。
 真摯に努力し続けている人は大抵「皆さんのおかげです」と言われます。また天才的な仕事をする人たちは皆我ならぬもっと大きなものが我に至った≠ニいう経験をします。この「皆さん」や「大きなもの」が、現在周りにいる人たちだではなく、今まで存在した全ての生命、さらに言えば未来の衆生も含め、その関係性・歴史性の奥にある尊い仏性に頭が下がったところに他力が見出せるのです。

自ら
立たしめらるる
生命あり
自立と言えど
おかげなりけり

(向坊弘道)

 ただし、一切衆生の活動がそのまま仏教で言う他力なのではありません。衆生は煩悩の毒に染まった業しか為せませんが、衆生に入り満ちて衆生の業を清浄・荘厳ならしめる「限りない菩提心」が他力なのです (参照:{本願の三心})。 煩悩と菩提心は相反するものでありながら「煩悩即菩提」で、衆生世間(娑婆)と如来世間(浄土)が二重構造になって器世間(社会)を成り立たせているのです。この如来より回向された菩提心が、現在・過去・未来の三世一切の仏の智慧と徳に成り、私に及び、私と成り切って活動するのです。

 さらに、本願は一切衆生の存在の奥底に伏流し、普遍的にはたらいているのですが、本来的なものが失われ、表層部に執われてしまうと欲望や主義などに変質してしまいます。
 例えば、人々から称賛されることを願う、ということは本来的な願いで、それは、「皆に名を称賛されるべき人格に成りたい」という内容を問う本願なのですが(参照:{諸仏称名の願} )、肝心の自分はほったらかしのままで「称賛だけ欲しい」ということになれば、これは名誉欲に堕してしまいます。
 また、本来的な慈悲の活動も、言葉が固まって主義や制度になると、逆に人間を縛り付けるものに変質してしまいます。人類の歴史、特に近代の歴史には、「○○主義」という名で、初めは人間に幸福をもたらす目的であったものが、人々を支配し行動を縛る内容に変質したものが沢山あります。ある意味、法律も人間が生み出したものなのに人間自身が縛られる結果になりがちです。
 表層の自力が、常に深い心の他力に依らなければならない道理がここにあるのです。

「他人の力をあてにしたり依存すること」は、仏教では「他力」ではなく「他律」と言います。これは、自らの在り方を問わない奴隷的な生存状態であり、これを飼育動物にたとえて「畜生」ともいいいます。日々の糧が保障される代わりに鎖がついていて、飼い主の都合や命令によっては不正を行わざるを得ず、不正が発覚すれば責任を取らされる立場です。
 自灯明・法灯明は仏教の基礎であり、畜生は自灯明を無くした人で、生きる問いを持たず、菩提心に欠け、王として自らの国を成就する気概が欠けていますので、仏となることが難しいのです。

 親鸞聖人の仰る他力本願

「他力本願」は歴史的にいつ作られた言葉かと申しますと、まず「本願」は、真実の教と称えられる『仏説無量寿経』そのものに出ておりまして、{四十八願} 全体のことを言います。この願は、万物生命を生み育てる真理である無為自然の法性法身(色も形もなく言葉になる以前の永遠普遍のはたらき)が、色をとり形を表わし法蔵と名のって現実社会に言葉として現われた誓願であり、この誓願に報いて完成されたのが真実報土の浄土と真実報身なのです。これらの過程全ての主体を阿弥陀如来と名づけたのですが、この如来は「一切群生海の心」とも言われるように、一切衆生に宿る仏性が歴史となって報いた身なのです。
 ですから本願は、一切衆生の仏性に宿る深い願いですが、現実の衆生の願いは本願の根を忘れた浅はかな願いであり、この浅い願いによって仏と成ることは不可能なのです。ですから「本願成就のいわれを聞き開きましょう」とお勧めするのです。「煩悩具足の凡夫」と嘆いている人も、阿弥陀如来の本願を学べば自ずと浅い願いが転じられ、生命本来の深い心が私の奥底から呼び覚まされ、わが身に満ちて南無阿弥陀仏の主体となり、周囲から社会に展開してゆくのです。

 次に「他力本願」についてですが、親鸞聖人が著書で「他力本願」の言葉を使用されたのは2箇所であり、「本願他力」は4箇所使ってみえます。「本願他力」の2箇所は七高僧の徳を称える『高僧和讃』にあり、後は『唯信鈔文意』と『御消息』にあります。例えば――

