[index]    [top]

ご本願を味わう

『仏説無量寿経』14

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 弥陀果徳 宝樹荘厳

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 また、その国土に七宝のもろもろの樹、世界に周満せり。金樹・銀樹・瑠璃樹・玻リ樹・珊瑚樹・碼碯樹・シャコ樹なり。あるいは二宝・三宝、乃至七宝、うたたともに合成せるあり。あるいは金樹に銀の葉・華・果なるあり。あるいは銀樹に金の葉・華・果なるあり。あるいは瑠璃樹に玻リを葉とす、華・果またしかなり。あるいは水精樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。あるいは珊瑚樹に碼碯を葉とす、華・果またしかなり。あるいは碼碯樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。あるいはシャコ樹に衆宝を葉とす、華・果またしかなり。あるいは宝樹あり、紫金を本とし、白銀を茎とし、瑠璃を枝とし、水精を条とし、珊瑚を葉とし、碼碯を華とし、シャコを実とす。あるいは宝樹あり、白銀を本とし、瑠璃を茎とし、水精を枝とし、珊瑚を条とし、碼碯を葉とし、シャコを華とし、紫金を実とす。あるいは宝樹あり、瑠璃を本とし、水精を茎とし、珊瑚を枝とし、碼碯を条とし、シャコを葉とし、紫金を華とし、白銀を実とす。あるいは宝樹あり、水精を本とし、珊瑚を茎とし、碼碯を枝とし、シャコを条とし、紫金を葉とし、白銀を華とし、瑠璃を実とす。あるいは宝樹あり、珊瑚を本とし、碼碯を茎とし、シャコを枝とし、紫金を条とし、白銀を葉とし、瑠璃を華とし、水精を実とす。あるいは宝樹あり、碼碯を本とし、シャコを茎とし、紫金を枝とし、白銀を条とし、瑠璃を葉とし、水精を華とし、珊瑚を実とす。あるいは宝樹あり、シャコを本とし、紫金を茎とし、白銀を枝とし、瑠璃を条とし、水精を葉とし、珊瑚を華とし、碼碯を実とす。このもろもろの宝樹、行々あひ値ひ、茎々あひ望み、枝々あひ準ひ、葉々あひ向かひ、華々あひ順ひ、実々あひ当れり。栄色の光耀たること、勝げて視るべからず。清風、時に発りて五つの音声を出す。微妙にして宮商、自然にあひ和す。

 『浄土三部経(現代語版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

 またその国土には、七つの宝でできたさまざまな樹々が一面に立ち並んでいる。金の樹・銀の樹・瑠璃[ルリ]の樹・水晶の樹・珊瑚[サンゴ]の樹・瑪瑙[メノウ]の樹・シャコの樹というように一つの宝だけでできた樹もあり、二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある。
 金の樹で銀の葉・花・実をつけたものもあり、銀の樹で金の葉・花・実をつけたものもある。また、瑠璃の樹で水晶の葉・花・実をつけたもの、水晶の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたもの、珊瑚の樹で瑪瑙の葉・花・実をつけたもの、瑪瑙の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたものもある。
あるいは、シャコの樹でいろいろな宝の葉・花・実をつけたものなどもある。 さらにまた、ある宝樹は金の根・銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、瑪瑙の花、シャコの実でできている。 ある宝樹は銀の根、瑠璃の幹、水晶の枝、珊瑚の小枝、瑪瑙の葉、シャコの花、金の実でできている。 ある宝樹は瑠璃の根、水晶の幹、珊瑚の枝、瑪瑙の小枝、シャコの葉、金の花、銀の実でできている。 ある宝樹は水晶の根、珊瑚の幹、瑪瑙の枝、シャコの小枝、金の葉、銀の花、瑠璃の実でできている。 ある宝樹は珊瑚の根、瑪瑙の幹、シャコの枝、金の小枝、銀の葉、瑠璃の花、水晶の実でできている。 ある宝樹は瑪瑙の根、シャコの幹、金の枝、銀の小枝、瑠璃の葉、水晶の花、珊瑚の実でできている。 ある宝樹はシャコの根、金の幹、銀の枝、瑠璃の小枝、水晶の葉、珊瑚の花、瑪瑙の実でできている。
 これらの宝樹が整然と並び、幹も枝も葉も花も実も、すべてつりあいよくそろっており、はなやかに輝いているようすは、まことにまばゆいばかりである。ときおり清らかな風がゆるやかに吹いてくると、それらの宝樹はいろいろな音を出して、その音色はみごとに調和している。


