平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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質問:
なぜ同じ浄土真宗なのに各宗派があるんですか? |
『真宗教団連合』というものが浄土真宗十派で結成されています。なぜ十派に分かれているか・・・一見喧嘩別れしたようにもみえますが、宗祖親鸞聖人の血縁である西・東本願寺の宗派と、親鸞聖人の弟子たちを中心とする門徒集団の宗派ができただけです。
親鸞聖人自身は、開宗の意識はお持ちでなかったため、当時の鎌倉時代には浄土真宗という教えはありましたが、教団としての浄土真宗はなかったのです。
その後、親鸞聖人が亡くなり聖人の布教された全国の所々に、親鸞聖人の弟子や門徒が寄り集まって各派ができたものとみられています。最初にできた派が、真仏上人のたてられた“真宗高田派”で、次に覚如上人が“本願寺”を、そして高田派から布教のために別れた源海上人が“仏光寺派”を、というように次々に真宗各派ができていったのです。
真宗各派の開基の上人方(本願寺の覚如上人を除く) の立場は、当時の仏教界では(親鸞聖人は、弟子を持たぬ、皆御同朋御同行だ、とおっしゃっていますが) 師匠から一人前と認められ、独立を許されたようなものです。親鸞聖人御自身は教団を組織するつもりがありませんでしたので、親鸞聖人が亡くなった後は、各宗派それぞれ各々の考え方で教団組織を維持していきました。こんなふうに時代をへますと、各教団それぞれの独自性といったものも出てきますので、1つの大教団にはまとまりようがないのです。
西・東本願寺の場合は他の8派とはちょっと違った理由で2派に別れたのです。歴史的なことになりますが、織田信長が教団を弾圧したことはご存じだと思います。そのときの本願寺の本山は現大阪城がある『石山本願寺』でしたが、信長の弾圧によってそこで戦争が起こったわけです(石山合戦)。相手は武士で玄人、本願寺の多くは素人。尼崎門徒などが信長に焼き討ちされ、それを知った当時の本願寺11代門主顕如上人はすぐに信長に降伏したのです。そして、本願寺は5000貫出したのですが、信長は本山の用地まで没収しようとしたのです。
今度は門徒たちが怒りだし、三重県長島の門徒を中心に一向一揆に発展しましたが、こちらも負けてしまいました。信長の方は長島で和解を要求し、その内容は「門主顕如とその跡取り、幹部が紀伊に退去したのを見届けてから、我々は退去する」というものでしたが、顕如上人の長男である教如上人(後の大谷法主) は「我々が退去した後で信長がせめてこないという保証はない」と疑義を唱えたことで、父、顕如上人の気を悪くしてしまったようです。
教如上人が思われたとおりに、信長は降伏した門徒たちを約束とは反し、次々に虐殺していったのです。ここでまた、教如上人は「徹底的に対抗すべき」といわれたのですが、やはり、降伏を推進する顕如上人との間柄が悪くなっていき、最後に義絶してしまったわけです。この義絶問題はほかにも、顕如上人が信長を欺くためという説もあるのです。
石山合戦が終戦を迎えた直後、教如上人の義絶は解かれたのです。顕如上人が亡くなり本願寺12代門主はやはり長男の教如上人でしたが、門主になって1年もたたないうちに教如上人は豊臣秀吉によって門主をやめさせられるのです。秀吉は11箇条の令を出して、門主をなぜか次男の准如上人に譲るとしたため、本願寺12代門主は准如上人となったのです。引退を余儀なくされた教如上人は、裏方となりましたが、石山合戦でも分かるように“行動派”です。いろいろと古文書を解読するなどと門主のような仕事をしていたようです。
ここで、関ヶ原の合戦で豊臣家から勝利を奪った徳川家康は、宗教改革の一環として、“行動派”の教如上人に目を付け、今の東本願寺のある場所を譲り分けて新たな本願寺を建設(この時『東西分派の誓詞』二十五か条が交わされる)させて、真宗大谷派(東本願寺)ができたのです。
本願寺 | → | 親鸞聖人の血縁 |
その他 | → | 親鸞聖人の弟子・地域門徒の集結 |
4/4 [S.K]