 「但使回心多念仏」といふは、「但使回心」はひとへに回心せしめよといふことばなり。「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。実報土に生るるひとはかならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」と申すなり。「多」は大のこころなり、勝のこころなり、増上のこころなり。大はおほきなり、勝はすぐれたり、よろづの善にまされるとなり、増上はよろづのことにすぐれたるなり。これすなはち他力本願無上のゆゑなり。自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

『唯信鈔文意』3 より

意訳▼(現代語版 より)
 「但使回心多念仏」というのは、「但使回心」とは、ひとえに回心しなさいという言葉である。「回心」というのは、自力の心をあらため、捨てることをいうのである。真実の浄土に生れる人には、決して壊れることのない他力の信心が必ずおこるのであり、このことを「多念仏」というのである。「多」は、「大」の意味であり、「勝」の意味であり、「増上」の意味である。「大」は「おおきい」ということである。「勝」は、「すぐれている」ということであり、あらゆる善にまさっているということである。「増上」とは、あらゆるものよりすぐれているということである。これはすなわち、他力本願がこの上なくすぐれているからである。自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは、具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無碍光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

 とあり、また『唯信鈔文意』1には――「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ」(本願他力におまかせして自力を離れていること、これを「唯信」という)とあり、『親鸞聖人御消息』26には――「詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき」(しょせん、み名を称えるといっても、他力の本願を信じないようでは、辺地に生まれるでしょう。本願の他力を深く信じようとする人たちがどうして辺地に生まれましょうか、生まれることはありません)とある通りです。

 このように、親鸞聖人は「他力本願」と「本願他力」は同じ意味に使われてみえるようですが、「辺地」とは法悦に留まる生き方のことで、この法悦を批判しているのです。法悦とは、求道心の主体を失った状態で、「阿弥陀如来にお任せすれば助かる」という言葉を無批判に受け入れ、如来の真意を尋ねず、自らの仏性の華を開かせる努力もせず、「ありがたい、もったいない」と訳も分からず思い込み、一人悦に入っている自己満足の信仰心をいいます。
「みづからが身をよしとおもふこころ」というのは、こうした表層の欲望や理性や意志そのままの身であり、この浅い身のまま何もせずに救われると勘違いし満足している心です。
 これでは真の「南無」が無い。南無阿弥陀仏の主体がまだ阿弥陀仏のままで、南無が立ち上がっていないのです。自分自身が南無阿弥陀仏の主体になっていなければ、阿弥陀仏に融けて食われてしまいますので、自分が現実に生きる意味を見失ってしまいます。こうなると結局、無責任で社会性の無い「後生だのみのろくでなし」人間になってしまいがちです。

 仏教はこうした他律的な信仰ではなく、主体的な菩提心である信心が要めなのです (参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?})。見よ、宿業の毒はこの身に染み込んでおり、足元は浄土をはるか離れて漂っているではないか――嘆いても嘆き尽くせぬわが身が問題になって、はじめて本願に我が心が転じられた意味を知るのです。
 本願に転じられれば「実報土に生るるひとはかならず金剛の信心のおこる」とある通り、如来の深い心がわが身に宿り、時を得てこの菩提心が展開し始めるのですが、これは決して壊れることの無い心ですから金剛心とも言うのです。金剛心はどこにあるのでしょう。他者や自分勝手に作った心ならば縁によって崩れますが、深い本来の心は縁によって壊れることもなく、縁それぞれを生かす根本となるのです。

わが心 深き底あり 喜びも 憂いの波も とどかじと思う

(西田幾太郎)

 曇鸞大師の仰る他力

 ところで仏教史上初めて「他力」という言葉を肯定的に使われたのは曇鸞大師ですから、師の胸の内も聞いてみようと思います。
『往生論註』には「他力」の記述は5個所ありますが、上巻には1箇所、それもごく初めに記されています。

 つつしみて龍樹菩薩の『十住毘婆沙』(易行品・意)を案ずるに、いはく、「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。 一には難行道、二には易行道なり」と。 「難行道」とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。 この難にすなはち多途あり。 ほぼ五三をいひて、もつて義の意を示さん。 一には外道の相善は菩薩の法を乱る。 二には声聞は自利にして大慈悲を障ふ。 三には無顧の悪人は他の勝徳を破る。 四には顛倒の善果はよく梵行を壊つ。 五にはただこれ自力にして他力の持つなし。 かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。 たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。 「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。 正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。 たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。 この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。