 七宝の諸樹

 今回「宝樹荘厳」について学ぶのですが、これは全体として言えば、人と人が真心で触れ合って、個性と個性が映えあい、また対立が生まれながらも浄土の土徳によって協和に転じてゆく≠ニいう内容です。

註釈版
 また、その国土に七宝のもろもろの樹、世界に周満せり。金樹・銀樹・瑠璃樹・玻リ樹・珊瑚樹・碼碯樹・シャコ樹なり。
現代語版
 またその国土には、七つの宝でできたさまざまな樹々が一面に立ち並んでいる。金の樹・銀の樹・瑠璃[ルリ]の樹・水晶の樹・珊瑚[サンゴ]の樹・瑪瑙[メノウ]の樹・シャコの樹というように一つの宝だけでできた樹もあり

 ここで解かなければならない問題は、「七宝」とは何か≠ニいうことと、「もろもろの樹」とは何か≠ニいうことです。
「七宝」はここでは、金・銀・瑠璃[ルリ](青色の玉の類)・玻リ[ハリ](赤・白などの水晶やガラス)・珊瑚[サンゴ]赤珠[シャクシュ])・瑪瑙[メノウ](深緑色の玉)・シャコ(大蛤などの貝や白珊瑚)の貴重な玉石が数えられています。その他適宜、金剛・如意珠・琥珀[コハク]真珠[シンジュ]摩尼珠[マニシュ]・明月珠・摩羅迦陀[マラガタ](緑色宝)・甄叔迦[ケンシュクカ](赤宝)・釈迦毘陵迦[シャカビリョウガ](能勝)などを組み合わせて「七宝」としていますが、組み合わせが多数あることからみても、浄土における「七宝」は宝石そのものをいうのではなく、「仏法は仏宝」で、仏法上の宝を宝石で象徴していることが解るでしょう。

 仏法上の宝ということで「七宝」を探れば、七財(七聖財[シチショウザイ]・七法)もしくは七菩提分[シチボダイブン]七覚分[シチカクブン]七覚支[シチカクシ])の果報が浮かび上がってきます。
「七財」は、「信(自他や人生を信じる)・戒(身を慎む)・[ザン](天に恥じ久遠に恥じる)・[](己に恥じる)・聞(法を聞き開く)・捨(執着を離れる)・[](まごころの智慧)」、
「七菩提分」は、「択法覚支[チャクホウカクシ](教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる)・精進覚支[ショウジンカクシ](真の正法を択び取ったらそれに専念し精進する。一心に努力する)、喜覚支[キカクシ](真実の教えを実行する喜びに住する)・軽安覚支[キョウアンカクシ](身心を常にかろやかで快適な状態に保つ)・捨覚支[シャカクシ](対象へのとらわれを捨てる。なにごとにも執着しない)・定覚支[ジョウカクシ](心を集中して乱さない)・念覚支[ネンカクシ](常に禅定と智慧を念じ、おもいを平らかに偏見をもたない)、を言います。
(参照:
{仏説無量寿経10「#浄土の基本的な内容」}{荘厳地功徳成就「#七重の行樹と欄楯」}

