平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
質問:
悪人正機とは何か? 悪人の概念を4つ挙げるとしたら何になるんでしょうか?
|
先生がどういう趣旨で「悪人の概念を4つ挙げ」なさいと言われたか、そのあたりが定かではないのですが、とりあえず、私の理解の範囲内でお答えさせて頂きます。
また、『悪人正機』というのは、明治以後の浄土真宗では、親鸞の思想の代名詞のように扱われてきましたが、実は『現生正定聚』や『往相回向・還相回向』の方が重要な思想なので、まずそのことだけはお断りしておきます。
さて、一般に悪人と言いますのは、『法的な悪人』と『道徳的な悪人』が挙げられます。この二つの悪人は一般常識で分かると思います。これはどちらも、その時代の善悪の標準で悪人とされる、いわば外側からの評価です。その中で、法律的に問題があり過料や刑罰が伴う場合は『法的な悪人』。周りの人が迷惑したり、人としての道に外れていると判断された場合は『道徳的な悪人』となります。
ここから先は内面的な問題になります。
まず、宗教的な悪人という言い方ができると思いますが、内側からの目覚めによる『自覚的な悪人』で、自らの行動に眼が届き、己の悪人としての自覚が生まれます。
ここから慚愧・懺悔がはじまるのですが、仏教や他の宗教でもこの行為は非常に重要な徳目とされます。なぜなら、己の姿は確かに悪人ですが、悪人であると気づいた眼は尊く、これを仏心の種とするからです。
ただ、懺悔の度合いも様々で、善導大師の『往生礼讚』では「身体の毛穴から血を流し、眼の中から血を出すほど悔いるのを、本物の懴悔という」と示されまして、そこまでできなくても「涙や血を流す事が出来なくても、本当の信心が仏より至りとどいた者は懴悔をなしたと同じである」と、いうことです。
たいていの宗教はここまでですが、さらに親鸞聖人は、『根源的な悪人』というところまで、自らを深く見つめます。
私たちの悪業の深さは、無限の過去より今にいたるまで絶え間なく続いていることの表れであって、決して懺悔して、し尽くせるような次元ではないのだ、というものです。いわば人類や生物が代々作り出してきた歴史的な業でしょうか。世界と自分はつながっている。ゆえに自分の悪の根深さは人類全体で積み重ねてきた悪業とつながっているのです。
このあたりを「顕浄土真実教行証文類」には
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
と表されています。
しかし、そこにこそ阿弥陀如来のはたらき場所があり、聖人は、決してそうした悪人を見捨てないという如来の願いにうなずかれたわけです。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり
裏から言えば、私の存在を認め尊ばれた如来の本願に照らされてこそ見える私の悪人としての姿であり、自らの懺悔によって見た悪人の姿ではない、ということです。この点、法を説く側も気をつけるべきで、相手を悪人と決め付ける中では本当の懺悔はできないと心得てほしいと思います。
さらに、こうした懺悔は自らの問題に留まらず、一切衆生に開かれた懺悔であり、覚りを求める心である無上菩提心は、人々を覚りに導く度衆生心となって念仏行者の身に満ちてはたらくのです。
次に『悪人正機』ですが、これは以下の文に著されている思想です。
一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。[歎異抄 第三条]
▼意訳(現代語版)
善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。
ところが世間の人は普通「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころ反しています。なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。
あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。阿弥陀仏は、それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、そのおこころはわたしどものような悪人を救いとって仏にするためなのです。ですから、この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。
それで、善人でさえも往生するのだから、まして悪人はいうまでもないと、聖人は仰せになりました。
さて、『悪人正機』のおしえは、様々に解釈されますが、上記の4種の悪人のうちどれを言ったのかが問題になります。といいますのは、「歎異抄」は親鸞直筆の書ではなく、弟子の筆であるため、しばしば微妙な点でずれが出てくるためです。
親鸞聖人の書かれた「正像末和讃」(九七)では
無慚無愧のこの身にてとあります。
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
「慚愧さえできないわが身」ということですから、『自覚的な悪人』という意味より、どちらかというと自分を『根源的な悪人』と見てみえるようです。
一般的な解釈では「自力をたのみとする人は弥陀をたのむ心が欠けるから、本願の救いにあずかりにくい」、「悪人は自力のこころをひるがえしているから真実報土の往生をとげられる」と善人悪人を対照的にとらえる訳ですが、これでは単に善悪の評価基準が変わっただけで、善悪を超えた教えとはなっていません。事実、『自覚的な悪人』を誇る人さえ出る始末です。
誰が善人で誰が悪人か、善人が助かるのか悪人が救われるのか、そうした相対的な理解こそ自力といえるでしょう。そして『悪人正機』とは、そうした迷いを縁(正機)として、善悪を超えて、生きることの辛さ悲しさに共感し、叫びやうめきを抱きとめて下さる如来の大きな願いに気付かせてもらうことを啓蒙する言葉なのです。
さらにいえば、「正機」とは入門であり初心です。初心を忘れて善人面することは慎むべきでしょうが、如来の本願が成就すれば衆生に真の善心を生じせしめる意が経典に書かれてあります。門の近辺にいつまでも留まらず、如来の奥深い世界に学び、浄土の功徳を身に満たし、如来回向の善を世に展開していただきたいと思います。