『往生論註』 巻上 1 より

意訳▼(聖典意訳 より)
 謹んで龍樹菩薩の《十住毘婆沙論》(《易行品》)をうかがうに、菩薩が不退の位を求めるのに二種の道がある。一つには難行道、二つには易行道である。難行道とは、五濁の汚れた世、仏のましまさぬ時に、不退の位を求めることを難とする。この難は多いが、略して少しばかり挙げて説明しよう。
一つには、仏教にまぎらわしい外道の善が菩薩の修行の法を乱す。
二つには、自己のさとりのみを求めるところの声聞の修行の法が、菩薩の大慈悲を行うことをさまたげる。
三つには、人のことをかえりみない悪人が他人の修行を破る。
四つには、迷いの中の善果である人天の果報に執着して仏道の行をそこなう。
五つには、ただ自力のみであって他力の支持がない。
このようなことは眼に見るところ、皆これである。これをたとえていえば、陸路を徒歩で行くことは、苦しいようなものである。易行道とは、ただ仏を信ずることによって浄土の往生を願えば、如来の願力によって浄らかな国土に生まれ、仏力によってただちに大乗正定聚の部類に入ることができる。その正定聚とは不退の位である。これをたとえていえば、水路を船で行くことは楽しいようなものである。今、この《無量寿経優婆提舎願生偈》(《浄土論》)にあらわすところの法は、すなわち易行道であって、大乗の中の極致であり、速やかに不退の位に至る帆かけ船である。

 曇鸞大師は元は四論の大家ですから、天親菩薩の『浄土論』を註釈するのにも、まず龍樹菩薩の思想に照らして筆を進めます。

「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり」の「菩薩」とは求道者であり、「阿毘跋致を求むる」とは、正定聚・不退転の位(41段以上の地位)を求めることをいいます。退転の菩薩は、信位・住位・行位・回向位と修行する過程で、順調に修行が進んでいても、魔が差して一気に転落する危険があります。しかし不退転の菩薩になれば歓喜地を得ますので、後は必ず仏と成るべく道を進むだけとなりますので、菩薩はまずはこの「阿毘跋致」つまり「正定聚不退転の位」を求めたのです (参照:{正定聚・不退転の菩薩について})。
「二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり」の「難行道」とは仏の浄土を依りどころとしない道であり、「易行道」とは「恭敬心をもつて、執持して名号を称すべし」(十住毘婆沙論)とありますように、たとえば「南無阿弥陀仏」というような名号を称えることで不退転の菩薩に成ることができる、というのです。
 これにはどういういわれがあるのかと言いますと、たとえば『大経義疏』(法位)には「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり(仏がたはみなその功徳を名号におさめる。だから、名号を称えることは、仏の功徳をたたえることである)とありますように、「恭敬心をもつて、執持して名号を称す」ることで、仏の功徳がたたえられるのであり、たたえるということは、仏の功徳がどんなものか知り、よく解する必要が生じてくるわけです。この必要に応じていくところに仏の導きがあるのであり、これを「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る」というのでしょう。
 こうした努力はもちろん必須ですが、努力せしむるはたらきは仏願力が先手ですからこれを他力といい、他力は「易行道」という易しい道であり、努力といっても「水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし」で、人生を楽しみながら道を求めることができるわけです。
 もちろん、人生には苦悩多く、社会には不正もはびこり、決して楽しいばかりではありませんが、仏願力に乗じて道を求めれば、苦悩が活かされてゆく道を得ることになり、結果として仏法が楽しみをもたらすことになるのです。「楽」は何もしない安気なことではなく「生き甲斐を得る」という意味で、「極楽」はその極みでしょう。

『往生論註』はこの導きに随うように『浄土論』(天親菩薩)の五念門を釋し、名に施された徳を明かにしていきます。中でも「観察門」にその大半を注がれ、丁寧な註釈によって道程を明かにしようとされた菩薩や鸞師のお心には本当に頭が下がります。