 ところで、この「宝樹荘厳」を成就せしめた願いは何かというと、{妙香合成の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、地より以上、虚空に至るまで、宮殿・楼観・池流・華樹・国中のあらゆる一切万物、みな無量の雑宝、百千種の香をもつてともに合成し、厳飾奇妙にしてもろもろの人・天に超えん。その香あまねく十方世界に熏じて、菩薩聞かんもの、みな仏行を修せん。もしかくのごとくならずは、正覚を取らじ>という第三十二願にあります。
 因位において本願を建て永劫の修行を経て成就した報土が安楽浄土ですから、浄土の依報荘厳はみな「無量の雑宝」によって成立しているわけです。すると「華樹」も「無量の雑宝」で飾られているのですから、「七宝」の「七」は単なる数字ではなく「無量」を宿した内容であると領解できるでしょう。
 するとあらためて、なぜここでは「無量宝」ではなく「七宝」なのか≠ニいう問いがでてきます。ちなみにこの『仏説無量寿経』では、因位においては一度も「七宝」という表現は使われていません。先の「弥陀果徳 十劫成道」において初めて「七宝」とあり、以後は頻繁に使用されます。

 この問いに真心をもって経意を領解せん≠ニ願えば、いくつかの理由が胸に至ります。
 まず、本願は因位においてでありますから、万感の思いを込めて「無量の雑宝」と限定をつけずに願えるのですが、実際の成就を説く果位においては少しでも具体相を示す必要がありますから、「七宝」と限定をつける数字が入ったのでしょう。。
 さらに、なぜ限定的な数字として「7」が選ばれたかというと、七財や七菩提分を念頭に置いて選んでいる可能性もあるのですが、古代インドでは「6」を満数とする習慣があったため、満数を超える無量の意を宿した数字として「7」が使われたと考えられます。もちろん七財や七菩提分も、無量の意を宿して七つの徳目が選ばれたのかも知れません。

 次に「もろもろの樹」(諸樹)について。
 これは「宝樹」であり「行樹」を言います。「行」は迷いの業とは違い、真心から願いをもって行うことで、解りやすく言えば修行の「行」です。「樹」は<慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す>と聖人が仰る通り「たてる」や「うえる」意ですから、浄土の宝樹・行樹は「正定聚の菩薩・念仏生活を行う行者」という意味であり、また如来回向の信心行・確立された念仏生活という意味でもあるでしょう。行と行者は分けて考えないのです。これは、釈尊がピッパラー樹のもとで覚りを開かれ、以来この木が菩提樹と呼ばれるようになった故事も影響しているのでしょう。ゆえに浄土の七宝諸樹とは、念仏者もしくは念仏の行が七宝に象徴される無量の雑宝によって成っていて、浄土全体に満ち溢れていることを顕しているのでしょう。
 さらに言えば、「正定聚の菩薩・念仏生活・念仏生活を行う行者」は、仏教徒という限定された中での菩薩を言うだけではなく、世界全体に目を向けて、人間そのものが生きてはたらく無量の宝である≠ニ、一切衆生を御同朋・御同行と見開いたところで七宝の諸樹と称えていると見ることもできます。

 七宝のコラボレーション

註釈版
あるいは二宝・三宝、乃至七宝、うたたともに合成せるあり。あるいは金樹に銀の葉・華・果なるあり。あるいは銀樹に金の葉・華・果なるあり。あるいは瑠璃樹に玻リを葉とす、華・果またしかなり。あるいは水精樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。あるいは珊瑚樹に碼碯を葉とす、華・果またしかなり。あるいは碼碯樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。あるいはシャコ樹に衆宝を葉とす、華・果またしかなり。あるいは宝樹あり、紫金を本とし、白銀を茎とし、瑠璃を枝とし、水精を条とし、珊瑚を葉とし、碼碯を華とし、シャコを実とす。あるいは宝樹あり、白銀を本とし、瑠璃を茎とし、水精を枝とし、珊瑚を条とし、碼碯を葉とし、シャコを華とし、紫金を実とす。あるいは宝樹あり、瑠璃を本とし、水精を茎とし、珊瑚を枝とし、碼碯を条とし、シャコを葉とし、紫金を華とし、白銀を実とす。あるいは宝樹あり、水精を本とし、珊瑚を茎とし、碼碯を枝とし、シャコを条とし、紫金を葉とし、白銀を華とし、瑠璃を実とす。あるいは宝樹あり、珊瑚を本とし、碼碯を茎とし、シャコを枝とし、紫金を条とし、白銀を葉とし、瑠璃を華とし、水精を実とす。あるいは宝樹あり、碼碯を本とし、シャコを茎とし、紫金を枝とし、白銀を条とし、瑠璃を葉とし、水精を華とし、珊瑚を実とす。あるいは宝樹あり、シャコを本とし、紫金を茎とし、白銀を枝とし、瑠璃を条とし、水精を葉とし、珊瑚を華とし、碼碯を実とす。このもろもろの宝樹、行々あひ値ひ、茎々あひ望み、枝々あひ準ひ、葉々あひ向かひ、華々あひ順ひ、実々あひ当れり。栄色の光耀たること、勝げて視るべからず。

現代語版
二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある。
 金の樹で銀の葉・花・実をつけたものもあり、銀の樹で金の葉・花・実をつけたものもある。また、瑠璃の樹で水晶の葉・花・実をつけたもの、水晶の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたもの、珊瑚の樹で瑪瑙の葉・花・実をつけたもの、瑪瑙の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたものもある。
あるいは、シャコの樹でいろいろな宝の葉・花・実をつけたものなどもある。 さらにまた、ある宝樹は金の根・銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、瑪瑙の花、シャコの実でできている。 ある宝樹は銀の根、瑠璃の幹、水晶の枝、珊瑚の小枝、瑪瑙の葉、シャコの花、金の実でできている。 ある宝樹は瑠璃の根、水晶の幹、珊瑚の枝、瑪瑙の小枝、シャコの葉、金の花、銀の実でできている。 ある宝樹は水晶の根、珊瑚の幹、瑪瑙の枝、シャコの小枝、金の葉、銀の花、瑠璃の実でできている。 ある宝樹は珊瑚の根、瑪瑙の幹、シャコの枝、金の小枝、銀の葉、瑠璃の花、水晶の実でできている。 ある宝樹は瑪瑙の根、シャコの幹、金の枝、銀の小枝、瑠璃の葉、水晶の花、珊瑚の実でできている。 ある宝樹はシャコの根、金の幹、銀の枝、瑠璃の小枝、水晶の葉、珊瑚の花、瑪瑙の実でできている。
 これらの宝樹が整然と並び、幹も枝も葉も花も実も、すべてつりあいよくそろっており、はなやかに輝いているようすは、まことにまばゆいばかりである。

 ここで問われるのは、<二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹>や<ある宝樹は金の根・銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、瑪瑙の花、シャコの実でできている>とはどういう内容かということです。
 これには様々な領解が可能でしょうが、大きく分けて二種の解釈を見出すことができるでしょう。

 まずは、一つの樹が一人の行者、もしくは一人の求道全体の内容≠ニ解釈することができます。
 さらには、一つの樹が一つの集い=Aたとえば家族や家系、教団や会社などの組織、様々なムーブメント等に込められた内容、と解釈することも可能です。