「他力」の記述の後の4個所は、これら五念門を説き終わった下巻の最後の方にあります。

 問ひていはく、なんの因縁ありてか「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得」といへる。
答へていはく、『論』(浄土論)に「五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑなり」といへり。 しかるに覈に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。 他利と利他と談ずるに左右あり。 もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。 衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。 いままさに仏力を談ぜんとす。 このゆゑに「利他」をもつてこれをいふ。 まさにこの意を知るべし。 おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。 なにをもつてこれをいふとなれば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれ徒設ならん。 いま的らかに三願を取りて、もつて義の意を証せん。
願(第十八願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方の衆生、心を至して信楽してわが国に生ぜんと欲して、すなはち十念に至るまでせん。 もし生ずることを得ずは、正覚を取らじ。 ただ五逆と誹謗正法とを除く」と。 仏願力によるがゆゑに十念の念仏をもつてすなはち往生を得。 往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。 輪転なきがゆゑに、ゆゑに速やかなることを得る一の証なり。
願(第十一願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、国のうちの人天、正定聚に住してかならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。 仏願力によるがゆゑに正定聚に住す。 正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至りて、もろもろの回伏の難なし。 ゆゑに速やかなることを得る二の証なり。
願(第二十二願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟してかならず一生補処に至らん。 その本願の自在に化するところありて、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道に立せしめんをば除く。 常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。 もししからずは、正覚を取らじ」と。 仏願力によるがゆゑに、常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。 常倫諸地の行を超出するをもつてのゆゑに、ゆゑに速やかなることを得る三の証なり。 これをもつて推するに、他力を増上縁となす。 しからざることを得んや。
 まさにまた例を引きて、自力・他力の相を示すべし。 人の三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。 禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。 禅定をもつてのゆゑに神通を修習す。 神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。 かくのごとき等を名づけて自力となす。 また劣夫の驢に跨りて上らざれども、転輪王の行に従ひぬれば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに、障礙するところなきがごとし。 かくのごとき等を名づけて他力となす。 愚かなるかな、後の学者、他力の乗ずべきことを聞きて、まさに信心を生ずべし。 みづから局分することなかれ。

『往生論註』 巻下 126 より

意訳▼(聖典意訳 より)
 問うていう。どういうわけで「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上仏果)を成就することを得る」といわれたのか。
 答えていう。《浄土論》に「菩薩が五門の行を修めて自利利他を成就するからである」といわれてある。ところで、衆生が五念門の徳を成就して速やかに無上の仏果を得る本をあきらかに究めてみると、阿弥陀如来を最上の力とするのである。
 他利と利他とは、そのいい表わしかたに相違がある。仏の方からいうならば、仏が他の衆生を利益するのであるから、よろしく利他というべきであり、衆生の方からいうならば、衆生が他である仏に利益せられるのであるから、よろしく他利というできである。いまは仏力を語ろうとするのであるから「利他」といわれたのである。この意味をよく知るべきである。
 およそ、衆生が、かの浄土に生まれることも、浄土に生まれてからさまざまのはたらきを現わすことも、みな阿弥陀如来の本願力によるのである。なぜならば、もし仏力によるのでなかったなら、四十八願はいたずらに設けられたことになるからである。今これに相当する三願を引いてそのわけを證明しよう。
 第十八願に「もし、わたしが仏になったとき、十方の衆生が心からわたしを信じ喜び、往生をねがい、十念念仏して、往生することができぬなら、決して仏となるまい。ただ五逆の罪を造り、正法を謗る者を除く」と誓われている。この仏願力によるから、十念念仏して往生を得る。往生を得るから三界にさまよわない。さまよわないから速やかに仏となることができる。これが一つの證拠である。
 また、第十一願に「もし、わたしが仏となったとき、国の中の人たちが正定聚に住してかならず滅度のさとりに至ることができないならば、決して仏となるまい」と誓われている。この仏願力によるから正定聚に住する。正定聚に住するから、かならず滅度のさとりを得るのであって、ふたたび退転することがない。それゆえ、速やかに仏となることができる。これが二つの證拠である。
 また、第二十二願に「もし、わたしが仏になったとき、他方の国の菩薩たちが、わが国に生まれてくれば、ついにはかならず一生補処の位に至らせよう。ただし、各自の希望によって、自在に衆生を化益するために、ひろい誓いを立て善根功徳を積んで、すべての者を救い、多くの仏国に出かけて菩薩行を修め、諸仏を供養し、数かぎりない衆生を導いて無上のさとりを得させることも自由にできよう。かくて、つねなみの菩薩の道にこえすぐれて諸地の行が現われ、普賢の徳を修めることができよう。もし、そうでなければ決して仏となるまい」と誓われている。この仏願力によるから、つねなみにこえて諸地の行が現われ、普賢の徳を修めることができる。つねなみにこえて諸地の行が現われるから速やかに仏となることができる。これが三つの證拠である。
 こういうわけで他力の意味を考えてみるに、如来の本願力を最上の力とするのである。どうしてそうでないということができようか。
 さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が三途におちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつからよく禅定を修め、禅定をおさめるから神通力を得、神通力を得るからよくあらゆる世界へ自由自在に行くことができる。こういうことを自力という。また、劣った者が驢馬に乗っても空へのぼる力はないが、天輪王の行幸に従えば、虚空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。こういうことを他力というのである。
 尊いみ法に遇うたことである。後の代の行者よ、よろしく他力に乗託すべきことを聞いて、信心を生ぜよ、決して自力にこだわってはならぬ。