「一つの樹が一人の行者、もしくは一人の求道全体の内容」との解釈で<あるいは宝樹あり、紫金を本とし、白銀を茎とし、瑠璃を枝とし、水精を条とし、珊瑚を葉とし、碼碯を華とし、シャコを実とす>の内容を具体化すると――
 自分の人生をかけた求道全体の内容を「宝樹」とし、「本」(根)はその求道の見えざる部分、たとえば文明環境の土徳や陰に隠れた基礎部分、さらには幼少期の体験や教育∞伝統や血脈などの土壌≠ニいう見方もできるでしょう。つまり求道を支える根本を「紫金を本とし」(金の根)と譬えてたたえていると味わうことができます。世間では「産業基盤の社会資本」のことを「インフラストラクチャー(インフラ)」と言いますが、これになぞらえれば求道基盤の身心資本≠フことを「宝樹の根」と言うことができるでしょう。
 次に「茎」(幹)ですが、これは「年輪を重ねて得た求道の主柱」を表します。「根」が「陰に隠れた基礎部分」であれば、「幹」は「一生をかけて積み重ねる人生の聞法求道の柱」であり、「存在の本筋」であり、「本業」とも言うべき宝でしょう。初対面の相手に「自分はこういう者です」と自己紹介をする際、真っ先に名のる内容が「茎」(幹)の部分です。この表現の一例として「白銀を茎とし」(銀の幹)と譬えてたたえるのです。
 次に「枝」ですが、これは「茎」(幹)の本筋・本業が様々に展開した部分を表します。たとえば、私は僧侶という本業が幹でありますが、それが社会活動に展開したり、人生相談に展開したり、布教伝道に展開したり、文芸に展開したり、学問的に展開する場合があります。他の職業も様々に展開する可能性があるでしょう。そうした展開部分を「瑠璃を枝とし」と譬えてたたえるのです。
 さらには、大まかな展開が「枝」ならば、さらなる具体的展開が「条」(小枝)で、この表現の一例として「水精を条とし」(水晶の小枝)と譬えてたたえるのです。
 次に「葉」ですが、これは日々刻々と現場現場に展開した求道の成果を表し、この表現の一例として「珊瑚を葉とし」と譬えてたたえるのです。
 次に「華」(花)ですが、これは大きく人生の華がはなやかに開くことを表しています。現場の成果が「葉」であれば、「華」(花)は人生の成果であり、この表現の一例として「碼碯を華とし」(瑪瑙の花)と譬えてたたえるのです。ちなみに「華」と「花」では、「花」は一年草のものですから、仏教で用いる場合は「華」の方が法に順じた表現と言えるでしょう。
 最後に「実」ですが、「華」が人生を彩るはなやかな宝ならば、次の時代につながる歴史的成果が「実」であり、人生全体の成果をここでは「シャコを実とす」と譬えてたたえるのです。

 なお先に<一つの宝だけでできた樹もあり、二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある>とありましたが、「人生これ一つ」と貫いた人生が<一つの宝だけでできた樹>であり、本業を様々に展開した人生を<二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹>に譬えているのでしょう。「人生色々」で、人生これ一つと貫き通す人もあれば様々に展開させる人もいます。そのどちらも如来は浄土の宝樹として称えているのです。なお梵文では、根から実まですべて「七種の宝石でできている」木々も記されています。

 次に、「一つの樹が一つの集い」と解釈した場合は、どのような具体例が挙げられるでしょうか。たとえば 島田幸昭師は<家庭のことをそういう一つの樹に譬えた>と解釈されてみえます。もちろんこれは集いですから、あえて家庭に限定する必要はなく、教団や会社などの組織、様々なムーブメント等に込められた内容、と解釈することも可能ですが、「家庭のこと」とした方が在家仏教としての性質をより強く汲んだ解釈となるでしょう。