 少し引用が長くなりましたが他力についてもう少し詳しく求めてみましょう。
 この流れで「五門の行を修して、自利利他成就する」と言えば、一般的には私たち念仏の行者が行なうことと思いますが、「もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし」とありますように、「自利利他成就する」は「仏よりして」言うことがらである、というのです。
 ただしこれは、自分がしなくても如来がみなやってくれる、という理屈ではありません。自分がやったようでいて実は「みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり」というように、本願力に乗じたところからしていた。自分が立ったか如来が立ったか、衆生と仏が一体となった生活を言うのです。
 このことは例えば、第十八願では――「十念の念仏をもつてすなはち往生を得」て「三界輪転」に迷わない。第十一願では――「正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至りて、もろもろの回伏の難なし」。第二十二願では――「現前に普賢の徳を修習せん」と志し「常倫諸地の行を超出する」(つねなみにこえて諸地の行が現われる)。このようなわけで、成仏が「速やかなることを得る」のです。

 そして、「阿弥陀如来を増上縁となす」とも「他力を増上縁となす」とも言われてますので、親鸞聖人は「他力といふは如来の本願力なり」(『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 他力釈81)と結論づけられたのです。

 そして最後に、自力と他力の違いを短くまとめてみえます。
 自力は――「人の三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定をもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。かくのごとき等を名づけて自力となす」(人が三途におちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつからよく禅定を修め、禅定をおさめるから神通力を得、神通力を得るからよくあらゆる世界へ自由自在に行くことができる)とありますように、地獄・餓鬼・畜生の三悪道を離れるために、戒律を守り禅定を修して神通力を得て四天下に遊ぶ。「四天下」とは須弥山を中心として東西南北にある4つの大陸で、言わば地球上の全ての大陸、という意味でしょう。これは、実際に世界中を旅行することではありません。身を動かさずして四天下に遊ぶのです。行住坐臥、日々の生活において常に全世界のことを念じて行動することを言います。
 大乗仏教では、声聞や縁覚の二道に陥ることを「もし二乗地に堕すれば、すなはち大怖畏となす。地獄のなかに堕するも、畢竟じて仏に至ることを得」(助道法)といい、自分だけの法悦にひたったり、他人を尊敬し供養することができないことを、「地獄に堕ちるよりなお悪いこと」としてきました。仏道を歩んである程度勉強が進むと、つい自己満足にひたったり、自説を是とし他人を教化対象としてしか見ないようになってしまいます。こうした自己満足や思い上がりが1番いけないのです。だからこそ難行道なのです。難しいことをするのが難行道ではありません。「難しいことをした」という自己満足や思い上がりを破くのが難しいのです。

 他力は――「劣夫の驢に跨りて上らざれども、転輪王の行に従ひぬれば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに、障礙するところなきがごとし。かくのごとき等を名づけて他力となす」(劣った者が驢馬に乗っても空へのぼる力はないが、天輪王の行幸に従えば、虚空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない)とあります。
「劣夫」とは劣った者という意味ですが、本来は仏であると覚りながらも自力の表層に執われて二道に陥る性質が抜けないので、「性根なしの私ですが」という敬虔な心をもって「転輪王の行に従ひぬれば」、つまりここでは阿弥陀仏の本願力に乗託すれば、という意味であり、具体的には、阿弥陀如来の本願を学びその成就の経緯を聞き開くことで、「虚空に乗じて四天下に遊ぶ」ことができるのです。
「虚空に乗じて」と言うあたり曇鸞大師が四論の大家であった片鱗が見えていますが、これが「仏教と相応せん」と志した天親菩薩のお気持ちに本当に添っているのかどうか。また本当に『仏説無量寿経』に相応した解釈であるかどうかは別に見なくてはならないでしょう。正確には「虚空に乗じて」ではなく「本願力に乗じて」ですが、譬えですから一応受け入れながらも、本願は虚空そのものではない、ということはよくよく認識しておかねばならないでしょう。虚空の如くはたらきますが、人間の血となり汗となり涙に寄り添った温かい寿[いのち]の発露です。
 そして「四天下に遊ぶ」ということは本当に大切で、つい自分達だけの価値観に執われ「文明の衝突」を起こしている現代社会ですが、様々な民族や国家の歴史や多種多様な価値観を尊み学んでいく、そうした柔軟な姿勢が必要な時でしょう。


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