 数え歌で、「三つとせ。幹は一つの枝と枝。仲良く暮らせよ、兄弟(あにおとと) 姉妹(あねいもと)」、こういう。幹は一つで、親はご先祖は一つであるから、兄弟だと言うて妹だと言うて、お互いが心を合わせていけよとこういうことがあります。そうすると、一本の樹に家族を譬えた。そういうことがあるのであります。
<中略>
 そうすると、ここはそういうように、昔から一軒の家、家庭のことをそういう一つの樹に例えた。だから、兄弟は枝と枝である。「幹は一つの枝と枝。仲良く暮らせよ、兄弟 姉妹」とかこういうことがありましたから、恐らくこれもこういうことではないかと思うんであります。
 といいますのが、ここで「あるいは樹あって金の樹・銀の樹・瑠璃の樹・玻の樹・珊瑚の樹・碼碯の樹・シャコの樹」とこうあります。一つの宝からできておるがとこう言われる。樹は宝ですね。
 ということは何かというと、一軒の家にたった一人、ひとり住まい。そうすると、金とか銀とかいうのは皆、例えばお父さん一人、男一人、女一人。こういう家庭がある。同じ男一人女一人であっても、おじいさん一人、おばあさん一人とこういうのがあります。また今度は子ども一人。もうお父さんお母さんが皆死んで男の子が一人、女の子が一人残ったとこういうこともあります。そういうように、一つの家庭に一人ずつ、そういうことを譬えたのではないだろうか。
 今度は、「あるいは樹あって、二つの宝からできておる」ということは、この家庭は二人からできておる。おじいさんとおばあさん。私のうちも、今ではおじいさんとおばあさんが二人であります。同じ二人でも、私みたいに年寄り夫婦というものがありますけれども、中には親一人子一人という二人もあります。若夫婦で二人という。結婚したばかりの二人があります。今度は兄弟二人というものもあります。だから、いろいろ組み合わせがある。そこを、「あるいは金の宝からできたものある」という。それに今度は、葉っぱが銀である。こういうふうに説いてあります。また、葉っぱもそうであるけれども、華とか葉も皆、銀である。こういうように金と銀とがありますが、これはちょっとまた問題が別になりますけれどもそういうようにできておる。
 そうすると、その次には三つの宝、四つの宝、五つの宝、六つの宝、七つの宝とこういうようにできたものがあるとこういうことを説いておられます。そして、いろいろ組み合わせがあるんであります。これでは順序に書いてありますけれども、こういういちいちは必要ないと思いますけれども、大体、金のあるいは樹があって、本と茎と、枝と条と、葉っぱと、それから華と実とこれだけあります。これが七つになっておりますから組み合わせてあります。樹がこういうようにできております。そうすると、これで金の樹があれば、この瑠璃は本が瑠璃で、これが碼碯で、これが玻とこう組み合わせてあります。あるいは、銀の樹があればこう組み合わせてあります。こう順々に送っております。金の樹と書いて本が銀であるという。これが碼碯である。今度、銀ではその次にこう書いてある。ずっと書いてあります。このぐらいにしておきましょう。
 今度、池のところではまた違いまして、二つずつ組み合わせております。そういうことがちょっと問題でありますけれども、簡単にこれだけ申します。そうすると、これが七つの宝からできておったといういろんな組み合わせがあるように書いてあります。
 そうすると、最後にそういう樹があって、その樹がどうかといいますと、「このもろもろの宝の樹は、行と行と相値う」。「行」というのはこれは真宗では西本願寺では「ごう」と読んでおりますけれども「並ぶ」という。だから、行列であります。一行列、二行列、並木のことを皆『阿弥陀経』でも「七重行樹(しちじゅうごうじゅ)」と、並びの七重(ななえ)の行樹とあります。これは行列の行ですけれども、漢音で読めば「ぎょう」でありますが、呉音で言えば「こう」であります。親孝行という。だから、これが一行でこれが一行で、この行と行とが相並んでおるとこう言うのであります。
 今度は、行と行とが相並び、茎と茎とが合うておる。互いに向き合っておる。「行と行とが相値い、茎と茎とが相望み、枝と枝が相準え、葉と葉が相向かい、華と華とが相順っておる。実と実が相当たっておる」こう言って、とにかくお互いが行儀よく向かい合っておるとこう言って、「栄色光耀にして」そういう盛んな色が照らし合って、何とも言えない美しい眺めをしておる。はっきり見ることができない。こう言うのであります。
<中略>
 これは何かと言いますと、これは本当の念仏の境地。念仏の境地はお互いが顔も違い、根性も違うけれども、お念仏によって皆まごころとまごころが触れ合ってくる。そうすると、触れ合ってくればそこに第三の世界が出てくる。ただ単に二人を見ただけでは、ただ金と銀だけなら二つでありますけれども、お互いが照らし合えば無限の色が出てくる。こういうことを言っておるのであります。
 一即一切といいますが、一つの中に一切のものが映ってくるのです。今度これに合えるものが、一が一切に向かって照らし映えていく。今度は一切がただ一つの中に皆収まっていくと。お互いが向き合って何ともいえない光景が出てくると。こういうことを仏仏想念の念仏三昧といっておるのでありますから、まごころの世界はそういう世界だということであります。

『仏説無量寿経講話』(島田幸昭)より

 このことは先の一つの樹が一人の行者、もしくは一人の求道全体の内容≠ニの解釈と併せて味わっていただき、それぞれが自らの人生の糧となる領解をしていただければ幸いです。

 対立を協和に転じる

註釈版
清風、時に発りて五つの音声を出す。微妙にして宮商、自然にあひ和す。
現代語版
ときおり清らかな風がゆるやかに吹いてくると、それらの宝樹はいろいろな音を出して、その音色はみごとに調和している。

 浄土は<功徳の力により、その(清浄荘厳の)行いを原因としてもたらされたところ>ですから、「風」と言っても空気の動きを言うのではありません。人生に吹く風を言います。多くの人は「順風満帆」の風なら心地よく感じますが、「無常の風」や「逆風」「地獄の業風」「熱風」など吹き荒れれば苦痛を感じます。経論には――「業風の吹くに随ひて苦のなかに落つ」、「熱風に吹かるるに、利き刀の割くがごとし」、「悪風暴に吹きて、その身に交絡して、肉を焼き、骨を焦して、楚毒極まりなし」、「冷熱の風触るるに、大苦悩を受くること、牛を生剥ぎにして、墻壁に触れしむるがごとし」、「寒熱・飢渇・風雨ならびに至りて、種々の苦悩、その身に逼切す」等と記される通り、人生の暴風に引きずられ右往左往しているのが衆生の有様でしょう。

 しかしたとえ人生の暴風を受けても念仏行や正定聚の菩薩を通せば、全ては浄土の清風に転じられ、<暑からず寒からず、とてもやわらかくおだやかで、強すぎることも弱すぎることもない>というように人生成就には丁度良い風≠ニ受け入れることができるのです。人間は業風の苦難に襲われつつも、仏法に出遇えば、先祖や縁ある人々の優しさに心動かされ、不平不満の声が転じて仏徳讃嘆の念仏の声が出、生活の全てが念仏の香り高い優しさと強さに満たされ、この苦難を乗り越えた幸せが周囲にも広がってゆきます。
(参照:
{「極楽の余り風」の本当の意味}

宝林[ホウリン]宝樹微妙音[ホウジュミミョウオン] 自然清和[ジネンショウワ]伎楽[ギガク]にて 哀婉雅亮[アイエンガリョウ]すぐれたり 清浄楽[ショウジョウガク]帰命[キミョウ]せよ
『浄土和讃』39
七宝樹林[シッポウジュリン]くににみつ 光耀[コウヨウ]たがひにかがやけり 華菓枝葉[ケカシヨウ]またおなじ 本願功徳[ジュ]を帰命せよ
『浄土和讃』40
清風宝樹[ショウフウホウジュ]をふくときは いつつの音声[オンジョウ]いだしつつ 宮商和[キュウショウワ]して自然[ジネン]なり 清浄勲[ショウジョウクン]を礼すべし
『浄土和讃』40

<五つの音声>とは「[キュウ][ショウ][カク][][]」の5音を言います。西洋音階では「ドレミファソラシ」の7音ですが、中国では5音です。なお梵文では「美しい快い音が流れ出て、魅惑的であり、聞いて不快の思いを抱かせない」とありますから音の数は重要ではありません。<微妙にして宮商、自然にあひ和す>が具体的にどういう事柄を象徴しているのか、ということが問題なのです。

 まずこの音声は「法の音」であり、自分の生き様を知らせてくれる音でありましょう。苦難の風を、菩提心や念仏を通した清らかな風に転じ、その清らかな風が「我が機」と「仏法」を知らしめる音となって響き出てくださるのです。
 さらに<宮商、自然にあひ和す>(その音色はみごとに調和している)とありますが、本来、宮と商は調和している音ではありません。ドとレと同じように不協音なのです。人間関係で言えば、仲の良い友人や気のあった仲間ではなく、対立したり反対意見を持つ者、反抗心でかかって来る者、気心が知れない者や異質の存在との関係を宮と商で表しているのです。
 この対立し反駁する不協音の関係が浄土では和音となって響いていることを<宮商、自然にあひ和す>と言うのでしょう。浄土は単なる仲良しグループの集まりではなく、対立を協和に転じ、互いに映えあってゆく場なのです。さらに具体的に言えば、異質な存在とぶつかり合うことも[いと]わず、積極的に自我を破り、日々新たな自分を確立してゆく楽しき道場が、今この現場において私のものと成る≠ニいう体験が浄土の真実なのです。

[←back] [next→]

[Shinsui]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)